
モリソン氏は、続いてブラフ(山手町)の初期の建物について語り始めた。
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初期のころ、英国軍駐留地からブラフ(山手町)沿いに現在H. D. C. ジョーンズ氏の家(山手町160番地)が建っているあたりまで、さらにそこから先も、外国人の住宅は全くありませんでした。
草原と藪に木々が生えているだけで、その名の通りブラフ(絶壁)そのものでした。
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また、現在グリーン氏の住まいがあるところ(山手町46番地B)のちょうど向かいのあたりに、日本人の老婆が収穫したカキを売る屋台があったのを覚えています。
その当時は、現在あるような汁気たっぷりのものを食べるよりは危険が少ないように思えたものです。
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このような横浜周辺の記憶は1867年1月に初めて来た時のもので、滞在はせいぜい2、3週間のことでした。
永住するための準備が整うと、身の回りの整理のために上海に戻りました。
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その頃の汽船のルートもご興味を引くかもしれません。
上海との行き来は外回り(アウトサイド トラック)と呼ばれていた直行便で、外国船が瀬戸内海を通ることはできず、神戸港はまだ海外との交易には開かれていませんでした。
P&O気船のアデン号(スクリュー船)、ギャンジ号、シンガポール号(いずれも外輪船)で旅行したのを覚えています。
1867年2月に上海に戻る旅では、同乗していたR. D. ロビソン氏に初対面しました。
私の古い友人です。
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上海から戻った5月、建設業者がブラフと居留地で盛んに仕事を進めていました。
私が不在にしていた間に英国公使館(山手町120番地)が現われて、庭なども含めて、現在メンデルソン夫人宅とミッションスクールとバグナル氏邸などがある土地すべてを占めていました。
現在ブルーム氏とハームセン氏の家がある場所は書記官の邸宅でした。
辞書で有名な老ヘボン医師は現在ペイン氏の家がある場所(山手町245番地)に住んでいました。
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ブラフをかなり北東に行ったところ、159番地にキャプテン・マクドナルドが“The Firs”(「モミの木」 )を建て、ジョーンズ氏の家がある場所には、グラウェルト兄弟の一人が建てた和洋折衷の理想的な素晴らしい平屋が、同じくらい素晴らしい庭の中央にあり、全体として魅惑的な一幅の絵のようでした。
何人かの自然愛好家たちはそこを「パラダイス」と名付け、長い間その名で知られていました。
現在その一部はリンガー夫人宅(山手町166番地)となっています。
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ブラフの反対の端には、その頃の一流企業マクファーソン アンド マーシャルのW.マーシャル氏が、現在のヒーリング氏の邸宅(山手町20番地)から地蔵坂と本通りが交差する角までを所有しており、ちょうどヒーリングス邸の立っているところに広大な平屋があり、そこから角までの残りの場所は魅力的な庭となっていました。
極めて背が高いことから「長いマクファーソン」として知られるマクファーソン氏は皆様ご存知の通り、彼の名にちなんで命名された丘の発見者でした。
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マーシャル氏は、現在上海でP&O汽船のエージェントを務め、自身も神戸と横浜で何年か過ごしたことのあるA.M.マーシャル氏の父上です。
マーシャル氏
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A.J.ウィルキン氏もまたその頃2番地に住まいを持っていました。
古くからの住人にはなじみ深いベアト氏も平屋を完成させたのち、現在ジュエット氏が住んでいるところに引っ越しました。
そして現在デイヴィス氏の住まいのあるところ(山手町216番地)からコールマン氏のところ(山手町214番地)まで次々と平屋を建て始め、その並びは貧弱な安普請であったことから「ベアトの爪楊枝」と呼ばれました。
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いっぽうマーシャル氏の邸宅は長い間、「ウィンザー キャッスル」と名付けられていました。
なぜならマーシャル夫人は私たちの小さな社交界においてまぎれもない女王として知られていたからで、彼女の住まいは、寛大なもてなしへと続く開かれた扉であると思われていたからです。
マーシャル夫人
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社交界という言葉で私が思い出すのは、私がここに来た頃、士官の妻をのぞけば、ご婦人の住民というのは片手の指で数えるほどしかいなかったことです。
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建物の話を終える前に、もうちょっとで忘れるところでしたが、ブラフの最も古い住人のことに触れねばなりません。
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「カラスの巣」として知られていた所のことです。
それは現在の263番地を過ぎて伸びる尾根の最先端にありました。
私が覚えている一番近い所は、亡くなったジョンストン氏の家が建っている場所(山手町133番地)です。
これはその頃、木が覆い繁っていて、狭い道を入らねばならず、田舎といってよいと思われていました。
「カラスの巣」はジョージ・デアとジュリアス・デアが建てて住んでいたところです。
大昔ブラフにあったこの興味深い住居の写真を今宵お見せできないのは残念なことです。
私が以前に講演したときにはもうなくなっていました。
(次回につづく)
*本文中、カッコ書きの番地は当時のDirectoryに基づいて筆者が推察し、加筆したものです。
図版:
・英国領事館写真(横浜開港資料館 蔵)
・マーシャル氏肖像写真(Jhon Marshall氏 蔵)
・マーシャル夫人肖像写真(Jhon Marshall氏 蔵)
参考資料:
・J. P. Mollison,‘Reminiscences of Yokohama', Japan Gazette, Yokohama, January 11, 1909
・The Japan Weekly Mail, January 9, 1909, January 16, 1909
・斎藤多喜夫著『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
講演で語られている場所をモリソンの説明から推察して図示。左より
赤:英国公使館
紫:ジョージ・デアとジュリアス・デアの「カラスの巣」
茶:「パラダイス」
黄:キャプテン・マクドナルドが建てた“The Firs”(「モミの木」 )
青:マーシャル氏の邸宅「ウィンザー キャッスル」
緑:「ベアトの爪楊枝」
赤の斜線:A.J.ウィルキン氏の家