On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■地元紙が伝えるクイーンズ・ジュビリー in ヨコハマ(その1)

2022-05-29 | ある日、ブラフで

 

1887(明治20)年は大英帝国臣民にとって君主ヴィクトリア女王の即位50年(クイーンズ・ジュビリー)という記念すべき年であった。

英本国はもとより世界各地に散らばる英国人コミュニティにおいて様々な祝祭が催された。

§

それは極東の島国でも例外では無く、横浜や東京に住む英国人たちが祖国の威信を示すべく大々的な祝賀会を計画したことは言うまでもない。

当時の横浜居留地の欧米人人口約1,500名のうち約700名を占める英国人コミュニティを挙げての催しとあれば、横浜の一大イベントといってもよいであろう。

§

祝賀会の具体的内容については駐日英国公使プランケット卿をはじめとする公使館、領事館のメンバーや、横浜の外国人商工会議所の会員など、横浜・東京の有力者を中心としたメンバーが検討を進め、同年6月21日を横浜におけるクイーンズ・ジュビリー開催日と決定した。

§

当日の様子については英字新聞はもちろんのこと日本語新聞も記事を掲載しているが、英文紙『ジャパン・ウィークリー・メイル』紙が特に詳し詳しく伝えている。

同紙は明治期に横浜で発行されていた三大英文紙のひとつで、ジュビリー当時、発刊元であるジャパン・メイル社の社主はフランシス・ブランクリーであった。

英国公使館付武官として来日し、日本帝国海軍砲術学校主任教師も務めたことでも知られる日本における代表的英国紳士の一人である。

§

偉大なる女王陛下の威光をこの横浜において光り輝かせるべく英国人コミュニティが趣向を凝らせた祝祭はどのようなものであったであろうか。

暫くジャパン・ウィークリー・メイルの伝えるところに耳を傾けてみよう。

(以下の文章は1887年6月25日付ジャパン・ウィークリー・メイル紙の記事を筆者が和訳したものである。カッコ書きは筆者による。なお原文はかなりの長文のため一部を割愛した。)

§

今年の6月21日は、横浜と東京に住むイギリス人にとって誇らしい思いとともに長く記憶に残る一日となった。

この祝宴が始まるまではいかにも英国人らしく不平不満を鳴らす向きもあったものの、いざ実行となれば英国人の本領発揮とばかりの徹底ぶりを見せたのである。

§

このふたつの特徴は、決して相容れないものではない。

人間というものは自分が関心を抱いていることについては、ついついあら捜しをしてしまうものなのだ。

§

英国人を満足させるのが難しいとすれば、それは彼らが批判的だからというよりも、むしろ真剣だからである。

批判と批評という英国伝統の習慣が、無関心と無干渉に堕するとき、彼らが築きあげた大帝国が滅びゆくさまを見ることとなるのであろう。

§

しかし、私たちはお国自慢のラッパを吹き鳴らそうとはしなかった。

それもまた英国人らしからぬふるまいだからだ。

§

とはいえ、祝祭のラッパは晴れやかに響き渡った。

今回のプログラムはすべて大成功を収めたのである。

何より、天候に恵まれたことが大きい。

§

日本では6月末に晴天を期待することは難しく、月曜日の午後に雨が降り出したときには、祭りの見通しは実に暗いものとなっていた。

5月に開催するか、10月に延期するのが得策だと説いていた気象予報士気取りの紳士たちは皆、予言的中とばかりに得意げなであった。

しかし、これは天気が彼等に仕掛けた思いもよらぬ罠であった。

§

一夜明けた火曜の朝はみごとに晴れ渡り、前日午後の雨は大気を洗い清めるためのものにすぎなかったことが明らかとなった。

そしてこの季節には珍しいほど心地よい爽やかさを与えてくれたのである。

折り紙付きといわれる女王陛下の晴女ぶりがこれほどはっきりと確認されたことはない。

§

この催しのすべてにおいて祝典委員会がどれほど労を尽くしたかは想像すべくもない。

横浜の有する資源は事実上、この機会に使い尽くされたといった良い。

あの提灯や垂れ幕のすべてがどこから来たのかは、最後まで謎のままとなるに違いない。

居留地とブラフが丸ごと花で飾られた迷路と化し、そこにピラミッドや富士山、その他の奇妙な姿の塔が建てられた。

§

臣民のひとりひとりが自らの役目を立派に果たすべく家を飾り立ててきらびやかな風景の一端を担い、夜ともなれば、さながら炎のごとく光り輝かせたのである。

§

ここで、感謝と満足の念を込めて注目したいことは、人々が暮らしを営む地球の約半分の地域に幾千と燃え盛る女王の威光の灯火に、極東の一灯を加えようとしたとき、英国民は他の国籍の友人たちの助けを借りなかったわけではないということである。

ドイツ人、フランス人、オランダ人、イタリア人など、この多国籍コミュニティのあらゆる人々がこの機会を祝うために貢献し、たとえ小さな利害の衝突があろうとも、すべてのキリスト教国が、女王陛下の治世の最大の栄光である文明の進歩に心を一つにしていることを示した。

§

 

祭典はクライストチャーチ(バンド(山下町)105番地。1901年に現在の所在地であるブラフ(山手町)235番地に移転)における特別礼拝から始まった。

この礼拝には、あらゆる国籍の人々が大勢出席し、それは人々の関心の高さを十分に物語るものであった。

§

この礼拝のために特別な聖歌隊が編成され、教会オルガニストであるグリフィン氏の入念な指導のもとで特別な訓練を受けてきた。

特に戴冠式の賛歌“司祭ザドク”と国歌の部分では、歌声とオルガンの奏でる音に、カイル氏によるフレンチホルンの音色が加わって、晴れやかに響き渡った。

§

11時ちょうどに、詩編旧百番が歌われた。

その後、朝の祈りとなり、詩篇と第一日課の朗読が続いた。

次に聖歌隊が“テ・デウム(賛美の歌)”を歌った。

第2課の後に、合唱団による“ユビラーテ・デオ(神において喜べ)”が続き、祈りと特祷が行われた。

それは次のような言葉による特別な特祷であった、

§

全能の神よ、世界のすべての王国を支配し、それらをまた御心のままになされるお方。

私たちは、今日、あなたのしもべである私たちの君主、ヴィクトリア女王陛下をこの王国の玉座に就かせてくださったことに、心からの感謝を捧げます。

§

あなたの英知によって陛下を導き、あなたの腕によって彼女に力を与え、正義と真実、神聖さと平和、そしてキリスト教徒に備わるすべての美徳が陛下の時代に花開くように、陛下のすべての知恵と努力をあなたの栄光と陛下の臣民の幸福に向けさせてください。

私たちが良心に従って、明るく、喜びを以って陛下に服従するようお恵みを与えてください。

私たちの罪深い情熱や私的な利益が、公共の利益のために配慮する陛下の心を失望させることがありませんように。

陛下が常に民の心に思いをはせ、民は陛下の人格を敬い、その権威に従順に従う心に欠けることがありませんように。

陛下の治世が長く繁栄し、来世での不滅の栄誉を得られるますように。

私たちの主イエス・キリストを通して。アーメン

§

その後、聖歌隊がヘンデルによるジョージ2世の戴冠式アンセム“司祭ザドク”を歌い、さまざまな特祷や祈りを経て、讃美歌“讃えよ油注がれた主を”が歌われた。

十戒の後、女王のための特別な祈りが捧げられた。

§

全能の神、天の父よ、私たちの君主ヴィクトリア女王の治世に示されたすべての慈悲と、平和な日々、おだやかな進歩、物質的繁栄、そして宗教と恵みによって与えられた知の力に謹んで心からの感謝をささげます、それらは皆あなたがわが国に豊かに与えてくださったものです。

§

さりながら特にこの日、私たちはあなたのしもべである女王陛下のために、あなたが長年にわたって陛下にお与えになった贈り物と、陛下の模範となる行いとその統治において明らかにされたあなたの恵みと知恵のゆえに、あなたの聖なる御名を祝福します。

そして、私たちしもべに祈らせてください。

常にあなたのより多くの助けを受けている女王陛下があなたへの信仰と愛をもって民をこれからも長く統治することを、そしてあなたの僕である私たちに対して哀れみに満ちたやさしさを与え、あなたの目に不快に映るものを捨て去り、すべてにおいてあなたの御心の導きに従い、あなたの知識とすべての正義を高め、あなたの目の前に聖なる国を築き、全世界にあなたへの賞賛を示すことができますようにと。

私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

§

聖餐式の前に第一朗読、第二朗読に続き使徒信経が唱えられた後、讃美歌”聞け、十字架の歌”が歌われた。

説教は、クライストチャーチのチャプレンであるE. C. アーウィン師によって行われた。

§

我が同胞よ、兄弟よ、父よ、私たちは今日、ここに、一つの大帝国の市民として集まりました。

私たちにはその国の偉大さを説明する必要も、その国に属していることを自らの手柄ととらえる必要もありません。

なぜならそれは長きにわたる成り行きによって今あるような帝国になったのであり、私たち自身の右手ではなく、私たちの先祖の手によって成し遂げられたものだからです。

しかしながら今日この場にいる人々が、地球上のあらゆる居住可能な地域に進出している帝国の代表者であることは否めません。

そのような者として、私たちは共に集まり、私たちの国と帝国が現在しっかりと確実に統治されていることに感謝の念を表します。

§

それは、この50年の間、世界にとって波乱に満ちた半世紀の間、すなわち科学、政治、宗教の巨人たちの働きによって示された活動と知的進歩の時代にありながらも、私たちの帝国がその完全性を維持し、私たちが一人の君主と唯一の神に仕えてきたという事実に少なからず起因していると確信しています。

§

同胞市民の皆さん、私はこの市民権を感謝してもしきれないものだと考えています。

特に、女王陛下が統治されてきた50年間、陛下は私たちを平和に統治し、その間に、残念ながら以前の統治に見られたような悪弊は一切なかったことを考えれば、よりいっそうそのように思われるのです。

§

陛下が常に国家の問題に関心を寄せられており、いまもなおしっかりと権力を掌握しておられ、またすべての英国人が、陛下が末永く王座に留まられるよう心の底から望んでいることを考えれば、私たちはこのように統治されていることに感謝してもよいのではないでしょうか。

§

また、女王陛下の人並外れた美徳に賛辞をおくる必要もないでしょう。

女王の長い治世の間に、時折、一部の人々がそうあるべきと考えるほどには国の利益につなげることができなかったことがあったと仮定することもできますが、常に正しいことを行うことが彼女の意図であったと私は固く信じています。

ですから私たちは、キリストの使徒が「王を敬え」と言ったのと同じように、心をひとつにして「神よ、女王を護り賜え」と言うのです。

§

しかし、友よ、今日、私たちにはまだ別の考えがあります。

これほど広範囲にわたる主権を有する国家の市民として、女王陛下を敬うことは当然のことであり、そうすることが自分自身に対してもある程度の敬意を払うことにもなります。

しかし、すべての人を敬い、すべての人にその報酬を与えることは、人間としての特権なのです。

私たちよりも権威ある人々には、彼らが偉大なる主のしもべであるがゆえに仕え、自分よりも豊かな人々には、その富をねたむことなく、神が世界の利益のために彼らの手にそれを授けたと信じるのです。

§

私たち一人一人にその栄誉を与えたまえ。

それは人類に与えられたもの。

なぜならば人は神の似姿として作られ、神自身がそのようにお作りになったからであります。

そして、今日、私たちが地上における一つの強大な王国の市民であることを思い出しながら、私たちの市民権がそれよりもはるかに広いこと、私たちキリスト教徒がより高度な意味において兄弟であることを忘れてはなりません。

§

それゆえに兄弟愛を大切にしましょう。

私たちは、いま兄弟愛は内面的なものであると信じていますが、それが明白になる時を待ち望みましょう。

そしてこれらすべてのことを行いつつ、私たち皆をお作りになった方を愛し、畏れるように努めましょう。

このお方にこそ永遠の支配と力と栄光がありますように。アーメン。

§

ビカステス主教による祝福に続いて、国家が歌われて礼拝は幕を閉じる。

第1節はソプラノ、第2節はアルト、第3節は聖歌隊と会衆が、オルガンの響きにのせて歌い上げた。

§

前聖餐式はビカステス主教によって、聖書朗読はウィリアムス主教によって行われた。

第一課はコクレン師、第二ポア・ヒースロップ師、早祷はチョルモンデリー師が唱えた。

§

駐日英国公使フランシス・プランケット卿夫妻とその家族、また天皇陛下の名代として長崎氏(宮内省書記官 長崎省吾か)が出席したほか、外務大臣井上伯爵と神奈川県知事大木氏を含む多くの日本政府関係者の顔もあった。

 

図版(上から):
・クライストチャーチ堂内 写真(筆者蔵)
・バンド(山下町)風景 手彩色写真(筆者蔵)矢印で示した建物がクライストチャーチ。右側に鐘楼が見える。

参考文献:
The Japan Weekly Mail, March 26, 1887.
The Japan Weekly Mail, June 25, 1887.
・外務省『本邦各港居留外国人戸数口数取調一件 第二巻一版』(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
・斎藤多喜夫「『ジャパン・ウィークリー・メイル』について」(『復刻版『ジャパン・ウィークリー・メイル』』第1回配本別冊所収、紀伊国屋書店、2010)
・「『横浜パノラマ図』展に寄せて 画像の中のランドマークークライストチャーチの鐘楼をめぐって―」(横浜開港資料館『開港のひろば』平成4年8月5日)


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■明日からいよいよ夏休み! ヨコハマモダンスクールの表彰式

2022-04-27 | ある日、ブラフで

 

1904年6月最初の金曜日の午後、今日はヨコハマモダンスクールの表彰式の日である。

会場となったパブリックホール(山手町256・257番地)には生徒やその保護者、学校関係者など大勢の人々の姿があった。

§

ヨコハマモダンスクールは現在校長を務める英国人ミットフォード氏が前の年に設立した新しい学校である。

対象としているのは欧米人居留民子弟の男子で、中学校と、英国の高校にあたるプレパラトリー・スクールを兼ねていた。

§

表彰式は、司会を務める横浜居留地の名士、モリソン商会のモリソン氏の挨拶から始まった。

§

紳士淑女の皆さん、私は横浜に幾分長く住んでいるため、名誉にもというか災難にもというべきか、これまでクリケットクラブから商工会議所、戦争救済のための芝居の上演まで、さまざまな場面で長という役目を務めさせていただきました。

しかしながら学校集会の議長をおおせつかったのはこれがまさに初めてのことであります。

ですので慣れない状況において私がつまらないことを申し上げたとしてもどうか大目に見てくださるようお願いしておきます。

§

会場の空気が和んだところで、モリソン氏はまず横浜居留地での教育への取り組みの歴史について語り始めた。

§

古くからの住人として、また息子を持つ親として、私は横浜の住民たちが長きにわたり、よい学校を望む切実な声上げ続けてきたことをよくよく認識しております。

そして実際に学校を設立しようとする試みが幾度もなされました。

女王陛下の在位50周年記念事業として英国人住民が熱心に取り組んだ結果1887年に開校したヴィクトリア・パブリックスクールは、その中でも最も深く記憶に残るものです。

§

この学校は多くの人々の好意に支えられてスタートしました。

最初はヒントン校長のもとで、その後ヒントン氏の助教を務めていたファーデル氏が校長を引き継いでからは、極めて優秀な教師であるエバーソルド嬢の協力を得て、この学校は数年にわたり少なからぬ成功を収めてきました。

そのことは今なお多くの若者たちが証言してくれます。

エバーソルド嬢はもともと少年たちのための学校を運営しており、現在居留地にいる若者の多くが彼女によって初等教育を受けました。

それは素晴らしいものでした。

§

しかしながら、私の考えを申し上げれば、様々な理由からヴィクトリア・パブリックスクールは成功を持続させることはできませんでした。

むしろ学校の終焉とそれにいたる数年間はほとんど失敗と言わざるを得ないものでした。

とは言いつつもそれは何も残さなかったというわけではなく、それどころか横浜の次世代を担う世代の教育に貢献しました。

当時の生徒の多くが未だにヒントン氏とファーデル氏のもとに過ごした日々を懐かしく思っていることは間違いありません。

§

男子校を設立しようという次なる試みはシュール氏によってなされました。

ウィントンハウスアカデミーです。

この学校は大きな成功を収めました。

シュール氏は私的な理由で英国に行かざるを得なくなりましたが、私の記憶が正しければ、その時点で生徒の数は40名を超えていました。

このことは、良い学校に行く機会があれば、生徒はいつでも集まってくるであろうことを示しています。

§

残念ながら、シュール氏は自分の不在をごく短期間と考えていたため、その間の学校維持に十分な手を尽くすことができませんでした。

彼が横浜に戻らないと最終的に分かった時点で、まるでトランプでできた建物のように組織全体があっけなく崩れ去ってしまいました。

§

ウィントンハウスアカデミーが閉校した時期ははっきりとしないが、1901年頃と推測される。

ミットフォード校長がヨコハマモダンスクールをスタートさせるのは1903年だが、モリソン氏の話がそちらに移る前に、ミットフォード校長の経歴について少し説明しておこう。

§

チャールズ・ユスターシュ・ブルース・ミットフォードは1875年7月31日、インド南部の都市マイソールにて英国出身のジョン・ウィリアム・ビアとその妻マーガレットの息子として生を享けた。

9歳で父親を、12歳で母親を亡くした後、インドを離れて英国で教育を受け、ロンドン大学で学士号を修得する。

§

その後の足取りは定かでないが、1902年には山東半島北部東岸の港湾都市、威海衛(現 威海)の英国学校の校長を務め、威海に関する案内書を著したことが分かっている。

そして翌年初めには威海衛での職を辞して日本に向かった。

§

すでに中国で教育者としての経験を積んでいたミットフォード氏は、横浜で欧米人子弟のための学校が求められていることを耳にして自ら学校設立に乗り出そうと考えたのであろう。

1903年の1月には早くも新聞を通じて生徒募集の告知を行っている。

§

ミットフォード氏はこれまで横浜においていくつか同様の試みがなされ、そしてついえたことを知っていた。

そこで自分の学校が同じ轍を踏まぬために次のような戦略を立てた。

§

第一に生徒を欧米人の男子生徒に限ること。

欧米人居留民の中に、自分たちの子どもを日本人や欧亜混血児と一緒に学ばせることをよしとしない空気があり、それが過去の学校の敗因のひとつとなっていたことに気づいていたのであろう。

§

第二に日本人を対象とした夜間の英語学校を併設すること。

同じ施設を昼は外国人児童の、夜は日本人の学校として活用することで安定した収入を確保しようとしたのである。

各々の学校は「ヨコハマモダンスクール」、「アングロ-ジャパニーズ アカデミカル インスティチューション(後に「モダーンスクール附属英語夜学校」とも)」と名づけられた。

§

さていよいよ開校したヨコハマモダンスクールの足取りについて、ふたたびモリソン氏の話に耳を傾けることとしよう。

§

さて、それまでの失敗から私たちを救うために手を差し伸べてくれたのがミットフォード校長です。

そして今日あらゆる観点から見て、彼がこの教育機関を永続的に成功させることができると期待することができます。

§

私の知る限り、開校当初はあまり希望が持てる状態ではありませんでした。

最初の年の学籍簿に記された生徒数は7,8名を数えるのみでした。

実際、その時点での見通しは暗いものでした。

§

その頃、ミットフォード氏は香港での仕事を打診されており、そのことを私に相談していました。

学校に関する不安から解放されることを望むあまり、その申し出を受け入れようとしていた―そう考えても間違いではなかったでしょう。

§

私は、彼が横浜を去ることは、私たちにとって明らかな損失であると感じました。

ここでまた横浜における教育に関する試みの失敗の記録にもう1行を加えることになれば、この先だれかが挑戦しようとしても結局は思いとどまってしまうだろうと考えたのです。

そこで私は彼にここに残ってくださいと言いました。

しかるべき人物には必ずや活躍の場と機会が与えられるのだからと。

§

こうも言いました。

あなたは名を成そうとしつつあり、あなた自身の学校において自らの考えを何にも邪魔されずに果たしていくことができる。

そしていったんコミュニティの信頼を得ることができれば、間違いなく成功を手にできるのだと。

§

それからまだ2年もたっていませんが、7、8名の生徒で始まった学校には現在30名が在籍し、今後さらに数を伸ばすことが期待されています。

§

ご存じのように、ミットフォード校長はそれに備えるために、完璧な資格を有する有能な教師の助けを得る必要があることに気づきました。

§

そうしてほんの数日前、アージェント氏が到着されました。

この機会に、生徒らの両親に代わって歓迎の言葉を述べさせていただくことを大変うれしく思います。

ミットフォード校長には、これまでの実績に心からの祝福を送ります。

彼の努力の成果として完全な成功がもたらされることを期待しています。

これは私の言葉ではなく、ここにおられる全員の願いであると確信しています。

§

モリソン氏のあたたかい言葉に迎えられて、今期の運営状況について報告するために校長が登壇し、学校の現状について詳細に説明にした。

そして最後に誇らしげに次のように述べた。

§

私たちが目指しているのは、人生の闘いに欠かせないすべての条件を備えた、男らしい、正直で、真面目で勤勉な青年を輩出することです。

そのために向けて時間やエネルギーを費やすことは、極めて価値のある目的を達成するためのささいな犠牲にすぎないと私たちは見なしています。

§

続いて成績優秀者の表彰が行われ、名前を呼ばれた生徒にはフィールズ牧師から賞品が贈られた。

§

こうしてヨコハマモダンスクールの表彰式は無事幕を下ろし、生徒たちは夏休みに突入した解放感に顔を輝かせながら意気揚々とパブリックホールを後にしたのである。

 

参考資料
The Japan Gazette Directory, 1901, 1902
The Japan Weekly Mail, Oct. 4, 1902
The Japan Weekly Mail, Jan. 3, 1903
The Japan Times, Jan. 11, 1903
The Japan Weekly Mail, July 4, 1904

図版
・ミットフォード校長肖像写真(Francois Bruce-Mitford氏所蔵)
・J. P. モリソン肖像写真(公益社団法人 横浜カントリーアンドアスレティッククラブ蔵)
・生徒募集広告(The Japan Gazette, Aug. 27, 1903)
    中学・高等学校教育   
    ヨコハマモダンスクール
    欧米人子弟限定
    生徒の学習経験に基づく現実的な授業料
    9月9日より秋学期開始
    次の方々からご推薦いただきました
    クロード・マクドナルド駐日英国公使(バス勲章、聖ジョージ・聖マイケル勲章受勲者)、
    W. P. G. フィールド師(文学博士)、C. V. セール様、J. P. モリソン様、ジェームズ・ウォルター様、
    J. H. スチュワート・ロックハート閣下(聖ジョージ・聖マイケル勲章受勲者)、
    英国下院議員W. H. ホーンビィ准男爵
    入学案内書(新版・図版入り)進呈 希望者は校長まで。
    横浜山手町22番地
・『横浜貿易新報』明治38年5月14日

 

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■古き横浜の思い出-1888年から1899年-(後編)

2022-03-21 | ある日、ブラフで

プール兄弟 左より ハーバート、エリノア、マンチェスター

ハーバート・アームストロング・プールが横浜で過ごした日々の思い出を記した手記の後編。(本稿にはハーバートの記憶違い等から事実と異なる記述も含まれていると思われますので、その旨ご承知おきください。またカッコ書きは筆者によるものです。)

§

英国領事館の法廷で初めて殺人事件の裁判が行われた時のことを覚えています。

英国人のカリュー夫人が夫をヒ素で毒殺しました。

彼は横浜ユナイテッドクラブの書記でした。(1896年10月に起きたカリュー事件)

黒い帽子を被った裁判官が「絞首刑に処す。神があなたの魂を憐れんでくださいますように」と宣告した時、それは恐ろしい体験でした。

判決は後に減刑されて夫人は英国のホロウェイ刑務所で終身禁固に処せられましたが、18年間服役した後に釈放されました。

事件には多くのスキャンダルが関わっており、まちの要人とみなされていた男たちの何人かは国を去らなければなりませんでした。

カリュー一家は私たちの近くに住んでいて、私は夫人から数ヶ月間ヴァイオリンのレッスンを受けたことがあります。

彼女はイザイ(当時活躍していたベルギー人ヴァイオリニスト・指揮者)の優秀な弟子でした。

§

そのころの横浜港は、英米仏独露各国の軍艦のほかトルコの軍艦も1隻停泊しており、それらで埋め尽くされていました。

ほとんどが完全装備の木造船でしたが、英国の新しい鋼船も何隻かありました。

私たち米国人少年たちは、自国の軍艦がすべて古い木造船であり、旗艦「モノカシー」はサイドパドルホイール付きで、どうやって太平洋を横断できたのか不思議なくらいのありさまだったので、悔しい思いをしていました。

その船は横浜に何年も係留されており、めったに港を出ることはありませんでした。

最後には売却されて上海で解体されました。

§

軍艦では、横浜の外国人の子供たちのために頻繁に船上パーティーが開かれました。

「マリオン」、「トレントン」、「サスケハナ」のほか何隻かありましたが、1899年5月のサモアの台風で全部沈没しました。

私たちは大変心を痛めました。

§

日本に来た最初の鋼鉄製の米国戦艦は、マニラ湾海戦で有名な「オリンピア」でした。

その後に来たのが「オレゴン」で、船の煙突が16フィートも伸びていてとても奇妙に見えたものです。

 

米国海軍戦艦オレゴン号

§

花火大会が開かれる7月4日(独立記念日)、我が家はいつも祝いの中心地になっていました。

英国人の少年たちも参加せずにはいられませんでした。

後に頭のいい英国人少年が、その日が南アフリカのウルンディの戦いに英国が勝利した日であることを発見するまでは幾分きまり悪そうにしていましたが。

§

横浜の子供たちにとって居留地のチャイナタウンにいくこともまたスリルあふれる体験でした。

酒場で酔っぱらった軍艦の水兵たちが、血まみれになって派手な喧嘩をしていました。

§

地元民のまちを襲う大火事もスリルに満ちていました。

火は100軒から300軒もの粗末な木造家屋を一度に嘗め尽くしました。

§

1888年に横浜に着くとチェスターと私はブラフ179番地にあったヴィクトリア・パブリックスクールに入学しました。

これは英国政府からの助成を受けて、1887年、(ヴィクトリア)女王の在位五十周年を記念して設立された学校でした。(筆者注 ヴィクトリア・パブリックスクールが英国政府からの助成を受けたというのはハーバートの記憶違い)

§

この学校を率いていたのはC. H.ヒントン教授で、様々な国籍の少年たちを教育するには過ぎた人物でした。

通常の英国パブリックスクールの伝統にのっとって運営されており、わたしたちはしょっちゅう鞭で打たれました。

§

ヒントン教授は「四次元」研究で知られる高名な数学者であり、この職を受け入れたのは見聞を広めるためにすぎなかったようです。

学校が閉鎖されると、プリンストン大学の数学教授になり、後にワシントンDCの特許庁に奉職しました。

§

助教を務めていたのはH. L. ファーデル先生でした。

彼は1923年の地震(関東大震災)で亡くなりました。

§

この学校はチェスターと私が十分な教育を受け終えるまではなんとか持ちこたえていました。

母が米国史を教えるように学校に頼み込まざるを得なかったことを覚えています。

私たちは1066年ウィリアム征服王云々のあたりで沈没してしまっていました。

一方、数学ではパブリックスクールのレベルをはるかに超えており、大学並みの授業を受けていました。

§

横浜に到着後、母は私をピアノからヴァイオリンに転向させ、ドイツ人で、東京音楽学校の学長であるソーヴレー教授(日本政府音楽取調掛に勤務していたオランダ人ギヨーム・ソーヴレー。学長としたのはハーバートの記憶違い。「音楽取調掛と東京音楽学校の外国人教師たち – 東京藝術大学音楽学部 大学史史料室」(geidai.ac.jp)による)に師事することになりました。

彼は1年ほどでドイツに戻り、その後はハンブルク出身の若いアマチュア・ヴァイオリニスト、ハンス・ラムゼーガー(神戸・ラムゼーガー商会の経営者であり、また交響曲『忠臣蔵』の作曲者としても知られる Hans Ramseger (koki.o.oo7.jp/senkakusha.htm))に教わることになりました。

私の知識のほとんどは彼から得たものです。

彼は私の生涯の友でしたが、1930年に神戸で亡くなりました。

§

その後、かつてボストン交響楽団(シカゴ交響楽団か)で第一ヴァイオリンを務めた東京音楽学校のアウグスト・ユンケル教授からレッスンを受けました。

その後、(ヨーゼフ・)ヨアヒムのもとで学んできたばかりのデンマーク人マックス・シュルーターから1年間の指導を受けました。

§

私は幸運にも彼らが東京音楽学校や弦楽四重奏で行った演奏会に何度も参加させてもらいました。

そういう次第で、私はコンサートツアーで横浜を訪れた当時の世界的に著名な音楽家の多くと親密な関係を築くことができました。

ある演奏会でベルギーのヴァイオリニストであるオヴィッド・ミュザンと協演したこともあります。

彼は、私たちのカルテットとともにベートーベンのコンチェルトをピアノ付きで演奏しました。

ジャパンタイムズ紙に掲載された演奏会広告

§

ヴィクトリア・パブリックスクールが閉校になると、チェスターと私を本国の大学に進学させる余裕がなかったので、父は家庭教師を雇って私たちにフランス語と日本語を学ばせ、速記とタイピングも教えました。

私たちは当然のことながら幼い時から日本語を学んでいたため英語と同じように話すことができるようになっていました。

ただ私は、文字は1000文字程度覚えただけなので、読み書きはできません。

§

1893年8月、17歳になろうとする頃、最初の職に就くことになりました。

横浜の本町通り28番地にあったアメリカントレーディング株式会社の速記者で、月給はなんと15円でした。

日本・中国方面の貿易関係企業としては米国有数の企業であり、そこでの4年の間の修行はかけがえのないものでした。

§

このころ、休暇を利用して、自転車で奈良・京都経由で神戸を経て広島、姫路、そして山陽鉄道の終点を訪れ、そこから汽船で門司、長崎に行き、そこから家に戻りました。

§

1898年、母が米国に帰郷している間、チェスターと私は自分たちで家事をやってみようと思い、2マイルほど離れた中村に日本の家を借りました。

しかし二人とも具合が悪くなってしまい、母は戻るとすぐ私たちを家に連れて帰りました。

§

チェスターと私が初めて二人で旅行をしたのは、1899年10月10日に「佐倉丸」に乗って松島の荻浜と函館を経由して小樽に行った時でした。

そこから鉄道で札幌に行き、さらにピラトリ(平取)で珍しいアイヌを見るためにグバン(?)炭鉱を訪れ、最後にムコレン(?)に行きました。

その後私たちは急いで函館に戻ったのです。(以下略)

§

 

以上がハーバート・プールの手記の抄訳である。

ハーバートはその後も日本にとどまり横浜のほか神戸、長崎などで暮らした後、1933年1月ついに米国に帰国する。

その間のことについても詳しく書き記しているが、本稿はひとまずここで筆を措く。

1962年6月、米国マサチューセッツ州ノーフォーク郡ミルトンにて永眠。

享年84。

 

ハーバート・プールの墓

図版(上から):
・プール兄弟写真(Poole FAMILY Genealogy, http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)
・米国海軍戦艦オレゴン号(オレゴン (戦艦) - Wikipedia)
・The Japan Times, 19 Oct., 1901
  コンサート
  演奏 マックス・シュルーター
  協演 モリソン夫人(ソプラノ)、プール嬢(ピアノ)、メンデルソン嬢(ピアノ/オルガン)、H. A. プール氏(ヴァイオリン・ヴィオラ)、ロドルフ・シュミット(チェロ)
  パブリックホールにて10月23日(水) 午後9時開演
  プログラム
  1.カルテット モーツァルト「変ホ長調」よりピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ―アレグロ―アンダンテ―アレグレッ
  2.歌唱 「いらだち」シューベルト
  3.ソナタ ヘンデル「ヘ長調」より ヴィオリン、ピアノ
  4.ヴァイオリン二重奏 ゴダール 牧歌―悲哀―頼りなき―深夜―セレナーデ
  5.ヴァイオリン協奏曲「ニ短調」より 古き時代、序章、アンダンテ モデラート、レチタティーヴォとカデンツァ―アダージオ ベリジオゾ
  6. 歌唱 a. 「君を愛す」グリーグ b. 「デーモン」 マックス・シュタンゲ
  7. 三重奏 ヴァイオリン、オルガン、ピアノ
  8.ヴァイオリン独奏 a. 「最初の悲しみ」ゴダール b. 「ハンガリー舞曲」オンドジーチェク
  入場料 1円 予約席 2円
  モートリー商会(横浜61番地)にて発売中
  1901年 10月19日 横浜
・The Japan Times, April 1, 1908   
  予告 ベートーベン ソサエティ
  委員会 A. J. ユンケル(会長)、E. C. デイヴィス A. リヒター、W. S. アチャーソン H. A. プール、E. サリンジャー(名誉事務局長兼財務担当)
  今シーズン初のコンサートはパブリックホールにて4月18日土曜9時開催
  入会希望者は名誉事務局長(横浜197番地)までお申し込みください
  プログラム
  1. 弦楽五重奏 ハ長調op 163 シューベルト―アレグロ マ ノン トロッポ―ユンケル教授、ハイドリッヒ教授、H. A. プール氏、E. C. デイヴィス氏、ヴァクマイスタ教授
  2.歌唱
  3.ヴァイオリンチェロ独奏 ヴァクマイスタ教授
  4. 歌唱
  5. 弦楽六重奏 変ロ長調 op. 18 ブラームス―アレグロ マ ノン トロッポ―アンダンテ コン モート―スケルツォ アレグロ モルト―ユンケル教授、ハイドリッヒ教授、H. A. プール氏、アチャーソン医師、ヴァクマイスタ教授、E. C. デイヴィス氏
  1908年 3月31日
・ハーバート・プール墓石写真(https://www.findagrave.com/memorial/168232728/herbert-armstrong-poole)

参考資料
Poole FAMILY Genealogy, www.antonymaitland.com/poole001f.htm

 

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■古き横浜の思い出-1888年から1899年-(前編)

2022-02-20 | ある日、ブラフで

 

ハーバート・アームストロング・プールは1877年、父オーティス・オーガストス・プール、母エリノア・イザベラ・プールの長男としてアメリカ・シカゴに生まれた。

茶の輸入商社に勤めていた父が一家で日本に移住することを決意したため、1888年、両親と妹エリノア、弟マンチェスターとともに来日し、横浜山手で生活を始めた。

後年、米国に帰国したハーバートが横浜の思い出を著した手記の一部を以下に紹介する。

なお題名は、弟オーティス・マンチェスター・プールが出版した関東大震災の体験記『古き横浜の壊滅』にちなんで筆者が仮に付したものである。

*写真は1897年、ハーバート20歳の頃に撮影

(本稿にはハーバートの記憶違い等から事実と異なる記述も含まれていると思われますので、その旨ご承知おきください。またカッコ書きは筆者によるものです。)

§

私が10歳になる6か月前に、父は日本に移住することを決心しました。

その前の2年間、父は1年のうち7か月の間中国と日本に滞在し、残りの5か月間は茶の注文取りのために米国内を旅行していました。

私たちと一緒に過ごせたせたのはクリスマスの2週間だけだったのです。

そこで父はシカゴの家を売り、荷物をまとめて家族全員で横浜に移ることにしました。

1888年4月のことです。

今でも時々、あの時シカゴに残っていたらどんな人生を送っていただろうと思うことがあります。

§

私たちはオマハを経由してサンタフェ鉄道でサンフランシスコに向かいました。

振り返ってみると、客車、寝台車、食堂車は当時からほとんど変わってないようですが、速度と照明は別です。

その頃の照明はピンチガスを用いていました。

サンフランシスコに到着し、パレスホテルに宿をとるまですべてが順調に進みました。

古いホテルで中庭があり、そこに車が入れるようになっていました。

§

あと5日で出航というときに弟のチェスター(マンチェスターの愛称)が猩紅熱にかかりました。

そこで弟と母親は留まって、私たちよりひと月遅れて「ゲーリック号」に乗船することになったのです。

父とエリノアと私はメトカルフ氏が船長を務める「オセアニック号」で出航しました。

ホワイトスターラインからパシフィックメールスチームシップ社によってチャーターされた約3千トンのスクリュースチールボートです。

乗客は約90人で、船には石油ランプが備えられていました。

唯一のラウンジは下のダイニングサロンの吹き抜けを取り囲む楕円形の狭い通路でした。

§

4本のマストに張られた四角い帆は順風を孕み、船は驚くべき速さでのめるようにして進み続けました。

船は横浜に直行し、16日間で到着しました。

当時、ホノルルは米国に属しておらず、立ち寄ったのは4人に1人ぐらいのものでした。

これらの汽船には冷蔵装置がなく、牛や豚、羊、鶏が前甲板で屠殺されていました。

私たちはそれをこわごわ見守ったものです。

食堂の各テーブルに航海士がつき、目の前の大皿から私たちに取り分けてくれました。

§

スクリューの代わりに外輪のみがついたボートではなく「オセアニック号」で航海できたのは幸運なことでした。

海が荒れると、そのような小さな汽船は航海に十分な量の石炭を運ぶことができず、横浜にたどり着くために、時には小屋や木製品を大量に燃やしたり、小笠原諸島に立ち寄って石炭を手に入れたりしなければならなかったのです。

§

グランドホテル

 

横浜には埠頭も桟橋もなかったので客はサンパン(平底の船)に乗り換えて上陸しました。

グランドホテルに数週間滞在した後、ブラフ89番地に住居を構えました。

その家にはその後30年間住みましたが、1923年の大地震で倒壊しました。

§

バンガロー風の家屋(プール家ではありません)

 

家は木造のバンガロー(建物の周囲にベランダを巡らせた木造家屋)で、応接間と食堂のほかに寝室が4つありました。

バスルームがひとつありましたが、水道は通っていませんでした。

居留地には水道が設置されていましたが、ブラフにまで拡張されるのはその10年後のことです。

父は屋外にふたつ浴槽を備えた小屋を建てました。

水はすべて100フィートの深さの井戸からくみ上げていました。

飲料水は、居留地の水道からバケツに入れて運んでいました。

§

照明には灯油ランプが使われていましたが、1900年頃にガスが導入され、その数年後には電灯が設置されました。

地震が頻繁に起こり、部屋の隅の壁紙にはいつもひびが入っていました。

二部屋を除いて全室に暖炉がありました。

横浜は冬でも温暖で氷点下になることはめったになかったのでそれで十分暖かく過ごすことができました。

§

谷戸坂をブラフへ向かう人力車。急勾配を上がるために人が後押ししている

 

ブラフの道は2マイルほどで、丘の尾根に沿って曲がりくねっており、外国風の家が立ち並んでいました。

日本家屋はありませんでした。

一部の住民は馬車を持っていましたが、通常の交通手段はリキシャ(人力車)でした。

居留地に続くすべての道路に人力車のたまり場がありました。

居留地への道は急勾配の上り坂だったため「アトシ(後押し)」が必要で、1回押すごとに5銭でした。

居留地内ならどこへでも1回わずか10銭払えばリキシャで行けました。

車夫は驚くべき速度で丘をかけぬけ、振り落とされることもしょっちゅうでしたが、怪我をした人はいませんでした。

§

横浜は素晴らしいまちでした。

75マイル向こうにそびえたつ標高12,365フィートの富士山を、どこからでも望むことができました。

東側の断崖の下には湾が広がっていました。

§

毎年100回以上の小さな地震が発生し、時にはかなりの被害をもたらしました。

1891年には家の屋根瓦が全部落ちてしまいました。

煙突もしばしば倒れましたが深刻な災害はありませんでした。

しかし1923年には街全体が破壊され、ブラフの大部分が瓦解して湾に流れ落ちてしまいました。

§

道路は砕石で舗装されていました。

往来によってすり減るので年に1、2回砂利が敷かれ、通りには手押し車で水がまかれていました。

§

良い使用人を安価で雇うことができました。

料理人が月15円、ボーイは12円、アマ(女性の使用人)なら8円です。

彼らは自分たちで食事をとっていました。

台所と使用人の宿舎は家の外と決まっていました。

当時、横浜は約80万人の都市であり、外国人は中国人を除くと合わせて2,000人程度でした。

§

日本人はたとえ裕福でもブラフに住むことはなく、街の北西の丘に住んでいました。

言語やさまざまな習慣の違いが壁となっていたため、社会的なつながりはほとんどありませんでした。

英国人が優勢を占めていたので、まちはその影響を色濃く受けていました。

§

英国の駐屯軍は私たちが来る前にすでに撤退しており、当時外国人は皆、領事館のもと、それぞれの国の法律によって司られていました。

司法権は各国の領事館が有していたのです。

これは事態を複雑にしました。

なぜなら、どの国民も自分が属する国の領事裁判所でしか訴えられることがなかったからです。

市には日本の警察組織がありましたが、事件が起こると領事裁判所に引き渡さねばなりませんでした。

1900年頃、治外法権は撤廃され、すべての外国人が日本の法律の下に置かれることになりました。

§

外国人所有の土地はすべて、開港後の1860年から70年の間に日本政府によって永久貸与されたものでした。

固定資産税は途方もなく低かったのです。

それ以外の税金については、外国人は日本政府にも自国の政府にも払っていませんでした。

日本人はこの開港時に交わされた条約の遺物に憤慨していましたが、締結した当時は日本人にとって非常に有益なものでした。

ペリー提督のために不本意ながら開国して以来、大名行列が街路で外国人を殺傷するという事件が何度か起こりましたが、それまで使われていなかった町はずれの狭い場所に外国人を隔離することによってそのような事態を避けることができたからです。(中略)

§

1891年のことでしたが、来日してから3回目の夏を箱根の湖のツイヤホテルで過ごしました。

ドッズ家とジェームズ家ともに3家族でホテルを占拠しました。

当時、私たちは汽車で国府津に行き、そこから湯本まで馬車で8マイル行き、薩埵峠を越えて駕籠に乗って湖畔を訪れました。

湖から富士を見晴らす景色は素晴らしく、日本でそれ以上の場所は望めないと思われたほどでした。

箱根は横浜から近く、外国人も行くことができたのでその頃非常に人気がありました。

§

横浜での最初の10年間はとても楽しいものでした。

日本のこの上なくすばらしいいくつかの都市や寺院、山のリゾート地などへの数え切れないほどの旅行、そしてボート、水泳、セーリング、ツーリング、テニス、運動会、ダンス、コンサート、素人芝居といった社交とスポーツ・・・横浜と東京の外国人コミュニティが絶頂期にあったころで、日々の暮らしはとても充実していました。

 

素人芝居もしくは仮装パーティー

 

図版(上から)
・ハーバート・A. プール肖像(Poole FAMILY Genealogy, http://www.antonymaitland.com/poole001f.htm)
・グランドホテル写真絵葉書 撮影年不明(筆者蔵)
・ブラフ写真絵葉書 撮影年不明(筆者蔵)
・谷戸坂手彩色写真絵葉書 撮影年不明(筆者蔵)
・エドウィン・ウィーラー(写真左端)ほか写真 撮影年不明(Peter Dobbs氏所蔵)

参考資料
Poole FAMILY Genealogy, www.antonymaitland.com/poole001f.htm
・O. M. プール『古き横浜の壊滅』有隣堂 昭和51年

 

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■ヴィクトリア・パブリックスクール1890年夏の表彰式

2022-01-30 | ある日、ブラフで

1890(明治23)7月8日火曜日、今日はヴィクトリア・パブリックスクールの今学期最後の日である。

夕方4時過ぎ、ブラフ(山手町)179番地の広い教室では、学期末恒例の表彰式を前に生徒たちが父母らの到着を待っていた。

この式が終わればいよいよ夏休み突入である。

§

会場にはヴィクトリア女王から贈られた女王の肖像画が恭しく置かれ、色とりどりの各国旗が壁面に飾られている。

午後5時、ビカステス英国国教会主教、エンズレイ英国領事、法律家カークウッド氏ら来賓の顔も揃い、いよいよ式典が始まった。

§

最初の挨拶を述べたエンズレイ領事に続いてヒントン校長が登壇し、今期の特筆事項は父兄の希望により音楽の授業を開始したことであると述べた。

横浜でトニック・ソルファ(字韻記譜法)を用いた音楽教育を行っているパットン夫人にヒントン校長夫人が師事し、学校にこのメソッドを導入した。

その成果はこのあとの発表会でお確かめいただきたいとのことである。

§

さてその発表会の演目は次の通り。

§

1.朗読 ワーズワース「三月」…幼年クラス

2.朗読 ヴェルギリウス「牧歌III」…プール(兄)

3.歌唱 「美しき六月」(六部輪唱)ほか…歌のクラス

4.朗読 セシル・フランシス・アレクサンダー「モーセの埋葬」…L. アンダーソン

5.歌唱 和声・変調ほか…歌のクラス

6.論文発表…L. アンダーソン

7.朗読 サー・エドウィン・アーノルド「8月」…ウィーラー(弟)

8.歌唱 「天使はささやく甘く優しく」(二重唱)、「笑うのは誰」(三部輪唱)…歌のクラス

§

古代ローマの詩人、ヴェルギリウスの詩を朗読した「プール(兄)」は、ブラフ89番地Aに邸宅を構えるO. A. プール氏の長男、ハーバートである。

1877年に米国シカゴに生まれ、父が横浜の製茶貿易会社に移ったのを機に1888年に家族で来日。

同年の夏学期に3歳年下の弟、チェスターと共にヴィクトリア・パブリックスクールに入学した。

§

日本在住の英国人詩人、サー・エドウィン・アーノルドの作品を朗読したのはブラフ97番地に住む英国人医師E. ウィーラー氏の息子ジョージである。

1880年生まれのヨコハマ・ボーイで、兄シドニーとともにヴィクトリア・パブリックスクールに通っている。

プール家とウィーラー家は兄たちも弟たちも同い年で共に同じ学校の生徒、その上住まいも近所であることから、家族ぐるみで付き合う仲であった。

§

この学校で学ぶ少年たちのほとんどが横浜の欧米人居留民の子弟であり、プール兄弟やウィーラー兄弟のように兄、弟ともに通っている生徒も多い。

今学期の全生徒数45名の3分の1、すなわち15名7組が兄弟であった。

§

校長のヒントン氏もまたブラフに住む英国人である。

校舎の一画が校長一家の住まいになっており、妻のメアリー夫人も教鞭をとっていた。

教師陣としては、ほかにスイス人のファーデル教諭と日本人の河島敬蔵氏を数えるのみ。

人数こそ多くはないものの、およそ8歳から17歳と年齢の幅が広いために6クラスに分かれている全校の授業を担当するには人手不足気味で、この1年間は年長の優等生であるエドワード・クラークに生徒兼先生として幼年クラスの指導を任せていた。

§

発表会に続く学業優秀者の表彰式では各クラスの首席が表彰されたが、ジョージ・ウィーラーもその一人であった。

エドワード・クラークには学校からの感謝のしるしとして多くの書籍が贈られた。

§

表彰式が終わるとエンズレイ領事が再び登壇し、生徒たちにこう語りかけた。

§

生徒諸君、君たちにたくさんの賞品を贈ることができたことをうれしく思います。

この1年は非常に満足に値するものでした。

その締めくくりにあたり、君たちの幸福に常に関心を抱いている者たちの代表として君たちを祝福します。

諸君全員の精勤と勤勉さは、きわめて称賛に値するものであるという報告を受けて、うれしい限りです。

今回たくさんの賞品が贈られたという事実が、そのことを物語っています。

しかし諸君も周知のとおり、全員が前に出るということはできないのです。

今回表彰に与らなかった諸君の気質は寛大で思いやりに満ちており、幸運にめぐまれた生徒をうらやむようなことはないだろうと私は確信しています。

この機会に諸君が学んだ教訓は、忍耐することです。

教職員も諸君も休暇に入ろうとしています。

骨の折れる仕事に励んできた教職員にとっては当然の休息であり、生徒諸君にとっては楽しい気晴らしとなるでしょう。

どうか心ゆくまで楽しんでください。

そうすればリフレッシュしてまたここに戻り、いわば若い巨人のように、学校で成果を上げるためだけではなく、将来の繁栄への希望に向かって再び励むことができるでしょう。

§

この表彰式からわずか4年後の1894年12月、ヴィクトリア・パブリックスクールは経営困難のため7年間の短い歴史を閉じる。

§

表彰式で朗読を披露したハーバート・プールとジョージ・ウィーラー、その兄弟たちもその頃にはすでに学校を去っていた。

プール兄弟は実業の道を選んで貿易会社に勤め、ウィーラー兄弟は英国にわたって学業を続け、その後シドニーは銀行に就職し、ジョージは英国軍人となった。

§

チェスター・プールは後年著した回想録に、第一次世界大戦のさなか、旅行の途中でメソポタミア(イラク)のクートを訪ね、英国陸軍グルカ銃隊の隊長として駐屯していたジョージ・ウィーラーに再会し、旧交を温めたと記している。

彼らがヴィクトリア・パブリックスクールで過ごした日々は決して長くはなかったが、そこで育まれた友情は生涯を通して消えることはなかったのである。

 

 

 

 

図版(上から):

・ヴィクトリア・パブリックスクールがあった山手町179番地付近を山手本通り側から見た現在の様子。右側の道の右手奥に位置していた。写真左側の建物はフェリス・ホール。

・チェスター・プール(写真中央)が勤務していた横浜のドッドウェル商会の外国人社員たち。1919年撮影。
チェスターの正式な名前はオーティス・マンチェスター・プール。1923年、横浜にて関東大震災に被災し、その時の体験記を‟The Death of Old Yokohama”として1968年にロンドンで出版した。写真はその日本語版(O. M. プール『古き横浜の壊滅』有隣堂 昭和51年)より転載。

・ウィーラー医師一家。左よりウィーラー医師、次男ジョージ、長女メアリー、長男シドニー、ウィーラー夫人。撮影時期不明だが、背後の建物は一家の自宅(ブラフ97番・現在の横浜市アメリカ山公園)と思われる。(Peter Dobbs氏所蔵)

参考文献:

・The Japan Weekly Mail, 28 April, 1888
・The Japan Weekly Mail, 19 May, 1888
・The Japan Weekly Mail, 12 July, 1890
・「麻布の軌跡 麻布の家-1 米国人画家の来日」(『ザ・AZABU 28号』2014年6月26日所収)
・Poole Genealogy http://www.antonymaitland.com/ompoole1.htm

 map 256-257

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■「これは英語とは言えません!」ハーン先生の綴り方教室

2021-12-27 | ある日、ブラフで

 

エドワード・B・クラークは1874(明治7)年横浜に生まれた。

父ロバートはジャマイカ生まれの英国人で、30代半ばで来日し横浜でパン屋を営んでいた。

エドワードが生まれてほどなく妻が亡くなると日本人女性と再婚し、1男1女を設ける。

店は大いに繁盛し、ブラフ(山手町)42番地にプールとテニスコート付きの邸宅を構えていた。

§

エドワードは早熟な子供だった。

4歳で早くも文字を覚えて本を読むようになり、6歳の頃には横浜で発行されていた英字新聞ジャパン・ガゼット紙の文芸欄の熱心な読者であった。

§

5歳で教会学校に入学し、12歳でブラフの別の学校に転ずる。

14歳となる1888年、当時ブラフ179番地にあったヴィクトリア・パブリックスクールの生徒となった。

これは主に英国人子弟の少年たちに本国並みの中等教育を施すことを目的として設立された学校である。

§

入学した年の7月、夏休み前の表彰式でエドワードは英語とフランス語の首席を取り表彰された。

ヒントン校長がスピーチの中で、ベイビューアカデミーとのクリケットの試合でエドワードがキャプテンとしてチームを率い、みごと勝利に導いたことを誇らしく語ると会場は拍手喝采に沸いた。

§

同年12月の冬の表彰式でもまたエドワードは文法、書き取り、フランス語、歴史で首席として表彰された。

クリケットの最高平均得点賞の銀杯もエドワードに与えられた。

§

翌年の夏の表彰式でもエドワードはフランス語と地理、歴史で首席として表彰され、クリケットの最高平均得点賞の銀杯も授与された。

(数学の首席は逃したが、これは低学年クラスにいた弟のピーターが取った)

§

エドワードの文武両道の活躍ぶりは、クラーク家にとっては大いに喜ばしい事だったに違いないが、何の賞にも与れなかった生徒の母親たちは不満を鳴らしたようだ。

校長もこれを無視できなかったのか、夏休みの間に妙案をひねり出した。

§

新学期の初めにエドワードはヒントン校長からある役目を与えられた。

低学年クラスの教師である。

日頃、級友たちから勉強のわからない点を聞かれると丁寧に答えていた彼の教え上手を逆手にとって、いわば「副業」にしようとしたのだ。

そしてそれは彼をあらゆる賞取り合戦から排除することを意味していた。

なぜなら彼は生徒とはいえ先生でもあるのだから。

§

実際、これは学校の経営面からも好都合であった。

主に英国人コミュニティからの寄付と学費のほかほとんど収入源のないこの学校は、財政的な理由から教師の数が不足気味であった。

エドワードは学校が無給で得た新たな教員助手といえなくもなかったのである。

(学校はエドワードの卒業時にそれまでの貢献に対する感謝のしるしとして多数の書籍をプレゼントした)

§

さてこの学業優秀スポーツ万能かつ人望にも恵まれるという絵にかいたような優等生のエドワードも、かつて父親からこっぴどく叱られたことがあった。

§

彼がまだ6、7歳の頃(とはいってもすでに新聞の文芸欄に目を通すほどの教養人だったわけだが)、ある米国人医師の頭部に注目してこう尋ねた。

「ねえ先生、先生の髪の毛はどうして白いの? それにあたまのてっぺんに毛が生えてないのはなぜ?」

§

 

ちなみにこの米国人医師とは、横浜開港間もなくキリスト教宣教のために来日し、施療院を営みつつ和英辞書を編纂し、ヘボン式ローマ字を考案して今に名を遺すジェイムズ・カーティス・ヘボン氏その人である。

観察眼に富んだ少年の率直な質問を受けた時すでに60代半ばであった。

§

エドワードの父ロバートは、息子のこの言動を子供らしい無邪気さとは見なさなかった。

それどころか、人の身体的欠点を見ても決して取り乱さず、何一つ気づかないかのようにふるまわねばならぬことを、打擲とともに息子に叩き込んだのである。

§

だからその朝、学校の一室で引き合わされた紳士の片目が不自由であることに気づいた時も、エドワードは内心の狼狽をおくびにも出さず、平静な態度を保つことができた。

低学年クラスの「先生」に任命された翌年1890年の4月上旬のことである。

§

ヒントン校長はエドワードにこの紳士「ハーン氏」が「文学者」であり、親切にもエドワードに作文の手ほどきをすることを申し出てくれたと説明した。

ハーン氏はこの年の4月4日に横浜に到着し、間もなくヒントン校長の知己を得て彼の家に滞在しているとのことであった。

§

後年記した‟A Japanese Miscellany”のなかでエドワードはハーンに初めて会った時の印象を次のように語っている。

§

椅子のひとつに、小柄で肩幅の広い男性が座っていた。

やや色黒で髪は整っており、黒っぽい色の毛髪に白髪が混じり、額のあたりではすでに銀色がかっていた。

口髭のほかはきれいに剃り上げられ、その時最も印象的だったのは彼の容姿の清潔さだった。

§

それから毎日30分間、土曜日は1時間、二人だけの授業が続けられた。

生徒が自由にテーマを選んで短い文章を書き、先生がそれを添削する。

エドワードは後年、その思い出を次にように書き記している。

§

オックスフォードとケンブリッジのボートレースを選んで想像で描いたことをよく覚えている。

私は大英帝国とその領土の男たちをぞくぞくさせるような素晴らしいレースどころか、この世のどんなレースも目の当たりにしたことはなかったのだから、それは全くの想像だった。

テムズ川もその地形も、活気ある光景も全く知らなかったので、私は隠喩や直喩のために想像力を駆使した。

タイトルは「オックスフォード・ケンブリッジ対抗ボートレース」で、最初の一文はこんな感じだった。

「明るい光を放つ川の広い水面に、タイタンのごとき巨人らの手から放たれんとする二つの槍が横たわっていた」

うんぬんかんぬん。

あとは忘れた。

 

ハーンは20分間、苦労してそのたわごとを何とか見苦しくないものに鋳なおそうとした。

彼は次のように指摘した。

槍は一般的に何かの表面に乱雑に置かれるものではなく、まして水の上ということはなく、タイタンはもちろん槍を使っていたかもしれないが、知る限り、彼らの好む飛び道具は巨岩や丸石であり、たまには山でさえ悪くないと思っていた。

さて、彼は第二の不完全なセンテンスに移り、わたしのノートに手直しを書き込もうと試みたが、満足せず、ポケットから中国製の黄色い紙のパッドを取り出した。

私が接していた間一度も彼が白い紙を使うところを見たことはない。(中略)

 

私はハーンと自分のつきあい―彼は校正者として、私は謙虚な不器用者として―がどれぐらい続いたのかもう覚えていない。

しかしわたしは彼の策略をありありと思いだすことができる。

時折彼は褒め言葉を唱え始めて私を喜ばせる。

しかし私が内心得意になると、一撃のもとに叩きのめすのだ。

こんな具合に。

「おお、これはとてもいい、とってもいいよ。実力以上のできばえだ! 言葉はよく吟味されているし、書き方もかなり優雅だ、文法も見事だ、だが(少し間を置いたのち)、これは英語とは言えない!」

§

ハーンはエドワード少年に文章を書く上での様々なアドバイスを与えた。

それはハーン自身の人生観にもつながるものであり、エドワードはそれらの言葉を深く胸に刻み、生涯忘れることがなかった。

§

私の記憶に残るハーンのいくつかの言葉は次のようなものだ。

いつもノートを手放さず、文や描写を思いついたらその時々に書き留めておきなさい。

記憶に頼ってはいけない。

それは最も危険な助手だ。

自分の考えをすぐに書き留めて、それを切り詰めて、切り詰め続けるのだ。

 

ロジェのシソーラス(類語辞典)を手に入れていつもそばに置きなさい。

それは無限の価値を持っている。

言葉の語源を勉強しなさい。

そうすれば言葉の根幹の意味を知ることができる。

そのうちに非凡な語彙力ばかりでなく、自分が用いることばの価値と意味について細やかな感覚を持つようになる。

そうすれば言葉は君に従い、考えの核心や、伝えたい考えのニュアンスを表現するのを手伝ってくれるようになる。(中略)

 

もう一つ、私の記憶の箱の中の最後の、そしておそらく最も私に大きく影響したものは「自分が成し遂げたことに満足することを自らに許してはならない。

必ずや君はさらに良いものを成し遂げられる。

満足は停滞を意味し、不満足は進歩を意味する」

文字通りであったかは請け合わないが、ハーンの教えをかなり正確に伝えていることはほぼ間違いない。

§

二人の個人授業は数週間しか続かなかった。

ある日、エドワードはハーンが学校を去ったことを知らされる。

その年のうちにエドワードもまたヴィクトリア・パブリックスクールを卒業し、間もなく日本を発った。

§

英国ケンブリッジ大学で学問を修めた後、1897年にエドワードは再び日本の地を踏む。

1899年に慶應義塾大学の講師に任ぜられ、英語と英文学の教鞭をとった。

ヴィクトリア・パブリックスクールで共に学び、ケンブリッジ大学の学友でもあった田中銀之助(田中銀行頭取、日本ラグビーフットボール協会初代名誉会長)とともに塾生にラグビーを指導し、日本初のラグビーチームを結成して「ラグビーの父」として知られるようになる。

§

その後、第一高等学校、東京高等師範学校、第三高等学校を経て1921年からは京都帝国大学に移り主に英文学の講義を行った。

教え方は丁寧で学生から慕われ、4歳からの多読のおかげでその博覧強記ぶりはE. B. ClarkeをEdward Bramwell Clarkeの略ではなくEncyclopedia Britannica Clarke(ブリタニカ百科事典クラーク)ともじられるほどだった。

§

あの時ハーンが突然エドワード少年の前から姿を消した理由は、ヒントン校長夫人が彼の容貌を嫌ったためと言われている。

その年の9月、彼は島根県尋常中学校の講師となった。

その後、日本に帰化し小泉八雲と名を変えたラフカディオ・ハーンの数々の功績については、広く世に知られるところである。

 

図版:
・クラーク肖像写真(京大英文學研究會『Albion』第二巻第一号 昭和9年)
・ヘボン肖像写真(筆者蔵)

参考資料:
・文部省公文書「京都帝国大学文学部傭教師英国人エドワード・クラーク叙勲ノ件」昭和6年7月23日
・E. B. Clarke “A Japanese Miscellany, My Shortlived Connection with Hearn”, 『大阪朝日新聞』大正7年3月25日~4月4日(本文に引用した文はすべてこの文献による。筆者訳)
・「エドワード・ブラムウェル・クラーク」(昭和女子大学近代文学研究室『近代文学研究叢書 第37巻』昭和48年 所収)
The Japan Weekly Mail, July 21, 1888
The Japan Weekly Mail, July 2, 1889
The Japan Weekly Mail, July 8, 1890

 

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■「お妃様風ポタージュ」に「外交官のプディング」はいかが?―グランドホテルの独立記念日メニュー

2021-11-25 | ある日、ブラフで

「御妃様風ポタージュ」に「外交官のプディング」―グランドホテルの独立記念日メニュー

§

毎年7月4日の独立記念日は米国人居留民にとって、横浜における自らの存在感を存分にアピールできる誇らしい日である。

1892(明治25)年のこの日は朝から天候に恵まれた。

居留地のそこここに各国の旗が飾られるなか、星条旗がひときわ大きくはためき、その下を人々が祝いの言葉を交わしながら楽しげに行き交う姿が見られる。

眼下に広がる港には米国艦の姿こそないものの、停泊する外国船のなかには満艦飾をもって礼を尽くすものもあった。

§

 

この華やかな海岸の様子を一望するグランドホテルのベランダもまた着飾った大勢の紳士淑女で街路に劣らず大いににぎわっていた。

一段高くしつらえられたボックスでは楽団が心躍る陽気な曲を演奏している。

 

 

このホテルは旧・新館合わせて100室を超える客室と300人収容可能なダイニングルーム、読書室、社交室、ビリヤード室、バー、テニス場という充実した設備を誇る、横浜を代表する豪華な宿泊施設であり社交の舞台である。

支配人のルイス・エピンゲル氏はドイツ生まれで、米国に渡り長年暮らしたのち1890年に来日してこのホテルの支配人となった。

氏が就任して以来、グランドホテルの評判は上々、本日の独立記念日祝賀の宴もここで催されるのである。

大勢のゲストを迎える会場はテープや花綱で提灯が飾り付けられ、独立記念日ディナーのためには特製メニューカードが用意されていた。

§

カードの表紙の中央には米国を象徴する白頭鷲が星条旗を背景に勇壮に翼を広げ、それを挟んで上には日米両国の国旗が、下の部分には2年ほど前に増設されたホテル新館の瀟洒な外観図があしらわれている。

 

 

扉を開くとまたも国旗が左に日本、右に米国と先ほどとは逆に掲げられており、メニューの周りには、山海の珍味や葡萄酒の樽などがぐるりと描かれている。

小さな翼をもつ二人のキューピッドの姿もある。

一人はワインセラーのものかと思われる鍵束を右手に握り、左の腕には酒瓶を入れた籠を携えており、もう一人は巨大なあばら肉の乗った皿を両腕で頭上高く持ち上げている。

§

さてそのメニューの内容はおおよそ次の通り。

スープ
1. ポタージュ・ア・ラ・レーヌ(お妃様風ポタージュスープ)

魚料理
2. 舌平目のジェノワーズ風

付け合わせ
3. オリーブ 4. ピクルス 5. ワサビ
6. レタス 7. ソルト ピクルス 8. 薄切りトマト
9. ビーツ 10. ラディッシュ 11. 薄切りキュウリ

アントレ(主菜)
12. 七面鳥冷製 ゼリー添え
13. トゥールズ風プティ Caise(意味不明。綴りの間違いか?)
14. 子牛の腰肉 詰め物をしたトマト添え
15. マトンチョップ タマネギ風味
16. 小エビのカレーライス

野菜
17. ゆでたジャガイモ 18. マッシュポテト
19. トウモロコシ 20. ナスの揚げ物

ロースト(あぶり焼き)
21. 牛肉
22. ガチョウの英国風ドレッシングとリンゴソース添え
23. ハム シャンパーニュソース

デザート
24. 外交官のプディング 25. チョコレート エクレア
26. 果物 27. ビスケット
28. アメリカンチーズ
29. グリュエールチーズ
30. ゴルゴンゾーラチーズ
31. クリームチーズ
32. ナッツの盛り合わせ
33. スティルトンチーズ
34. リンゴとプラム
35. 干しブドウ
36. 紅茶 37. コーヒー

§

全てのアイテムに番号が振られているのは、ゲストが料理名ではなく番号で注文するための便宜である。

メニューのうち「お妃様風ポタージュ」というのは、鳥の胸肉とアーモンドのペーストを用いたもので、料理の名前は英国王ヘンリー4世の妻マルグリット・デ・ヴァロワに由来するといわれている。

「外交官のプディング」はヴィクトリア女王時代の英国で人気があったお菓子。

スポンジケーキ、砕いたビスケット、ドライチェリーとレーズンを入れた型にカスタードクリームを注いで蒸し、温かいうちに切り分けて供するデザートである。

§

この日、銀行は休業し、グランドホテルのほかジャーマンクラブや野外でもパーティーが催された。

港のフランス波止場では慈善会病院のためのチャリティーとしてアイスクリームが売り出されて大人気を博した。

午後にわか雨がぱらついたが、それが止むと海岸や沖合で数百本の花火が夜空に華々しく打ち上げられた。

港を見下ろすブラフ(山手町)では、米国海軍病院が花や緑で見事に装飾され、色とりどりの提灯の灯りで照らされた建物が夜目にもとりわけ美しかったという。

 

図版:
・メニューカード 扉・中面(筆者蔵)
・ホテル外観 手彩色写真(筆者蔵)
・ホテルベランダ 写真(筆者蔵)
*写真は1892年7月4日に撮影されたものではありません。

参考資料:
・澤護『横浜外国人居留地ホテル史』2001年、白桃書房
The Japan Weekly Mail, July 9, 1892
・『横浜毎日新聞』明治25年7月5日


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■紳士淑女も大興奮!? 1907年根岸競馬場秋のエンペラーズカップ

2021-10-30 | ある日、ブラフで

 

1880年(明治13)春季、日本レースクラブによる記念すべき初開催が根岸競馬場で施行されました。

同開催には「The Mikado's Vase Race」と銘打たれた番組が設けられ、明治天皇から優勝馬主賞品(金銀銅象嵌銅製花瓶一対)が下賜されました。

これが現在まで承継されてきた伝統と栄誉ある天皇賞のルーツとなっています。

翌年の春季には初の天覧競馬が盛大に執り行われました。(中略)

 

一方、根岸競馬場は居留地内という治外法権が適用されたため、日本の刑法で禁止されている賭けが当初から公然と行われ、1888年(明治21)秋季には現在のような主催者による馬券の発売を開始しました。

この売上げが、それまで経済力のある内外の会員と明治政府の援助にすがっていた同クラブに貯蓄をもたらしました。

この財政基盤の確立は、他の競馬場が解散するなか、オーストラリアから洋種馬を輸入するなど、独自の発展を遂げ永く続く日本競馬界のリーダーとしての地位を保証することになりました。

 

1906年(明治39)12月になると馬券発売が黙許され、翌年から全国に競馬ブームがおとずれました。

「根岸競馬場開設150周年記念&馬事文化財団創立40周年記念特設サイト―横浜と馬、競馬の歴史―洋式競馬のモデルとして―根岸競馬場を中心に、礎が築かれた明治の競馬」より(https://www.bajibunka.jrao.ne.jp/nk150/history/detail_006.html)

 

日本全国に競馬ブームが訪れたという1907(明治40)年当時、そのモデルとなった本家本元である横浜・根岸競馬場のレースはどのような様子だったのだろうか。

筆者はその年の秋季レースの模様を写した写真をインターネットのオークションサイトでたまたま入手した。

ドイツの出品者から送られてきたはがきほどの大きさの5葉を順に見てみよう。

§

冒頭の写真はその1枚目。

裏に記された手書きのメモには「スタートコース エンペラーズ・カップ 1907年10月 横浜」とある。

秋季レースの初日は10月25日金曜日、天皇杯が組まれたのは翌日の第六レースで、その日一番の呼び物であった。

(冒頭の引用文では「The Mikado’s Vase」となっているが、1905年より「The Emperor’s Cup」という名称に固定された)

 

 

この日は朝から穏やかに晴れ、天皇杯の評判に加えて東伏見宮殿下の台臨もあるということから、11時の定刻を前にすでに一二等観覧所はもとより場内ほとんど立錐の余地がないまでの盛況ぶりだったという。

写真からもそのにぎわいぶりが伝わってくる。

§

さて、翌日の新聞に掲載された勝敗の結果は次の通り。

第六レース 帝室御賞典、出走馬17頭、距離1マイル、豪州及び内地産馬混合競走(かつて御賞典を拝受した馬は除く)
第1着御賞典700円、第1着200円、第2着100円

1着 La Cantiniere(ラカンチニヤ)、Major Trick(マヂヨールトリック)、玉造
1着 Patricia(パトリシヤ)、Norfolk(ノーフォーク)、後藤
2着 Soya(ソーヤ)、Tatsuta(タツタ)、北郷

*馬名・馬主名・騎手名の順に表記

§

レース内容はどのようなものだったのか。

期待を裏切らぬ白熱の一戦だったことはまちがいないようだが詳細については今回参照した二紙で記述が微妙に異なり、どちらとも判断できない。

両方を照らし合わせて拾ってみるとおよそ次のような運びだったらしい。

§

全17頭のうち前評判が高かったのはチハヤ、ラカンチニヤ、ベゴニヤの3頭だったが、ベゴニヤはスタートで出遅れ、パトリシヤとその兄弟馬(チハヤかポピンゼー)が先頭に立ち、優勝はこの2頭の争いとなるかと思われたところを、ソーヤとラカンチニヤが猛追。

パトリシヤがよくこれをこらえて3頭ほぼ同時にゴールを決めた。

審判の結果、ラカンチニヤとパトリシヤが1着同着、ソーヤは2着となり、同着の2頭の雌雄を決するために決勝戦が行われることとなった。

§

ラカンチニヤの人気が勝っていたが、先頭を切ったのはパトリシヤ。

しかしレース後半ラカンチニヤの勢いものすごく、ついにパトリシヤを追い抜き二馬身以上の差をつけて見事勝利を収めた。

§

御賞典の授与式には東伏見宮殿下が丹羽式武官を従えて台臨され、同官よりラカンチニヤの馬主であるデ・ケヤス氏(仮定名称Major Trick氏の本名か?)に銀杯が与えられたと『横濱貿易新報』は伝えている。

§

 

こちらは別のレースの写真。

裏には「スタートコース ポニーズ レース 1907年10月」と手書きされている。

「ポニー」と書かれているように、写真の馬たちは1枚目に写っている洋種馬より小柄に見える。

26日に行われた10レースのうち第2から第7レースまでが豪州馬の競走なので、それ以外の第1、8、10の支那産馬レースもしくは第9の国産馬レースの様子を撮影したものかもしれない。

§

 

残りの2枚の写真は社交の場としての競馬場の様子を伝えている。

シルクハットにフロックコートという姿でティーカップを手にしている紳士は、時の駐日ドイツ大使アルフォンス・マム・フォン・シュヴァルツェンシュタイン。

戸口の中をのぞくと、和装の男性の背が見える。

§

 

こちらも同じ場所で撮影された写真。

左より2人目がフォン・シュヴァルツェンシュタイン駐日ドイツ大使。

正面から見ると水玉模様のベストがなかなかおしゃれである。

なぜか俯いてはいるが、柄物のドレスを着こなした堂々たるたたずまいの女性が神奈川県知事周布公平夫人である。

右端にたたずむ周布知事令嬢もまた和装ながらポンパドール風に結ったひさし髪に、レース手袋の手にはパラソルというハイカラな拵え。

羽毛やフリルを多用した装飾的なドレス姿が貫禄を感じさせる西洋人のj女性はドイツ大使夫人かもしれないが、メモ書きが判読不能で断言できない。

§

いずれの写真の中の人々も、外国人、日本人共にほとんどが紳士淑女然として晴れやかに着飾っており、いかにも「晴れの日」らしいダービーの華やかな雰囲気が伝わってくる。

§

その昔、外国人居留民が極東の島国での暮らしのなかの特別な一日の様子を伝えるために故郷に送ったであろう数枚の写真。

今また里帰りして、百年余り後の世に生きる私たちの目の前に、過ぎし日の横浜の華やぎをよみがえらせてくれる。

 

図版:写真5点すべて筆者蔵

参考資料:
The Japan Weekly Mail, Oct. 27, 1907
・『横濱貿易新報』明治40年10月27日
・『時事新報』明治40年10月27日
・「根岸競馬場開設150周年記念&馬事文化財団創立40周年記念特設サイト」(https://www.bajibunka.jrao.ne.jp/nk150/history/detail_006.html


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■惜しまれつつ横浜から北京へ―英国公使ハリー・パークス卿送別舞踏会

2021-09-29 | ある日、ブラフで

 

1883年8月29日、東京

閣下、

今月24日の晩、横浜と東京の外国人居留民が、この国を離れる私と私の娘たちのために親切にもガーデンパーティーを催してくれました。

その際の送別の辞と私からの答辞が新聞に掲載されましたので、閣下に両方の写しを送付いたします。

 

閣下の最も従順かつ謙虚な僕ハリー・パークスより最高の敬意を込めて

 

(駐日英国公使パークスより本国の外務大臣グランヴィル伯爵へのコレスポンデンス(通信文)より)

§

1883(明治16)年6月9日、18年間の長きにわたり駐日英国公使を務めてきたハリー・パークス卿の清国駐在特任全権公使任命が公式に発表された。

ジャパン・ウィークリー・メール紙の記事によると現公使トーマス・ウェード卿の任期が6月末で終了するため赴任はそれ以降、駐日公使の後任にはプランケット氏が有力視されているとのことである。

当時パークス卿は55歳。

日本から中国への赴任は栄転であった。

§

英国人居留民たちにとってパークス卿は幕末・明治と激動の時代の日本において優れた外交手腕を発揮し、常に日本における自国民の利益を守るために尽力してくれた心強い存在である。

これまでの働きに対し何らかの形で感謝の意を表したいという声が居留民の間で起こり、6月12日、商工会議所において有志による非公式会議が開かれた。

討議の結果、公式送別会に向けて外国人居留民の総会を開催するためにまずは臨時委員会を設置することが決まり、7名の紳士が委員として任命された。

§

総会は7月30日に横浜ユナイテッドクラブで開かれた。

パークス卿が金銭的負担の大きい派手な催しを固辞したこと、そして横浜には300から400人という大人数が収容できる施設が整っていないことから、送別会は晩餐会ではなく山手公園での舞踏会とし、その場で送別のことばを贈ることとなった。

パーティの会費は2ドル。

催しの準備と招待客の選定のためにレセプション委員会が設置され、メンバーには委員長のA.J.ウィルキン氏をはじめとする臨時委員7名のほか、横浜の英国人商人を中心にフランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、スイス、ポルトガルなど外国人コミュニティのすべての国籍の代表者を含む21名が選出された。

§

1883年8月24日(金曜日)、送別会の会場となった山手公園にはいくつものランタンがつるされ、華やかな飾り付けが施されている。

芝生を下ったところにパビリオンが特別に設けられ、そのそばにビュッフェが置かれた。

気候はこの時期にしては比較的涼しく、午後9時を少し過ぎたころから続々と人々が訪れ、その数はおそらく500人を下らないと思われた。

横浜居留地の住民のほか、東京からも様々な国籍の顔ぶれがそろったが、数名招待されたはずの日本人官僚たちの姿はなぜか見当たらなかったようである。

§

やがて主賓であるパークス卿と2人の令嬢が公演の入り口に到着した。

レセプション委員会のメンバー達に導かれてパビリオン向かう一行をエッケルト氏指揮・横須賀の海軍省所属軍楽隊演奏による英国国歌が出迎え、それが終わると委員長であるA.J.ウィルキン氏がつぎのような挨拶の言葉を述べた。

§

私たち一同はこぞって、送別の言葉を贈る機会を求めてきました。

これによって私たちがあなたに高い尊敬の念を抱いていることを認めていただけば、私たちの悲しみも少しは和らげられるだろうと思うからです。

§

私たちはいろいろな国から来ており、いろいろな言葉を話しますが、今日は同じ一つの言葉だけです。

あなたは十八年間、私たちと一緒におりました。

当地にその全期間いたものもいますが、大部分はその中のかなりの期間いました。

この十八年間、あなたに対する尊敬の念をますます深めるだけでした。

私たちを結びつけていた固い絆は、今や断ち切られることになりました。

この居留地は実に目まぐるしく変る社会でありますが、これほど長いあいだ知り合うということ、友情が続くことは、めったにあるものではありません。

私たちにとっては、あなたが私たちの仲間の一人であることは嬉しいことですが、あなたにとっては、もっと高い地位に移って働かれるのがあなたにふさわしいことでしょう。

あなたが私たちの間に来られたとき、すでに多くの栄誉に輝き、目ざましい功績で著名でした。

当地へ来てからも、むかしの名声にそむかぬ働きをなさいました。

往時のような勇気と剛胆さを示す必要のある機会もないではありませんでしたが、 もっと静かな、忍耐を必要とする難業において、むかしに劣らぬ名声を博されました。

§

私たちにとってあなたを記念するものは、私たちのまわりに、そしていたるところに見られます。

私たちの中であなたと同国の人々は、自分たちの公使としてこの最後の機会にぜひ聞いてもらいたいことがあると言っています。

実にあらゆる面で世話をなさいました。

陳情に対しいつも喜んで聞 いて下さいました。

自分たちの権益を守るために 惜し気なく働いていただきました。

このことをどれほど深く感謝しているか、分かっていただきたいというのです。

この居留地、そして日本にある同じ仲間の居留地の福祉を増進するために多大の働きをされたことに対し、私たちすべてが等しく 深く感謝しています。

§

あなたは居留地の権益ばかりでなく、そのレクリエーションや、もっとまじめな研究、その慈善事業、遠来の客の歓待――そのすべてと深く結びついていました。

このような人が去った後のブランクは、埋めるのは容易ではありません。

§

言いたいことはまだもっとありますが、ここでは差し控えます。

これまでの言葉は、あなたが去られて心から残念に思う私たちのしるしとして、分かっていただくことを願うだけです。

§

さてあなたとご家族の道中御無事を祈ります。

たとえあなたは去られても、楽しい思い出はいつまでも消えないでしょう。

これからも長く健康、御多幸、そしてますます活躍されることを祈ります。

繁栄するご家族にとり囲まれながら、勇ましい功績の数々を楽しく思い起して下さい。

輝かしい名声は子々孫々まで伝えられることでしょう。

§

激務の傍ら、あるいは晩年の休息のときに、ときには日本に残した友人の楽しい思い出をなつかしまれることと信じます。

§

この挨拶文の写しを美しく装丁したものが用意されており、パークス卿に贈呈された。

一同が感に堪えぬ表情で見守る中、今度はパークス卿が次のように答辞を述べた。

§

ウィルキン氏および紳士諸君。

私の同国人のみならず、外国人居留民全体からこのように暖かい愛情のこもる挨拶を受け、返事の言葉を見出すのは大そう難しいことです。

§

私が日本で過した歳月は、一生涯のうちの少なからぬ部分を占めるもので、その間に、この団結した居留民社会の大部分の人々と親しい交際がなかったならば、私は不評判を招いたことでしょう。

諸君のために尽力したことに対し、身に余る言葉をいただきました。

私は諸君の信頼に応えるため、あらゆる機会に努力しただけです。

もし諸君の満足をかち得たとすれば、それは少なからず同国人の皆様の心からの支持のお蔭であり、その他の国籍の人々から受けた親切な援助のお蔭であると思います。

この社会はいつも私の行動を善意に解釈し、私の手に負えぬような困難事には情状を酌量し、ほとんど仕事を成し遂げなかったときでも、まじめに努力したとして私の面目をたててくれました。

この同情ある御理解は別れのつらさを充分に埋合せしてくれるものであり、この国に長く居留したことをいつまでも嬉しく思い起させることでしょう。

§

私がこれから移る任地は日本に近いので、諸君の仕事やこの国の将来に深い興味を持ち続けることができます。

私は日本の君主や当局、そして国民から大そう親切にしていただいた。

自国民の繁栄を増進するのが私の第一の任務であり、そのためには、この国における外国人の権益はこの国の国民の権益と不可分のものであることを痛感し、 私は両方の利益となるような政策のみを進めてきました。

日本政府は過波期を経て改革活動――私たち外国人の到来によって引き起されたといってもよいが――の広い舞台に出たときに多くの試練や困難と戦わねばならぬことに対して私たちは深く同情すべきであると、私は常に考えてきましたが、これは外国居留民たちの感想であるというべきでしょう。

しかしかくも急速に変革が始められたために、日本における外国人の地位と権益が犯されるような場合には、その変更は慎重に進められるべきであり、熟考に基づいて一歩ずつ進むべきであると、私が主張したのは、私の権利であり義務でもあったのです。

列席の諸君と同じく私の切望するところのものは、日本国民が改革の遂行に当り、政治の動向のみならず、大切な経済と産業の進歩にも真剣に注意を払ってもらいたいこと、国民の福利が現在その富と資源の開発を邪魔している障害物を除去することによって、実質的に増進されるようになることです。

まもなく日本は教育と信教の自由においてなしとげたと同じように、商業においても知性と寛容の評判を自ら獲得するものと信じます。

日本国民は西洋諸国において制限のない歓迎をみな受けるのであるが、日本ではその代りに外国に対して与えている特権〔治外法権〕は、私がこれから赴任しようとしている国で許されているものとくらべて劣っています。

§

ご親切にもこの送別会に出席の方々に申し上げたい。

この会が開かれたのは自発的な暖かい友情によるものであること、私どもと直接関係のない外国居留民が多数出席されたことに、私と娘たちは深く感動しております。

この席に多数の御婦人方が出ておられますが、先ほどの御挨拶にあったように、私が社会的義務を果したこと―私はほんの一部分を受けもったにすぎませんが――それを皆様に暖かく認めていただいたことを示すものと思います。

私と娘たちは皆様の御歓送を心から御礼を申し上げ、ますますの御繁栄を切に祈ります。

§

同国の人たちに一言したい。

旧公使をやさしく送り出していただいたが、同じように、私たちすべてに名声の高い私の後任者(プランケット新公使)に対しても、同様の真心から歓迎していただけるものと思う。

諸君の権益をこの有望な人物の手に委ねることは、私の少なからぬ満足であり、その権益は彼が到着するまでのしばらくの間も、慎重に守られるものと思う。

§

パークス卿のことばは拍手の音に度々遮られ、最後は大喝采が響き渡った。

§

その晩の公式行事はこれで終わり、人々は思い思いに歩きまわって会話を楽しみ、楽団が奏でる音楽に耳を傾けた。

午後11時、パークス卿とその令嬢二人を乗せた車は、万歳三唱の声に送られて会場を後にし、その後特別列車で東京に戻った。

主賓が去ったのちもガーデンではダンスが続き、日付が変わって午前1時を過ぎたころ、その調べはようやく途絶えた。

§

送別会から5日後の8月29日午後、パークス卿は東京丸に乗船し、横浜港から上海に向けて旅立った。

出航の際には居留地のレガッタ・クラブのメンバー全員が灯台の近くまで伴走し、横浜の居留民からの最後の歓声をおくったとのことである。

 

レセプション委員
(カッコ内は勤務先/職業)

《英国》 G.Blakeway(Jubin & Co.)
         Fraser(Mollison & Fraser & Co.)臨時委員
         M.Kirkwood(英国公使館法律顧問)臨時委員
         J.P. Mollison(Mollison & Fraser & Co.)臨時委員
         Rickett(P&O汽船)
         Townley(Lane Crawford & Co.)
         W.B.Walter(Jardin Matheson & Co.)臨時委員
         J.Walter(Siber&Brennwald)
         E.Wheeler(General Hospital医師)
         E.Whittall(保険代理業)
         A.J.Wilkin(Wilkin & Robinson)委員長・臨時委員

《米国》 A.O.Gay(Walsh, Hall & Co.)臨時委員
         J.C.Hepburn(宣教医)

《フランス》J.Boyes(Grand Hotel支配人)   
            Michell(不明)

《ドイツ》 Evers(Simon, Evers & Co.)臨時委員  
      von Hemert(ドイツ・保険代理店)

《イタリア》P.Beretta(自営商人)

《ポルトガル》E.J.Pereira(Hongkong & Shanghai Bank)

《スイス》A.Wolff(スイス・スイス総領事、Siber&Brennwald)

《国籍不明》MacDonald(不明)

 

図版
・Charles Wirgman, The Japan Punch, Aug., 1883(旅行鞄を持っている男性がパークス卿)

参考文献
Japan Correspondence_Vol302_F046(829)P93-94(英国公文書)
The Japan Weekly Mail, 9, 16, June, 4, 11, 25, Aug., 1883
・F.V.ディキンズ 高梨健吉訳『パークス伝』(平凡社、1984)(A.J.ウィルキン氏の送辞とパークス卿の答辞は本書より引用)
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)

 

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■横浜居留地が愛したアマチュア音楽家カイル氏の葬儀

2021-08-29 | ある日、ブラフで

1899(明治32)年1月31日火曜日の午前10時過ぎ、横浜の外国人コミュニティに衝撃的なニュースが飛び込んできた。

横浜商工会議所の書記、オスカー・オット―・カイル氏が石川中村(現 石川町駅付近)にあるフェニックス製材所内で意識不明の状態で発見されたのである。

§

その日の朝9時、カイル氏は本町通りにあるジャーマンクラブのバーでマネージャーのルター氏と話をしていたが、その時はいつも通り元気そのものに見受けられた。

ところがその1時間後、製材所の職員が作業場を見回っていたところ、積み上げられた板の背後にカイル氏が倒れているのに気付いた。

手にはリボルバーを握っており、その銃を口中に向けて発射したようだった。

§

発見当時はかすかに息があり、急遽山手のドイツ海軍病院に搬送したもののもはや手の施しようがなかった。

急を聞いて駆け付けた医師や友人たちに囲まれ午前11時45分、カイル氏はベッドの上で息を引き取った。

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1840年、欧州東部の都市トラッヘンベルク(現ポーランド領)でカイル氏は生まれた。

音楽の才に恵まれていたが、仕事としては医師を目指していたらしい。

しかし結局その道に進むことはなく、米国に渡って南カリフォルニアで金鉱発掘を試みる。

帰化して米国人となり、夢を追い続けたものの成功を見ることはなかった。

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再び船上の人となった彼が次に向かったのが日本である。

当初、名古屋で教師の職を得たが、横浜に移り、1878年に英国人クレーン氏と共同でピアノの調律・販売の事業を起こした。

共に音楽を愛する二人は兄弟のように仲が良かったというが、1880年、クレーン氏の離日により共同経営は解消となる。

その後カイル氏は計理士として働きはじめ、1886年からは横浜商工会の書記を務めていた。

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当時、横浜在住の欧米人紳士の多くがフリーメーソンという一種の友愛組織に所属していたなかで、カイル氏もまた例外ではなかった。

ロッジと呼ばれる支部のいくつかに所属しており、米国南部系ロッジでは最高位のグランド・マスターを務め、スコットランド・イングランドロッジにおいては首席の地位を占めていたこともある。

これらのロッジの上部組織である日本管区の地区大書記を長年にわたり務めるなど、日本におけるフリーメーソンの重鎮であった。

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仕事やフリーメーソンの活動以外でカイル氏がおおいに活躍し、横浜外国人コミュニティの尊敬を集めたのが音楽の分野である。

才能豊かなピアニストとして、また指揮者として、横浜アマチュア・ドラマティック・クラブの音楽担当、横浜アマチュア管弦楽団の指揮者や横浜合唱協会の副会長兼指揮者として積極的に活動し、地域の音楽イベントや慈善活動に欠かせない人物として、彼の名を知らぬものはなかった。

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2月4日(土曜日)、バンド(山下町)61番の新メソニック・ホールでカイル氏の葬儀が執り行われた。

カイル氏が長年務めた横浜商工会議所も同じ建物内にあり、氏にゆかりの深いこのビルはカイル・ビルと呼ばれている。

今日はそこに横浜だけではなく東京からも多くの人が彼の死を悼むために訪れていた。

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参列者のなかにはフリーメーソンの同じロッジのメンバー全員、その他のロッジからも多数、またフリーメーソン以外の主だった居留民や女性の姿も多く見られた。

大ホールだけでは手狭だったので、小ホールとの間の折り戸を開いて会場としたが、それでも席が足りず、廊下や階段の一部にまで人があふれていた。

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一面黒で覆われた会場の柱からクレープ織りの垂れ幕が下がり、二つのホールの間のアーチには、フリーメーソンの用いる黒い布が掛けられている。

そこに描かれている白い点は涙の象徴であり、その下の台座には故人の遺灰をおさめた青銅製の壺が置かれている。

これはカイル氏の友人であり、フリーメーソンの同胞でもあるエルドリッジ医師から提供されたものであった。

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壷の横には、フリーメーソンにおいて故人が占めた33階級の地位を象徴する紫と金に彩られた剣が一振り、宝石が二つ、そして18階級を示す薔薇十字が置かれている。

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祭壇の上にはクレープ織りに覆われたカイル氏の肖像が掲げられており、この悲しい光景を静かに見下ろしていた。

これはエルドリッジ医師をはじめとするフリーメーソンのメンバーからの依頼により、フレデリック・イェート氏が描いた油彩画である。

昨年10月、長年にわたる功績への感謝のしるしとしてカイル氏に贈られたものであった。

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やがて厳かな調べが会場に流れ、式典が始まった。

オルガンを演奏するグリフィン氏もまたフリーメーソンのメンバーであり、故人とは、ともに横浜合唱協会の運営に携わってきた親しい仲間であった。

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エルドリッジ医師、J. G. クリーブランド牧師、E.C.アーウィン牧師、クレーン氏、クラーク氏をはじめとする12名がスコティッシュ・ライト(スコットランド式のフリーメーソンの儀式)に則って、うやうやしく死者を悼む祈りと言葉を捧げた。

薔薇十字など神秘的な展示が施された会場で粛々と行われた儀式は、一幅のしめやかな絵画のように印象深いものであった。

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儀式が終わると、葬送行進曲の調べに送られて一同は静かに墓地へと向かった。

フリーメーソンにおいて故人に次ぐ32階級の地位にあるエルドリッジ医師が、会場に置かれていた剣を手にして先頭に立ち、他のメンバーが遺骨を納めた壺といくつもの花輪を携えて後を歩む。

その後にまた多くの友人知人らが続き、悲しみの行列は長く尾を引いた。

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外国人墓地に着くと再び「聖なる薔薇十字」が置かれ、エルドリッジ医師の言葉から式が始められた。

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数週間前、私は日本のフリーメーソンを代表して、心からの喜びをもって、友人でありまた兄弟でもある人に尊敬と愛の証を贈呈しました。

いま、私たちはその人の遺灰の傍らに立っています。

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彼の墓をそばにして、私はフリーメーソンとしてだけではなく、彼が長年過ごしたコミュニティの一員として、彼を知るすべての人が、故人に対して愛情と尊敬を抱いていたことを証言します。

このあたりで彼を知らない人がいるでしょうか? 彼は幅広く慈善活動を行ってきました。

彼が長年にわたってまるで父親のように世話をしてきた未亡人や孤児たちが証言してくれるでしょう。

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多くの場合、金銭よりもありがたい貴重な助言と積極的な援助という恩恵を受けてきた私をはじめ多くの人々もまた語ってくれるでしょう。

しかも彼はそのために生じる労苦や眠られぬ夜、疲労といった重荷を押し付けることもしませんでした。

しかし彼自身は決して強靭ではありませんでした。

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自らのためではなく、常に他人のため捧げられた極めて厳しい労働と焦燥が彼の命を削り、最近では素晴らしい能力にすら翳りをもたらしていました。

極限まで弱められ、壊され、苦しめられて、最も強靭なものでも耐えられないほど痛めつけられた彼の脳はついに衰弱し始めました。

そして心は脳の要求にゆっくりと応じました。

何よりも痛ましいのは、彼自身がこのことを認識し、避けがたい結末、神のみぞ知る結末を畏れていたということです。

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死に際して彼が犯した過ちはあまりにも悲しく、言葉もありません。

しかし私たち友人の間では、実務家であり、学者、数学者、最高の意味での音楽家、そして広い心の持ち主、仲間のだれにも劣らぬ徳を備えた人物が亡くなったということに誰も異議を唱えないでいただきたいのです。

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どこかで何らかの方法で、彼の疲れた心が甘い休息を見出し、憩いを失った精神が地上では許されなかった幸福を見つけるであろうこと、彼が行った計り知れないほどの善行が報われることを私たちは知っています。

さようなら、私の友人、私の兄弟。

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感情の昂ぶりのために最後の言葉は声にならなかった。

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エルドリッジ医師は赤いバラを1輪手に取ると唇に押し付け、墓に投げ込んだ。

スコティッシュ・ライトのメンバーたちがそれに続き、数本の赤いバラがカイル氏の墓に重なり落ちた。

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アーウィン牧師が弔辞を述べた後、参列者がそれぞれ墓に向かい最後の別れの言葉を告げた。

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東欧の都市トラッヘンベルクに生まれ、横浜に没したオスカー・オットー・カイル享年58。

横浜外国人居留地で愛されたアマチュア音楽家は今も外国人墓地の一画に眠っている。

 

図版:
・カイル氏墓石(横浜外国人墓地1区27) 筆者撮影

参考文献
・The Japan Weekly Mail, Feb. 4, 11, 1899
・The Japan Gazette, Oct. 6, 1898
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)

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