二階の留守電に入っていた兄の
突然の訃報にしばし呆然としてしまった。
我が家には電話が二台あって
二階の電話には販売目的の電話が多く普段は出ない。
義姉さんはそれを知らず何回か電話をくれたみたい。
兄はこんなご時世だから何かあったら誰にも知らせず
家族だけで葬儀をしてほしいと言い残して逝ったとのこと。
だから、義姉さんは葬儀が終わった
28日に電話をくれたらしい。
兄が亡くなったのは今月24日の事だった。
父は母とは再婚だったので兄と私は母親が違う。
私はずっと一人っ子として育ち、
小学校5年の七夕の短冊に
『かっこいいお兄さんが欲しい』と書いた。
その願いがかなったようにその1週間後に突然現れた兄に
嬉しさと戸惑いと恥ずかしさと複雑な心境だったことを思い出す。
兄は北海道余市の出身で、大学入学を機に東京に出て来た。
私が兄と暮らしたのは、兄が大学生だった4年間。
私の父は偏屈で難しい人だった。そんな難しい父だったから
小さい時に別れた父と暮らすのは
兄にとって大変だったに違いない。
母は天真爛漫な人だった。どういえばいいんだろう。
母は生前こう言っていた。
『本当にこの人は、初婚みたいな顔をして一緒になったら
次から次と子供が出てくるんだからいやんなっちゃうよ』
と、笑い飛ばした。文字に書くと重い言葉たけど
母の声で言葉にすると、なんでもない事のように笑える。
だから突然の兄の出現も
私にとっては普通の事のように受け入れられた。
そんな母だったから、兄とは義理の関係のようには見えなかった。
まっ、世間的には普通じゃないんだけれどね。(笑)
私がそれに気づいたのはずっとずっと後、
かなり成長してからだった。
でもね。人にはそれぞれ人生がある。
父の人生の過去を否定して生きるより
笑って受け入れた母のおかげで
私は何の違和感もなく兄と生きられた。
父より仲のいい母と兄だった。
大学を卒業して仕事で静岡に住んでからも
父が亡くなってからも
兄はいつもは母を気にかけてくれた。
その兄も数十年前に肺がんを患い、
闘病生活を続けていた。
そのために母の葬儀にも来られなかったことを
兄は悔やんでいた。
遠い空から毎日拝むよと
母の戒名を聞いて拝んでくれていた。
ここの所、年の初めの年賀状と
年に何回かのメールのやり取りだけになっていたから
このコロナ騒動がおさまったら兄に会いに行こうと
思った矢先の訃報だった。
今は行く事が出来ないけれど、
この騒動がおさまったら兄に会いに行こうと思う。
親友も兄も5月に亡くなった。私にとって5月は悲しい月だ。