On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■エリノア・プール嬢の結婚式

2023-03-26 | ある日、ブラフで

1904(明治37)年9月14日水曜日の午後、横浜クライストチャーチにてナサニエル・ジョージ・メイトランド氏とエリノア・イザベラ・プール嬢の結婚式が行われた。

新郎はイギリス人、ロンドン生まれの28歳、花嫁は三歳年下で、シカゴ生まれのアメリカ人である。

§

メイトランド氏はチャータード銀行の上海支店に勤務したのち、おそらく1899年頃横浜に移り住んだ。

§

エリノアは茶の貿易商であった父オーティス・オーガストス・プールが横浜のスミス・ベーカー商会に招かれたため、9歳の頃に両親と兄ハーバート、弟チェスターとともにアメリカ・シカゴから横浜にやってきた。

§

メイトランド氏は歌の素養があり、上海でも横浜でも素人芝居でその美しいバリトンを披露したという。

プール嬢もまた幼い頃からピアノを能くし、東京帝国大学教授であり、東京音楽大学(現・東京藝術大学)でピアノと音楽史を教えていたラファエル・フォン・ケーベル氏に師事していた。

§

1901年5月に横浜で上演されたミュージカル・コメディ「サン・トイ」で、メイトランド氏はモリソン夫人扮する主人公サン・トイの相手役ボビー役を務めて好評を博したと当時の新聞が伝えている。

この芝居にはプール嬢も出演していたので、二人のなれそめはこのあたりにあったのかもしれない。

§

メイトランド氏の子孫の手元にはその頃に撮影されたと思われる写真が残されている。

居留地の仲間との楽しい遠出の一場面といったところだろうか。

プール嬢の兄バートの姿もみえる。

前列左端 チェスター・プール、前列右端 ナサニエル・メイトランド、後列左から5番目 エリノア・プール

 

§

W. P. G. フィールド師が司式し、礼拝は合唱のみで行われた。

白い花ツタと竹の小枝で飾り付けられた教会は、若いカップルの友人や親しい人々で込み合っていた。

やがて父O. A. プール氏にエスコートされて素晴らしく魅力的な花嫁が聖堂に現れた。

§

花嫁の衣装は象牙色のサテン地で、トレーンは白いレースで縁取られており、腰のヨークはタック付きで、スカートの裾には3つのタックが施されていた。

頭にはオレンジの花のリースをあしらっている。

§

ブライドメイドはザイディ・ロジャース嬢とキャスリーン・ホール嬢、ベストマンはW・B・ホワイト氏、グルームズマンはH・A・プール氏、アッシャーはO・M・プール氏、S・ウィーラー氏、A・R・オーウェン氏、K・バン・R・スミス氏が務めた。

§

1.   新婦の弟チェスター、2. 新婦 エリノア・プール、3. 新郎 ナサニエル・G. メイトランド、4. 新婦の兄バート、5 新婦の母、6. エドウィン・ウィーラー、7. シドニー・ウィーラー

 

ブライドメイドは、透明なレースのヨークのついた、シルククレープ地の淡いブルーのドレスという装い。

新婦はオレンジの花を使った白いブーケを、ブライドメイドは淡いピンクのバラのブーケを手にしていた。

§

プール夫人は、ダブ・グレーのブロケードにピンクのバラをあしらった黒い帽子を被り、

W. W. メイトランド夫人は、クレープデシン地の淡い紺色のドレスに黒の帽子を合わせていた。

§

ヒュー・ホルン氏のオルガンによるメンデルスゾーンの結婚行進曲に見送られて幸福なカップルは教会を後にした。

§

挙式の後、新婦の実家(ブラフ89番地a)でレセプションが開かれ、多くの人が出席した。

通例の新郎新婦への乾杯は、ウィーラー医師が見事に音頭を取り、心のこもったものであった。

§

新郎は新婦にダイヤモンドのついた三日月型ブローチを、ブライドメイドひとりひとりに菊をかたどった金のブローチを贈った。

豪華な贈り物がたくさん寄せられた。

プール氏は娘にスタンウェイのグランドピアノを贈った。

§

新郎がブライドメイドのために乾杯したのち、二人は多くの友人たちの心からの祝福と好意に包まれて新婚旅行先である日光へと旅立ったのである。

 

図版:すべてアントニー・メイトランド氏所蔵

参考資料:
The Japan Weekly Mail, March 23, May 25, June 1, 1901
The Japan Weekly Mail, Sep. 17, 1904
・Poole FAMILY Genealogy, www.antonymaitland.com/poole001f.htm

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■1870年代横浜の二重の悲劇―故老が語る居留地の実話

2023-02-23 | ある日、ブラフで

これは横浜居留地の故老アーサー・ブラントが1918年11月27日付ロンドン・アンド・チャイナ・エクスプレス紙に寄稿した記事を和訳したものである。初出は1902年1月23日付ジャパン・デイリー・メール紙と記されている。

§

1875(明治8)年のある春の早朝、正確には4月19日の月曜日、私は翌月に行われるレースのトレーニングの様子を見に友人とともに競馬場に行った。

パドックからコースを回ったところで海が見えてきた。

§

遠く青い海の向こうに、小さなスクーナー型の帆船が湾内を走っているのが目に入った。

その時、船は灯台船と浦賀の間のあたりにいるように見えた。

友人は私に何の船だろうと尋ねた。

§

最近台湾から砂糖を運んできたアイリス号だと思うと私は答え、確かヘイゼルが買ったと聞いたけど、と付け加えた。

ヘイゼルはあまり評判のよくない男で、私はいったいどこからそんな金を工面したのだろうといぶかしく思っていた。(彼は馬を貸す商売をしていたが、その頃はグランド・ホテルのビリヤードの採点係をはじめていた。これはまだ小規模なものだったが発案者にとっては後に非常に頭の痛い結果となった。)

§

とはいえ家に帰って風呂に入り、朝食をとるとそのことは頭からすっかり消えて、アイリス号のことも、ましてや日没前に起こる悲劇のことも思いやることはなかった。

§

10時頃、あるブローカー(当時も今も、あらゆるニュースやゴシップに通暁する大御所として知られる人物)がとても興奮した様子で事務所にやってきて、「おい、ニュースを聞いたか」と私に尋ねた。

§

「いったい何のニュースだ?」ときくと、その頃、本町の57番地にあったコントワー・デコント・ド・パリ銀行を、会計係のスタインフォースと出納係のトルネリが襲い、二人は大金を奪ってアイリス号でどこかに向かって逃げ出したという。

江の島に行っていた支配人が帰ってきてこの事件に気づき、イギリスとイタリアの領事館に令状を申請すると、ロック・カペル商会という有名な会社が所有している小型蒸気船シーガル号をチャーターして、逃亡者の追跡に向かおうとしているというのである。

§

私はその朝アイリス号を見たことを思い出し、風は非常に弱い逆風なので、すぐに追いつかれてしまうだろうと友人に言った。

§

やがて居留地ではさまざまな噂が流れ、略奪品の額は数十万ドルに上ると言われた。

実はその後、67,000ドルほどだったことが判明し、最終的に約47,000ドルが銀行に回収されたが、残りは使われてしまって取り戻せなかったように記憶している。

§

午前中、クラブ(現クラブホテル)に大勢の人が足を運び、正午頃にはシーガル号が蒸気を発するのが見えた。

まもなく青いジャケットに身を包んだ英国船タリア号の船員6名から成る一団と副官1人が、黒服の英国領事館警察官とともにシーガル号に乗り込み、2時頃、英国軍艦旗を掲げて港を出た。

§

この時点で事件に関してかなり多くの事実がわかってきた。

後に法廷で明らかになったことを補足すると、およそ次のようなものだ。

§

スタインフォースは、すさんだ生活をおくっているという評判で、賭け事やギャンブルで身の丈以上の生活をしていた。

力に勝るスタインフォースがトルネリを誘って銀行強盗に手を染めた。

銀行には支配人のほかにヨーロッパ人は二人しかいなかったし、スタインフォースひとりでは強盗を実行することはできなかったからだ。

§

この邪悪な計画を実行し、高跳びする手段を得るために、彼らはまずヘイゼルの名義で小額を預金し、銀行に口座を開設した。

そして折々に払込票を操作して、アイリス号の代金にあたる11,000ドルを引き出せるだけの額まで増やしていった。

§

裁判では、2年近く前から帳簿を改ざんし、小口の金を横領していたと述べられているが、犯人たちは横領が発覚する時期が来たと悟り、一大決心の上、アイリス号が出港したマニラへ逃げようと考えたに違いない。

§

アイリス号がヘイゼルのものになったのは、出発を予定していた土曜日の1日か2日前だった。

銀行の支配人は午後から江ノ島に向かうことになっていたので、その日の午後に出発すれば、彼らが逃げたことが判明するまでに36時間程度は間があると計算したのだろう。

スタインフォースはたまっていた請求書のうちいくらかを支払ったが、それはつまりあり余るほど金があったからだったということが後からわかった。

§

しかし、アイリス号の片付けに時間がかかり到着が遅れたため、出発は月曜日の早朝となり、風は弱い逆風だった。

犯人の心境は想像に難くない。

すでに略奪品は船内に積み込まれているというのに、日曜日じゅうじりじりとして待ちながら過ごさなければならなかったのだ。

1時間遅れるごとに犯行の発覚が近づいてくるというのに。

§

二人はその日の夜遅くに乗船したようだ。

ヘイゼルは船長に乗客二人分の準備をするよう伝えていた。

§

トルネリは誰に聞いても堅実な生活を送っていたようで、終始スタインフォースのいいなりになっていたことは間違いない。

しかしイタリア領事館で行われたトルネリの裁判は非公開だったので、そこで何が行われたかはほとんど知られていない。

§

アイリス号とシーガル号に話を戻そう。

大騒動が起こった月曜日の午後2時ごろにシーガル号は出航し、1時間ほどでアイリス号を発見した。

地元のボート数隻で金田湾に引かれていくところだった。

やはりそれほど遠くには行っていなかったのだ。

§

近づいてみると、船長、ヘイゼル、スタインフォースの3人が双眼鏡でこちらを見ているのが副官の目に入った。

もう少しで声が届くほどの距離にシーガル号が迫ったとき、スタインフォースは船室に姿を消した。

§

汽船が帆船に横付けする前に、2、3発の銃声が聞こえた。

目撃者たちは正確に何発だったかは覚えていないという。

§

ラドフォード船長(共犯者として英国領事館で起訴されたが、一点の疑いもなく晴れて無罪となった人物。

強盗について何も知らなかったことは明らかであった)は、シーガル号が自分たちの方へ向かってくるのを見て、置き忘れたものか何かを届けに来たのかと思ったと証言している。

しかし英国軍の旗がなびいているのを見るや不吉なものを感じ、ヘイゼルとスタインフォースに向かってどういうことかと問いただし、自分が何も知らなかったことを証言するよう頼んだ。

するとスタインフォースは、罵声を浴びせながら双眼鏡を投げ捨て、下に駆け下りていった。

§

副官が部下を従えてアイリス号に乗り込んでくると、ラドフォード船長は彼らに、銃声が聞こえたからすぐに下にいってくれ、乗船者たちが自殺したかもしれないというようなことを言った。

§

船室に入ると、そこには衝撃的な悲劇が繰り広げられていた。

スタインフォースは心臓を弾丸で貫かれて死んでいた。

リボルバーの弾倉の二つの薬室が空になっており、左手の指が黒く焼けているのを見れば、彼が銃を撃ったことは明らかだった。

トルネリの銃の薬室は一つだけが空の状態で、頭を銃弾で貫かれていたがまだ生きていた。

§

午後11時頃、シーガル号がアイリス号を曳航して港に戻るまで、トルネリはそのままの状態にされていた。

§

あの数分間、船室で何が起こったのか、それは誰にもわからない。

前にも述べたようにトルネリに関する調査の結果は公表されなかった。

二人の逃亡者が、逃げ切れないとわかった時点で自殺することで合意していたのは確かである。

スタインフォースは、トルネリのもとに駆けつけ、そのときが来たことを告げた。

二人のうち、より強い意志を持っていた彼は、トルネリがどうするかを見届けるまで発砲しなかった。

おそらくトルネリが結局のところ「臆病者」になるのではと危惧したのだ。

§

トルネリが空に向かって撃ったのは間違いないようだ。

私はずっとそう思っている。

後にアイリス号の天井から弾丸が発見されたが、二人のピストルは同じ口径で、どちらが撃ったのかは定かでない。

§

弾が空に放たれたのを見たスタインフォースがトルネリの頭を撃ち、次に自分に銃を向けて致命傷を与えたのだろう。

§

翌日、領事館でスタインフォースの審議が行われ、自殺と断定された。

その夜、数人の友人に付き添われて最後の憩いの場に埋葬された。

当時の英国領事が、彼の墓前で二言三言述べたと思う。

同じ日、トルネリは墓地のカトリック信者の墓がある区画に埋葬された。

§

数日前、私は彼らの墓を訪ねてみた。

スタインフォースの墓石にはイニシャルしか書かれていなかったが、トルネリの墓には氏名と没年月日が刻まれていた。

§

その後まもなく、ヘイゼルとラドフォード船長が共犯者として裁判にかけられた。

ラドフォード船長はすぐに無罪となったが、ヘイゼルは禁固2年という非常に軽い刑を言い渡され、服役後、日本から姿を消した。

§

これが横浜の外国人コミュニティがそれまでに経験したことのない恐ろしい悲劇のおおよそのところである。

当時外国人の数は現在の半分より少ないくらいだったので、どんなに人々が興奮したかは想像に難くないだろう。

しかし27年という年月が去った今、もうほとんど覚えている人はいないと思う。

とはいえ、若い人たちも少しは興味を抱くかもしれないし、年寄りの中にはその時のことを思い出す人もいるだろう。

§

このことは日本人の間でも大きな話題となり、彼らはこの悲劇的な結末がとても気に入ったようで、その登場人物たちの最後の瞬間のようすを描いた極彩色の風俗画がしばらくのあいだ出回ったものだ。

§

ここで断っておくが、私はこの物語の登場人物の名を架空の呼び名に置き換えている。

理由は明白だろう。

§

シーガル号がアイリス号に乗り込んだ直後に順風が吹き始めた。

つまりシーガル号の出航が30分遅かったら、犯罪者とその戦利品を乗せた帆船は、少なくとも当面は逃げ切れたと思う。

§

この悲劇が起こる少し前に、スタインフォースは「悪くない判事」という素人芝居(68番地の現在では倉庫になっているところで行われた)に出演して敵役を演じた。

「俺のことを嘘つきとでも悪党とでも呼ぶがいい、だが臆病者とは決していわせないぞ」というような台詞があったが、彼がその後も時々そう言っていたのを覚えている。

§

その台詞通りの思い込みが、彼にああした行動をとらせたのではないかということが、当時ちょっとした論議のネタになった。

このことについては私個人として非常に強固な意見を持っているが、判断は読者に委ねるとしよう。

 

図版
・競馬場(根岸)手彩色絵葉書(筆者蔵)

参考資料
London and China Express, Nov. 27, 1918


 

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■道ならぬ恋とクーン商会の結末

2023-01-29 | ある日、ブラフで

横浜居留地時代にバンドと呼ばれていた現・山下町のウォーターストリート(水町通り)あたりには、当時、外国人相手に日本や中国の骨とう品などを商う店が軒を並べていた。

横浜港を望むホテルに投宿する観光客たちが、いかにも東洋趣味な陶器や漆器、みごとな蒔絵の表紙付きのアルバムなどに目を楽しませながらそぞろ歩く。

§

サミュエル・クーン氏の営む店もこの通りの一角、バンド57番地―現在の神奈川芸術劇場の近くにあった。

クーン氏の父、モンタギュー・クーン氏はオーストリア帝国の首都ウィーン近郊で生まれたユダヤ系の骨董商で、1869年に東洋の美術骨董を扱うクーン商会をはじめた。

§

一人息子のサミュエル・クーン氏は1879年に上海で生まれ、その後横浜に移り、11歳ごろヴィクトリア・パブリックスクールという外国人子弟のための学校に入学した。

この学校は英国人居留民が設立したもので、授業は英語で行われる。

大学などに進学する生徒のためにラテン語などの古典の授業も行うが、生徒の多くは算数や歴史等一般的な教科を学ぶと学校を去り14、5歳で実社会に飛び立つ。

クーン氏もその一人で、1895(明治28)年、15歳になるやならずやで父の店を手伝い始めた。

§

5年程後にはその父も亡くなり、クーン氏が店を引き継ぐことになった。

日本人の従業員が3名おり、なかには父の代から10年以上働いている者もいる。

§

1903年1月、クーン氏は23歳で同じ横浜に住むソフィー・ドウェット嬢というベルギー国籍の女性と結婚した。

彼の母も、またソフィーの両親も猛反対したが二人は愛を貫き、翌年3月にはアニータというかわいい娘も生まれた。

仕事・家庭ともに順風満帆と思われる青年実業家クーン氏だが、1904年11月29日、その姿は横浜地方裁判所法廷の被告人席にあった。

暴行事件の加害者として起訴されたのである。

§

事件の被害者はフレデリック・S・ボイス氏。

バンドに事務所を置くサミュエル&サミュエル商会に勤務している。

クーン氏の妹がボイス氏の弟と結婚したことから二人の間で交際が始まった。

妹夫婦は上海におり、夫とクーン氏は商売上の付き合いもあった。

§

水町通りの店舗は自宅を兼ねていたが、クーン夫妻は根岸にも別荘を持っていた。

バンドやブラフ(山手町)といった外国人らの生活圏からほど近く、素晴らしい眺望に恵まれた根岸湾は英語でミシシッピ・ベイと名づけられ、そのほとりの緑豊かな一帯は絶好の息抜きの場であった。

§

7月、クーン夫妻は生まれてまだ半年もたたない愛くるしい娘とともにこの別荘を訪れ、そこにボイス氏を招いた。

義理の兄弟とともに和やかな時を過ごすはずだったが、クーン氏は何やら穏やかならぬものを感じた。

妻のソフィーとボイス氏の間に必要以上の親密さが漂っているように思われたのである。

確たる証拠はないものの、クーン氏はボイス氏に帰宅を促し、もう来ないでほしいと伝えた。

§

ボイス氏はバンドのクラブホテルに一人住まいをしている。

ある日曜日の朝、ダイニングルームで朝食を終えて部屋に戻ろうとするとそこにクーン氏の姿があった。

そしていきなり「うちに来るとはどういうことだ!?」と彼に詰め寄ったのである。

「プライベートな話なら部屋で」ボイス氏はそう言って場を移した。

§

「うちに来るなといったはずなのに、なぜ来た」

「君の奥さんに招かれたからさ」

クーン氏はボイス氏のあしに飛びつき、転倒したところにのしかかる。

助けを呼ぶボイス氏。

廊下を通りかかったホテルの支配人が慌てて止めに入ると、クーン氏は憎い相手に拳固を2,3発お見舞いして去っていった。

§

8月、クーン夫妻は日光金谷ホテルを訪れた。

風光明媚な避暑地で家族水入らずの時を過ごすはずであったが、そこでもまたクーン氏は不穏な気配を感じる。

ボイス氏が金谷ホテルに滞在していて、しかも割り当てられた部屋を変更してクーン夫妻に近い部屋に移って来たというのである。

怒り心頭に発したクーン氏は、ホテルの部屋にボイス氏を訪ね、殴り合いになった。

§

この間、クーン夫妻の間にどのようなやり取りがあったのか。

夫は妻を問いただしたのか、ならば妻は不義を認めたのか、それとも潔白を主張したのか。

それは当時の新聞からは読み取れないのでここでお伝えすることはできない。

しかし次に起こった大スキャンダルには、英字新聞ばかりか日本語新聞さえも紙面を割くことになった。

§

10月12日午前8時過ぎ、クーン氏はサミュエル&サミュエル商会にボイス氏を訪ねる。

コートを羽織っていたが、それは肌寒さを避けるためだったのかは定かでない。

その下に1本の木の棒をしのばせていたのだから。

§

ボイス氏は執務中だったが、やむを得ず訪問者を自分のオフィスに招き入れた。

するとクーン氏はポケットから手紙を取り出した。

「これに見覚えはあるか?」

「返せ、泥棒野郎!」

ボイス氏は手紙を奪おうと相手の右手にとびついた。

§

それはクーン氏が昨夜、妻のたんすの引き出しに見つけたものであった。

そこにあった手紙のどの文面にも熱烈な愛情があふれていた。

例えば…

§

私のかわいい人

たった今、あなたの手紙を受け取りました。

それは私の心の琴線に触れるものでした。

というのも、あなたから連絡がないとき、いつも何かわけがあるのではないかと不安でたまらないものですから。

もし、あなたが外出することを彼に気づかれれば、あなたを監視するに違いありません。

私はそのような事態をつよく恐れています。

だからあなたがそこにいなくても、理由はわかっています。

でもできることならあなたに会いたい。

それが私には必要なのです。

あなたの姿を時折でも見ることができなければ、私にとって人生は耐え難いものになってしまいます。

私の恋人、ああ、私はあなたを愛しています。

それが遅すぎたとは言わせませんよ。

明日、話し合いましょう。

かわいい愛しい人よ、キスを贈ります。

あなたのフレッドより

これは破り捨ててください。

横浜 1904年10月5日

 

別の手紙にも思いがあふれている…

 

私の最愛の人

今届いた走り書きで、あなたがこれなかったわけが分かりました。

もともと雨が降ったら約束できないとのことでしたから、希望を抱いてはいなかったのです。

でもやはり残念だった。

ただ一人でチョコレートを飲むしかありませんでした。

あなたは知らないかもしれないけれど、あなたがいるだけでどんな場所も完璧なものになるのです。

宮殿にいると思っていたのに、あなたが去ったとたんに俗っぽい避暑地の部屋にいることに気づいたとき、私はそのことを知り、胸をうたれました。

もうすぐあなたの誕生日です。

その日を思うと私の心は感じやすくなり、胸の鼓動は高まるばかりです。

あなたは私の女王であり、私の愛であり、私の人生です。

もしもあなたに会えない日があったら、私の代わりに赤ちゃんの唇にキスをしてほしいのです。

§

サミュエル&サミュエル商会の一室で起こった乱闘事件はクーン氏がボイス氏の顔面を棒で殴打し、被害者が左目を失明するという惨事に至った。

そして加害者はその罪を問われて今法廷に立っているのである。

調書によると被告は棒を持参した理由について質問されて次のように答えている。

「もしボイスに暴力を振るわれたら殴ろうと思って持っていきました」

§

ボイス氏の事務所で彼に罵倒されたのですか。

「彼は怒り狂って私のことを『ユダヤ人め』とか、馬鹿野郎とかなんとか言いました」

§

ボイス氏は被告人を罵倒したことはないし、手紙をみようとしたらいきなり被告人に襲われたと言っています。

「いいえ、私は罵倒されたから殴りかかったのです」

§

12月14日、横浜地方裁判所において判決が下された。

「被告人サミュエル・H・クーンを15か月の禁固刑に処す」

§

当時の新聞を追うと、クーン氏は判決を不服として控訴したとあるが、これが認められたかまでは残念ながら記録が見つからない。

§

翌年夫妻は離婚し、クーン氏は店をたたんで横浜を去った。

米国を経由してカナダに向かい1910年に再婚。

その後、家族で英国に移住して二人の子供に恵まれた。

上海に移り住んだこともあるようだが、日本を訪れたという記録はなく、没年は不明である。

 

図版:(トップより)
・クーン商会手彩色絵葉書(筆者蔵)
・クーン&コモル商会手彩色絵葉書(筆者蔵)
・クーン&コモル商会店舗内風景写真(筆者蔵)
*横浜のクーン&コモル商会は、クーン商会で一時働いていたアーサー・クーンとジーグフリード・コモルがバンドで営んでいた骨とう品店。クーン商会の写真が入手できなかったため参考までに掲載した。

参考資料
The Japan Gazette, Dec. 2, 7, 14, 1904
The Japan Weekly Mail, Dec. 3, 1904
The Japan Weekly Mail, March 23, 1905
The London and China Telegraph, June 19, 1905
・『横濱貿易新報』明治33年10月12日、同14日、11月18日、12月1日、同4日
・『時事新報』明治33年10月13日、同14日、11月18日
・Samuel Henry Kuhn及びMontague Montague Moritz Kuhn経歴(https://www.ancestry.com.au)

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■花は手向けずとも―37年間墓地の会計係を務めたジレット氏の葬儀

2022-12-25 | ある日、ブラフで

バルジライ・ジレット氏はイングランド出身の英国人である。

1877年頃に来日し、当時横浜のバンド(山下町)3番地にあったウィルキン&ロビソン商会に職を得た。

その4年後、45歳の時に独立し、バンド24番地Bを自宅兼事務所として船具やペンキを扱う個人経営の商社を開いた。

§

来日するまでの経歴については、ロンドン近郊のべサル・グリーンにあるセントアンドリューズ・ナショナルスクールで学んだということぐらいしか知られていない。

控えめな性格であったが、天気の良い日は、自宅の前を通りかかる人に明るい声で朝の挨拶をすることを習慣としていた。

§

独立したのと同じ1881年からジレット氏はある地域貢献活動を始める。

居留地民の間で「ゼネラル・セメタリー」と呼ばれていた横浜外国人墓地の管理委員会メンバーに加わったのである。

 

§

 

その頃、外国人墓地は居留民から選ばれた管理委員会によって運営されていた。

ジレット氏はその委員会の会計係として、新規の埋葬による収入、墓地の維持運営に必要となる支出、埋葬収入が途絶えたときのための積み立て基金など一切を管理し、年次総会で報告を行った。

§

1903年3月に開催された年次総会でも例年通りジレット氏が会計を報告し、それが承認され、次年度の委員が選出された。

通常はこれで閉幕となるが、今回はその前に参加者のひとりであるジェームズ・ウォルター氏からある提案がなされた。

四半世紀近く会計係を務めてくれているジレット氏に対する居留地コミュニティからの感謝の気持ちを表すため、記念のプレートを贈ろうというのである。

§

即座にベラミー・ブラウン氏が賛成した。

自分は、世界で一番美しい墓地はバミューダにあり、それに次ぐのが香港のハッピーバレー、そして3番目に美しいのがこの横浜の墓地だと思っている。

その墓地を大切に管理してくれているジレット氏にとても感謝していると。

§

早速、準備委員としてウォルター、ブラウン両氏に加えて、ジェームズ・ペンダー・モリソンの3氏が任命された。

§

感謝状贈呈式が行われたのはその年の12月9日水曜日。大勢の紳士淑女が見守るなかメソニック・ルームにおいて行われた。

§

当初、提案されていた記念プレートではなく、感謝状が用意された理由は、ジレット氏本人が高価な贈り物を辞退したからである。

そのようなものをいただいても、私には家宝として残してやるような家族はおりません。

もし地域の友人たちの名前が記された感謝状をいただけるなら、それはどんなプレートをいただくことよりもずっとずっとありがたく思うでしょう、ということばを準備委員たちは素直に受け入れた。

§

感謝状を読み上げる役目を引き受けたのはモリソン氏である。

§

本日、喜ばしくも皆さまのご承認を得まして、かくも意義深く、記憶に残るであろう機会にごあいさつをさせていただく栄誉に与ったことを、どれほどありがたく思っているかは申しあげるまでもありません。

私たちは、ジレット氏が自らに課した神聖な義務として、長きにわたりコミュニティの死者に奉仕してきたことを、敬意と愛情をこめて尊重しています。

この感謝状はその意を示すためのものであり、居留民256名が署名いたしました。

§

ジレット氏がどれほど熱心に、誠実に、自らの義務を果たしておられるかを、私以上に知る者はいないでしょう。

署名者を代表するとともに、私個人の感謝の意を込めてこの感謝状を捧げます。

§

以上、つたなく、言葉足らずのところはお許しをいただいて、これから感謝状を読み上げさせていただきます。

§

バルジライ・ジレット様

あなたは、四半世紀以上にわたってゼネラル・セメタリーの管理人としてコミュニティに貢献されました。

ここに名を記した横浜の住民は、あなたの私心のない、地道な、たゆまぬ奉仕活動に対して、心から感謝の意を表します。

§

あなたは長年にわたり、崇高な使命感と真心からのやさしさをもって、墓地の管理に多くの時間と思いを費やしてこられました。

私たちはそのことに心からの賞賛を捧げたいと思います。

あなたは混乱のなかに秩序をもたらしました。

すなわち、かつて荒れ果てたままにされていた場所を、この世を去った私たちの大切な人々が安らぐにふさわしい「眠りの園」へと変えたのです。

§

あなたのすべての行いが、仲間を愛するという最高の美徳によってもたらされたものであり、評価や見返りを期待したものでなかったことは確かです。

しかしながら私たち住民が、あなたに対し、決して報いることのできない恩義を負っていることは否めません。

§

私たちにできることは、あなたがこれまでも、そして今もなさってくれていることに対し、感謝の意を表し、あなたが私たちのうちに育んでくれた愛の記憶が、いつも私たちの心の中にあり、あたかも長年にわたってあなたの愛情を受けてきた緑の芝生のように、初々しく香り高いものとして、後世に受け継がれることを保証することのみです。

§

ジレット氏は強く心を動かされたようすだった。

そして次のように感謝の言葉を述べた。

§

ここにおられる紳士淑女、そしてこの感謝状を用意してくださった委員会の方々、私は皆さまにどのようにして感謝の気持ちを表せばよいのでしょう。

§

一人の人間が他者に表現しうる限りの熱意と愛情をこめて感謝の意を表せば、皆さまはそれがきっと私の心からのものであると信じてくださるでしょうが、わが友人たちよ、私にはどんな言葉を用いればよいのかわかりません。

§

皆さまとともに歩んできた長い年月の間に、いく人もが墓地へと身を移しました。

そして幾度となく私は目にしてきました。

あのひと、またこのひとが、自らの愛する者をそこに横たえ、見守り、花に水遣りをしているところを。

§

墓地に心を寄せて、いく人の尊敬すべき友人らが世を去り、そこに身を横たえているかを考えてみてください。

彼らの最後の憩いの場が適切に管理されているのを目の当たりにしたとき、喜びと満足を感じると思われないでしょうか。

横浜のような狭い地域では、このような仕事は一人の人間の義務以上のものではありません。

§

私が墓地のためにしてきたことは、愛の労働です。

見返りを期待したことなど一瞬たりともありませんでした。

数年前そのようなご提案がありましたが私は即座にとんでもないこととお断りしました。

ところがしばらくたつと、再び話が持ち上がり、銀製のプレートをというご提案がありました。

しかしながら私はむしろ感謝状をと申し上げました。

まさに今、私がいただいたようなものを。

いえ、これはそれ以上に素晴らしいものです。

§

私は、心の奥底から湧き出たものに従って奉仕してきました。

改めてこの感謝状に心からお礼を申し上げます。

年を取って、イギリスであれ日本であれ、一人きりでぽつんと部屋の中に座り込んで、私はきっとこの感謝状を手にとって、過ぎ去りし日々に思いを馳せるでしょう。

そこに記された愛情に満ちたことばと、名前をたどりながら「これはあの人だ、私の知っている人だ」とつぶやくでしょう。

それは私を良い気分にしてくれるはずです。

そう思われませんか。

§

横浜の人々は私にとってとても大切な友人です。

私はどこにいても、皆さまとともにあった日々を思い出し、墓地に携わることで、皆さまに少しでも貢献し、喜んでいただけたことに心から感謝するにちがいありません。

§

親愛なる友人たち、とりわけ若い方々にお願いがあります。

あなた方がこの墓地を通りかかるとき、そのとき私はすでにこの地を、あるいはこの世を去っているかもしれない、この場所で永遠の眠りについているかもしれない。

それでも、その昔、ある老人が長年この墓地のために働いたおかげで今の姿があるのだなあと思い巡らせてほしいのです。

あの爺さんでも、老いぼれおやじでも、何と呼んでいただいても結構ですが、その老人がB・ジレットという名前であったことを覚えておいてほしいのです。

§

この感謝状は私にとって貴重な財産です。

見るたびに喜びに満たされ、年老いたのちも心の慰めとなることでしょう。

§

皆さまに神の祝福がありますように。

皆さまの家庭、仕事、そしてすべてが祝福されることこそ私のただ一つの願いです。

§

ジレット氏は拍手のうちに言葉を終えた。

 

§

その後、モリソン氏はジレット氏から度々こう聞かされたという。

あの感謝状は自分の持ち物の中で最も大切なものですと。

§

ジレット氏はその後も墓地の会計を担当し、それは死の前年まで37年間にわたって続く。

1917年に管理委員会を辞したのちは、モリソン氏が役目を引き継いだ。

§

退任翌年の10月8日、道を歩いていたジレット氏は車をよけようとして転倒。

腰をしたたかに打ち、ゼネラル・ホスピタルに入院した。

その2年前にも居留地内で自動車事故に遭ったが幸いすぐに回復し、今回もまた順調に快方に向かっていた。

§

10月27日の朝、ジレット氏は看護婦やほかの患者たちと元気そうに話をしていた。

異変が起こったのはその後である。

昼食の最中に突然、椅子の背にもたれかかりそのまま息を引き取った。

82歳。

死因は心疾患だった。

§

 

葬儀は翌日行われた。

クライストチャーチで祈りをささげた後、参列者たちは墓地へと向かい、モリソン氏がそこで短い別れの挨拶を述べた。

故人の遺志により、花は手向けられなかったという。

ただ、今に残るその墓石には、‟BARZILLAI GILLETT”と刻まれた墓碑銘の上に、ごく小さな花環のレリーフがひとつ飾られている。

 

筆者注:感謝状は“for a period of over a quarter of a century(四半世紀以上にわたり)”としているが、実際には1881年から1903年までなので四半世紀には満たない。

 

図版(上から)
・外国人墓地内のジレット氏の墓(筆者撮影)
・横浜外国人墓地(撮影年不明)(筆者蔵)
・横浜外国人墓地手彩色絵葉書(筆者蔵)
・ウィルキン&ロビソン商会に勤務していた頃のジレット氏を描いたイラスト(Charles Wirgman, The Japan Punch, November, 1879)

参考資料
The Japan Weekly Mail, April 4, 1903
The Japan Weekly Mail, Dec. 12, 1903
The Japan Gazette, Oct. 28, 1903
The Japan Gazette, Oct. 29 1903
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)

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■横浜で教育活動50年―サンモール記念祭

2022-11-23 | ある日、ブラフで

港の見える丘公園の展望台に立つと、群青色の海の向こうの観覧車に赤レンガ倉庫、そしてすぐ足元の山下ふ頭に停泊する観光船まで、横浜の港の景色が一望できる。

横浜きっての観光スポットであるこの公園から東に広がる山手地区は、瀟洒な邸宅や低層の集合住宅が並ぶ閑静な住宅地でありながら、その合間に外国人墓地や古い教会の点在する観光地でもある。

そしてこのあたりはまた、ミッション系の学校が集まる文教のまちとしても知られている。

§

共立学園、フェリス女学院、雙葉学園は女子校、サンモール学園は、肌の色も髪の毛の色もさまざまな子供たちが共に学ぶインターナショナル・スクールである。

先の2校はプロテスタント系のミッションにより、雙葉とサンモールはフランス発祥のカトリック・サンモール修道会によって設立された。

§

サンモール修道会の日本における活動の歴史は古く1872(明治5)年にさかのぼる。

次に紹介する1922(大正11)年5月11日発行の英字新聞ジャパン・アドバタイザー紙の記事はサンモール修道会による学校設立50周年記念祭の模様を伝えている。

文中の「紅蘭女学校」というのがすなわち現在の雙葉学園、「外国人学校」がサンモール学園を指している。

§

サンモール修道院、半世紀に及ぶ横浜での教育活動を記念して

本日午前より祝賀会を開催

現在生徒数800名の学校も始めはごく小規模

50年前の6月、サンモール修道会のメール・マチルドと同会の4人の修道女が横浜に設立したサンモール修道院は、今週、教員、学生、OBらがともに創立50周年を祝う。

修道院が設立されたのは5月ではなく6月であったが、現在の修道院長であるルース修道女が休暇のため2週間後にフランスに帰国する予定であることから、前倒しで祝賀会を行うこととなった。

§

正式な記念行事は本日8時30分から礼拝堂で行われ、東京大司教であるレイ師が数人の聖職者の補佐のもと、ミサを執り行う。

ミサ終了後、参加者は大集会室に移動し、記念行事が行われる。

シンガポールから届いたサンモール修道会総長マーガレット・メアリー修道女の手紙を、ルース修道女が日仏両言語にて朗読する。

総長は最近、先般この施設を訪れたことから、そこで行われている活動について熟知している。

また約300名のOBが出席すると見込まれており、彼女らには記念品が贈呈される予定である。

その後、午後2時からは、日本人生徒たちが太閤秀吉の時代の日本の生活を描いたいくつかの劇を上演する予定。

一連の祝賀行事はレイ大司教による祝福の秘跡を以って終了する。

§

今週土曜日にレセプション開催

午後2時より始まるレセプションは外国人生徒OBとその友人らのために行われる。

英語とフランス語の劇が上演されるほか、ピアノとヴァイオリンによる演奏も予定されている。

このプログラムは日曜日の午後2時より高等部である紅蘭女学校の日本人生徒とその友人らのために再演される予定。

§

土曜午後の催しには、ローマ教皇庁駐日外交使節代表のジャルディーニ師、フランス大使ポール・クローデル氏、同夫人、在横浜フランス領事P・デジャルダン氏、同夫人が出席する。

§

サンモール修道会は、横浜において日本人および外国人を対象とした教育及び社会福祉活動に従事してきた。

これは日本における外国人による教育活動の歴史の中で最も注目すべき、自己犠牲的な取り組みの一つである。

横浜が半世紀の進歩の結果である現在の近代都市からかけ離れた姿であった50年前の頃、この地を訪れたマチルド修道女は、「奉仕」という言葉を胸に抱きつつ4人の仲間に助けられながら活動を開始した。

その働きは今や現代日本の教育の道しるべとして輝きを放っている。

当初、サンモールは、現在のセントジョセフ・カレッジ近くの二軒の家屋を拠点として設立された。

§

設立当初は孤児たちのための学校

この修道女らは、主に日本人の孤児を対象とした活動を意図しており、これは横浜とその近郊ですぐに評判となってまたたく間に400人の孤児が入所した。

修道女らは、外国人居住者の子供たち数名についても指導を行った。

学校は約1年半の間、これら二つの小さな家にとどまったが、すぐに手狭になり、現在のブラフ83番地に移転した。

現在の校舎は6棟から成るが、業務が急増していることから、効率的に運営するためにより多くの建物が必要となっている。

§

1876年、フランシス・グザヴィエ修道女がマチルド修道女と4人の仲間に加わり、以来、現在に至るまでサンモールにおいて教鞭をとっている。

当時の小さな組織のメンバーで、現在もこの施設に関わっているのは彼女だけである。

§

マチルド修道女は1911年、97歳で亡くなったが、その才能と能力は最後まで衰えることがなかった。

§

50年前、未だ小さな組織でありながら大きな志を抱いていた時代から教職員の数も増え、現在は教員17名のほか11名の日本人修道女が従事している。

また聖職者以外の男女職員も数名雇用されている。

サンモールの最初の生徒の一人であるメアリー・ホワイト嬢やアンナ・ウードゥア嬢もスタッフの一員である。

現在、修道院長を務めるルイーズ修道女は7年前に来日し、2年前にサンモールの教員となったが、それ以前は東京のサンモール修道院に関わっていた。

§

在校生800名

現在、サンモールでは800名の生徒が学んでおり、その内訳は外国人150名、日本人孤児140名、初等及び中等部の日本人生徒450名となっている。

サンモールの教育活動は、外国人学校、初等・中等教育、孤児指導の3つに分かれている。

§

日本人孤児たちのための活動は、常に修道院の事業の中で最も重要な位置を占めている。

孤児たちは実用的な教科を学んでおり、放課後は特に裁縫に重点を置いた指導が行われている。

修道院での訓練が孤児たちの自立を可能にし、その価値は数百名の孤児らによって証明されている。

§

高等部である紅蘭女学校においては、毎日3時間、英語とフランス語の特別授業が行われている。

このクラスは日本人生徒の間で人気があるため、スペース確保が修道会にとっての喫緊の課題となっており、新校舎建設が急務とのことである。

§

サンモール修道会の修道院は、横浜のほか東京・静岡と国内二か所にある。

静岡の修道院ではフェルナンド修道女が院長を務めている。

サンモール修道会はヨーロッパにおいて最も活発に教育活動を行っている修道会のひとつである。

本部はパリ市ラベ・グレゴワール通8番地。

 

筆者注記
「当初、サンモールは、現在のセントジョセフ・カレッジ近くの二軒の家屋を拠点として設立された」という記述について。
当時セントジョセフ・カレッジは山手85番地にあったが、別資料(斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』81ページ)は「(来日当初、マチルドらは)ノールトフーク=へフトから山手五十八番地にあった小さな家を借り」としている。
そのほかにも検証が求められる箇所(「またたく間に400人の孤児が入所した」など)が見られるが、ここでは原文に従った。

図版:トップから
・サンモール学院庭園の一部(写真絵葉書、筆者蔵)
・サンモールの外国人生徒たち(The Japan Advertiser, May 11, 1922より)
・裁縫の実習を行う日本人孤児たち(The Japan Advertiser, May 11, 1922より)
・紅蘭女学校の生徒たち(The Japan Advertiser, May 11, 1922より)

参考資料:
The Japan Advertiser, May 11, 1922
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)

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■「第一等の金製賞牌を得たるは・・・」ヴィクトリア・パブリックスクール1889年夏の表彰式

2022-10-30 | ある日、ブラフで

1887年10月、ブラフ(山手町)179番地にひとつの男子校が誕生した。

横浜居留地とその近隣に住む英国人たちを長年にわたって悩ませてきた子弟の教育問題の解決策として設立されたこの学校は、彼らの故国の君主の名を冠してヴィクトリア・パブリックスクールと名づけられた。

§

初代校長として迎えられたのはチャールズ・ヒントン氏。

オックスフォード大学出身の高名な英国人数学者である。

この校長のもと、助教のスイス人ファーデル氏のほかにヒントン夫人までが協力して、英文法や英作文、数学、地理、歴史をはじめ、ラテン語、フランス語のほか簿記などの実用的な科目にいたるまで、本国に遜色のない教育を生徒らに提供した。

§

当然のことながらこれらの授業は英語で行われた。

とはいえ生徒名簿をのぞくとスミスやアンダーソンといった英国系の名前だけではなく、ドイツ系、フランス系のほか中国・韓国など英語を母国語としない国の出身者と思しき苗字が見られる。

そしてそのなかには日本人の名もいくつか混じっていた。

§

開校の翌年1888年、ひとりの日本人少年が入学してきた。

この新入生、冬学期の英語日本語試験の合計で最高点を獲得して表彰される。

さらに1889年7月2日に行われた夏学期の終業式では、欧米人の級友らを抑えて堂々と首席をとり、またしても表彰されたのである。

§

ヴィクトリア・パブリックスクールの行事は地元の英文紙で報じられるのが常であるが、このときは日本の新聞も誇らしげに次のような記事を掲載した。

§

(前略)およそ午後五時ごろなりけん、英公使フレーザー氏臨席有りて式檀中央の椅子へつき、第一に同校評議員の一人ウォルター氏の演辞、次に校長ヒントン氏学生の現状及びこれに対する希望を述べ、公使を初め衆客来場の好意を謝せり。

終わりて褒章授与に掛り、一々フレーザー氏より賞品を授与したる生徒の数は都合十六人にして、第一等の金製賞牌を得たるは田中銀之助氏、第二等の銀製賞牌を得しは米人ルーミス氏、(以下略)

(筆者が原本の旧字を改め、句読点を補った)

§

田中銀之助は、幕末から明治にかけて生糸や洋銀の相場で財を成し、「天下の糸平」と呼ばれた田中平八の孫にあたる。

学習院と共立学校で教育を受けた後、15歳のときに英国留学準備のためにヴィクトリア・パブリックスクールに入学した。

§

首席の栄誉に輝いた少年は、この時短いスピーチを行った。

英字新聞がその内容を伝えている。

§

校長先生からこの機会に何か話をするようにといわれました。

英語をうまくはなすことができないので最初はお断りしたのですが、お言葉に従うことにしました。

もちろん、それほど時間を取らないつもりですので、お耳を貸していただければ幸いです。

僕のつたない英語と発音の悪さをご容赦くださるようお願いしておきます。

§

今日はヴィクトリア・パブリックスクールの表彰式です。

僕たちの日々の努力の結果が発表されて、それが報いられるということです。

それは僕たちにとって良いことのはずですが、表彰されない生徒にとってはおそらくそれほど良い日とはいえないでしょう。

とはいえ多くの生徒が無事試験に合格するでしょうから、その喜びが不幸をカバーしてくれるでしょう。

その意味では僕たち全員が幸福を感じるはずです。

§

表彰されることは、束の間の喜びとか、ちょっとした名誉というだけではありません。

僕たちの将来の地歩に大きく影響します。

なぜなら僕たち若者は将来の繁栄の基礎を築いているため、そのことは大人になってからの成功に密接に結びついています。

§

そして僕たちは若いうちの時間のほとんどを学校で過ごしているのですから、学校は僕たちの運命を作っているともいえるでしょう。

すべての試験は、僕たちを大望の実現に近付いていくためのステップということになります。

§

今日表彰された皆さんに心からお祝い申し上げます。

なぜなら皆さんは期待の実現に向けて立派に一歩前進されたのですから。

この幸福は何によってもたらされたのでしょうか?

もちろん、皆さんの日々の勤勉さと才能によるところが大きいと思いますが、一方で先生の努力のたまものともいえるでしょう。

§

種が良いものであっても、良い庭師にきちんと世話をしてもらわないと素晴らしい実を結ぶことはできません。

学校の生徒もまた同じです。

英雄になる資質を持った生徒たちも、良い指導者を見出せず、適切な教育を受けることができなければ、彼らの未来は台無しになってしまいます。

§

幸いなことに、僕たちの学校はその点では何らの不足もありません。

先生は僕たちの幸福に細心の注意を払ってくださっているので、僕たちが成功しなかった場合、それは完全に僕たち自身の責任ということになります。

僕たちの将来を素晴らしいものにする責任は僕たちにこそあるのです。

だから僕たちはこのことを胸に刻んで力いっぱい学業に励みます。

§

銀之助がスピーチを終えると会場は拍手に包まれた。

§

翌年、彼はヴィクトリア・パブリックスクールを去り、渡英して名門パブリックスクールであるリーズ校に入学する。

1893年にはケンブリッジ大学に入学。

法学と経済学を修め、1897年に日本に帰国する。

その後、田中銀行に入社。

銀行のほか北海道炭鉱汽船、田中礦業の経営に辣腕をふるうこととなる。

§

1899年、銀之助は土方久元伯爵の孫娘・綾子を妻に迎える。

その頃、ヴィクトリア・パブリックスクールで彼と机を並べた英国人の学友エドワード・クラークは慶應義塾の英語教師となっていた。

彼もまたヴィクトリア・パブリックスクール卒業後ケンブリッジ大学で学んだ秀才で、英国で学業を修めたのち日本に戻ってきていたのである。

§

エドワードは教え子である慶應の学生たちに自分が大学で親しんだスポーツであるラグビーを伝えた。

そしてチームを養成するにあたり、同じく英国でラグビーをプレイしていた旧友・銀之助に手助けを求めたのである。

§

後年、田中銀之助とE. B. クラークの名は「日本ラグビーの父」として日本ラグビー史に記録されることとなる。

二人が初めて出会い、友情を育んだ場がヴィクトリア・パブリックスクールという横浜の学校であることも知られているが、そこで銀之助がみごと首席として表彰されたことがあったという小さなエピソードをひとつ付け加えておきたい。

 

図版(上から)
・田中銀之助肖像写真(Wikipediaより転載)
・創部期の慶應ラグビーチーム写真、中央左クラーク、右が田中銀之助(池口康雄『近代ラグビー百年』(1961年、ベースボールマガジン社)所収)

参考資料
・池口康雄『近代ラグビー百年』(1961年、ベースボールマガジン社)
・『大日本人物名鑑』(大正十年、ルーブル舎出版部)
・『横濱毎日新聞』(1889年7月4日)
The Japan Weekly Mail, Dec., 22, 1888.
The Japan Weekly Mail, July, 6, 1889.
The Japan Weekly Mail, Jan., 28, 1899.
The Book of Matriculations and Degrees University of Cambridge 1851―1900
Alumni Cantabrigienses
Transactions and Proceedings of the Japan Society, London, 1893

 

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■ベーマー商会創立25周年記念祝賀会

2022-09-28 | ある日、ブラフで

1882年、横浜のブラフ(山手町)28番地で、ルイス・ベーマー氏というひとりのドイツ系アメリカ人が園芸関係の商売を始めた。

百合の輸出などで利益を上げて順調に業績を伸ばし、やがて洒落た温室や倉庫を備えるまでになった。

1895年からはジャパン・ディレクトリーに「ルイス・ベーマー商会」という社名で記載されるようになる。

そして1907年、ベーマー商会はめでたく創立25周年を迎えた。

当時のドイツ語新聞に、同社が催した祝賀会の様子を伝える記事が掲載されているので以下に紹介したい。

(現代の読者のため筆者が適宜情報を補いました。また写真・葉書等の画像とその説明は筆者が加えたものです)

§

1907年7月24日(水)、横浜でその名を知られるルイス・ベーマー商会の創立25周年記念祝賀会が催された。

社主であるアルフレート・ウンガー氏は、極東の地における長きにわたる成功を象徴するこの行事に、日本の取引先約200社を招待したため、正午にはこのブラフ(山手町)にしつらえられたガーデンパーティー会場は帝国各地の園芸農家の人々や中間業者であふれかえっていた。

国旗はためく会場を訪れた大勢の客たちは、華やかに飾りつけられた大広間に迎えられる。

そこには長テーブルが用意されていた。

§

アルフレート・ウンガー氏

 

出席者が並んで集合写真を撮影した後、ウンガー氏の挨拶で祝賀会の幕が開くと、続いてルイス・ベーマー商会の25年にわたる歴史が詳細に紹介された。

ニューヨークのヘンリー&リー社のフルトン氏から寄せられた祝辞が日本語で披露された。

それは出席した園芸農家の人々に対してビジネス拡大のための貴重なヒントを与えるものであった。

§

その後、夕食会でふるまわれたのは日本料理である。

出席者らが大量のごちそうと酒に果敢に挑みはじめるとたちまち座がほぐれた。

祝賀会は成功の裡に午後遅くようやくお開きとなった。

§

このドイツ企業の繁栄の足跡を物語るのは、社が発行してきたカタログである。

設立当時それはささやかな冊子にすぎなかったが、やがて美しい絵入りの分厚い本となった。

§

創業者のルイス・ベーマー氏は日本政府に雇われ、1872年3月に来日して主に北海道の開拓使の園芸顧問として10年にわたって奉職した。

その間にりんごやさくらんぼなど多くの果樹栽培を進めるなど多くの功績を残したことで知られている。

やがて開拓使が廃止されたため、1882年4月に横浜に移り、ここを拠点に園芸貿易業を始めた。

§

ベーマー商会広告

園芸家ルイス・ベーマー
横浜山手町28番地
外国種苗栽培
高級希少植物輸入
室内・屋外栽培対応
ブーケ、バスケット、リースをはじめとする芸術的フラワーデザイン
季節を問わず年中対応
園芸のことならなんでもお尋ねください
温室及び修景、芝生、果樹園、菜園
日本の植物、株、種等々の蒐集・輸出
輸出植物の名称は正確です
梱包には細心の注意を払っています
1883年1月 横浜

§

ベーマー氏のもとで仕入れ主任を担当したのが現在、横浜植木株式会社の社長を務める鈴木卯兵衛氏である。

§

やがて事業が拡大するとベーマー氏ひとりでは手が回らなくなり、1889年にドイツからウンガー氏が招聘されることとなった。

7月に来日して数ヵ月後にはウンガー氏は琉球列島に赴き、ソテツを大量に仕入れ、ドイツへと出荷した。

当時ドイツではソテツは墓を装飾する植物として好まれ、高値で取引されていたのである。

§

その後、鈴木卯兵衛氏は退職して独立し、鈴木正蔵氏が仕入主任の職を引き継いだ。

苗字は同じだが、二人には血縁関係はない。

§

1892年、ウンガー氏はベーマー氏のパートナーとなり、二人で社の経営を担うこととなる。

そしてその2年後、ベーマー氏が病を得て帰国すると、ウンガー氏はベーマー商会の単独オーナーとなった。

輸出は年々増加し、氏は何度も欧米に足を運び、ニューヨークのヘンリー&リー社を中心に新しい人脈を築いた。

§

その間に競争相手も増えたが、それはまたビジネスが拡大を続けていることを意味している。

そして今、新たな変革が求められている。

§

日本法人を設立してヘンリー&リー社がアメリカ市場を、ウンガー氏がヨーロッパ市場を担当することが計画されている。

来年2月までに新体制が始動し、さらに大きな進化を遂げることが期待される。

ベーマー商会の利益のみならず日本の園芸業界の発展のためにも、この協力体制が実を結び、創立50周年記念を盛大に祝う日が訪れることを願ってやまない。

 

ベーマー商会から英国の取引先宛の葉書

英国 ヨークシャー ヨーク
ブラックハウス&サンズ社御中

謹啓 この度、新カタログをお送りさせていただきます。
テッポウユリにつきましてはカタログ掲載価格の10%引きにてご提供いたします。
昨年のオークション価格が安値を付けたため、球根出品者が、今年再びロンドンのオークションに出品するとは思われません。
そのためご購入の際は直接ご注文いただくこととなります。
ご用命を心よりお待ちしております。敬具

1901年3月18日 横浜
ルイス・ベーマー商会

 

図版(上から)
・ベーマー商会から英国の取引先へのはがき・表書き(筆者蔵)
・ウンガー肖像写真 (クライナー・ヨーゼフ 田畑千秋『ドイツ人のみた明治の奄美』(おきなわ文庫、2019))
・ベーマー商会広告(The Japan Gazette Directory, 1893)
・ベーマー商会から英国の取引先へのはがき・通信面(筆者蔵)

参考資料
Deutsche Japan-Post, 17. Juli 1907
The Japan Gazette Directory, 1895
・上野昌美「ルイス・ベーマー書誌(『ベーマー会会報 第1号』2009年5月 所収)
・加我稔「開拓使お雇い外国人―ルイス・ベーマー略歴」(『ベーマー会会報 第1号』2009年5月 所収)
・アルフレート・ウンガー(上野訳)「日本 観察と回想」(『ベーマー会会報 第1号』2009年5月 所収)
・中尾眞弓「あるお雇い外国人・園芸家の足跡」(『横浜植物会年報』19~22・24・26、1990~93・95・97 年所収)
・クライナー・ヨーゼフ 田畑千秋『ドイツ人のみた明治の奄美』(おきなわ文庫、2019)
・平野正裕「港ヨコハマ百合ものがたり」(『季刊誌横浜 26号』2009所収)

 

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■女性のために働く女性たちー米紙が伝える婦人伝道師たちの活躍

2022-08-13 | ある日、ブラフで

このブログの舞台である山手地区は横浜の代表的な観光スポットの一つとして知られているが、同時に閑静な住宅地であり、学生たちがしげく通う文教地区という顔も持っている。

朝夕に目立つのは列をなす制服姿の少女たちで、彼女らはいずれも古い歴史を誇るキリスト教系女子校の生徒である。

§

3校あるなかの雙葉学園のみがカトリック系、残る2校はプロテスタント系のミッションによって設立された。

そのうちの1校、共立学園は米国一致婦人伝道協会(WUMS)から派遣されたプライン、クロスビー、ピアソンという3人の女性伝道師が1871年8月に山手48番地に開いたアメリカン・ミッション・ホーム(亜米利加婦人教授所)にその歴史をさかのぼる。

設立の翌年には現在地である山手町212番地に移転し、名も「共立女学校」と改めた。

§

はるか極東の地に住む異教徒の女性たちに福音をもたらすという尊い事業に乗り出した女性たちの姿は、アメリカの人々の目には英雄のように映ったであろう。

彼女らの活動ぶりに興味を抱き、できれば支援したいと願う人も多くいたに違いない。

§

次に紹介する記事は1906年1月4日付の米紙「ザ・ニューヨーク・オブザーバー」に掲載された共立女学校に関する記事である。

当時の総理(学校経営の責任者)であるジュリア・N. クロスビーの談話を中心としたもので、卒業生の集合写真と校舎の写真が添えられている。

紙面2ページにわたる比較的長い記事であるが、しばしお付き合いいただきたい。

§

半世紀近くにわたり、米国一致婦人外国伝道協会(WUMS)は、地球上の闇に閉ざされた地域に光と励ましを届ける天使たちを派遣してきた。

1860年に独身女性らを海外に派遣するために組織されたこのミッションは「ドリーマス・ソサエティ」の名で一世を風靡した。

創設者の娘であるS.D.ドリーマス嬢は『ザ・ミッショナリー・リンク』誌の通信担当者兼編集者としてアジアの労働者とアメリカの寛大な支援者の仲を取り持つ役割を果たしている。

国内外いずれにおいても尊ばれるべき団体である。

§

横浜のブラフ212番地に位置する拠点において、名誉ある管理者の任に当たるジュリア・N.クロスビー嬢に面会する栄誉に与った。

クロスビー嬢は、ニューヨーク大学のハワード・クロスビー博士の姪で、叔父の性格をよく受け継いでいる。

彼女のほかにメアリー・トレーシー嬢、クララ D. ルーミス嬢、ヘレン K. ストレイン嬢、S. A. プラット嬢、ジュリア E. ハンド嬢らが所属している。

トレイシー嬢は副校長にあたり、仕事の面ではファミリーの中で最も日が浅いメンバーの一人であるが、最初の数ヶ月で言葉も仕事もしっかりと身につけた。

ルーミス嬢は校長を務めており、重責ある職務を十分に全うしている。

彼女の父親H. ルーミス牧師は当紙の横濱特派員であり、30年以上にわたり日本に滞在している。

J・ウィルバー・チャプマン博士の義理の妹であるストレイン嬢は、組織が日本に派遣した最初の宣教師プリュイン夫人の孫娘である。

ストレイン嬢は現在アメリカで休暇を取っているが、組織の代弁者として活動している。

プラット嬢は聖書学校の校長を、ハンド嬢は日本人助手たちの責任者を務めている。

§

彼女らファミリーのホームでの生活は素晴らしいものである。

学校において見事な成果を収めており、伝道活動が最も重要な位置を占めている。

学校を訪問した際、新校舎の建設が急務となっていた。

要望は満たされ、クロスビー嬢はその年の報告書の中で、奉納の儀式の様子を記した。

§

その年の業績について、クロスビー嬢は次のように述べている。

§

春の卒業式は、例年になく興味深いものでした。

3名の生徒が卒業し、英文エッセイのうちの一つはびっくりするほど素晴らしいもので、本国の一流校卒業生に匹敵するほどでした。

その生徒は非常に優秀で、音楽も得意としており、現在はストレイン先生の音楽教師のアシスタントの一人として働いています。

他の生徒たちもそれぞれ活躍しています。

一人はわが校の教師であり、もう一人は日本の北部地域で女性宣教師のアシスタントとして、日曜学校と伝道活動に従事しています。

§

うれしいことに、第一期卒業生が再び私たちの元に戻ってきてくれました。

彼女は卒業後わが校で教鞭をとっていましたが、5、6年たったころ、ある県の知事が自分の二人の幼い娘の家庭教師をあっせんしてほしいと学校へ申し込んできました。

率直なクリスチャンらしい性格からサラキさん(皿城久子か)こそそのポジションにふさわしいと考えて、彼女に声をかけたところ喜んで引き受けてくれました。

少なくとも一つの闇に閉ざされた家庭の扉を開くことができると思われたのです。

その親子は彼女を信頼し、心からその働きに満足しました。

そして彼女は3年間毎日、小さな生徒たちに福音の真理を教える機会を得たのです。

私たちは、この良い種がやがて芽吹き、彼女らのこれからの人生に実を結ぶことを願わずにはいられません。

その頃、わが校には欠員がなかったので、彼女は大阪のミッションスクールに就職し、その後、キリスト教徒の弁護士と結婚しました。

今年の初めに彼は亡くなりましたが、幸いにも私たちは彼女に職を確保することができました。

彼女も同じように喜んでわが校に戻ってくれました。

§

10月、東京をはじめ日本各地で神の祝福のうちに働いている伝道師、木村氏が本校で一連の集会を開き、その結果は今後を大いに期待させるものでした。

数年前からクリスチャンであった生徒の多く(34名)が、より一層、心から主に身を委ねるように導かれ、18名が信仰告白と受洗の意向を示しました。

木村さんが「クリスチャンになりたい人は起立してください」と言うと、他の生徒たちも即座に立ち上がりました。

それは素晴らしい光景でした。

全員が真剣そのものでした。

この集会のみならずいずれの集会でも、なんら興奮することなく、説明の言葉とともに単純明快に真理が語られ、静かでありながら切実なアピールがなされました。

聖霊はそれらを出席者一人一人の心へと確かに届けたのです。

§

私たちは多くの祝福を受けてきましたが、とりわけ私たちの心を感謝と神への賛美に満たしてくれたのは、皆の祈りをかなえてくれた祝福でした。

新しい校舎がついに完成したのです!

前回の報告書では、今年中に建築のための資金を調達できるかもしれないという希望を述べましたが、戦争が勃発し、必要な資金の4分の1しか手元になかったため、遠からず希望を実現させることは無理だとあきらめていました。

それから1ヶ月も経たないうちに、すでに建築資金として多額の寄付をしてくれていたフィラデルフィアの親友から、4,500ドルの手形が届き、これによって、緊急課題であった新校舎建設のための資金が十分集まりました。

寮からより近い場所に学校を建設することが重要だったのです。

幸いにも、紹介された業者から、それまでよりも低い見積もり金額を提示されました。

同時期に聖書学校を再建すれば、手持ちの金額で新たに二つの校舎が建てられることがわかったのです。

そこで旧聖書学校の跡地には女子校を建てて、聖書朗読者のコテージにずっと近い、非常に望ましい場所に聖書学校を再建することができたのです。

§

5月3日に旧館を取り壊し、11月17日に新館が完成しました。

建物に置く家具は、建築業者の契約には無論のこと含まれていませんでしたが、最低限必要なものは、国内の友人たちからの寄付で賄われました。

暖房器具、黒板、机、本棚など、必要なものはまだありますが、これまでと同じように主が与えてくださると信じて、購入するお金ができるまで待たねばなりません。

§

本校の卒業生と、1882年に最初の卒業証書が授与される前にコースを終了した生徒らが一緒になって、「同窓会」または「わが窓の会」と呼ばれるものを組織しています。

日本人は皆、窓辺に据えた小さな机で勉強や書き物をすることからこの名前がつけられました。

日本各地に教師として、あるいは家庭に入って生活している会員たち、また現在の教師、生徒たちも、新校舎の建設に最大の関心を寄せており、その資力に応じて、金銭もしくは聖書台に置くための立派な日本語聖書など、600円(300ドル相当)近くを惜しみなく寄付してくれました。

この忠実な友人と娘たちは、新校舎に電気を導入するために、その寄付金の半分以上を寄付するという特権を主張しました。

つまり同窓会は、過去の年月に学校が彼女らにあたえた精神の光を、より一層輝く明かりとしてもたらす栄誉に浴すというわけです。

§

新校舎は、篤志家のドリーマス夫人にちなんで「ドリーマス・ホール」と名づけられました。

11月26日には献堂式が行われました。

彼女は天に召される数年前、日本でのミッション活動の創設に深い関心を抱いたのです。

この日は多くの友人が集まって私たちを祝ってくれました。

私たちは、教師も生徒も皆、この良い贈り物を神に心から感謝し、神の聖なる御名を称えるためにますます精進しなくてはならないと感じています。

友人の皆様、私たちとともにとどまり、私たちのために祈り、支えてください。

今まで以上に効率的に事業を進める準備が整ったにもかかわらず、資金不足で学校が失われるようなことになったら悲惨ですから。

§

このような高貴な女性たちの祈りは、彼女らが望んでいる以上に報いられるべきであろう。

海を隔てた姉妹たちのために、先駆者として横浜や他の東洋の他の地域で宣教活動に従事する人々は、最も寛大なる支援を受けるに値する。

 

図版(トップより)
・卒業生集合写真(The New York Observer, Jan. 4, 1906)
 ドリーマス・ホール献堂式の日に撮影されたと思われる
・校舎写真(The New York Observer, Jan. 4, 1906)
・ドリーマス・ホール写真(筆者蔵)
・ドリーマス・ホールと寮 写真絵葉書(筆者蔵)

参考資料
The New York Observer, Jan. 4, 1906
・横浜プロテスタント史研究会『横浜の女性宣教師たち』(有隣堂、2018)
・横浜共立学園ウェブサイト横浜共立学園中学校高等学校 (http://www.kjg.ed.jp)

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コメント

■地元紙が伝えるクイーンズ・ジュビリー in ヨコハマ(その3)

2022-07-23 | ある日、ブラフで

1887年6月21日に横浜で行われたヴィクトリア女王即位50年(クイーンズ・ジュビリー)祝賀行事の模様を伝える『ジャパン・ウィークリー・メイル』紙の記事の最終回である。

クライストチャーチでの礼拝から始まり、クリケット場での運動会と昼花火をはじめとする数々の余興そしてパブリックホールでのシェークスピア劇上演と華やかな行事が繰り広げられてきた喜びの日もついに日が暮れ、祝祭はいよいよクライマックスを迎える。

和訳及びカッコ書きの注は筆者による。

§

観客たちは劇場を出ると海軍補給所へと向かった。

このころには、西の端からブラフの一番高いところまで横浜全体がイルミネーションの輝きに包まれ、港の上空は軍艦から放たれた電光によって青白い輝きに満たされていた。

午後9時ごろには、海軍補給所が開放されることになっていたが、その時刻にはまだ人影まばらだった。

しかし、しばらくすると続々と人が集まってきた。

製氷所の向かいの橋から続く提灯の列が海軍補給所へと導かれていく。

その入り口は敷物で覆われていた。

§

建物の中の2つの広間が舞踏室になっている。

午後9時半頃からここでダンスが始まると、人々は何時間にもわたって嬉々として踊り続けた。

海に面した広々としたスペースはキャンバスで覆われていて、その上に旗がずらりと並び、豪華絢爛きわまる巨大なテントといった様相を呈していた。

§

日が落ちて間もなく、港に停泊している英国船、ヒロイン号、オーデイシャス号、リアンダー号、コンスタンス号は青い光で飾り立てられた。

リアンダー号が放つ強い光線が港いっぱいに流れて近隣の船のマストや帆桁や煙突を鮮やかに浮かびあがらせたかと思うと、またブラフのあたりをさまよい、クリーク(現在の堀川)にしつらえられた夕食用のパビリオンの内部まで照らし出す。

これは、この夜見られた装飾の中でも目を見張るほど見事に効果的なものであった。

§

ボートクラブの桟橋には、有名な花火師である平山氏が作業するためのスペースが確保されている。

さまざまな種類の花火が打ち上げられたが、主に人々の目に触れたのは、臼砲を竹の小枝にしっかり結びつけたものであった。

色とりどりの弾が空高く打ち上げられては炸裂するという光景が10時頃まで繰り広げられ、実に壮観であった。

弾が炸裂するたびに、リアンダー号から青白い光線が上に向かって放たれ、それが爆煙と、降り注ぐ火花を受けて、見事なそしてはかない美しさを見物客の目に焼き付けた。

時には電気光線が補給所の上の丘陵を照らしてブラフ特有の樹木や低木に超自然的な美をもたらし、幾重にも生い茂った木々の葉を青白い炎の集まりのように映し出したかと思うと、枝やまばらに生えた葉を、繊細で柔らかな透かし細工のように美しく浮き上がらせて見せた。

§

補給所から見ると、またとないほどの印象的な光景が広がっていた。

キャンプヒルは「英領インド皇帝」と書かれたランタン一色で飾られ、その光のきらめきは暗い高台の奥深い背景を照らし出している。

§

キャンプヒルの道路を縁取る光の線が、あまり優雅とはいえない大通りのあちらこちらさえも優美なものにかえてみせた。

その下には、製氷所の近くに架けられた小さな橋があり、その付近を大勢の群衆が押し合いへしあいしながら横切り、そこからバンドをめぐる美しい遊歩道の曲がり角に沿って長いランタンの列が続く。

P.&O.のオフィスなどあちこちにランプで飾られた丈の高い旗竿が建てられ、ランタンを掲げた家がほぼ途絶えることなく、切れ目なく続くイルミネーションの輝きにあたりの視界が遮られるほどであった。

§

様々な色や形の千を超える数のランプが飾られ、晩にはキョドダンズとテュレンヌの楽団が素晴らしい音楽を提供することになっていた海軍補給所に多くの観客が引き付けられたことは言うまでもない。

パブリックホールに集まった観客のうち少なからぬ人々が、古い作りのトルコ風呂のような熱気を嫌い、海辺にしつらえられた大きなパビリオン近辺の涼し気なところへと逃げだした。

§

ダンスは相変わらず続いていたが、劇場に行っていた観客が到着した12時ごろになるとほとんどの人々が夜食をとるためにパビリオンに集まった。

この夕食がまさに見ものであった。

テントが巨大であったため、委員会はそこに500人分の席を用意することができた。

12時を少し過ぎたころには、その人数が完全に席を確保したが、ほぼ同数の人々は立ったまま食事をした。

§

プランケット英国公使は、著名人と外交団のために特別に設けられたテーブルの席についていたが、今宵の乾杯の盃を「女王の健康」のために掲げようとを呼びかけつつ次のように語った。

§

ご列席の皆様、英国人が重要な公式行事に集い、君主のために祝杯を挙げるときのことばは、通常、"The Queen "という2つの単語に集約されます。

この二つの短い単語だけで、長きにわたり大英帝国を統治してきた偉大にして気宇壮大なる君主に対するすべての感情を鮮明に思い起こし、女王陛下に対する忠誠心と愛情が胸にこみあげてくるのです。

とはいいつつも女王陛下のジュビリーという偉大なイベントを祝うために特別に集まったこの機会に、二言三言、述べてさせていただいてもよいでしょう。

もちろん、そんなことをしなくても乾杯の栄誉に浴するにあたって私たちの胸はすでに熱い思いにあふれていますが。

§

王室のジュビリーが歴史上いかにまれであるか、また今回のような幸福な状況で祝賀をおこなうことがいかにまれであるか、改めてご説明する必要はないでしょう。

陛下が最初に即位されて以来、このような大きな変化を目の当たりにすることができた君主はいたでしょうか。

また、英国の歴史においてヴィクトリア女王陛下のように、臣民の愛と尊敬と愛情を保ちながら、これほど長い治世を生き抜いてきた君主がおられたでしょうか。

§

この50年間、多くの喜び、多くの不安、そしていくつかの悲しみがありました。

しかし、天気が曇りであれ晴れであれ、幸運に恵まれてようが不運に見舞われようが、政党間にいかなる論争が起こっても、いくつかの問題に関する議論がいかに険悪なまでに至っても、英国は、本国においても植民地おいても、一つの偉大な理想、一つの揺るぎない結束、すなわち私たち全員が尊敬する偉大なる女王陛下への忠誠と信頼を保ってきたのです。

私たちはその方をすべての英国的美徳の模範として、また英国の結束そのものとして尊んでいるのです。大喝采

§

また、陛下は英国民に限らず、民衆の心をつかんでいいます。

偉大な国家たるアメリカは、君主を戴くことを禁じていますが、女王の資質を賞賛することにおいて他に後れを取ってはいません。

そして、わが英国のいとこともいえる広大な共和国のどのような家庭にも、ヴィクトリア女王ほど高貴な女性のあるべき姿の模範となる者はいないのです。

§

さて、この食卓においても、また観劇の場においても、この思いやりにあふれた国の皇族の方々がご同席くださいました。

この地は、私たちを、そして諸外国の代表者たちや勇猛果敢なる提督、外国の戦艦の司令官らをその岸に喜んで迎え入れてくれました。

そしてそれらの軍艦は今日、わが英国艦隊とともに、わが女王に賛辞を贈るべく祝砲を響き渡らせてくれたのです。

§

また、ほとんどすべての国の友人たちも来てくださいました。

彼らが私たちの祝典に賛同してくださったことは、その趣旨に彼らが心から共感してくださっていることを明白に物語っています。

§

わが同胞の名において、友人の皆様に感謝し、ご協力をありがたく思い、心から満足していると申し上げます。

私たちは、いわば故郷を離れ遠い異国の地に住むほんの一握りの英国人でしかありませんが、私たちの君主の功績と、半世紀にわたり、陛下が素晴らしい態度をもって高貴な地位に伴う責務を遂行されてきたということを、誇りと感謝をもって証言します。

§

そして、女王陛下の繁栄と幸福、そしてその慈愛に満ちた治世が長く続くよう、心を一つにして深く祈ろうではありませんか。

この祈りは乾杯の言葉、私が光栄にも発声させていただくこの言葉、すべての大英帝国臣民の心を揺さぶってやまないこの言葉で表現されることでしょう。

すなわち、"The Queen”。大喝采鳴りやまず

§

公使の演説が終わると、楽団の演奏に合わせてテント内の大勢の人々と、外で行進していた数百人の船員たちが声を合わせて英国国歌を歌い、その歌声は何マイルにもわたって響き渡った。

§

1時に松明行列が居留地を行進することになっていた。

1時を数分すぎたころ、楽団が海軍補給所の構内から現れ、行列を先導した。

そして、少なくとも300人は下らない英国人群衆の一人一人に長い松明が手渡された。

とはいえ、海軍軍人の忠誠心にとってはこの数では不足していたようで、船員の何名かは2本、もしくは3本を手に取ろうとしていた。

§

行列は多くの歓声に包まれながら本村(現在の元町)を通り、前田橋を渡ってバンド(海岸通り)へと進んでいった。

クラブ広場には多くの紳士が集まっており、その頭上のベランダにはまた多くの淑女が集っていた。

彼らは楽団の演奏に合わせて松明行列の人々と心ひとつに国歌を歌いあげた。

§

英国領事館の向かい側では、行列が近づくと青色などの明かりが灯され、同様のセレモニーが行われた。

§

松明行列の人々はその後、楽団の演奏に導かれて、郵便局の向かいの旧県庁の敷地を1周してから南側の門から中に入った。

そこで全員が松明を放り投げると、あっという間に大きなかがり火となって燃え上がった。

一同は楽団の演奏に合わせて、「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」の一節を驚くほど威勢よく歌い上げた。

§

その後、船員たちは波止場へと行進し、3時頃には船に戻った。

コンスタンス号のガビンズ中尉とその部下たちが、この大軍を一人の脱落者もなく、完璧に秩序に則って引き上げたことは、祝賀会の特筆すべき点であったといえよう。

日本の警察は、泥酔や騒動が一件もなかったと証言している。

これは横浜住民のほとんどが認める事実であろう。

§

行列がかがり火の近くを離れた後、万一に備えて用意されていた消火器が作動し、朝のしんとした空気に向かって二筋の水流が放たれ、炎の上に降り注いだ。

それが横浜におけるクイーンズ・ジュビリーの最後の光景となった。

§

祝祭委員会、とりわけ不屈の精神の持ち主である委員長、J・F・ラウダー氏に心からの感謝の言葉を述べずにこの記事を終わらせては、当紙は皆の気持ちを代弁しなかったことになってしまう。

委員会諸氏は様々な情報にふりまわされることなく、着実に取り組み、困難や労苦、そしてあからさまな忘恩に見舞われてさえも、決して尊い責務を遮られるまいと決意していた。

その結果、このような見事な成果を得ることができたのである。

英国人コミュニティ全員から委員会に対して、またそのメンバー一人一人に対して、そして繰り返しになるがとりわけラウダー氏に対して、心からの謝意を表する。

このようなたゆまぬ、無私の、有能な管理者なくして、私たちの君主に対する尊敬と愛にふさわしいセレモニーに参加する幸運に恵まれることも、この居留地の栄えある出来事としてこれを記憶に残すともできなかったであろう。

 

図版:ヴィクトリア女王肖像画(ハインリヒ・フォン・アンゲリ、1885)
   この油彩画をグラビア印刷により複製したものが英国王室よりヴィクトリア・パブリックスクール(クイーンズ・ジュビリーを記念してブラフに設立された外国人居留民子弟のための学校)に下賜された。


参考文献:The Japan Weekly Mail, June 25, 1887.


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コメント

■地元紙が伝えるクイーンズ・ジュビリー in ヨコハマ(その2)

2022-06-22 | ある日、ブラフで

 

前回に続き、1887年6月21日に横浜で行われたヴィクトリア女王即位50年(クイーンズ・ジュビリー)祝賀行事の模様を伝える『ジャパン・ウィークリー・メイル』紙の記事を紹介する。

和訳及びカッコ書きの注は筆者による。

§

その日、港には国籍の異なる19隻の船が停泊していたが、正午を合図にそれらが一斉に礼砲を放った。

この海域ではかつて聞いたこともないほどのものである。

§

ロシアの軍艦は一隻のみであった。

ロシア軍の提督はヴィクトリア女王の帝国とロシア皇帝の間の友好関係を実際に証明すべく麾下の艦隊を参加させるべきところ、止む無く果たすことができず非常に遺憾であると東京の代表部を通して伝えてきたという。

§

その後1時間ばかりは気温がやや高かったものの、昼過ぎからはたいてい日に雲がかかって屋外でのスポーツにはもってこいの天候となり、心地よい風にも恵まれた。

クリケット場(現在の横浜公園)にはこれまでにないほど大勢の人が集まり、子供たちは元気いっぱい大いに楽しんでいた。

東京からも多くの人が訪れ、フランシス・プランケット卿(駐日英国公使)夫妻と令嬢の姿がスポーツの祭典に花を添えた。

§

プログラムは男子児童による競走、女子児童によるスキップ競走、船員による武器演習と綱引きである。

これらに並行して花火、ジャパニーズショー、アーント・サリー(パイプ落としゲーム)が繰り広げられた。

§

男子児童の競走は12歳以下による第一レースからスタートした。
1位 L. イートン(11歳)、2位 G.オールコック(10歳)、3位 A.ショウ(10歳)

第二レース(12〜14歳男子).
1位 G.ブレイクウェイ(13歳)、2位 G.フード(13歳)、3位 A.ワッツ(14歳).

第三レース 二人三脚走(軍艦乗組員)
1位 軍艦エセックス(フォール、シンネ)、2位 軍艦オーダシアス(プライマー、ニール)

第四レース(7歳以下男子)
1位 J.イートン、2位 W.ヴィンセント

第五レース スキップ競走(13歳以下女子)
1位 N. スミス、2位 N. タウンリー、3位 M. ワトソン

§

第六レース 綱引き(入港中の軍艦乗組員)

綱引戦では、英国優勝チームと米国優勝チーム、そして全体優勝チームに賞が与えられることになっていた。

最初の試合、ブルックリン号対エセックス号戦では後者が引き抜かれ、続くブルックリン号対オマハ号戦でも提督の船員らが再び勝利を手にして、米国艦戦で優勝し、最終戦に残ることとなった。

§

英国艦隊からは、リアンダー号チームがオーデイシャス号チームと対戦して旗艦の船乗りたちが勝利し、次にコンスタンス号チームと対戦して後者が敗北したためオーデイシャス号乗組員らが英国側の優勝者となり、ブルックリン号と決勝戦を戦うこととなった。

§

旗艦同士の対戦結果は米国に軍配が上がったが、英国側はすぐさま親善試合を申し込んだ。

これはその日最も白熱した試合となった。

§

スタートは米国側が有利で、赤いマークを自陣の方向に数フィート引き寄せたが、英国側はヒルのように吸い付いて離れず、すぐにマークを元の位置に戻し、力を抜くことなくじりじりと相手を引き寄せ、力強い大声援に敵方までもが寛大にも声を合わせるなか、ついに失った栄冠を再び取り戻したのである。

§

昼花火

 

天候状態は昼花火にはおあつらえ向きだった。

打ち上げられた花火はしばらく視界に留まり、日本人娘の人形が四方八方に漂いながら優雅に下降し、会場の内外に集まった大勢の日本人を喜ばせた。

§

ジャパニーズショーは多くの観客を魅了した。

優れた芸人たちが次から次へと登場してジャグリングやバランス芸、そしてアクロバットなどを披露し人々を楽しませた。

§

プラットとラッセルが担当した「アーント・サリー」は、若者たちに好評で、彼らは気前よく小銭を出し合って、30ドルを恒久基金(クイーンズ・ジュビリーを記念して設けられた、横浜にパブリックスクールを設立するための基金)に寄付した。

レーン・クロフォード商会、レズリー&カーティス、カーノー商会、ケリー&ウォルシュ、ノース&ライ、ベリックブラザーズ、E・ベイタス、エイトン&プラットが気前よく賞品を提供した。

§

英国艦隊乗組員による武器演習ではシングルスティック戦、カトラス(刃が湾曲した剣)対ライフル戦、銃剣戦が行われ、大いに盛り上がった。

§

受賞者にはプランケット嬢から賞品が授与された。

彼女が受賞者一人一人に優しく言葉がかけながら手渡すと、A・T・ワトソン氏が彼女に美しい花束を手渡しつつ「ミス・プランケットに声援を」と呼びかけた。

その声に皆が和やかに応えたところで楽しいセレモニーは幕となった。

§

C.D.モス氏とA.T.ワトソン氏によるスポーツのプログラムも大成功を収めた。

§

一方、当日は早々と居留地のほぼすべての建物で旗が掲揚された。

直接英国に関係する機関のみならず、友好の絆だけで英国と結びついている多くの機関の建物にも旗があげられていた。

§

しかしコミュニティの装飾が最もその威力を発揮したのが夜景であったことは疑いの余地がない。

§

日本の提灯によって効果的な演出ができることは容易に察せられた一方、旗を掲げることは、その持ち主の国籍を示す以上の意味はない。

§

とはいえメイン・ストリートなど大きな通りには日暮れまで旗が掲げられていた。

午後になってそこに観光客が押し寄せてきたことは、この光景が賞賛に値するものだったことを十分に物語っている。

§

この祝いのために数々の横断幕が掲げられていたが、ひとつひとつ説明することは控えておこう。

§

中でも際立っていたのは英国領事館の飾りつけである。

英国旗はためく旗頭から地面のあいだにさまざまな色彩のランタンの列が優雅に長く伸び、その柔らかい線が光景の美しさをことさらに引き立て、一筋の鮮やかな光がカーブを描きつつ旗竿の先から領事館の建物まで延々と続いていた。

§

その見事な光景を際立たせるかのように、領事館の周りに提灯の列が並び、正面玄関の上には、白地に英国の国章、その下にV.R.の文字が描かれ、それを囲むようにたくさんの灯りがともされていた。

§

クラブには特大の旗が4棹も掲揚され、クラブ・ホテルやジャーディン・マセソン商会とドッズ氏の邸宅、P&O汽船の社屋ほかメイン・ストリートの多くの場所でおびただしい数の横断幕がはためいていた。

なかでもJ. W. ホール商会、レーン・クロフォード商会、ジャパン・ベール社、カーノー商会は特筆に値するものであった。

§

日暮れととともに居留地中は、さまざまなデザインのイルミネーションで明るく照らされた。

§

その中でも特に目を引いたのは、コッキング氏(イギリス人貿易商 現「江の島サムエル・コッキング苑」創設者)による電飾で、コッキング商会の建物の上に組まれた足場から光が放たれた。

コッキング社の社屋やドッズ氏の館をはじめとする建物の正面にはV.R.の文字と星があしらわれており、演出効果満点であった。

§

ラウダー氏とウィーラー氏のデザインも注目を集めたが、前者は最も効果的であったにもかかわらず、居留地からはほとんど見えなかった。

後者は、V.R.の文字をオークと月桂樹の花輪で囲み、竪琴を模したもので、居留地の全員の目に入った。

§

日中の催しもよかったが、この記念日の精神が本領を発揮したのは日暮れの頃からである。

§

横浜の主だった英国人居留民全員が、東京から訪れた日本人、米国人、欧州人の友人たちに自宅を開放した。

極めて豪華に準備を整えてもてなそうとして、居留地の仕出し屋たちの資源を最大限に利用したのである。

牛肉やパンは高値で取引され、ごちそうの付け合わせに至っては、実質的に入手不可能であった。

§

このような記念行事はめったにないことなので、この規模の祝賀会の参加者を収容できるような広い建物など横浜にぞんざいしないことは言うまでもない。

そのため、参加者を半々に分けて、一方をパブリック・ホールに、もう一方をイギリス海軍補給所(堀川の山手側の海岸に接した場所)に振り分けることになった。

この取り決めが発表された時に起こったざわめきのことは、いったんヴェールに包んでおこう。

§

とはいえ、その時不満を鳴らした人々も当日を迎えるまでにはもはや自分が腹を立てていたことを悔いていたに違いない。

なぜなら火曜日の夕方にそこここに見られたのは喜びに満ちた顔ばかりだったのだから。

§

パブリック・ホールでは芝居が上演されることになっていた。

このような時にシェイクスピアが欠かせないことは言うまでもない。

§

選ばれた演目は『キャサリンとペトルーキオ(じゃじゃ馬ならし)』である。

誰かに指示されたのではなかったにしろ、ヴェローナの紳士がバプティスタの娘に対して演じたような役柄を複数の国に対して果たすことが、少なくともヴィクトリア朝時代の英国の使命であったという考えに沿った選択だったのかもしれない。

§

ペトルーキオ役はベイン氏、キャサリン役はライス夫人、バプティスタ役はブリュワー氏、そしてグルミオ役はリード氏であった。

これらの役者はみな横浜の演劇ファンによく知られているので、その長所についてあれこれ述べる必要はないだろう。

§

ライス夫人の女優としての実力は本物である。

身勝手なじゃじゃ馬娘が、やがて従順で愛情深い妻に変貌していく様は、アマチュアのレベルをはるかに超えており、彼女の声がこのような役に求められる水準に達していたら、完成度の高い演技になっただろう。

§

ベイン氏ももちろん素晴らしかった。

彼の弁舌は間然とするところなく、ペトルーキオの向こう見ずで激しやすい気性を極めて完璧かつ徹底的に演じたため、演技とは思えないほどであった。

グルミオ役のリード氏は、おそらくシェイクスピアが意図した以上の喝采を浴び、ニール・ブリューワーはバプティスタを見事に演じきった。

他のわき役については、アイロン氏がビオンデッロの役柄をよく理解した上ではつらつとして演じていたことを除いては、特筆する必要はないだろう。

§

第二の演目はシェリダンの笑劇「聖パトリックの日」であった。

それ自体はばかばかしいが、演じ方によっては救われないものでもない作品である。

§

主な登場人物を演じたのはジェームズ夫人(ブリジット・クレデュラス夫人)、ベイン夫人(ローレッタ)、ベイン氏(フラスティス・クレデュラス)、リード氏(ロージー医師)、ケニー氏(トラウンス軍曹)、G・ロビンソン氏(オコナー中尉)。

この出演陣の手にかかれば芝居はもちろん成功である。

§

ブリジット夫人とローレッタの言い争いは魅力的で、当時の人々らしからぬほど感情をあらわにしており、シェリダンらしいひねくったシチュエーションに強い現実味を感じさせた。

ユースティスとドクターもおなじように良い感じで、トラウンス軍曹のミレトス風の訛りは荒々しい行進曲をロマンチックな調べへ変えてしまった。

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観客は大喜びである。

歓声が何度も繰り返されたことは言うまでもない。

最後のカーテンコールの幕が上がると、女優と俳優の全員が舞台の前に進み、観客・バンドと一体となって「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」を大合唱した。

これ以降、その晩はこの歌声が絶え間なく繰り返されることとなった。

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帝国海軍軍楽隊が大挙して押し寄せた。

楽隊は有能な指揮者エッケルト氏(ドイツ人音楽家 1879年海軍軍楽隊教師として来日)がこの日のために見事にアレンジした曲を演奏した。

どの曲もごく自然に英国国歌に続くように編曲されており、そのたびに何百人もの声が上がって女王への忠実さがにじむ合唱となった。

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有栖川宮、北白川宮両殿下、威仁親王、三条宮両殿下、伊藤総理大臣、井上外務大臣夫妻、松方大蔵大臣、山田司法大臣、鍋島侯爵夫妻、蜂須賀侯爵夫妻、プランケット閣下夫妻に加えてドイツ、ハワイ、中国各公使、オーストリア・ハンガリー、ポルトガル、フランスの各代理大使、そしてハミルトン提督、チャンドラー提督、ラリル提督をはじめとする港に停泊中の各艦隊の将校多数が出席した。(続く)

 

図版:THE GRAPHIC, Aug. 20,1887 表紙   
   イラストは英国海軍主計少佐C. W. Coleのスケッチを基にしたエングレーヴィング

   以下は各コマとそれに添えられたコメント


「不可解な問題、ドレスとは!」
左)「様々な夜会服」
(西洋夫人の真似をしてドレスを着ている日本人女性や風変わりな夜会服姿の日本人男性を揶揄)

 


「行き過ぎたサーチライト」
(英国軍人と日本人女性の親密な様子がサーチライトのせいで露わに)

 


左)「音楽の魅力」
右)「背中に英国旗」

 


左)「電灯のもとでは提灯は余計」
右)「プロによる批評。日本のアスリート(相撲取り)がスポーツ観戦」

 

参考文献:
The Japan Weekly Mail, June 25, 1887.
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)


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