カトリック信徒・聖職者のの皆さま、カトリック関係者の皆さま、こんなことがありました、どう思いますか?
秋田 「涙のマリア様」のイベントに行きました。オーストラリア、アメリカ、ベトナム、韓国からも参加者があり、1日目が200人、2にちめは300人位だったでしょうか。
東京大司教、菊池大司教(新潟司教兼務)が来られミサや説教、聖体行列、ゴスペル・コンサートがありました。
菊池司教の話の中で、印象に残ったのは「苦しみを受けて、漫然と苦しまないこと。神の恵みのチャンスなので、「どうしてこの苦しみがあるのか…神からの意図を考えること、それにより、信徒は成長する」と。
秋田教会の友達がいて、帰りに秋田教会に立ち寄りました。その時に、事務所の女性と話しているうちに、主任司祭って何か? 司教って何か?を考えさせられました。
秋田教会で、新しい主任司祭が来た時、それまで大切にしていた「聖しつ」が秋田杉の独特の形の物だったのですが、その神父が「火事になるとまずいから金属のものにする」と、信徒の意見もろくに聞こうとせずに変えたので信徒が反発し、ついにその神父様は名古屋に異動した」とのこと。
その神父様は、「自分が希望すれば、信徒は従うと思っていた」…と。秋田教会でも聖職者は「自分の権限は大で、信徒の希望や気持ちを聴く必要はない」と思っていた…、この神父も「第二ヴァチカン公会議文書」を読んでいない、信徒と聖職者の関係が変わったことを知らないのではないか?
日本の聖職者も信徒も、公文書を読んで勉強するべきだと、強く思いました。
秋田 「涙のマリア様」のイベントに行きました。オーストラリア、アメリカ、ベトナム、韓国からも参加者があり、1日目が200人、2にちめは300人位だったでしょうか。
東京大司教、菊池大司教(新潟司教兼務)が来られミサや説教、聖体行列、ゴスペル・コンサートがありました。
菊池司教の話の中で、印象に残ったのは「苦しみを受けて、漫然と苦しまないこと。神の恵みのチャンスなので、「どうしてこの苦しみがあるのか…神からの意図を考えること、それにより、信徒は成長する」と。
秋田教会の友達がいて、帰りに秋田教会に立ち寄りました。その時に、事務所の女性と話しているうちに、主任司祭って何か? 司教って何か?を考えさせられました。
秋田教会で、新しい主任司祭が来た時、それまで大切にしていた「聖しつ」が秋田杉の独特の形の物だったのですが、その神父が「火事になるとまずいから金属のものにする」と、信徒の意見もろくに聞こうとせずに変えたので信徒が反発し、ついにその神父様は名古屋に異動した」とのこと。
その神父様は、「自分が希望すれば、信徒は従うと思っていた」…と。秋田教会でも聖職者は「自分の権限は大で、信徒の希望や気持ちを聴く必要はない」と思っていた…、この神父も「第二ヴァチカン公会議文書」を読んでいない、信徒と聖職者の関係が変わったことを知らないのではないか?
日本の聖職者も信徒も、公文書を読んで勉強するべきだと、強く思いました。
司祭がそうなら、司教も同類で、自分の司教区の中では、司祭団の意見など聞く耳を持たず、(信徒の気持ちなど論外)、神様の前に絶対権力を持っていると信じ切っている司教様方が、あちらこちらの国に、そして日本にもたくさん、おられるようです。そのような司教様方は、自分の司教区に関するかぎり、自分の権限は教皇様よりも上だと考えているかのごとくです。
天国の鍵を預かったペトロの後継者の教皇様と一致して、初めて司教に権限が認められるのであって、教皇様の意向と離れては、司教には何の権限もないことを知らない司教様は可哀そう、哀れというほかはありません。破門されなくても、そういう司教のもとにある教区は、すでに分離教会、異端教会の状態に近いものがあります。
私は、日本の司教団はほとんど分離教会に近い状態にあるのではないかと以前から危惧するものです。
教皇様の意向を汲んで、それに沿う司牧に心を砕く司教様、大司教様のもとに信仰の道を歩む信徒は幸せです。
教皇様は日本に来て何を感じて帰られるのでしょうか。
確かに嫌な神父様や苦手な神父様はいます。ですが、その神父様の一部分だけを見て、その神父様を決めつけた見方には賛成しかねます。
私たちは司祭や指導者ではありません。教会の決め事などは確かに信者と司祭の統一された意見が望ましいのは理想ですが、司教様や主任司祭の意見がまず優先されるべきだと私は考えます。
何故ならば、司祭職は神様からの召命無くしてはあり得ないと信じるからです。
信者の祈りによって司祭も育つのではないでしょうか。