バンド(山下町)とブラフ(山手町)を結ぶ交通の要所であり、居留民たちにとって生活の足となる馬車や人力車、必要な物資を運ぶ荷車などが往来していた谷戸坂。
時には交通のトラブルも起きた。
当時の英字新聞から交通事故の記事を二つ紹介しよう。
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1902(明治35)年11月29日(土)午後2時頃、キャンプ ヒル(谷戸坂)で「ひどい混乱(serious mix-up)」が起きた。
B. H. ベッツ夫妻と夫人の姉妹の3人が、別当を伴って1頭立軽馬車で坂を下りようとしていたところ、ちょうどウィーラー医師邸への入口を過ぎたあたりで、荷を山積みにした荷車が、左右に折れ曲がりながら下から上がって来た。
坂道を比較的容易に登るために、荷車は通常このように運行する。
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どちらの方向に向かっていた時か定かではないが、荷車が馬車と衝突し、馬が驚いて坂道を駆けおり、乗っていた3名は道路に投げ出された。
ベッツ夫人が最も重症で左腕に深い傷を負い、胸を強く打って人事不詳に陥った。
夫人の姉妹も同様に強い衝撃を受け、ベッツ氏も左足を負傷した。
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ベッツ夫人はナガサキ写真店に運び込まれ、知らせを受けて駆けつけたウィーラー医師によって手当てを受け、その後帰宅した。
別当は無傷だった。
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ケガ人が運び込まれたナガサキ写真店は谷戸坂に軒を並べる商店の一つと思われる。
誰かが谷戸坂から医師の家に続く小路を駆けのぼって急を告げ、ウィーラー先生を引っ張って来たのかもれ知れない。
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ところが事件はこれだけでは済まなかった。
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乗っていた人々を振り落した馬車はそのまま坂を駆けおり、横浜アイスワークスの向かいに停車していた人力車に突っ込み、衝突して双方が被害を被った。
幸い人力車に客は乗っていなかったが、馬はひっくりかえり、車夫も軽傷を負った。
車夫は自分と商売道具の被った損害について補償を受けた。
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横浜アイスワークスは歴史ある製氷工場で、谷戸坂の登り口の右側に建っていた。
その向かいの道端で客待ちをしていた人力車。
やってきたのは客どころか疾走する馬である。
何とついていないことか。
被害を弁償してもらえたのがせめてもの救いといえよう。
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次に紹介する事故は、日本語の新聞でも取り上げられている。
2紙で内容が多少異なっているが、被害者の名前が一致することから同じ事故を指していることは間違いない。
日時は英字新聞に従った。
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1904(明治37)年9月6日(火)午後5時過ぎ、谷戸坂にて驚くべき事故が起こった。
山手警察によると、ブラジル領事H. V. ギーレン夫人を乗せた馬車がウィーラー医師邸の入口に差し掛かったところで、突然、犬が吠える声がして、これに驚いた二頭の馬が、御者が必死に抑えるのもきかずに駆けだし、間もなく人力車1、2台と衝突した。
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連結していた馬具が壊れて馬が逃げだし、馬車は転覆。
ギーレン夫人は馬車の窓ガラスが割れたため頭と手に傷を負い、御者・山野平吉(33歳)も左大腿骨を骨折した。
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ふたりは直ちにウィーラー医師宅に運び込まれて手当てを受け、夜には帰宅した。
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犬の吠える声に怯えた馬が暴走してしまったための事故である。
馬車に乗っていた外国婦人と御者(英字新聞では最初の記事にもあった「別当」という名称が使われている)が深手を負ったようだが、医師の手当てが早かったためか、その日のうちに自宅に戻ることができた。
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事故に巻き込まれた人力車の被害については触れられていないが、客を乗せる台座と柄の間に身を置く車夫が、突進してくる馬を機敏によけられるはずもない。
何らかの被害にあったもののさほど深刻ではなかったということか。
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ウィーラー医師はブラフ97番地に関東大震災が起こるまでの40年余りにわたって住んでいた。
目と鼻の先である谷戸坂で起きた交通事故の被害者を医師が救ったのは、ここに紹介したふたつのケースだけではなかったかもしれない。
図版(2点とも):手彩色絵葉書(筆者蔵)
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, December 16, 1902
・The Japan Weekly Mail, November 10, 1904
・『横浜貿易新報』明治37年9月9日