1887(明治20)年は大英帝国臣民にとって君主ヴィクトリア女王の即位50年(クイーンズ・ジュビリー)という記念すべき年であった。
英本国はもとより世界各地に散らばる英国人コミュニティにおいて様々な祝祭が催された。
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それは極東の島国でも例外では無く、横浜や東京に住む英国人たちが祖国の威信を示すべく大々的な祝賀会を計画したことは言うまでもない。
当時の横浜居留地の欧米人人口約1,500名のうち約700名を占める英国人コミュニティを挙げての催しとあれば、横浜の一大イベントといってもよいであろう。
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祝賀会の具体的内容については駐日英国公使プランケット卿をはじめとする公使館、領事館のメンバーや、横浜の外国人商工会議所の会員など、横浜・東京の有力者を中心としたメンバーが検討を進め、同年6月21日を横浜におけるクイーンズ・ジュビリー開催日と決定した。
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当日の様子については英字新聞はもちろんのこと日本語新聞も記事を掲載しているが、英文紙『ジャパン・ウィークリー・メイル』紙が特に詳し詳しく伝えている。
同紙は明治期に横浜で発行されていた三大英文紙のひとつで、ジュビリー当時、発刊元であるジャパン・メイル社の社主はフランシス・ブランクリーであった。
英国公使館付武官として来日し、日本帝国海軍砲術学校主任教師も務めたことでも知られる日本における代表的英国紳士の一人である。
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偉大なる女王陛下の威光をこの横浜において光り輝かせるべく英国人コミュニティが趣向を凝らせた祝祭はどのようなものであったであろうか。
暫くジャパン・ウィークリー・メイルの伝えるところに耳を傾けてみよう。
(以下の文章は1887年6月25日付ジャパン・ウィークリー・メイル紙の記事を筆者が和訳したものである。カッコ書きは筆者による。なお原文はかなりの長文のため一部を割愛した。)
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今年の6月21日は、横浜と東京に住むイギリス人にとって誇らしい思いとともに長く記憶に残る一日となった。
この祝宴が始まるまではいかにも英国人らしく不平不満を鳴らす向きもあったものの、いざ実行となれば英国人の本領発揮とばかりの徹底ぶりを見せたのである。
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このふたつの特徴は、決して相容れないものではない。
人間というものは自分が関心を抱いていることについては、ついついあら捜しをしてしまうものなのだ。
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英国人を満足させるのが難しいとすれば、それは彼らが批判的だからというよりも、むしろ真剣だからである。
批判と批評という英国伝統の習慣が、無関心と無干渉に堕するとき、彼らが築きあげた大帝国が滅びゆくさまを見ることとなるのであろう。
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しかし、私たちはお国自慢のラッパを吹き鳴らそうとはしなかった。
それもまた英国人らしからぬふるまいだからだ。
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とはいえ、祝祭のラッパは晴れやかに響き渡った。
今回のプログラムはすべて大成功を収めたのである。
何より、天候に恵まれたことが大きい。
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日本では6月末に晴天を期待することは難しく、月曜日の午後に雨が降り出したときには、祭りの見通しは実に暗いものとなっていた。
5月に開催するか、10月に延期するのが得策だと説いていた気象予報士気取りの紳士たちは皆、予言的中とばかりに得意げなであった。
しかし、これは天気が彼等に仕掛けた思いもよらぬ罠であった。
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一夜明けた火曜の朝はみごとに晴れ渡り、前日午後の雨は大気を洗い清めるためのものにすぎなかったことが明らかとなった。
そしてこの季節には珍しいほど心地よい爽やかさを与えてくれたのである。
折り紙付きといわれる女王陛下の晴女ぶりがこれほどはっきりと確認されたことはない。
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この催しのすべてにおいて祝典委員会がどれほど労を尽くしたかは想像すべくもない。
横浜の有する資源は事実上、この機会に使い尽くされたといった良い。
あの提灯や垂れ幕のすべてがどこから来たのかは、最後まで謎のままとなるに違いない。
居留地とブラフが丸ごと花で飾られた迷路と化し、そこにピラミッドや富士山、その他の奇妙な姿の塔が建てられた。
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臣民のひとりひとりが自らの役目を立派に果たすべく家を飾り立ててきらびやかな風景の一端を担い、夜ともなれば、さながら炎のごとく光り輝かせたのである。
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ここで、感謝と満足の念を込めて注目したいことは、人々が暮らしを営む地球の約半分の地域に幾千と燃え盛る女王の威光の灯火に、極東の一灯を加えようとしたとき、英国民は他の国籍の友人たちの助けを借りなかったわけではないということである。
ドイツ人、フランス人、オランダ人、イタリア人など、この多国籍コミュニティのあらゆる人々がこの機会を祝うために貢献し、たとえ小さな利害の衝突があろうとも、すべてのキリスト教国が、女王陛下の治世の最大の栄光である文明の進歩に心を一つにしていることを示した。
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祭典はクライストチャーチ(バンド(山下町)105番地。1901年に現在の所在地であるブラフ(山手町)235番地に移転)における特別礼拝から始まった。
この礼拝には、あらゆる国籍の人々が大勢出席し、それは人々の関心の高さを十分に物語るものであった。
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この礼拝のために特別な聖歌隊が編成され、教会オルガニストであるグリフィン氏の入念な指導のもとで特別な訓練を受けてきた。
特に戴冠式の賛歌“司祭ザドク”と国歌の部分では、歌声とオルガンの奏でる音に、カイル氏によるフレンチホルンの音色が加わって、晴れやかに響き渡った。
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11時ちょうどに、詩編旧百番が歌われた。
その後、朝の祈りとなり、詩篇と第一日課の朗読が続いた。
次に聖歌隊が“テ・デウム(賛美の歌)”を歌った。
第2課の後に、合唱団による“ユビラーテ・デオ(神において喜べ)”が続き、祈りと特祷が行われた。
それは次のような言葉による特別な特祷であった、
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全能の神よ、世界のすべての王国を支配し、それらをまた御心のままになされるお方。
私たちは、今日、あなたのしもべである私たちの君主、ヴィクトリア女王陛下をこの王国の玉座に就かせてくださったことに、心からの感謝を捧げます。
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あなたの英知によって陛下を導き、あなたの腕によって彼女に力を与え、正義と真実、神聖さと平和、そしてキリスト教徒に備わるすべての美徳が陛下の時代に花開くように、陛下のすべての知恵と努力をあなたの栄光と陛下の臣民の幸福に向けさせてください。
私たちが良心に従って、明るく、喜びを以って陛下に服従するようお恵みを与えてください。
私たちの罪深い情熱や私的な利益が、公共の利益のために配慮する陛下の心を失望させることがありませんように。
陛下が常に民の心に思いをはせ、民は陛下の人格を敬い、その権威に従順に従う心に欠けることがありませんように。
陛下の治世が長く繁栄し、来世での不滅の栄誉を得られるますように。
私たちの主イエス・キリストを通して。アーメン
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その後、聖歌隊がヘンデルによるジョージ2世の戴冠式アンセム“司祭ザドク”を歌い、さまざまな特祷や祈りを経て、讃美歌“讃えよ油注がれた主を”が歌われた。
十戒の後、女王のための特別な祈りが捧げられた。
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全能の神、天の父よ、私たちの君主ヴィクトリア女王の治世に示されたすべての慈悲と、平和な日々、おだやかな進歩、物質的繁栄、そして宗教と恵みによって与えられた知の力に謹んで心からの感謝をささげます、それらは皆あなたがわが国に豊かに与えてくださったものです。
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さりながら特にこの日、私たちはあなたのしもべである女王陛下のために、あなたが長年にわたって陛下にお与えになった贈り物と、陛下の模範となる行いとその統治において明らかにされたあなたの恵みと知恵のゆえに、あなたの聖なる御名を祝福します。
そして、私たちしもべに祈らせてください。
常にあなたのより多くの助けを受けている女王陛下があなたへの信仰と愛をもって民をこれからも長く統治することを、そしてあなたの僕である私たちに対して哀れみに満ちたやさしさを与え、あなたの目に不快に映るものを捨て去り、すべてにおいてあなたの御心の導きに従い、あなたの知識とすべての正義を高め、あなたの目の前に聖なる国を築き、全世界にあなたへの賞賛を示すことができますようにと。
私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。
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聖餐式の前に第一朗読、第二朗読に続き使徒信経が唱えられた後、讃美歌”聞け、十字架の歌”が歌われた。
説教は、クライストチャーチのチャプレンであるE. C. アーウィン師によって行われた。
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我が同胞よ、兄弟よ、父よ、私たちは今日、ここに、一つの大帝国の市民として集まりました。
私たちにはその国の偉大さを説明する必要も、その国に属していることを自らの手柄ととらえる必要もありません。
なぜならそれは長きにわたる成り行きによって今あるような帝国になったのであり、私たち自身の右手ではなく、私たちの先祖の手によって成し遂げられたものだからです。
しかしながら今日この場にいる人々が、地球上のあらゆる居住可能な地域に進出している帝国の代表者であることは否めません。
そのような者として、私たちは共に集まり、私たちの国と帝国が現在しっかりと確実に統治されていることに感謝の念を表します。
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それは、この50年の間、世界にとって波乱に満ちた半世紀の間、すなわち科学、政治、宗教の巨人たちの働きによって示された活動と知的進歩の時代にありながらも、私たちの帝国がその完全性を維持し、私たちが一人の君主と唯一の神に仕えてきたという事実に少なからず起因していると確信しています。
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同胞市民の皆さん、私はこの市民権を感謝してもしきれないものだと考えています。
特に、女王陛下が統治されてきた50年間、陛下は私たちを平和に統治し、その間に、残念ながら以前の統治に見られたような悪弊は一切なかったことを考えれば、よりいっそうそのように思われるのです。
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陛下が常に国家の問題に関心を寄せられており、いまもなおしっかりと権力を掌握しておられ、またすべての英国人が、陛下が末永く王座に留まられるよう心の底から望んでいることを考えれば、私たちはこのように統治されていることに感謝してもよいのではないでしょうか。
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また、女王陛下の人並外れた美徳に賛辞をおくる必要もないでしょう。
女王の長い治世の間に、時折、一部の人々がそうあるべきと考えるほどには国の利益につなげることができなかったことがあったと仮定することもできますが、常に正しいことを行うことが彼女の意図であったと私は固く信じています。
ですから私たちは、キリストの使徒が「王を敬え」と言ったのと同じように、心をひとつにして「神よ、女王を護り賜え」と言うのです。
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しかし、友よ、今日、私たちにはまだ別の考えがあります。
これほど広範囲にわたる主権を有する国家の市民として、女王陛下を敬うことは当然のことであり、そうすることが自分自身に対してもある程度の敬意を払うことにもなります。
しかし、すべての人を敬い、すべての人にその報酬を与えることは、人間としての特権なのです。
私たちよりも権威ある人々には、彼らが偉大なる主のしもべであるがゆえに仕え、自分よりも豊かな人々には、その富をねたむことなく、神が世界の利益のために彼らの手にそれを授けたと信じるのです。
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私たち一人一人にその栄誉を与えたまえ。
それは人類に与えられたもの。
なぜならば人は神の似姿として作られ、神自身がそのようにお作りになったからであります。
そして、今日、私たちが地上における一つの強大な王国の市民であることを思い出しながら、私たちの市民権がそれよりもはるかに広いこと、私たちキリスト教徒がより高度な意味において兄弟であることを忘れてはなりません。
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それゆえに兄弟愛を大切にしましょう。
私たちは、いま兄弟愛は内面的なものであると信じていますが、それが明白になる時を待ち望みましょう。
そしてこれらすべてのことを行いつつ、私たち皆をお作りになった方を愛し、畏れるように努めましょう。
このお方にこそ永遠の支配と力と栄光がありますように。アーメン。
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ビカステス主教による祝福に続いて、国家が歌われて礼拝は幕を閉じる。
第1節はソプラノ、第2節はアルト、第3節は聖歌隊と会衆が、オルガンの響きにのせて歌い上げた。
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前聖餐式はビカステス主教によって、聖書朗読はウィリアムス主教によって行われた。
第一課はコクレン師、第二ポア・ヒースロップ師、早祷はチョルモンデリー師が唱えた。
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駐日英国公使フランシス・プランケット卿夫妻とその家族、また天皇陛下の名代として長崎氏(宮内省書記官 長崎省吾か)が出席したほか、外務大臣井上伯爵と神奈川県知事大木氏を含む多くの日本政府関係者の顔もあった。
図版(上から):
・クライストチャーチ堂内 写真(筆者蔵)
・バンド(山下町)風景 手彩色写真(筆者蔵)矢印で示した建物がクライストチャーチ。右側に鐘楼が見える。
参考文献:
・The Japan Weekly Mail, March 26, 1887.
・The Japan Weekly Mail, June 25, 1887.
・外務省『本邦各港居留外国人戸数口数取調一件 第二巻一版』(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
・斎藤多喜夫「『ジャパン・ウィークリー・メイル』について」(『復刻版『ジャパン・ウィークリー・メイル』』第1回配本別冊所収、紀伊国屋書店、2010)
・「『横浜パノラマ図』展に寄せて 画像の中のランドマークークライストチャーチの鐘楼をめぐって―」(横浜開港資料館『開港のひろば』平成4年8月5日)