どさ

詩を投稿しはじめました。
そのうち、紀行文も予定しています。
落ち着きに欠けたものが多くなりますがそれしかありません。

月見そば(その1)

2019-12-31 20:07:15 | エサ日記

 

 

月見そば(その1)(令和元年1231日)

 

   新しい年を迎えますその刹那には、“年越しそば”をいただきます。温かきにしろ、清涼にしろ、ほのかな蕎麦の香りは、ひとつの流れである時を、今年と来年に分かち、それがまた、ひとつの自我であるわたしを、過去と未来に分かつのです。さらには、そのような儀式や意味づけは、日々の中には無限、かつ重層的に存するがゆえ、過去と未来は各々矛盾しつつもおめでたくもわたしとして在り続けていくのです。

さりながら、過去の、しかも幼い頃の私には、この“年越しそば”というものはちっともおめでたくない、どちらかといえば苦痛を伴う儀式でありました。なぜなら、そのときのわたしとそばを結ぶ関係には、基本的に選択というものはなかったわけです。

 

父は、ずいぶんとそばの好きな人でした。とくに老いてから体の自由がきくあいだ、齢を重ねるごとにそれは昂じ、訪れるたびに棚を占める干蕎麦の割合は増し(箱買いだったようです)、流しには常にザルやら猪口やら何らかのそばの痕跡が残っており、それはあたかもそば好きを通り越し、さながら“蕎麦憑き”のような状態を呈していたのです。そして、猪口が転がっているからには、父は“もりそば”、きりっと冷され、固くごつごつするそばが好きな人でした。わたしは、あの有り様を見て、ああ父というものは、子のためにはずいぶんと忍耐強いものであったのだなと感じております。というのも、父はわたしや弟が幼い頃には、ハンバーグやハウス・バーモンドカレー(りんごとはちみつ入り)、はたまたケチャップライスなど母が作る同じような料理をえんえんと食べ続け、たまにそばを茹でるにもそれは温かく柔らかいそば、時には鍋焼き蕎麦なるものに化けて供され、それをさらに延々と食べ続けていたわけですから。

かといって、母とて、父の好みを知らないというわけではありませんし、ハレとケはその世代のひとらしくきちんと分けて家事を進めておりました。つまり、新しい年を迎えるにはきちんと家族で“年越しそば”、それもお父さんの好きな“もりそば”というように心得ていたのです。師走も後半に入ってから母はさまざまな乾物を戻し煮て、家中をクリスマスから正月に急改宗させ、方々から物を買い、親類縁者のための準備をし、万端整えた総括が“年越しそば”でした、紅白を見ながらのおそばです。高度成長期の絵にかいたような家族像でもありました。しかし、母には、父よりいくぶん性質の悪いものが憑いておりまして、それがこういう刹那、必ず鎌首をもたげてくるのです。それは“卵憑き”というものでありました。いまだに、いくら諌めても改宗しないどころかより酷くなる卵憑きとは、できあいの料理をより格上にするには卵こそ答え、良く造られたものを月見にするとそれはより至高であるという妄想兼信仰であります。つまり、心をこめて作った料理の上には、無分別に生卵を落とすというそれはそれは嫌な性癖でした。

 その年も蕎麦はきちっと茹でられ、かちっと冷やされ、家族各々の簀の子の上に盛り付けられます。中央にはさらにおせちが据えられ、豪華とはいわないものの、充足に満ちた年越しです。揃えた母も充足に満ちた顔であります。幸せなわけですね。

“あっ、これがあぶねぇんだ”この予感は毎年必ずあたりました。

「あら良くできた・・そうだ卵いれなきゃ」

そう言うが母は、落ち着きに欠けたウサギすわ脱兎の如く席を離れ、次には落ち着きに欠けながらも器用に卵を5~6個もってきて食卓に置き、まず自分の蕎麦に卵を落としました。冷えて固い麺の上に。

次にその手は、「じゃ、マコトちゃんね」と母の隣にいる弟に向かいます。

母は両手で卵を持ったまま、小指を立てて弟の蕎麦の中央にぐいぐい穴を穿ち、そこに卵を放ちます。悲しい弟の表情。

「ミノルくんもね」忌々しい両手が近づきます。

「いいって、ぼくじぶんでやる!」わたしはその年越も諦めの心で手榴弾型の卵を受け取り、蕎麦の上で卵を割ります。しかしながら、母の丹精込めた蕎麦ですので、盛り付けもあいにく形よく中央が山状です。生卵は、蕎麦の頂上から簀の子の脇へずるずると流れていきました。

「あら、何やってるのミノルくん」そう言って母は素早く箸を蕎麦につっこみ、生卵と固く冷えた麺をぐちゃぐちゃに、まんべんなく引っ掻き回します。

そして、「お父さんも入れる?」と卵を持って両手を父の蕎麦の上に。

「ああ、おれはいいよ」といなす父。

「あ、そう」

(わたしは女性ではないので分かりませんが、もしエレクトラコンプレックス(娘が母へ抱く潜在的殺意だそうです)というものがあるのでしたら、きっとそのときに結んだことでしょう)

 そうして、私の少年時代の“年越しそば”とは、冷えて固くて黄色くてかつ幾つかの泡が立っているものでした。

その当時でも、わたしたちの親の世代、いくらかの戦前と戦後を知っている人たちに卵がどれだけ貴重だったという事は頭では分かっておりました。そして、それは時代の在り方、父母の過去の経験として理解しなくてはならないのだと思います。しかし、母のそれは、時代以上に偏執的なものを感じています。最近、それはどうも彼女の生まれ育った土地柄が関係していたのだという事が分かってきました。その土地は昔の物資集積地で、特に当時は石炭の集積地として重要な地方都市であったのです。しかも、それら石炭を産する炭鉱は、九州のように一カ所に巨大な埋蔵量を有するのものではなく、山の中の小さな炭鉱がネットワーク状に拡がり、その要として発展した都市とのこと。さらに、そのような土地ではちょっとした贅沢は卵である傾向があることなどが分かってきました。つまり、海辺でもなく、穀倉地帯でもない、自前の農業や漁業や商業といった歴史では、海の幸、山の幸などの御馳走という文化に届きえなかった、中東のある地域の住民が偏執的に卵を消費するのと似た構造があるのかと思い、同時にそういう人たちは永遠に卵以外の選択をする人々を理解できないのではないかと少し恐ろしくなりましました。

 

                 

 

さて、わたしは別に年越しそばから思い出された不条理を書きたくてこの文書を書いているわけではありません。本当は、年が移り変わるこの今に、時間と自己という、多少哲学的な思考ゲームを現してみたかったのです。それは、“あなたがレストランに入り、「月見そば、卵抜いてね」と注文してた際、何の違和感なくただのかけそばが提供されたなら、あなたかなり高い確率で、月見そば専門店にいるという”というもので、時の流れのなかにあって、時と同じ速さで存在する自己は、時の流れをいかにして知りえるかということを現してみたかったのです。が、年の瀬に何の手伝いもせず、このような文を書いていますわたしに対し、ほら今このときも、キッチンや茶の間から殺気だった空気が伝わってきます。あともう少しでそれは臨界に達するでしょうから、私は遅まきながらも年越しそばを茹でる作業に入りたいと思います。では、みなさま良いお年を。
 
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ウマの道はシカ 

2019-12-25 20:54:35 | ドサ日記

 ウマの道はシカ (宗谷支庁:宗谷岬)(08年8月17日)

(Quo vadis, juventus クォ・バディス・ユペントス?)(あんちゃん、どこいくのさ?)

(ヨハネの福音書13章 にあらず)

 

 宗谷の土地はすがしい。周氷河地形といい、氷雪の堆積と融解が永い年月繰り返された結果、地表から険しい表情がとれ、おだやかな起伏に包まれている。起伏のすべては草で覆われているので、そこに立って南を見ると、緑の色が地平に向かい波のように続いていく。次に、そのまま北を向く。すると眼下一面に真っ青な海が見える。この風景も大きい。太陽は海から上がり海へ沈む。そして、太陽の下に横たわるのがサハリンで、海より青々しい陸塊として横たわっている。宗谷に住んでいる方によれば、澄みわたった日には、サハリンの建物まで見え、本当に澄み渡った日には、サハリン最西端(モネロン(海馬島))まで見えるそうだ。

 日本最大の折鶴はそんな丘にある。宗谷岬に一番近い丘にある「祈りの塔」という碑である。その塔は白銀に輝く翼を水平と地平に拡げ、すらりとと伸びた頭部は、しかし悲しげにモネロン島を向いている。 

                  * 

 さて、自分は宗谷岬にいる。もう何時間もぼーっとしている。ここまで来て、次にどこへいくか決めていなかったからである。

「あーあー、最北まで来たけどね~」

岬には次から次へ人が来る。人、人、人、そして人ごとに「オオ、ココ日本最北端アルよ」に類する感嘆の声を上げ、次から次へ去って行く。

“でもねぇ、ここって日本の最北端じゃないわけよ・・” ココロの中でそうつぶやく。

 稚内市で宗谷岬について調べているうち、日本の最北端はこの岬ではなく、ここの沖合数百メートルに見えている弁天岩だということが分かった。弁天岩行きの通常の船はない。よしんば、無理矢理自前の船や遠泳でたどりついたとしても、件の岩はトドの領有するところであり、岩盤全てトド、トド、ただトドという有様らしい。上陸などしようものなら十中八九トドとの闘争である。体長3~4mに達するトドはヒグマと互角かその上をいきそうな生き物なので、それは絶対に避けるべきだろう。ならば、黙って沖を見よう、弁天岩を眺め、寝転んだり、荷物整理したり、寝転んだりと・・、なんだか同じような自転車野郎も数人いる。多分、このまま夕暮れまでここにいて野宿してしまおうという魂胆だろう。中には、じっと自分をにらんでいる奴もいる。“なんだこの野郎~”とこちらも同じ微笑みを返したりする。

それにしても海は広いぞ変わんないぞ~弁天岩も岩のまんまだ~。弁天岩については、実はもう一つ知った事がある。アイヌ英雄「サマイクル」にまつわる伝説で大意は以下。 

“カムイ(神)にして、はじめてのアイヌ(人)となったサマイクルが、弁天岩を通りかかったとき、巨大なトドの群れと遭遇した。それを見たサマイクルは相方であるオキキリマとともに舟をこぎ出し、一頭のそれはそれは元気なトドに近寄り、エイヤ!と綱付きのノリキリ(木材の一種らしい)の銛を打ち込んだ。しかし、トドもさるものひっかくもの、銛を打ち込まれたトドは、なおなお元気にサマイクルたちが握る綱を引っ張り回し、舟を襲ったりと暴れまくる。彼らとトドの闘争は七日七晩続き、終には相方であるオキキリマは飢えと疲れでついには力尽きてしまう。さすがの英雄サマイクルも悔しながら綱を離してオキキリマを助け上げた。それを見た元気トド曰く

「けーっ、たかが人ごときが俺様の肉を喰らおうなんてオメデテェんだよ。この腐れ○○○の×蛤蟆想×天×肉野郎!!(品の良くない言葉なので伏せ字及び外国語表記)」

と口に出すのも憚られる罵りを彼らに浴びせた。それを聞いたサマイクルはこう叫んだ

「この憎きトドよ、よく聞け。今、我らの打ち込みし銛はノリキリでできているぞ。やがて、ノリキリはヌシの体をむしばみ、ヌシは日々弱り果て、最後にはこのサンナイ(宗谷)の浜に打ち上げられるぞ。そして、あらゆる男という男、女という女、子どもという子どもからションベンをかけられ、その無様な骸を晒していくぞ!」

そして、その予言通り、そのトドは弱り、時化の日に浜に打ち上げられ、人々からションベンをかけ続けられることなったのじゃ。だから人といっても決してバカにするではないぞ。と大トドは若いトドたちに諭すのであった。”

 

  なんだか、少々聞かなかった方がいい英雄譚なわけです。アイヌの口承文芸は、雄大な叙事詩“ユーカラ”や聖なる言葉を伝える“オイナ”の名前は知っていたが、この“ウエペケレ”というトホホな内容も含んだ散文もあるのだ。

 “ションベンまみれねぇ~、なんか他にも言いようあるんじゃねぇの~”

・・なんだ、あの野郎またにらんでる。何時間いるつもりだ・・

 “でも、ここで海に放尿する、するとそれは海流に乗るわけだ”

・・大体、あいつ野宿する感じの服じゃねぇぞ・・

“オホーツク海、日本海、太平洋と世界を巡るわけだ、自身の痕跡が世界に・・・・はっ!”

分かった!

蛇の道は蛇、いなウマの道はシカである。バ○には○カの考えることが分かるのだ。

“あ、あの野郎、放尿狙いだ!”

軽い眩暈感におそわれつつ、自分は彼を見つめた。彼の頭部は自分とは90度程度を保持しつつも、その視線はしっかりとこちらに据えられている。

間違いない。そして、瞬間、自分はもう一つの戦慄すべきくだらない考えに行き着いた。つまり、彼が放尿魔なのであれば、彼が見返すその視線は同質な者に向けられるはず。そうだ、自分はいま彼にライバルだと思われているのだ。 

                  * 

 たとえ、どんなに外れていようと一度でもそのような考えにいきつけばどうしようもないことがある。まるで追い詰められたかのように。ともかく、自分はもうここにいることはできない。かくして、このような受身なインセンティブに支えられつつ、自分は荷物をまとめ偶然号に乗り込みペダルを踏みだした。

“あーら、えっこらしょー”

“あー右行くか左行くか、もう道路よ、どうすんのよ?”

そのとき、偶然は自分の視界に一つの看板を投げ入れる。

“祈りの丘、この道を行け。”

右か左か曲がれないないなら直撃さよね、まっすぐしかないのよね。そして自分は、自然その丘に向けて登っていた。 

 ほどなく、ひょっこりと丘の上に出た。ロードスターの花が咲いている。キリストがゴルゴダの丘に登る際、鞭打たれて飛び散った血の滴がこの花になったという。その青い光の滴のような花は一面に咲き、そこに囲まれるように薄紫色の花も咲いている。その塔は花の中心にあった。近寄って見ると“祈りの塔”と書いてある。塔は巨大な折り鶴の形で、銀白色で空を見上げている。何の塔だ?塔に近寄り、そのいわれを読んで驚いた。

「あ、これなのか!ここにあったのか」(もっと稚内市よりにあるのかと思っていた)

 そして、この丘には祈りの塔のほか、多くの碑や悲しい建築物があった。そうだ、ここは日本の最北だった。歴史や地政学に晒される地だった。様々な記憶は層のように重なっていてあたりまえの地、生きざまの地だったのだ。

「そうだったのか、さっきまで浜でバカなことを考えていたものだ。でも、この旅の結節点にこんな丘に行き着いたのはなんだかうれしいぞ、そうだうれしいぞ!」

 

                   *

 

 そうして、丘の上でなにがしかの心を得た自分は、丘から下り、そのまま南に向かって進んでいる。風は快適であった。空気は快適であった。音も色も視界も快適であった。ところが、その視線に、おや?何か真っ黒いもんがうずくまっている。

「うーむ、あのシルエットは関東以西の公園でときおり見かけるが、プー太郎(浮浪者)のそれだ。」

そして、こんな北になんでプー太郎かと思いつつ近づくと、それはどうやらスケボー兄ちゃんのようだった。 

 兄ちゃんは、すでに精根尽き果てたのかクシャクシャの布ザックを枕に、スケボーを日よけ代わりに顔にかざし、路上でのびている。日射病か?それにしても、うーむ、これはスケボー兄ちゃんなんかではなく、やはり単にプー太郎がスケボー拾っただけなのかなと思ったが、ともかく、

「おい、大丈夫か?」

「あ、はい大丈夫です。もう疲れちゃって、さっきの水場で水補給し忘れたんです」

「あらあら、水飲むかい?」

「ぁ、はぃ」

「はいこれ」

ぐがー、ぐぎゅー。うぉぉ、風呂の栓抜いたような飲みっぷりだ。

「ぁありがとうございます。ほんと水場で水補給し忘れて、この道、ずーっと何もないじゃないですか。」

「岬につくまでなーんも無いぞ」

「ぅえぇ~」

「でも、もう少しですよね」

「まだあるぞー、うん(笑顔)」

「ぅえぇ~」

「スケボーで宗谷岬目指すなんて変わったことやるね。」(汝もチャリンコではないか)

「まあ・・」

「なんで、スケボーで宗谷岬なの?」

「いやー、特に宗谷岬じゃなくて、なんだかここまで来てしまったんです。」

「目的地ないの!(やっぱ、こいつプーだ)」

「水ないなら食料もないんじゃないの?パン喰いなよ、ジャムたくさんあるんだ、ほら」

「?、その鍋、ジャム入ってるんですか?」

「ああ」

「ぼく長い間旅行してますけど、鍋にジャム入れて持ち歩いている方初めて見ました。」

「いろいろあんだよね~、これがさ(何もない)」

 その後、兄ちゃんとしばらく話して、春に名古屋からスケボーに乗って出発し、あちこちのライダーハウスでバイトを続け、ここまで流れ着いたこと、足首を痛め、もうほとんどスケボーには乗らず、担いで歩いていることなどを聞いた。

そして兄ちゃんは聞いてきた。

「宗谷岬どうですか?」

「別にどうってことない。でもあそこ日本の最北じゃないそうだよ。」

そういって、自分は言わなくていい弁天岩とションベンの話をしてしまった。兄ちゃんは思わずとほほの顔になる。俺の旅のけじめってこんなのかよ~と感じている顔であった。

あ、やべぇ。あわてて、

「宗谷岬に着いたなら、その真後ろの丘にも登ってみなよ。」

「丘に・・?」

「祈りの塔という大きな鶴の形がした慰霊碑があるんだよ。」

「慰霊碑、何かあったんですか?」

「女性と子ども含む民間人二百数十名がソビエト軍に殺され、その慰霊碑だよ。」

「戦争中ですか?」

「いや、1983年でそんな昔じゃないよ。サハリンの西端のモネロン島という島付近で起きた事件でね、ソビエト空軍が民間旅客機を領空侵犯したとして撃墜し、撃墜された方はもちろん全員死んだ。はい、パン。」

「戦争じゃないですよね」

「昔、冷戦といってアメリカを中心とする西側陣営とソビエトを中心とする東側陣営の間で戦争の前段階みたいな対立が続いていたんだ。」

 「はい、聞いています」

「そして、1983年当時はソビエトの方がだいぶ追い詰められて旗色が悪くなり、国として余裕なんかない状況だったようだね。なめられちゃお終いよ!ってことかな」

・・・追い詰められた者は、追い詰められた事しかできないのだ・・・

「まあ、着いたら上ってごらんよ。そのほかにも色々な歴史の証拠があるし、旅の締めくくりに良いと思うよ」

・・・そうか、偶然にでも伝えればいいんだ・・・

 

                  *

 

「じゃ、俺いきます。ありがとうございます。せっかくなのでまたボード漕いでいきます。」

そうやって、彼は立ち上がり、片足を引きずりスケボーに片足を乗せた。しかし、この段階ですでにすごく痛々しい。「じゃあ!」と言って出発した彼だが、20~30mも行かないうちに振り向き、こちらに叫んだ、「やっぱり痛くて駄目です、担いでいきまーす。」

「いいじゃないのー」

「ありがとございましたー」

そう言って彼はその長ひょろい生きざまを両肩にかけ、北を向いて歩き始めた。自分は歩いて行くその姿を見ていた。山側からもう少し強く風が吹いてきた。青臭い草の匂いが動いた。その匂いの中でロードスターもサハリンも海も空も輝くものはもう全て輝き、よろよろ歩く彼の姿はまるで光陰で描いたスケッチのようになった。

突然、自分はなぜだか意味も分けもなく彼に追いつきたくなった。

追いついてこう言いたかった。

「おい、きみスケボーかついで歩いているとなんか十字架背負ってるように見えるぞ」

彼はきっとこういうだろう

「え~~、でも、丘までいけそうです、うんいきます」

 

(ドサ日記 オロロンライン編おしまい)


男ジャム(その2)

2019-12-09 13:00:48 | ドサ日記

男ジャム(その2)(宗谷支庁:サロベツ原野) (2007年8月17日)

 

Ⅱ 女もすなるジャム造りといふものを、男もしてみんとてするなり

 

人や猿はみな生きるため木の実を摘んだ。さあ、木の実を摘もう。猿への原点の旅。見たことのない木の実もあったが、これ食って原野の中でのたうち回る=命に差し障るなので、まずは見知ったハマナスの実を集めた(ここが猿とわたくしの違うところ)。

小一時間もすると、ヘルメットが一杯となる。“これ、ジャムにするぐらいなら、生でも食べられるだろう?”と一個噛んでみる。“スカッ”あれ、情けない噛み心地とジャリとした歯当たり。このハマナスの実、可食部は極々わずかで、中には堅~い種。

“あーれま、種取りが必要だ~”かなり面倒な作業となることが分かった。しかし、ヘルメット一杯まで取ってしまったので捨てたくはない。それでは、ジャム造りをはじめよう。

 

ここまで一時間

 

ここまで二時間半

 

 

刻んでいる間、どんどん腹が減り、“別にここまでしなくとも、パンと塩辛でいいじゃん”と日和りかけるが、少々意固地になってジャム作り。

 

 刻み終わって、水と砂糖で見込むと、おーや、キラキラと光り出した。

 

ここまで三時間 はらへんたな~

 

さて、一仕事終えた。そよ風が心地よい そして、ときおり光りがさしこみ、この愚かしき男ジャム工房さえも照し出してくれる。では、ジャムが冷えるまで、しばしゴロン。低い空を眺める。

 

草という草がひとつのいろに向かう

空はまだ低く、空はさらに湿り、逓減する呼吸

だが どうなのだろう ときおり、この暗さを切り裂き、

光の縞が走る

瞑黙の始まりから果てに向け 

ほら どうなのだろう ひかりが自分を追い越していく

- -なんという早さ、なんという心地よい疲れ- -

 

こんな、意味不明のメモが残っているときは、だいたいもの凄―く眠かったとき。

実際に少し寝りこんだ。さて、この半時ほどの眠りは、故郷の丘で懐かしい女性に大事なものを渡すなどという分かりやすい夢ではなく、教室に犬がいて、給食が延期になるという不可解な夢を残して去っていった。これは悪夢なのか吉夢なのかさっぱり分からない。

夢は、その人の潜在意識が現れる事が多いというが、果たして原野に包まれて眠るという都会人の憧れを、今まさに達成している自分の潜在意識が犬と給食なのだろうか。

 

それはそうと、もう昼の10時、ともかく、朝飯、朝飯。そして、パン一個取り出し、

ジャムをたっぷりつけて「いただきまーす」。“おう、いいぞ、いいぞ”ハマナスの香りをパンの懐かしいような香りが包み、疲れた体に一口ごと甘みが染みこむ。また一口、どんどん染みこむ、また一口、ぐぐぅーと染みこむ。もう一口、ぐぇ~“甘すぎるな~”

自分は、基本的に辛党、甘い物は苦手。確かに、ジャムは出来たが、始めて作ったジャムなので砂糖の加減が分からないし、大体このハマナスには酸味という物が全くない。色つき綿菓子を溶かしたようなコテコテの甘さに仕上がってしまった。

「うーん、このジャムパンで今日一日とは」と思わずまたがっかりする。甘い物が苦手なのに加え、甘い物だけ食べると必ずひどい胸焼けを起こすからだ。そのとき、みどりの原野でまた紅く光るものがある。

“ここよ、ここよ”

おう、あなたは“フランボワーズ”(きいちご)ではないか!

 さきほど、ハマナスを摘んでいる足下に、きちごも群生していたのだが、一個摘んで食べてみると、あの腐れクエン酸と同じ味がして「こーのきいちごめが!」と、どんどん踏みつぶして歩いていたのだ。しかし、人は本当に現金なものです。この甘重いジャムを救うのはあなたしかいない。さあ、せっせと摘んで、ジャム造り第2ラウンド。

{ミス・フランボワーズ、どうかぼくのもとにきておくれ}

 

わたしがフランボワーズ。サロベツの娘にして、クエン酸の母

 

おお、めっこし採れたでや

 

煮込みます

 

(こんなことをしながら、真昼になってしまった。)

 

結果、苦節半日にして、男ジャムは完成した。甘酸っぱい、爽やかな香り。申し分ない出来上がり。人に方向なんかいらねぇ、何かやれば何かできちまう。

“いやー良くできた、良くできた。沢山あるな・・・ はっ!”

雷がごとく気がつく。ハマナスを煮込む段階で鍋を一個使い、フランボワーズを迎えた際にもう一つ鍋を使っている。つまり自分は鍋2個分、2.5リットル強のジャム在庫を抱えているのだ。

・・何というジャムなる所有、何という身の丈に合わない財産・・

それに何より困った事は、いざ、食料が補給できる場所まで着いたとしても、鍋はジャム倉庫になっているということだ。「別に捨てりゃいいじゃん」と思う方もいるだろうが、“緑野で摘んだ紅い実は、どうしてそれが捨てられましょう”捨てられません。

そして、なんとわなしに考えていると、近くの草むらがガサゴソし、ひょこりと“キツネ”。おお、そうか、さっきの夢は悪夢でもなく吉夢でもなく、うん、正夢だったんだ(この正夢に何か意味があるのだろうか・・)。そうだ、こいつジャム喰わねぇかな?そうすれば、このジャムも無駄にならない。そして、持て余したジャムパンを、「ほれ!」と投げつける。

キツネは、投げられたパンをじーっと眺め、それからこちらを見て、ゲーンと威嚇。最後に、パンの匂いをかぎ、フンと草むらに消えてしまった。

このキツネの態度を見て、自分は悟った。このジャムはもう自分と一体なのだ。自分の姿の一つなのだ。それでどうなったかって?うん、自分はおもむろに鍋を偶然号の荷台にくくりつけ、更なる北方を目指して出発したのだよ。

その後、この日サロベツ西北方を旅したお兄さん、お姉さんの多くは、実にキモイ目に遭ったことだろう。つまり、目が合うと「やあ、ジャムいらないか?」と鍋のフタを開け、ニコニコ近づいてくるヒゲ親父の難にあったのだ。

フタを開ける度に、お兄さん・お姉さんの「ひっ!」というような顔。ミセス・フランボワーズも、その度に不機嫌な顔で自分をにらむ。

「わたしって、こんな目で見られるためにわざわざジャムになったわけ?」

(全くです)

 

 

 


男ジャム(その1)

2019-12-05 17:39:18 | ドサ日記

男ジャム(その1)(宗谷支庁:サロベツ原野) (2007年8月17日) 

Ⅰ 人 学ばざれば 即ち 道を知らず

    さて、偶然号が、ここサロベツ原野に到着したときは夜。北緯ちょうど45度あたり。真夏だというのに夜はぐっと冷え、空気の透明さに磨きがかかる(やはり衣類は乾いたものにかぎる)。遮るもの、道ゆくものもほとんどなく、海は少し離れているのに耳元で響く。その夜は余力があり、小川のわきにテントを設営した。そして、さすがにここまで来れば川も清流であろうと、近くの水たまりで米を研いで就寝。

     翌日は夜の晴れ上がりに反して霧。真っ白い中で目覚める。米を炊いている間、テントの周囲を歩くと、濃い白の中に鮮やかな色が見え隠れする。夢の続きのような色ながら、眼を見開くような清冽さ、ハマナスの紅い実や名前を持たない青い実が群生している。

    さて、飯が炊けたので朝飯にしよう。コッヘル(鍋)のフタを明ける、勢いよく湯気があがる。その下には茶色い飯。あれ?炊き込み飯なんか作っていないぞ。一瞬、“こりゃ何じゃ顔”になるがすぐに合点。サロベツの植生はピートという植物残滓が重なっており、地面の基層は琥珀色。そして、川水もその琥珀色に染まっているのだろう。

「なーに、ピートと言っても、スコットランドじゃモルトと呼んで、スコッチ作りに利用しているぐらい。さぞかし、深い香りがするのだろう。」と少々期待して一口。すると口に拡がる“こりゃ何じゃ感”。ひどーい匂い。しかも深い。この匂いは何だか記憶あるぞ~、これは牛舎の匂いだ。当然、同じ水たまりで作ったみそ汁も牛舎の香りを漂わせ、ここに“サロベツ原野 暁の精鋭朝飯部隊”はあっけなく壊滅した。しかし、物事は簡単にがっかりしはいけない。「まあ、今日はパンがあるからいいや」と気分を切り替え、パンを取り出す。パンはあったが「あ、チーズとハムが無い。」探せど、探せど、出てこない。えーい面倒だ、とバックを逆さまに、するとバックからこんにちはと出てきたのは、お茶漬けの元、味噌、塩辛と干し昆布-----

うぇ~パンと一緒に食べたくないなー。

どうやら、別袋に入れていた洋食系素材は前日の宿泊先(天塩)のババア自殺騒ぎのどさくさに亡くしたようだ。ちなみにサロベツもここまで来ると、もはや食料店、レストランなど期待できない。「パンに塩辛つけて今日一日か」ここに来て、ようやくがっかりし、同時に教訓に背いた自分を責める。

教訓。そう、どさ日記と称する、この自転車旅行は、根性入ったこだわりやら自制的なルールなどきっぱりとない。が、ただ一つ「暗闇でメシを作るな」という経験則があった。

    真夜中まで走り、疲れ切って、闇の中で炊事をすると色々な思い出ができる。今までの思い出から少し。

 

1.デスペラータ

パスタを作る時、塩味はソースにつけず、パスタにつけるのがおすすめだ。どういう訳だか味に落ち着きがでて、あれこれ複雑な味付けが不要となる。コツは、塩なんかケチんなよ、である。“死海のように濃くしな、つまむんじゃなくて、掴んでぶち込め!”とやる。そして、その夜も真っ暗闇の中、手探りでパスタを作ったものさ。夜空に広がるガーリックの香りが鼻腔をくすぐる。アンチョビは焦がさないように、出来上がりはきちんと手擦りのパルミジャーノをふって、できたぜ、芳しきスパゲッティ・アッラ・デスペラータ(絶望のパスタという意味らしい。由来不明)。一日の疲れなんてさっと料理して、その日のうちに食べてしまおうぜ。「いただきまーす」。フォークでかき上げ、かっ込む。

“う゛ほっ!”

何があったか分からない。が、口腔から喉にかけ、殴られたような感覚が走り、思わず、むせこむ。思い切りむせこむもんだからから、ほれ、スパゲッティ・アッラ・デスペラータは鼻腔まで侵入し、それがまたなんとも言えない痛みを鼻から脳天にまで広げる。

    この激痛の正体はクエン酸。塩の瓶を闇でクエン酸の瓶と取り違え、コップ一杯強のクエン酸を全て鍋にぶちこんだのだ。クエン酸と言っても、コンビニで売ってるサプリ系の爽やかクンじゃないよ。味覚矯正用の添加物等をなぞ一切ない超硬派、純原粉野郎だよ。(疲労回復には心強い味方だが、まともなときに嘗めると、ちょびっとでも酸味というか、痛みが口の中を走る。)結局、鼻の中から脳天に達する痛みは数時間続き、次の一日はなにかしら集中力に欠けた。

2.私と生態系

 まず、夜中に静かな湖畔に到着しましょう。夜の湖畔ほど神秘に近いものは、宇宙まで行かなければないような気もします。純粋な黒。漆黒の森に誰もいません、かすかな波音が安心のように満ちています。そのかすかな音の元、おや、中年が米を研いでいますよ、シャリシャリシャリ。中年は思いました「うーむ、米で良かった。これ小豆だと、確かそんな妖怪がいたような気がする。」などと、あまり妖怪と変わらないシチュエーションの中、中年は全く意味の無い安堵感で米を研ぎ終え、そして炊きました。

 あらためて、夜はつややかに美しいものです。空間の底から滑らかな感覚の群が降りてきます。美しい沈黙、美しい風の触覚、美しい香り、あれ?少し臭いな~。それはそれ、湖だからね、飯を炊いた香りが少しぐらい泥臭くても我慢我慢。さあ、炊き上がったご飯を頂きましょうね「いただきまーす」。ふわりと箸ですくい、静かに口に入れる。と?

“生臭せぇー!“

噛めば噛むほど強まる生臭さ。何よこれ?それに飯の中に何か混じってるじゃないの。ぐにゅこりっとしたやつ。何よこれ?さあ、中年よ、悪い予感にひるまず確認しませう、己が今何と対面しつつあるのか。人はみな単に忘れているだけで、生態系から逃げることはできません。

そして、中年は朧な光の中で、飯粒をじっと見つめました。白い白いご飯の間に、黒い黒い大豆大の粒がびっしりと混じっています。もしや、もしや-----。中年は、その黒いモノをそっと掬い上げ、手のひらに置きました。大豆くらいの黒くて丸い粒。そして、その端には尻尾のようなものが縮れて付いています。そう、中年の予感は、いまここ、手のひらの上で「おたまじゃくし」という形で結実していました。

3.重力と恩寵

 早朝から真夜中まで思い切り走り込み、文字通り精根尽き果て状態で止まることがある。そこが波立つ浜辺でも、危なかしい崖下でも、そこいらの田んぼの端っこでも関係ない。これ以上一漕ぎもできないというところで、バタと地面に寝ころぶ。爽快感この上ない。生きている恩寵のようなものまで感じる。が、若くない身にとっては疲労感もこの上ない。もう疲労回復には休憩ですむような時間ではぜんぜん足りなくなってしまった。つまりはその場で野宿ということなのだが、これがまた安易に宿るのだ。

    まず、テントなぞ張る余力はないから、バックから荷物をぶちまける。そこからシートと寝袋を地べたに引いて寝ころぶ。続いて、寝ころんだまま、必要な物に手が届くようあれこれ、それなりに配置しなおす。独身寮時代の部屋か、開発途上国の露天商と似た姿になれば出来上がりだ。そして、寝ころんだまま、何か食べよう、ガサゴソ。けど、そういう時に限って、パンのようにすぐ食べられるものが無いのね。ちぇ、面倒くせー、ラーメンでも作るか。んで、寝ころんだまま、先ずウィスキーをガボッ。寝ころんだまま、コッヘルに水を入れ、ウィスキーをガボッ。寝ころんだまま、ガスに火を付け、ウィスキーをガボッ、ガボッ(俺って器用!!)。

     程なく、アルコールが疲労感に染み渡る。寝ころんだ視線の先、天球の頂で星が動きだす。視線がゆっくり、大きく回り、宇宙も北極星を中心にゆっくり、大きすぎるほど回り出す。この大きな動きは、主観的にはアルコールに、客観的には万有引力にしたがう。ごちゃごちゃしたルールがないことの安らぎ。日常からの自己蘇生なんだな。さながら恩寵のような安らぎ。さあ、ラーメンが煮えた、スープを入れよう。そして、寝ころんだまま粉末スープを顔の上でピッ。すると粉末スープは重力に従いドサッと顔の上に落ちます。“うがっ”、目といい、鼻といい、欲しいままに散乱する粉末たち。そして、人間ですもの思わず跳ね上がります。すると次は、コッヘルがひっくり返り、煮えたラーメンが、手の届く荷物の上すべてにぶちまかれて完成です。    

        

      さて、このような“うーん”な記憶の数々が脳裏を巡り、自分の前には“パンドラの箱”からぶちまかれたように塩辛などが転がっている。何も考えたくない。ただ黙ってそれらを片づけようとバックを持ち上げた。すると、バックの底から

「開けてください、開けてください」

あれ、今のは?と中を見ると、それは希望という名の砂糖でした。

 

                                  *

    砂糖はドンと一袋(1kg)。荷物の重量を絞り、着替えさえ最小限に抑えている旅に、なぜこんな無駄な荷物があるのだ?と訝しがる方もおられるであろう。先ほど、どさ日記には根性入ったこだわりは無いと書いたが、実は、その他なこだわりならいくらでもある。その一つが、“どさ旅は可能な限り自給自足”というもの。今回はアルコールの自給自足にこだわった。つまり、人気の少ない道北では、いつ酒が切れてもおかしくない。ならば、アルコールなど自分で作れば良い!と砂糖と酵母菌を持ってきていたのだ(もちろん、毎回そんなことを繰り返すが、うまくいったためしはない)。

そして、砂糖を見た瞬間、それは先ほど草原に光っていた木の実と直感的に結びついた。

“ジャムだ”

そう、この不遇な朝飯に対する希望は今こそジャムとなって光る。もちろん、辛党な自分は、ジャムを作ったことはない。しかし、木の実をテキトーに潰して砂糖で煮れば、それはジャムである。そう確信した自分は、即座にヘルメットを籠代わりにして、木の実を集め始めた。ああ、眼の前には、希望の畑のように、紅い木の実が延々と拡がる。

 (その2へ続く)