♪ あなたと二人で来た丘は… の歌で有名な「港の見える丘公園」は、横浜開港期に外国の軍隊が駐留した場所に戦後つくられた公園である。
丘の下にフランス軍、上に英国軍のキャンプがあったことから外国人居留民たちからは「キャンプ ヒル」と呼ばれ、1875(明治8)年に軍が全面撤退し、後年、跡地にフランス領事館や英国海軍病院などが建てられてからもその名は残った。
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外国商館の建ち並ぶビジネス街・山下町(バンド)から谷戸橋を渡り、キャンプ ヒルを左手に見ながら丘を上がってゆく坂が谷戸坂で、勾配はさほどきつくないが、大きくうねった幅広い道が300メートルほど続いている。
登りきったところからは山手本通りと名を変えて外国人居留地である山手町(ブラフ)を進んでゆく。
山手に住む外国人達の多くにとっては通勤や買い物に際に必ず通る慣れ親しんだ道であった。
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坂の途中には、行きかう外国人らを目当てに土産物屋や写真館などが狭い軒を連ねており、英語日本語の看板をにぎやかに掲げ、ショーウィンドウには絵葉書や写真がずらりと並んでいる。
その裏手に建つ商店主や職人らの住居を含め、このあたりの日本人集落は谷戸村と呼ばれていた。
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坂道を隔てた谷戸村の向かいにもいくつかの建物が並んでいたが、その背後の丘陵に建つ一軒の邸宅には1876(明治9)年から関東大震災まで約40年間にわたり英国人医師ウィーラー一家が住んでいた。
約5千平米という広大な敷地には家屋のほかにスポーツ好きの一家にふさわしくテニスコートが設けられ、二つの出入り口の一方からは外国人墓地の脇を通って山手本通りへ、もう一方からは谷戸坂の途中へと出ることができた。
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店主と客、人力車夫と乗客、使用人とその雇い主、はたまたご近所に住まう隣人として、日本人と外国人が近しい距離にあった居留地時代の谷戸坂付近。
そこで起こったいくつかの事件を当時の新聞から拾ってみたい。
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1897年11月25日(木)早朝4時15分頃、谷戸坂(キャンプ ヒル)のビレッジのウィーラー医師邸入口のほぼ向かい側に位置するあたりの家屋(元町1丁目2番地)から突然火の手が上がった。
モルギン隊長率いる居留地消防隊員らが居留地238番からホースリールとスタンドパイプを携えて直ちに出動。
警察消防隊員分隊も現場に駆け付けた。
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村の裏手の道路内の給水栓からかなりの量の水が供給されたが、火元の家屋(馬具製造業・オハラ ニサブロウ宅)からの類焼を食い止めることはできず、家屋5軒が全焼のほか1、2軒が多少の損害を被ったところで鎮火した。
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村が全焼した火事からわずか5年しかたっておらず、当時の記憶が鮮明であったためか、同様の事態を恐れた住人らは慌てて家具をはじめとする家財を安全な場所に移そうと奔走。
保管場所に選ばれたウィーラー邸の敷地内には村人の家財のうちのかなりの分量が持ち込まれた。
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火は5時15分ごろ消し止められた。
出火の原因は不明だが、過失によるものとみられる。
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ウィーラー医師と共に記事中に名の見える外国人モルギンとは、当時、居留地消防隊(ヨコハマ・ファイアー・ブリゲード)を率いていたニコラ・モルギンである。
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ダルマチア(現在のクロアチアの一部)出身で、1864年オーストリア軍艦の兵曹長として来日。
その後1872年に再度来日し、横浜で牧場経営に携わったのち、1881年、居留地消防隊日本人部隊の監督に任命された(頭取は石橋六之助・通称「ゴミ六」)。
居留地に限らず市内の火事には必ず駆けつけることで、外国人のみならず日本人にも名を知られた名物男であった。
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日本における消防の歴史に名を遺したこの人物の墓は谷戸坂にほど近い横浜外国人墓地にある。
図版:手彩色絵葉書(筆者蔵)
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, November 27, 1897
・The Japan Gazette, May 18, 1907
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』 (有隣堂、2012年)