On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■横浜生まれの音楽家ヴィンセント氏の旅立ち(前編)

2019-12-31 | ある日、ブラフで

1909(明治42)年12月22日(水)、今日は横浜文芸音楽協会のクリスマス集会である。

ブラフ(山手町)178番地のヴァン・スカイック・ホールには午後8時半過ぎごろから地元の外国人会員らが集まり始め、協会会長であるモリソン氏とその夫人の出迎えを受けた。

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ホール側面の壁とギャラリーには万国旗が掲げられ、演壇にはポインセチアなどの鉢植えが飾られている。

クリスマスにふさわしいこのような演出は、協会の委員会メンバーであるホール嬢、E. S. ブース師、T. ゴードン・ケンダーディン、R. H. ボックス各氏の指示のもと、マクベス夫人とD. H. ブレイク夫人の助けを得て行ったものである。

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夜9時、会場は約300名の観客で埋まり、最初の曲、マートン作“Bridal Rose”を演奏するビージュ・オーケストラが演壇に上がった。

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ブラフではおなじみのビージュ・オーケストラのメンバーは、ソーン、C. D.キャンベル、G. G. フランクリン、H.S.ステツォン、J.K.カドウエル、W. グラハム、ニプコウ、D. キャメロン、W. ブランデル、A. ティップル各氏。

本日の出演者はほかに、モリソン夫人、スペナースミス夫人、ニプコウ氏、G. G. ブラディ氏、W. M. スチュワート氏、W. H. ルイス氏、S. H. サマトン氏が予定されている。

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開会にあたって会長のモリソン氏が挨拶を述べた。

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本日の集いは本協会の歴史においてきわめて重要なものです。

なぜなら協会の活動がまもなく25年目を迎えようとしているからです。

そしてその集いを、協会の活動に縁があり、たくさんの思い出もあるヴァン・スカイック・ホールで行うことにしました。

委員会が整えた準備が会員の方々の意にかなうものであることを願っています。

横浜音楽文芸協会は、レベルの高い音楽と文芸の催しを安価でご提供しています。

この活動が横浜の人々にとって有益なものであることは疑いありません。

隔週に行われているこの催しは毎回コミュニティによって評価されています。

また協会は、交流を盛んにし、友情を育むうえでも多くの役割を果たしており、このことを思えば会員名簿に全住民の名前が揃っていないのは驚くべきことです。

協会がこれからも役立つ実績を重ねていくことを聴衆の方々とともに願っています。

未来に向けて成功を重ねることを。(称賛の声)

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今晩、この集いにおいて意義深いことが今一つありますが、それについてはのちに述べることとして、まずはビージュ・オーケストラお得意の曲のなかの一曲から、演奏プログラムを始めて頂きたいと思います。

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最初の歌はS. H. サマトン氏によるサリバン作の陽気な“Ho! Jolly Jenkin”。

心のこもった見事な声で歌い上げた。

次いでJ. P. モリソン夫人が持ち歌であるエドワード・ジャーマン作“Love, the Pedlar”を歌った。

夫人は医師からこの2、3日間外出を控えるように言われており、のどの調子がよくなかったにもかかわらず出演を果たし、見事に歌い上げた。

アンコールの声が上がったが、夫人は軽く腰をかがめて聴衆への感謝を示すにとどめた。

続いて登場したW. M. スチュワート氏のマーシャル作“Love has come”にも温かい称賛が贈られた。

前回の活躍で文芸協会の観客にとってなじみとなったスペナースミス夫人はピアノフォルテの独奏でグリーグ作“婚礼の日”とシンディング作“春のささやき”の二曲を披露した。

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プログラムの第一部の演奏が終わったところでモリソン会長が再び演壇に現れ、聴衆に向かって話し始めた。

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紳士淑女諸君、横浜文芸協会会長としての今宵の私の使命は、喜ばしいと同時に心痛むものであります。

喜ばしいものである理由は、ある人物に対し、名誉ある役割を果たす機会を得られることです。

その人物は、この10年もしくは12年の間、私共の協会の地方組織としての成功を担ってきた中心人物であり、おそらくは本来果たすべき役割を大きく超えて、横浜のように変化の激しいコミュニティにおいてこのような協会を保ち、成功させるに必要とみられる絶え間ない取り組みを、熱意をもって果たしてこられました。

その人物とは、もちろんW. カール・ヴィンセント氏であります。(喝采)

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協会のために必要とあらば、氏は常に自ら行動してきました。

彼がいなくなることによって、運営委員会には空白が生じ、それを埋めることは極めて困難と言わざるを得ません。

音楽の面でも埋めがたい空白が生じるのは確かです。

彼は私共の音楽プログラムを納得のいく結論に導くために尽力してくれたからです。(喝采)

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ヴィンセント氏は、時には極めて興味深い講義を行ってくれました。

そして長年にわたり副会長として、協会において勤勉に、意義深い役割を果たしてきました。

氏が関わることにより、助けられ、価値を高められてきたのは、協会ばかりではありません。

アマチュア・ドラマティック・クラブもまた多大な恩恵を被っています。

私たち全員が、彼の作品を覚えています。

まさか忘れた方などいないでしょう。

“サン・トイ”、“The Chieftain”、“ドロシー”などなどがその証拠です。(喝采)

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毎晩毎晩、雨が降ろうが槍が降ろうがリハーサルに参加し、コーラスや個人の演技があまりうまくいっていないようなときでもいつも明るく楽しくやる気を出させてくれました。

出し物を大いに成功させるためならば、いつでも個人リハーサルのために自らの貴重な時間を犠牲にしてくれたのです。(喝采)

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さらに申し上げるなら、指揮者の役目柄、彼いつも喜んで歌い手に合わせて歌を作り、オーケストラのために譜面を調整してくれました。

自らの芸術への熱烈な愛なくしてはやり遂げられぬことです。(喝采)

ビージュ・オーケストラもまたヴィンセント氏に多くを負う団体です。

うれしいことに今晩ここにおられるので、後ほど自ら語っていただきましょう。

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横浜におけるヴィンセント氏のもう一つの、より重大な貢献について述べるならば、彼が4年間かかわってきた英国教会とユニオン・チャーチの双方とも、オルガン奏者と聖歌隊指揮者を務め、また資金を募るための音楽イベントやカンタータ、オラトリオを準備してくれたことへの感謝を忘れることはないでしょう。(喝采)

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最後に私事ではありますが、妻と私のために“ヴェネツィアの歌手”、“Dr. Mondschein”などを作ってくださったことを感謝とともに改めて思い出されます。

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しかしながら冒頭申し上げた通り、今宵の会長としての使命には、心痛むものがあります。

それについてはこれまで述べた中で十分お判りいただけたと思います。

すなわち私は協会を代表して、私共のためばかりでなくコミュニティ全体のために尽くしてくれた人に別れを告げなくてはならないのです。

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しかしながら、悲しい面ばかりを見ているわけにもいきません。

私は希望があることを知っており、ここにいる皆さんと分かち合うためにそれについて話したいのです。

われらが友であるヴィンセント氏の人生の新たな局面において、彼にふさわしい幸福と成功に恵まれますように。(大喝采)

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横浜文芸協会の各会員の代表として、厚意と尊敬のしるしであるこのささやかな記念品をヴィンセント氏にお贈りするという栄誉ある役目をここに果たさせて頂きます。

このボウルにかぐわしいバラ、もしくはその土地の花が生けられたとき、思い出が彼を、菊の国と、横浜に残してきた多くの友人たちの元に運んでくれるであろうと私は信じます。

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記念品は財布と銀製の美しいローズボウルで、ボウルには菊の模様が施されており、付属の黒檀の台座には「W. Karl Vincent閣下へ 横浜文芸協会会員より 1909年12月22日」と刻まれた銀の銘板がはめ込まれていた。

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ウォルター・カール・ヴィンセント氏はヴィンセント家の三男として横浜で生まれ、この時36歳であった。

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英国本国で音楽教育を受け、卒業後日本に戻り、10年以上にわたり横浜コーラス協会の指揮者を務めてきた。

横浜文芸協会(横浜文芸音楽協会の前身)では「音楽とその影響」、「ワーグナーの作品と生涯」、「グリークの生涯と作品」といった講演を行い、横浜文芸協会・横浜文芸音楽協会の副会長・音楽委員として様々なイベントに関わってきた。

更に横浜アマチュア・ドラマティック・クラブの音楽監督、クライスト・チャーチやユニオン・チャーチのオルガン奏者と聖歌隊指揮者を務めるなど、地元横浜の音楽活動になくてはならない存在であった。

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ヴィンセント氏はまたビージュ・オーケストラの指揮者を務めてきたが、今宵の催しがそのメンバー達との最後の演奏となった。

 

写真:横浜文芸音楽協会会長J. ペンダー・モリソン氏(公益社団法人 横浜カントリーアンドアスレティッククラブ 蔵)

参考文献:
The Japan Gazette, Dec 12,1909
・The Japan Weekly Mail, Dec 16,1899
The Japan Weekly Mail, Mar 30,1901
The Japan Weekly Mail, Apr 26,1902
The Japan Weekly Mail, Mar 7,1907
The Japan Weekly Mail, Dec 25,1909

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