On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■東京の友人らに惜しまれつつも ドクター ウィーラー横浜へ!

2019-01-27 | ある日、ブラフで

エドウィン・ウィーラーは1923(大正12)年9月1日関東大震災により命を落とすまで50年近く、横浜外国人居留地にその人ありと言われた英国人医師である。

本業の医療活動はもとより競馬をはじめとするさまざまなスポーツの愛好家としても活躍し、多くの人に親しまれた。

その人となりがうかがえるエピソードはこのブログで何度かにわたり紹介してきた。

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そもそも英国に生まれた彼が、いつどのような経緯で極東の都市横浜にたどり着いたのか。

横浜居留地の住民となる以前の足跡をたどってみたい。

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1841(天保12)年7月15日、エドウィンはウォルター・ウィーラーとその妻マリアンヌの9番目の子供としてアイルランドのベルファストで生まれた。

現在は北アイルランドの首都として知られる都市である。

ベルファストのクィーンズ大学医学部を卒業。

エディンバラのロイヤル・カレッジで外科医と内科医の免状を取得した後の足取りは不明だが、1869年12月22日(明治2年11月20日)、28歳のときに英国海軍アドベンチャー号の軍医として日本の土を踏んだ。

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翌年3月、医官として東京の英国公使館に着任。

公使館は三田台町聖坂上にあった。

まだ当時、外国人は日本人から襲われる危険にさらされており、万一に備えて西洋医を身近に確保しておくことが重要であった。

事実、1871年1月に大学南校で教師を務めていたダラスとリングという二人の英国人が暴漢に襲撃されるという事件があり、ウィーラー医師は彼らの治療にあたっている。

同じ年の6月にも新潟県に雇用されていた語学教師キングが暴行を受けて重傷を負った。

医師は、東京から土砂降りの中、馬を交換しながら、通常7日かかる道のりを3日間で駆けつけ一命を救ったと伝えられる。

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これら二つの事件と前年8月に築地で起きた小型汽船シティ・オブ・エド号の汽缶破裂事故において治療に尽力したことは、後年、日本政府から勲四等瑞宝章を受勲した際、それまでの功績の一部として公文書に記されている。

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1871年7月、英国公使館付き医官と兼任で日本政府の工部省の鉄道医として採用され、さらに海軍省医師顧問を兼任。

高輪海軍病院でウィリアム・アンダーソン医師の助勤をしながら英国医学を教えた。

この時の講義録が『官版 講筵筆記』としてまとめられ出版されている。

 

『官版 講筵筆記』 ウィーラーの名前の表記には当て字が用いられている

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一方、同年の11月の根岸競馬場で行われた秋季レースに持ち馬であるタイフーン号を出場させたのを皮切りにその後は春秋毎期のレースに参加しており、この頃から定期的に横浜を訪れていたことがうかがわれる。

根岸競馬で活躍したタイフーン号と馬主のウィーラー医師(左端)

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1872年4月に銀座で大規模な火災が起こった。

当時、英国領事館は銀座に近い築地居留地16番にあり、火が間近に迫ったが、ウィーラーは同僚とともに必死の消火活動にあたり、風向きが変わったことも幸いして領事館は無事類焼を免れた。

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1872年秋には新橋横浜間に鉄道が開通し往来はより容易になった。

ちなみにウィーラー医師は10月14日(旧暦9月12日)に行われた開通式に招待を受けて出席している。

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また1873年5月には横浜クリケットクラブの試合に出場しており、この頃はすでに横浜に何らかの拠点をもっていたのかもしれない。

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メアリー・ウィーラー

後に駐日英国大使を務める幕末・明治の外交官アーネスト・サトウとは同時期に公使館に勤務していたことから親しい間柄だったらしく、1874年1月7日、ウィーラー医師が横浜の英国領事館で結婚した際には、同じく公使館の同僚であったアストンと共にサトウが立会人を務めている。

新婦は医師の故郷であるベルファスト出身のメアリー・ムーア嬢であった。

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結婚届の新郎の欄を見ると「エドウィン・ウィーラー、32歳」、職業欄には「公使館、英国海軍」、居住地は「江戸」と記されている。

すなわち1874年1月の時点ではウィーラー医師は横浜の住民ではなかった。

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さて、1874年4月のジャパン デイリー ヘラルド紙に次のような広告が掲載された。

「本日よりE・ウィーラー医師が当院のパートナーとなった。4月1日、シッドル&バックル医院 横浜」

同じ英国人医師として、またクリケット仲間としても以前から交流があったシッドルが横浜に開業していた医院に参加することになったのである。

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そして同年7月15日のジャパン ガゼットの記事は、ウィーラー夫妻がこのときまでに横浜に居を移したことを教えてくれる。

それは1874年7月14日(火曜日)、東京から横浜へ居を移したウィーラー医師の元に、東京在住の友人を代表して6名が来訪し、尊敬と敬意のしるしとしてプレートを贈呈したことを伝えるもので、彼らの惜別の言葉が掲載されている。

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医学博士 エドウィン・ウィーラー殿

ドクター―私たちは、東京居留民を代表して、あなたが離れるにあたり、私たち全員が感じている深い悲しみをここに表します。

東京に住んでいる間、あなたは患者に対する専門的技能と不断の注意力を以て常に多くの人々の感謝と、私たち全員の好意と敬意を受けました。

またその男らしく率直な気質は、あなたの職業的技能を必要としなかった人々からも友情を得てきました。

あなたが去るに当り、あなたと私たちをつなぐもの、すなわち私たちが感じている恩義を何らかの形で表さないわけにはいきません。

そこで東京に残してきた多くの友人を思い出すよすがとなればと、有志が募って1枚のプレートを購入しました。

あなたがいつでも温かい気持ちで私たちに思い出されるであろうことと、あなたのこれからの幸福と繁栄を私たちが心の底から願って。

 

東京居留民を代表して

C. A. マクヴィン、A. L. ダグラス、W. G. アストン、G. F. フルベッキ、C.シェパード、 H. B. ジョイナー

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続いてウィーラー医師からの感謝の言葉が掲載されている。

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紳士諸君、ご親切なお言葉と、共に添えられた素晴らしい贈り物に心から感謝いたします。

しかしながら私があなたたちと東京で過ごした喜ばしい時を思い起こすために、このような立派なものをいただく必要などなかったのです。

そこで経験したまことの親切心、真の友情、共に分かち合った幸福を忘れることなど絶対に不可能でしょう。

ここにおられる諸君と、諸君とともに思いを表してくれた首都の居留民の多くの皆様に、心からの感謝を申し上げます。

 

エドウィン・ウィーラー

1874年7月14日 横浜67番地

 

図版(上から)

・エドウィン・ウィーラー肖像(ピーター・ドッズ氏 蔵)
・タイフーン号とウィーラー医師 The Far East, July 1, 1872(横浜開港資料館 蔵)
・『官版 講筵筆記』(筆者蔵)
・メアリー・ウィーラー肖像(ピーター・ドッズ氏 蔵)

参考資料
・Japan Correspondence_Vol144_F046(394)(英国公文書)
・Japan Correspondence_Vol153_F046(419)_P025-033(英国公文書)(ウィーラーの生年はこの史料に基づく)
The Army and Navy Gazette, February 19, 1870
The Japan Gazette, July 15, 1874
The Japan Gazette, July 15, 1922
The Japan Gazette, August 15, 1898
The Japan Weekly Mail, August 6, 1870
The Japan Weekly Mail, January 14, June 24, July 8, 1871
The Japan Weekly Mail, October 19, 1872
The Japan Weekly Mail, May 31, 1873
The Daily Herald, April 4, 1874
The Japan Directory, 1875
・『米国人医師スチュアート、エルドリッジ以下四名勲位初叙並進級ノ件』内閣公文書、1897
・『御雇外国人一覧』(中外堂、1872)
・『各庁雇外国人明細調_太00286100』
・川﨑晴朗「明治時代の東京にあった外国公館(4)」『外務省調査月報』2014 No. 1所収
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
・立川健治『文明開化に馬券は舞う 日本競馬の誕生』(世織書房、2008)


 

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