ほらふきにっき

発作的な日記です

火伏神牛の由来

2021-06-06 | つれづれ


出羽三山神社社務所発行の火防神牛置物に付いた説明より

「火伏神牛の由来
神牛は湯殿山大神の本地大日如来の化身である。
湯殿山大神の御神徳の宏大無辺である事は今更申上げるまでも
ないが殊に火防の功験は昔から名高く、三山の神牛忽ち出現し
て猛火の中をかけめぐり大火を防いだ幾多の霊験を伝えている
三山の神牛札や神牛像をまつって大火、小火を免ぬかれた話は
現に今でも数多く弥々信仰を篤くする者が多い。
江戸の花は火事といわれ、屢々大火があり三山火防の神牛の御
霊験を信仰する者が多く、嘉永四年十二月二日江戸神田橋あた
りに大火があり庄内藩邸が危機にひんした事があった。
その時庄内藩主酒井家の人々が前々から信心していた三山の神
牛の御札を竿にさしはさんで屋根に登り「この大火を防ぎ給え
救はせ給え」と唱えて火煙をあおいだところ、忽ち猛火の中に
三山の神牛があらわれて烟の中を駈け廻ると見えたが、東南の
風がにわかに西北の風に吹き変わって危い火難から救はれた。
そこで藩の使番 芳賀黒兵衛が藩主の名代として 羽黒山に参詣
神牛札数千枚を拝受して、藩の人々や他藩の人々ににも配って、
愈々信心を篤くした。
又文化年中には筑前黒田藩でも三山の神牛の霊験によって火難
をのがれる事が出来たので、長柄の銚子一対を羽黒三所権現の
大前に奉納をした。
このように奇しく妙なる霊験が昔から数限りなくあり三山の神
牛は火防の神牛として今も多くの信者の間に広い厚い、信仰が
ささげられ神牛札を拝受する者が多い。」

*********************************

三山の神牛が火防に霊験あらたかであることについて記載してある資料である。
この神牛が湯殿山大神の本地大日如来の化身である、と冒頭にあるとおり
湯殿山の神様(湯殿山大権現)の本当の姿は大日如来でありそのお使いが牛である、
ということがいつのころからか出羽三山信仰の中にあったことに由来している。

お使いが牛であるからこれに関係して湯殿山の御縁年が丑歳である、というけれどなんで牛なのか・・・、諸説あります。

単純に丑年に開山されたから、とも伝えられているのでそれで良いわけですが。

それはまた今度じっくりと考えてみたいと思います。

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於竹大日如来の縁日について

2021-05-24 | つれづれ

於竹大日如来の伝 | Tokyo Museum Collection

 

 

 


江戸東京博物館所蔵 於竹大日如来の伝

一説により5月19日は於竹(お竹)さんが亡くなった日とされる日であり、東京近郊の於竹大日如来をお祀りされてる寺院で法要がなされている。
しかし、幕末に羽黒山より出開帳をした江戸期の縁起には5月19日という日はなく、そのほとんどが3月21日と記されている。
その縁起も亡くなったではなく、昇天したという記載もある。

赤羽善徳寺にある於竹さんの墓と伝わる如意輪観音の彫られた石碑には5月19日と彫ってあり、また過去帳には5月19日と記載されているという。
とにかく謎に包まれている。
現在東京の善徳寺、心光院、大安楽寺ともに5月19日を目安として縁日法要が営まれている。
そして、羽黒山の於竹大日堂では今も3月21日を命日としてささやかな法要がされている。
どちらが本当と白黒つける必要もなく、謎は謎のままその於竹さんの信仰をそっと見守りたい。

かつて板橋区立郷土資料館で開催された「江戸の旅と流行仏-お竹大日と出羽三山-」に一通りの史料や考察がまとまっている。

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江戸の旅と流行仏|板橋区立郷土資料館

板橋区立郷土資料館

板橋区立郷土資料館

 



善徳寺にある於竹さんの墓石を見ていて思ったのが、如意輪観音が彫られたものであるということ。
江戸期の女性のお墓としては時折見られるものであるが・・・

北総の石仏を調査されている方のブログ

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Z-5 微笑みの貴婦人=万治・寛文の十九夜塔 - さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート

白井市延命寺の十九夜塔 先日、白井市郷土資料館へ寄った際、私の大好きな延...

さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート

 



庚申塔を調査されている方のブログ

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十九夜女人講(江戸川区東葛西) : 東京都の庚申塔

◎東京都江戸川区東葛西7-23-17   昇覚寺境内         如意輪観音           「十九夜女人講中」          

東京都の庚申塔

 



こちらのブログを拝見させてもらっていると、
千葉や葛西、そして埼玉近郊に於竹さんのお墓に非常に似た十九夜講、女人講中の石仏が見られる。
於竹さんは女性の信仰を集めていたので、もしかして19日という日にちが重要なのではないか?
関東で十九夜講の日、女人講中の日として集まる日に於竹さんのお墓が建立されたものとして考えられるのではないか・・・。
ふと考える夜更けの時間。

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江戸十老開基

2021-05-10 | つれづれ

三山雅集挿絵 国立国会図書館ウェブサイトから転載


「江戸十老開基」
寛文年中、江戸に於いて羽黒派行人願い立て、関東八ヶ国散在の羽黒派錫杖頭立て、国割に行人支配を預らる。普門院・金剛院・運徳院・高徳院・正徳院・東朝院六人也。相談相手と為し老分四人、宗法院・學法院・高學院・寶性院、是合せて江戸十老と云う也。末派・他派・公事等出来候刻は、此の山え窺わず、十人の内、番替わり御奉行所え出、相済候筈。

元和三年立  本誓寺下   高學院
同年立    ゑさし町   運徳院
同五年立   富澤町    金剛院
同六年立   本町     寶性院(寶生院?)
寛永二年立  神田鍋町   普門院
同年立    駒込     東朝院
同年立    浅草聖天町  正徳院
同四年立   永留町    高徳院
同七年立   明神下日明町 宗法院(同朋町?)
慶安元年立  葺屋町    學法院
普門院支配 慶安二年立 西久保飯倉町熊野堂別當 正宮寺
正徳院支配 寛永四年立 目黒村 大圓寺
普門院支配 寛永五年立 威徳院

「神道大系 神社編 -出羽三山-」より

**********************************************

寛文年中(1661~1673年ころ)に江戸において羽黒派の行人が願い出て、関東八か国に散在する錫杖頭(しゃくじょうがしら)と呼ばれる山伏を擁立し国ごとに行人の統制を図った。
普門院・金剛院・運徳院・高徳院・正徳院・東朝院六人の山伏である。相談相手として老分四人、宗法院・學法院・高學院・寶性院の山伏を合せて江戸十老と云う。
羽黒派に所属する山伏が他派の山伏と訴訟ごとが発生した場合は、羽黒山にいちいち伺いを立てなくても、十人の内から順番に御奉行所に出廷してもらうことで解決できるものである。・・・・・

江戸十老は関東近辺の羽黒派の調整役として、そして各地に散在する錫杖頭という山伏は触頭の役割として本山からの御触れ(通知)を連絡する役割を果たしていたようだ。

ちなみにこの羽黒派の江戸十老として史料に記載されているお寺は現在は羽黒派として残っていないが、天台宗へ移行し一部残っているものと思われる。駒込東朝院は江戸五色不動のうちの目赤不動南谷寺と思われる、また十老からは外れているが目黒村大圓寺は行人坂の大圓寺と思われる。

このほかに現存していない寺として、宝性院は万蔵院春海上人の寺のことだろうか。
また普門院は「新編武蔵風土記」を見ていくと江戸日本橋音羽町普門院末、江戸霊巌島普門院触下、江戸音羽町普門院配下、などという羽黒行人派、天台行人派の修験寺の記載があり、普門院自体住所こそ転々としていたようであるが武蔵国一円に末寺が点在していたものと思われる。

江戸十老についてはその住所から当時の江戸の中心地である日本橋近辺に多くが在った様子であるので、羽黒山とゆかりのある於竹大日如来について、その舞台が日本橋とされるのも自然な気がしてくる。

明治の廃仏毀釈の影響やその後の震災、戦災、東京の都市化により失われたものは大きいが、まだほんの微かではあるけれど残っている羽黒派の足跡を感じ取ることができる。
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各地に勧請された荒澤(荒沢)不動尊 備忘録

2021-03-27 | つれづれ
羽黒山の奥之院とされる荒澤寺の荒澤不動尊(荒沢不動尊)は各地に勧請されている。
三山開山能除聖者(蜂子皇子)が羽黒山中の荒澤の地において護摩の法を授かったお不動様として、古くから羽黒山の修験者が信仰するお不動様=荒澤不動として大切にお祀りされる。
そのため非常に力のあるお不動様として羽黒山に縁のある地域、遠くは関東各地においても御堂、祠、石碑等様々な形で現在も残されている。

今回は荒澤不動として調べてみたが、荒澤不動という名前であってももともと荒沢という地名は各地にあり、羽黒山とは全く関係しないお不動様もあること。
それよりも歴史の中で荒澤不動であること自体が忘れ去られてしまった、また都合上消去されてしまったお不動様もあると思われる。
江戸時代にあっては水戸藩の祈祷系寺院の排斥、明治時代では廃仏毀釈、関東大震災、太平洋戦争、高度成長による都市化の急激な変化等々、様々な要因がある。

おそらく羽黒山に関わりがあるのではないかと思われるものについてその規模に拘らず備忘録として記載。
まだまだかなりの数があると思いますので情報がありましたらお教えいただければ幸いです。


〇日光裏見の滝の荒澤不動
(栃木県日光市日光)
https://goo.gl/maps/6QdMnXEEzkdtLkVk7
https://opac.city.nikko.lg.jp/nikko/manage/contents/upload/00003_20110309_4166.pdf
http://nikko.4-seasons.jp/festival/function_detail.shtml?0:45
「寛永元年(1624年)奥州の出羽三山から荒沢不動尊が迎えられ、名僧天海の命によってこの滝のところに安置
されました。」看板より

〇東河内町 荒澤不動
(茨城県日立市東河内町荒沢1030番地)
出羽三山を勧請した御岩山参詣に向かうかつての道中に位置する。
御岩山は常陸国の出羽三山信仰の中心地であることから出羽の荒澤不動が勧請された可能性が高い。
旧入四間道という峠道の中腹、崖地にある模様。登山装備が必要。詳細不明

〇飯坂町平野 荒澤不動尊
(福島県福島市飯坂町高石仏1−1)
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荒沢不動尊

寺院・礼拝所 · 飯坂町高石仏1−1

荒沢不動尊

 


近くの教法院(天台宗・信達三十三観音13番)が別当となっている模様。旧修験のお寺のため、羽黒派であった可能性が高い。
https://goo.gl/maps/ihqd6zwqS9qB9zKj8


〇荒沢不動尊
(埼玉県新座市馬場2-12)
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荒沢不動堂(馬場2丁目)

★★★★★ · 寺院・礼拝所 · 馬場2丁目12

荒沢不動堂(馬場2丁目)

 

https://www.city.niiza.lg.jp/site/niiza-kenbunroku/bunkazai-kenbun016.html
「にいざ見聞録(第16回 屋根がけを嫌う不動さま)「荒沢(あらさわ)のお不動さま」で知られる荒沢不動堂(あらさわふどうどう)の建つあたりは、かつては畑中にある東福寺の「奥の院」の跡です。 不動堂の本尊は、高さ2メートル余りの石造の不動明王立像(ふどうみょうおうりつぞう)で、江戸時代の延宝2年(1674年)に造立されました。 刻文には「水火持戒行者(じかいぎょうじゃ) 長性院久海(ちょうしょういんきゅうかい) 干時(ときに)廷宝二甲寅二月二十七日敬白」とあり、今から325年前に行者久海によって建てられたことが判ります。矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制咤迦童子(せいたかどうじ)を従えて、火焔(かえん)のなかを左手に羂索(けんじゃく)、右手に宝剣(ほうけん)を持ち、正面を見据えて立っています。
 この不動尊については不思議な言い伝えがあります。 村人がいままでに何度か、不動さまに屋根をかけてその中に祠(まつ)ろうとしましたが、そのたびに屋根が火災で焼けてしまいました。人々は「これはどうやら、修行中の不動さまだから屋根がけの下には入りたがらないのだろう」と思い、それからは屋根をかけるのをやめたそうです。 荒沢不動尊のもつ寡囲気は、霊験を感じるのに十分です。」新座市HPにいざ見聞録より

水火持戒行者、長性院久海という「海号」の付く行者であることから羽黒山の中でも湯殿行を行う荒澤寺系統の行人であった可能性が高い。
現地は護摩堂を前にして屋外で樹木を笠にするように大きなお不動さんが立っている。



〇赤羽根荒沢不動尊 荒沢不動堂
(埼玉県さいたま市西区指扇2501−25)
https://www.city.saitama.jp/nishi/001/003/001/p006338_d/fil/bunkazai_guide.pdf
「赤羽根の台地の先端部に建てられた不動堂に安置され、現在、周辺地域の21軒で講を結んでいます。正面の急な石段のほか、ゆるい女坂の二つの参道があります。江戸時代に奥州出羽山から行者によって勧請(かんじょう)されたものと考えられます。赤羽根の荒沢不動石仏は、舟形の光背に右手に剣、左手に羂索(けんさく)を持つ普通の姿を浮き彫りとしています。光背の上部に滝を、下部に波形を、さらに台石に向かい合った犬を表しています。出羽山荒沢の様子を表しているものとみられ、信仰の伝播(でんぱ)が考えられます。総高167㎝。」さいたま市西区文化財ガイドブックより
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荒沢不動尊(西区指扇)

★★★☆☆ · 仏教寺院 · 指扇2501−25

荒沢不動尊(西区指扇)

 


指扇駅の北側を線路沿いに行き線路を渡って旧道を行くと、すぐ近くに指扇氷川神社という少し大きな神社がある。かつてこの神社の別当をしていた神宮寺が管理していたという。小山状になった上にお堂がある。お堂にお知らせの貼紙があり、夏冬8/28、2/28に縁日をやっていたが、令和2年から8/28は諸般の事情により中止という貼紙がしてあった。


ここから少し離れたところにもう一つの荒澤不動堂がある模様。こちらは詳細不詳。
荒澤不動尊(西区指扇)


〇浅草寺 荒澤不動堂
(場所不明)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/socialstudies/1978/41/1978_1/_pdf/-char/ja
かつて浅草寺境内にあったとされる。
『浅草寺志』に収められている「金竜山浅草寺荒沢堂不動尊略縁起」によると慈覚大師の御作、下野国日光山の荒沢において慈覚大師がまみえたお不動様をうつしたとされている。
「寺社書上」にも荒澤不動が慈覚大師御作とある。
日光の荒沢不動は羽黒山から江戸時代に勧請されたものでありそれから裏見の滝のある沢は荒沢とされたため、慈覚大師との整合性がなくなってくるが、ミステリアスなものはミステリアスなままでいいと思う。羽黒山から日光を経由して来られた荒澤不動尊として考えてもよいのだろうか。

〇十条荒澤不動尊
(東京都北区中十条3-35-26)
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荒沢不動

★★★★☆ · 寺院・礼拝所 · 中十条3丁目35−26

荒沢不動

 

http://hotyuweb.starfree.jp/yudono/kitaku/kitaku.html#%E8%8D%92%E6%B2%A2%E4%B8%8D%E5%8B%95%E5%B0%8A
「荒澤不動由緒 往昔此の地疫病が流行医術が現代の如く発達せざりし当時にあってなすべき術なく村民の伝染病による苦難は容易でなかりきここに出羽の国羽黒山中の荒澤不動は霊験ありというこれによって住民十条にこれを勧請せりと。特に四月十五日を卜して「祈祷」するとし村田一斉に農事を休み「ボンゼン」を作り村人池にて「水ごり」をとりホラの貝を吹き鳴らし厄病災難より悪魔払いに全村を巡廻せる行事年々行われ近年に到れる。しかるに急激なる都市の発展に伴い不動様の敷地ならびに池は鉄道線路敷地と化せしにより馬坂の下の現在平和橋となりたる旧地より西音寺境内の当地に移転安置する。」看板より

現在もかつての十条村の方々により大切にお祀りされている。西音寺様によるとかつては羽黒講と呼ばれていた模様。4月15日は全村農事を休み、祭礼を行いこの日をさかいにして田植え作業の始まりとされたという。近隣では法幢院の三山碑などもあり、かつて王子のあたりに出羽三山系統の修験が居たようで関連があった可能性もあるという。

〇徳丸出羽三山神社の荒澤不動石碑
(板橋区徳丸6-34-3徳丸北野神社)
OGPイメージ

徳丸出羽三山神社

神社 · 徳丸6丁目29−11 徳丸グループ

徳丸出羽三山神社

 

http://hotyuweb.starfree.jp/yudono/itabashi/itabashi.html#%E5%BE%B3%E4%B8%B8%E5%87%BA%E7%BE%BD%E4%B8%89%E5%B1%B1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
こちらのサイトを拝見すると「荒澤不動明王」と刻まれた石碑と「常火不動」と荒澤不動の版木と同じ御姿が刻まれた石碑がある様子。常火不動は荒澤寺常火堂を指すので間違いなく羽黒山のお不動様であろう。
徳丸出羽三山神社は4月8日が例祭の模様。
すでに現地では祭礼が八日である意味が忘れ去られている可能性もあるが、八日は湯殿山大権現(大日如来)の縁日のため、その日にちはかつての湯殿山を中心としていた出羽三山信仰の古い形が残されている。足立三丁目と辰沼に梵天祭りも4月8日とされていることから、意外にもかつての祭礼の日にちまでは変更されなかったのかもしれない。
https://www.city.adachi.tokyo.jp/hakubutsukan/chiikibunka/hakubutsukan/manabu-bondenmatsuri.html


〇杉山神社
(横浜市港北区樽町4-10)
http://www.komainu.org/kanagawa/yokohamasi/kouhokuku/SugiyamaTaru/sugiyama.html
「杉山社、字大下にあり石階十二級を設く、本地荒沢不動を神体とす、例祭は年々8月2日、隣村師岡村法華寺の進退する所なり、社内に棟札あり、其中に応永年中鰐口を鋳す事を記す、この鰐口は故あって昔村民の方へあづけ置きしと言伝ふるのみにて今は在所さだかならず、かかる古きものありしなれば、定て古きものなるべけれど社伝も見へず、且つ石碑に残ることさへなければ今よりはただし難し云々」新編武蔵風土記稿より
詳細については不明。

〇荒沢不動尊
(神奈川県横浜市中区根岸町3丁目156白滝不動尊)
白滝不動尊 (横浜市) - Wikipedia
根岸の滝「不動滝」の水源はどこ!? - はまれぽ.com 神奈川県の地域情報サイト
白滝不動尊の御堂の中に併せて荒沢不動尊がお祀りされている模様。詳細については不明。
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房総の出羽三山信仰

2021-03-21 | つれづれ
房総の出羽三山信仰についていろいろ調べていて
様々なものがあるなかたまたま2つの報告、論文を興味深く読ませていただいた。

ずっと引っかかっているがなんで出羽三山から遠く離れた房総で出羽三山信仰が盛んなのか。

****************
調査報告:梵天に見る房総の出羽三山信仰の現在(いま)小林裕美
千葉県立中央博物館研究報告 −人文科学−
13(1):1−81. 2012年12月

http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/publication/jinbun_13-1_kobayashi.pdf

**************
内容を拝見すると平成23年に千葉県における出羽三山信仰に関する「梵天」の調査がされた貴重な調査報告である。

制作されている地域もさることながら梵天のバリエーションには驚くものがある。

平成23年から10年が経過しこの報告に記載のあるものの中には高齢化が進み、後継者が途絶えた講中ではもうすでに作られなくなってしまった地区もあるかもしれない。また講中自体なくなってしまった可能性もある。

地元山形や東北各県であればまだわかるが、山形の出羽三山から遠く離れた千葉県にあってなぜか出羽三山信仰は深く根付いている。伊勢参りでもなく、大山富士参詣でもなくて、である。

通過儀礼の一つとして三山参りは重要なのだとか理由は様々な要素がある、しかし出羽三山の信仰を布教し続けた行人と呼ばれる優れた行者たちが居たからに他ならないと思う。梵天制作にあたっても三山信仰独特の細やかな考え方が組み込まれている。
そうした行人が在俗の行人を指導して房総でしっかりと根付かせてきたのではないだろうか。

そんな考えが出ていたところに一つのヒントとしてあったのが、以下の論文。

**************

房総半島における出羽三山信仰の浸透とその要因
―長生地域の民俗事例による一考察―
三木 一彦
歴史地理学 58-2(279)1-22 2016. 3
http://hist-geo.jp/img/archive/279_001.pdf

**************
その浸透がどのように進んでいったのか地域社会に密接に関係している様子、地元の祭礼や行事からも細かく考察されている。

論文の中にも取調帳のことについて拝見するとことができる。

さて、この修験道章疏三所収の「羽黒派末寺並修験院跡大數取帳」を見ると、
延享(1744-1748)の分限改を以て、羽黒派は全国で総計3,782個院ということになっている。
上野、下野、上総、下総、信濃、常陸、安房、相模、遠江、9か国合わせて1,016個院。
この1,016のうちにの上総、下総、安房がどのくらいの内訳になっているかは史料からは分からない。

さらには、
「右の外、御府内関八州関西諸国羽黒法流一代修験一世行人共数百人の儀に御座候得共院跡不定の儀に御座候間書上申さず候」とあることから、書上には載せてはいないが、数百人の羽黒法流の一代修験、一世行人と呼ばれる後継が定まらない一代限りでの活動が許された行者の存在がある、ということが記載されている。

各地で活発に活動していたこの一代修験、一世行人という一代限りで跡形もなくなってしまう聖たちの存在。
いままで日の当たらないこの行者たちの脈々とした熱いものが、あくまで想像の域を出ないが、房総にも流れ込んでいるような気がしてならない。
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