日本人として初めてオルガンやピアノを量産したのは西川虎吉であることが知られている。
彼に製造方法を教えたとされているのが、二人の外国人、英国人ウィリアム・クレーン氏とアメリカ人オットー・カイル氏。
1878(明治11)年横浜で設立された楽器商クレーン&カイル商会の共同経営者である。
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クレーン氏は1833(天保4)年シンガポール生まれ。
来日したのは1863年で、当初は西インド中央銀行の横浜支店に勤めていたが、1865年11月にパーカー氏の写真スタジオの経営に参加したほか、いくつかの職を経て1874年頃には居留地117番地でピアノ調律師を開業。
1875年には日本人・村瀬登茂を妻に迎えている。
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一方のカイル氏は1840年、トラッヘンベルク(現 ポーランド領)に生まれた。
若くして米国に渡り帰化。
南カリフォルニアで金鉱採掘を試みたが成功せず日本に渡った。
1874年から3年間、名古屋の愛知外国語学校で教師を務めた後、1877年に横浜に移りクレーン氏と共同でバンド(山下町)149番地にクレーン&カイル商会を設立したのである。
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クレーン氏は主にヴァイオリン、カイル氏はピアノを得意とするアマチュア音楽家でもあった。
彼らはそれぞれ居留地の音楽会に何度か出演し腕前を披露している。
ともにフリーメーソンの会員であり、仕事でも趣味の上でも良き相棒であったと思われる。
7つ年の離れた二人は互いを兄とも弟とも思っていたのかもしれない。
当時の新聞は彼らを「(音楽の上での)シャム双生児」に例えているほどである。
しかしその記事は、短い間ではあったが意気投合した二人のうちの一方が横浜を去るにあたって催された送別演奏会の模様を伝えるものであった。
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1880年4月6日(火)の夜、間もなくアメリカ合衆国に旅立つクレーン氏の送別演奏会が横浜居留地(バンド)68番のゲーテ座で開催された。
46歳の氏がなぜ17年間暮らした横浜を離れ、日本人の妻とその間に設けた子らを伴って、故国である英国ではなく米国へ向かおうと決断したのか。
当時の新聞には氏の健康上の理由を示唆する記述もあるが、残念ながら確たる証拠はない。
演奏会の開催にカイル氏が尽力した様子がうかがわれることから、会社の共同経営にひびが入っていたとも思われない。
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この日のプログラムは6曲ずつの2部構成で、多様な人びとの好みに応えられるよう綿密に計算されていた。
出演者はクレーン、カイル両氏をはじめ、古くからの横浜の有名な音楽家であるワーグナー氏、ブラック氏など6名である。
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ドイツ人クリスチャン・ワーグナー氏は61歳。
1872年の来日以来、プロの音楽教師、演奏家、指揮者として横浜の音楽シーンを担ってきた一人である。
片や歌手を務める英国人ジョン・レディ・ブラック氏は1864年に来日した54歳。
横浜で英字新聞「ジャパン・ガゼット」や「ファー・イースト」を創刊するなどジャーナリストとして名を馳せた人物だが、プロの歌手としても著名である。
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夜9時、いよいよコンサート開幕。
長年にわたる居留地の友との惜別の催しにしては、空席が目立つのが惜しまれたが、最初の曲、クレーン、カイル両氏のピアノ連弾によるウェーバーの祝典序曲が始まると観客席はたちまち熱気に包まれた。
人々は音楽上のシャム双生児による限りない生気に満ちた旋律が飛翔するのを感じた。
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続いて男声の小コーラスがスマート作曲の“ライン川の伝説”を見事に歌った。
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次はクレーン氏によるヴァイオリン・ソロ、ベリオ作曲の“エア ヴァリエ 6番”。
出だしこそやや緊張気味だったものの、氏は難解なヴァリエーションを見事に弾きこなした。
生き生きとした喜びととろけるような情熱を感じさせる繊細な演奏であった。
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続いてロバンディ作の“ア レトワール コンフィデンテ”という歌曲を、フランス人の若い音楽愛好家ファルク氏がクレーン氏のチェロの伴奏で歌った。
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そして前半の山場、モーツアルトのピアノ、ヴァイオリン、チェロ作品16番は、カイル氏がピアノでリードし、クレーン氏がチェロ、ヴァン・リッサ氏がヴァイオリンで伴奏した。
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ブラック氏によるブラハム作“ネルソン提督の死”の独唱で第1部は、幕を閉じた。
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休憩を挟み、第2部もまたクレーン氏とカイル氏のピアノ連弾で幕が開いた。
ベートーベンのレオノーレ序曲である。
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ファルク氏によるスキュデリ作の“純粋な眠り”の独唱の後、ワーグナー氏のフルートとカイル氏のピアノによる“オペラ ソムナンブラの主題”(ベネディクト/ツーロン作)のデュオ・ブリリアントが続く。
ワーグナー氏はソロのパートを見事に演奏し、すべての聴衆に喜びを与えた。
賞賛の言葉は尽きることなく、アンコールの声がしきりに続いた。
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次いで、再びブラック氏が登場し“マクグレガーのギャザリング”を披露。
カイル氏のピアノ、ヴァン・リッサのヴァイオリン、クレーン氏のチェロによる、ベリオ作の“オペラ ノムラ風に”、ビショップ作の“さあ、森へ行こう”の合唱でコンサートは幕を閉じた。
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歌唱の栄誉はベテランのブラック氏と、アマチュアの新人ファルク氏が分け合ったといえよう。
演奏者としてはクレーン氏もヴァン・リッサ氏も極めて正確に務めを果たしたが、最も豊かで繊細な技を披露したのがカイル氏であることは言を俟たない。
演奏ばかりではなく舞台の調整など裏方もかいがいしく務め、まさに彼こそがこの舞台の要の役を果たした功労者と見受けられた。
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演奏会の2ヵ月後の新聞にクレーン氏との提携を解消する旨の告知がクレーン&カイル商会名義で掲載された。
クレーン氏一家がシティ・オブ・ペキン号で横浜港からサンフランシスコへと旅立ったのは、それから約10日後、6月19日のことであった。
図版:
・(トップ) クレーン&カイル商会によるクレーン氏との提携解消の告知(The Japan Gazette, June 9, 1880)
・6月19日出発の乗船客名簿(The Japan Weekly Mail, June 19, 1880)
参考資料
・Chronicle and Directory, 1866
・The Japan Gazette Directory, 1874
・The Japan Weekly Mail, April 3, 1880
・The Japan Weekly Mail, April 10, 1880
・The Japan Gazette, April 7, 1880
・The Japan Daily Herald, April 7, 1880
・小山騰「明治前期国際結婚の研究:国籍事項を中心に」『近代日本研究Vol. 11, 1994』所収
・松本雄二郎『明治の楽器製造者物語 西川虎吉 松本新吉』(三省堂書店、1997)
・『横浜風琴洋琴ものがたり』(横浜市歴史博物館、2004)
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
・奥武則『ジョン・レディ・ブラック 近代日本ジャーナリズムの先駆者』(岩波書店、2014)
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