ほらふきにっき

発作的な日記です

峰中に参加するということ

2009-12-23 | つれづれ
峰中に参加するということはどのような意味があるのだろうか?

現在でこそ研究者の方々が羽黒の峰中に入り、内容の紹介をしたものが数多くあるが、その昔の紹介した書物とはどのようなものだったのだろう?

というところで、江戸時代の文政十二年(1829)に木版本として発行されたもので「羽黒山入峯功徳抄」というものがある。

羽黒の峰中に入るとこんな功徳があるのですよ~♪と甘く囁きかける書、ではなく意外に中身は専門用語も多くあるので、その当時の方でもある程度知識がないと意味が分からなかったのではないか?という少し難しい感じです。
おそらくマジメに峰入りなどしたことない陸サーファーならぬ「山に登らない山伏」に向けて書いたもので無いのかな?と思いますが(笑)

行中の内容は「秘密」「他言は堅く禁制でござる」聞かず語らずの羽黒の峰中でも、やっぱり修行に誘うにはその一端をつまんでチラリとさせてもらうのが、手っ取り早い話です。

この「羽黒山入峯功徳抄」は江戸小石川の小日向台町に行屋(行人修験の坊)を持っていた良善院義円という行者の著作。
義円は一世行人(代々の修験寺ではない一代限りの行者)ながら修験者としての修行と研鑽に努め、大越家、権大僧都、法印に補任にされた、ということで高位の修験者として活躍していたようである。

********

「羽黒山入峯功徳抄」 法印義圓

今同俗同行の新客等に示す。吾等入峯修行は如何なることにやと尋ぬるに即身成仏の秘術也と承りぬ。
さて即身成仏と云う事、最(いと)むつかしき事にて、愚蒙不学の身にては至りがたしと教家の所談に凝滞して進み兼る者多し。
さはいへ、凡そ仏道の大意は唯一心を明らめ當體の道理を知るにあり。扨(さて)一心を知りて成仏するとても、身より光明を放つにも非ず。
三度食う食を一度食うにも非ず。唯、有のままが即ち仏也。・・・云々

********
以下、超いい加減な意訳です(余り真面目に読まないでね)
********

今から同じ娑婆世界で生活し山岳修行をやってみようと思っている皆さんにご紹介いたします。私たちにとって入峰修行とはどういうことをいうのでしょうか?と専門家に尋ねた時、その身のまま仏になる秘密の術であると伝え聞くところでございます。
さてさて、いったいぜんたい簡単にその身のまま仏になるって言うけど、なろうったって超難しいことであって、オッパッピーなワタクシのようなものには、そのような専門家のおっしゃる話の内容にビビッてしまい山岳修行に足を一歩踏み入れることすら躊躇してしまう人が多いのが現状です。
そうは言っても、そもそも仏道修行のおおきなツカミとしてはとにかくひたすら心の部分を解明してまさに今ある形があるというべき筋道を知るところな訳でして。
さてまあ、心を知って仏さんになるってのは、体からピカチューみたいにぴかーっと光が出るわけではないし、日に3度ガツガツ食べていたご飯がアヤシイダイエット的に1食しか食べなくても生きていけるようになるわけでもないわけです。
ただ、人間が日々生活する仕事をし、ご飯を食べ、過ごしているその姿、ありのまんまが仏さんなんですね。・・・

********

こんな感じで、この後は十界修行の十種類の行法について書いてあり内容が少し難しくなっていきます。

しかし、後半では特に有名な一文がありまして、
「素(モト)より六根懺悔の道場なれば、坐睡(イネブリ)ながらも懺法の声を聞くときは、無始の罪障を消滅する也」

もしもこの峰中のお勤め中に激しい眠気に襲われ居眠りしていたとしても法華懺法のお経の声を聞く中で、生まれてこのかたの罪障を滅してくれる!という驚異的な紹介なのである。

東北の大らかさ、というべきか。修験道というものの懐の大きさというべきか。

こうして、修行詳細な意味は分からなくとも、とにかく行くことに、参加することに、体験することに意味があるこの峰中の奥深さが顕われてくるのである。
一度の参加ではその全容は不明である。
三度ほど参加して何となく流れが分かってくる。
そして、回を重ねることに、スルメを噛み締めるが如くアミノ酸があふれるような世界へといざなわれるのである。
体験から生まれるものは参加してみないと分からない。

ということで羽黒の峰中へ、機会あれば是非一度チャレンジを。
居眠り山伏が増加するのは困りますが(笑)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 羽黒山荒澤寺立螺之会 | トップ | 2010今年もよろしくお願... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

つれづれ」カテゴリの最新記事