1904年6月最初の金曜日の午後、今日はヨコハマモダンスクールの表彰式の日である。
会場となったパブリックホール(山手町256・257番地)には生徒やその保護者、学校関係者など大勢の人々の姿があった。
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ヨコハマモダンスクールは現在校長を務める英国人ミットフォード氏が前の年に設立した新しい学校である。
対象としているのは欧米人居留民子弟の男子で、中学校と、英国の高校にあたるプレパラトリー・スクールを兼ねていた。
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表彰式は、司会を務める横浜居留地の名士、モリソン商会のモリソン氏の挨拶から始まった。
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紳士淑女の皆さん、私は横浜に幾分長く住んでいるため、名誉にもというか災難にもというべきか、これまでクリケットクラブから商工会議所、戦争救済のための芝居の上演まで、さまざまな場面で長という役目を務めさせていただきました。
しかしながら学校集会の議長をおおせつかったのはこれがまさに初めてのことであります。
ですので慣れない状況において私がつまらないことを申し上げたとしてもどうか大目に見てくださるようお願いしておきます。
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会場の空気が和んだところで、モリソン氏はまず横浜居留地での教育への取り組みの歴史について語り始めた。
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古くからの住人として、また息子を持つ親として、私は横浜の住民たちが長きにわたり、よい学校を望む切実な声上げ続けてきたことをよくよく認識しております。
そして実際に学校を設立しようとする試みが幾度もなされました。
女王陛下の在位50周年記念事業として英国人住民が熱心に取り組んだ結果1887年に開校したヴィクトリア・パブリックスクールは、その中でも最も深く記憶に残るものです。
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この学校は多くの人々の好意に支えられてスタートしました。
最初はヒントン校長のもとで、その後ヒントン氏の助教を務めていたファーデル氏が校長を引き継いでからは、極めて優秀な教師であるエバーソルド嬢の協力を得て、この学校は数年にわたり少なからぬ成功を収めてきました。
そのことは今なお多くの若者たちが証言してくれます。
エバーソルド嬢はもともと少年たちのための学校を運営しており、現在居留地にいる若者の多くが彼女によって初等教育を受けました。
それは素晴らしいものでした。
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しかしながら、私の考えを申し上げれば、様々な理由からヴィクトリア・パブリックスクールは成功を持続させることはできませんでした。
むしろ学校の終焉とそれにいたる数年間はほとんど失敗と言わざるを得ないものでした。
とは言いつつもそれは何も残さなかったというわけではなく、それどころか横浜の次世代を担う世代の教育に貢献しました。
当時の生徒の多くが未だにヒントン氏とファーデル氏のもとに過ごした日々を懐かしく思っていることは間違いありません。
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男子校を設立しようという次なる試みはシュール氏によってなされました。
ウィントンハウスアカデミーです。
この学校は大きな成功を収めました。
シュール氏は私的な理由で英国に行かざるを得なくなりましたが、私の記憶が正しければ、その時点で生徒の数は40名を超えていました。
このことは、良い学校に行く機会があれば、生徒はいつでも集まってくるであろうことを示しています。
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残念ながら、シュール氏は自分の不在をごく短期間と考えていたため、その間の学校維持に十分な手を尽くすことができませんでした。
彼が横浜に戻らないと最終的に分かった時点で、まるでトランプでできた建物のように組織全体があっけなく崩れ去ってしまいました。
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ウィントンハウスアカデミーが閉校した時期ははっきりとしないが、1901年頃と推測される。
ミットフォード校長がヨコハマモダンスクールをスタートさせるのは1903年だが、モリソン氏の話がそちらに移る前に、ミットフォード校長の経歴について少し説明しておこう。
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チャールズ・ユスターシュ・ブルース・ミットフォードは1875年7月31日、インド南部の都市マイソールにて英国出身のジョン・ウィリアム・ビアとその妻マーガレットの息子として生を享けた。
9歳で父親を、12歳で母親を亡くした後、インドを離れて英国で教育を受け、ロンドン大学で学士号を修得する。
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その後の足取りは定かでないが、1902年には山東半島北部東岸の港湾都市、威海衛(現 威海)の英国学校の校長を務め、威海に関する案内書を著したことが分かっている。
そして翌年初めには威海衛での職を辞して日本に向かった。
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すでに中国で教育者としての経験を積んでいたミットフォード氏は、横浜で欧米人子弟のための学校が求められていることを耳にして自ら学校設立に乗り出そうと考えたのであろう。
1903年の1月には早くも新聞を通じて生徒募集の告知を行っている。
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ミットフォード氏はこれまで横浜においていくつか同様の試みがなされ、そしてついえたことを知っていた。
そこで自分の学校が同じ轍を踏まぬために次のような戦略を立てた。
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第一に生徒を欧米人の男子生徒に限ること。
欧米人居留民の中に、自分たちの子どもを日本人や欧亜混血児と一緒に学ばせることをよしとしない空気があり、それが過去の学校の敗因のひとつとなっていたことに気づいていたのであろう。
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第二に日本人を対象とした夜間の英語学校を併設すること。
同じ施設を昼は外国人児童の、夜は日本人の学校として活用することで安定した収入を確保しようとしたのである。
各々の学校は「ヨコハマモダンスクール」、「アングロ-ジャパニーズ アカデミカル インスティチューション(後に「モダーンスクール附属英語夜学校」とも)」と名づけられた。
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さていよいよ開校したヨコハマモダンスクールの足取りについて、ふたたびモリソン氏の話に耳を傾けることとしよう。
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さて、それまでの失敗から私たちを救うために手を差し伸べてくれたのがミットフォード校長です。
そして今日あらゆる観点から見て、彼がこの教育機関を永続的に成功させることができると期待することができます。
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私の知る限り、開校当初はあまり希望が持てる状態ではありませんでした。
最初の年の学籍簿に記された生徒数は7,8名を数えるのみでした。
実際、その時点での見通しは暗いものでした。
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その頃、ミットフォード氏は香港での仕事を打診されており、そのことを私に相談していました。
学校に関する不安から解放されることを望むあまり、その申し出を受け入れようとしていた―そう考えても間違いではなかったでしょう。
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私は、彼が横浜を去ることは、私たちにとって明らかな損失であると感じました。
ここでまた横浜における教育に関する試みの失敗の記録にもう1行を加えることになれば、この先だれかが挑戦しようとしても結局は思いとどまってしまうだろうと考えたのです。
そこで私は彼にここに残ってくださいと言いました。
しかるべき人物には必ずや活躍の場と機会が与えられるのだからと。
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こうも言いました。
あなたは名を成そうとしつつあり、あなた自身の学校において自らの考えを何にも邪魔されずに果たしていくことができる。
そしていったんコミュニティの信頼を得ることができれば、間違いなく成功を手にできるのだと。
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それからまだ2年もたっていませんが、7、8名の生徒で始まった学校には現在30名が在籍し、今後さらに数を伸ばすことが期待されています。
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ご存じのように、ミットフォード校長はそれに備えるために、完璧な資格を有する有能な教師の助けを得る必要があることに気づきました。
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そうしてほんの数日前、アージェント氏が到着されました。
この機会に、生徒らの両親に代わって歓迎の言葉を述べさせていただくことを大変うれしく思います。
ミットフォード校長には、これまでの実績に心からの祝福を送ります。
彼の努力の成果として完全な成功がもたらされることを期待しています。
これは私の言葉ではなく、ここにおられる全員の願いであると確信しています。
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モリソン氏のあたたかい言葉に迎えられて、今期の運営状況について報告するために校長が登壇し、学校の現状について詳細に説明にした。
そして最後に誇らしげに次のように述べた。
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私たちが目指しているのは、人生の闘いに欠かせないすべての条件を備えた、男らしい、正直で、真面目で勤勉な青年を輩出することです。
そのために向けて時間やエネルギーを費やすことは、極めて価値のある目的を達成するためのささいな犠牲にすぎないと私たちは見なしています。
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続いて成績優秀者の表彰が行われ、名前を呼ばれた生徒にはフィールズ牧師から賞品が贈られた。
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こうしてヨコハマモダンスクールの表彰式は無事幕を下ろし、生徒たちは夏休みに突入した解放感に顔を輝かせながら意気揚々とパブリックホールを後にしたのである。
参考資料
・The Japan Gazette Directory, 1901, 1902
・The Japan Weekly Mail, Oct. 4, 1902
・The Japan Weekly Mail, Jan. 3, 1903
・The Japan Times, Jan. 11, 1903
・The Japan Weekly Mail, July 4, 1904
図版
・ミットフォード校長肖像写真(Francois Bruce-Mitford氏所蔵)
・J. P. モリソン肖像写真(公益社団法人 横浜カントリーアンドアスレティッククラブ蔵)
・生徒募集広告(The Japan Gazette, Aug. 27, 1903)
中学・高等学校教育
ヨコハマモダンスクール
欧米人子弟限定
生徒の学習経験に基づく現実的な授業料
9月9日より秋学期開始
次の方々からご推薦いただきました
クロード・マクドナルド駐日英国公使(バス勲章、聖ジョージ・聖マイケル勲章受勲者)、
W. P. G. フィールド師(文学博士)、C. V. セール様、J. P. モリソン様、ジェームズ・ウォルター様、
J. H. スチュワート・ロックハート閣下(聖ジョージ・聖マイケル勲章受勲者)、
英国下院議員W. H. ホーンビィ准男爵
入学案内書(新版・図版入り)進呈 希望者は校長まで。
横浜山手町22番地
・『横浜貿易新報』明治38年5月14日