1909年(明治42年)1月8日金曜日の夜、フエリス和英女学校の講堂ヴァン・スカイック・ホールにおいて横浜リテラリー アンド ミュージカル ソサエティ(横浜文芸音楽協会)の例会が開かれた。
約450名の聴衆のお目当ては、ソサエティ会長J. ペンダー・モリソン氏の講演「横浜の思い出」である。
往時を知る人びとは自らの懐かしい思い出を重ねるために、また若者は今や堂々たる国際都市である横浜の若き日の姿を知ろうと、興味津々で集まったのである。
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英国グラスゴー出身のモリソン氏が、香港、上海での商社勤務を経て横浜の地に降り立ったのは1867年。
22歳の時であった。
友人のフレーザー氏と共同で茶の輸出会社を設立。事業は順調に拡大し、のちにダイナマイトなども取扱うようになる。
外国人商工会議所の会頭や、横浜ジョッキークラブ、ニッポンレースクラブの委員、横浜クリケット アンド アスレチッククラブの会長を歴任するなど、今や横浜外国人コミュニティを代表する名士のひとりである。
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開会に先立ちソサエティの副会長、本日の司会を務めるW. カール・ヴィンセント氏から今回の講演に至る経緯が説明された。
5年ほど前、ソサエティでモリソン氏は横浜の初期についての回想を語った。
今年7月に横浜開港50年祭を控え、会員から再演を求める熱心な声があがり、モリソン氏はそれを快く受け入れた。
そればかりか、原稿にさらに手を入れ、興味深いスライド写真を加えて周到に準備した。
このようなテーマを扱うにあたってモリソン氏以上の適任者はいない、とヴィンセント氏が述べると聴衆からは大歓声が上がった。
期待の声に包まれて、いよいよモリソン氏が登壇。
講演はごく控えめな言葉で始まった。
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―紳士淑女の皆様、今宵かくも多くの方々にお集まりいただき甚だ恐縮しております。
まず初めにお断りしておきたいのは、この講演は何ら文学的な試みとして意図したものではなく、おおよそ個人的な話として、昔の情景や事件の話をお楽しみいただこうというものです。
私の話がそれ以外の何物でもないことをご理解願います。
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1867年1月、私は定住の準備のために初めて横浜に来ました。
前の年11月に起こった大火事(豚屋火事)の直後で、狭い居留地は惨状を呈していました。店という店は焼け落ち、住人のほとんどは何もかも失って着の身着のままといった状態でした。
来る直前に上海で、ロンドンにいたころからの古い友人であるガス・ファーリーから手紙を受け取ったのを覚えています。
彼もまた被災者でした。
手紙には、分けてもらえる衣類があれば、何でも送ってほしいと書かれていました。
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私の友人たちは焼け残った数少ない建物のひとつである7番地の平屋を事務所にしており、住まいはジョージ・バーネット商会所有のバンド(山下町)18番地の2階建ての大きな家でした。
7番地の平屋はジェームズ・キャンベル・フレーザー夫妻の住居でしたが、火が燃え盛った時、住居より倉庫の方が持ちこたえられそうだから、家具をそちらに移した方がいいだろうということになりました。
しかし結果的に倉庫は焼け落ちて住居は難を逃れました。(会場から笑い声)
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あの頃の横浜の情景を思い起こすことは困難になりましたが、わが友ファーリーとフレーザーと共に昼食をとったことはよく覚えています。
彼らはゲイ氏と30番地の小さな平屋に暮らしていました。
家の入口は脇道に面しており、現在のアーレンス商会の隣でした。今はもう全員が泉下の人となりました。
この平屋は広大な庭に建っており、その庭はメイン ストリート(本町通り)から現在のスウェイツ商会(61番地)のところまで広がっていました。
実のところウォーター ストリート(水町通り)とメイン ストリートの間に建っていたのはゲイ氏の平屋だけだったと言っても間違いではないと思います。
(次回に続く)
*本文は J. P. Mollison著 ”Reminiscence of Yokohama"から「東京訪問」「箱根旅行」「大名行列」ほか一部を除いた抄訳に、適宜加筆したものです。なお記事を全6回に分割して掲載する都合上、原文の項目の順番を変更・再構成しています。
図版:1866年11月26日の大火・通称「豚屋火事」(The Illustrated London News, February 9 1867)
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, January 9, 1909, January 16, 1909
・J. P. Mollison, Reminiscences of Yokohama, Japan Gazette, Yokohama, January 11, 1909
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)