On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■開港50年―モリソン氏が語る「横浜の思い出」(その2)

2017-01-14 | ある日、ブラフで

 

1909年(明治42年)1月8日金曜日の夜、フエリス和英女学校の講堂ヴァン・スカイック・ホールでは、横浜リテラリー アンド ミュージカル ソサエティ(横浜文芸音楽協会)のモリソン会長が語る「横浜の思い出」に人びとが熱心に耳を傾けていた。

回想は彼らの住まいのあるブラフ(山手町)へと移った。

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ブラフにはほとんど建物がなく、例外といえば谷戸坂の頂上に建つ英国軍駐留地だけでした。

それはまず英国海軍病院(山手町115番地)の近くから始まり、コーネルズ コーナーとして知られる辺りから外国人墓地を超えて現在プール氏の住居(山手89番地A)がある辺りまで続き、そこが南門となっていました。

英国軍駐留地は現在の英国海軍病院の地所の一部に建てられ、北駐留地として知られていました。

そこには士官の食堂がありました。

現在テニス用の芝地があるところです。

そして南駐留地は既に申し上げたようにプール氏の住居まで広がり、もう一方は現在のV.R.ボーデン氏の住居(山手町103番地)あたりまで続いていました。

広い道(陣屋坂)が横切っている、現在は家並みに覆われている地域の間の窪地には閲兵場がありました。

閲兵場といえば、思い出されるのはいろいろなスポーツのことです。

運動会、フットボールの試合などなど。

聞くところによれば、そこには草は生えていなかったにも関わらず、私が来る前にはクリケットの試合に人びとが熱狂したそうです。

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「公共心に富むスミス」の平屋(山手町61-62番地)ができるまで、南門より先に家はなかったと記憶しています。

その家は丘の左手の角にあり、そこから現在ドイツ海軍病院(山手町40-41番地)のあるところまで道が続いていました。

スミス氏の庭園はメインロード(山手本通り)まで広がり、現在角に建っている家屋もそこにありました。

その頃は有名な場所でした。

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「公共心に富むスミス」と呼ばれた理由は、彼が公共の福祉のためになることなら何にでも熱意を注いだからです。

ヨーロッパから来た者のなかで、野菜や果物、花の種を輸入した最初の人物で、しばしば友人たちを招いては努力の成果を披露していました。

彼の取り組みは、チャールズ・ワーグマンが『ジャパン パンチ』のページ上に、スミスの巨大キャベツ、カリフラワーとして永久に記録したため、今も目にすることができます。

『ジャパン パンチ』に描かれた「公共心に富むスミス」
イラストの上に書かれている文はウェルギリウス『農耕詩』からの引用
「自分たちの境遇をよく知るなら、農夫らは幸福すぎるほどだ」

スミス氏の思い出は横浜で植木屋を営む日本人たちの記憶に今も生き生きと残されています。

つい先日友人から聞いたことですが、彼がある植木屋と話していたら、スミス氏の手伝いでブラフのあちこちにユーカリの木を植えたと言っていたそうです。

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スミス氏の家を過ぎて射撃場に向かうのは狭い車道で、今は日本人が大勢住んでいる村のあたりです。

この道は両側に高い生垣があり、初めて歩いた時、ここは恋人の小道といわれていると聞かされたのを思えています。

当時はその名がふさわしかったのかもしれませんが、今やその面影はありません。(会場から笑い)

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スミス邸の庭の角からメインロード沿いの最初の家はブラフ8番地のストラチャン氏の平屋だったと記憶しています。

茅葺屋根のコテージとして知られていて、そこから根岸の競馬場まではずっと耕地でした。

汚らしい村落はなく、地蔵坂の頂上の反対側はその頃コーヒー ハウス ヒルとして知られていました。

現在のハント氏の住居(山手町225番地A)にあたるところにレストハウスがありました。

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現在ブラフ217-218番地には建物が建っていますが、当時はまだ何もなくて、ポニー ペーパー ハント(狩猟を模した乗馬スポーツ。獲物の体臭に見立てて撒かれた紙を追って競走する)の出発点として好まれた場所でした。

コースは通常、ウィッシング ブリッジへと山を下り、左に枝分かれして慈善会病院を超えてミシシッピ湾(根岸湾)に至り、様ざまな道筋で射撃場(現在の大和町商店街)まで戻るか、もしくは競馬場の正面特別観覧席の前へと至るのでした。

射撃場はその頃私たちにとって飛び切りの娯楽の場で、根岸に新しい競馬場ができるまではコミュニティの競馬場にもなっていました。

障害物競走がまだ行われていて、ポニー ペーパー ハントのエキサイティングな締めくくりとして使われていました。

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射撃場はまさに名前の通りで、ティル スイスは最高に楽しい射撃会を少なくとも年に1度行い、多くの友人たちを惜しみなく歓待したものでした。

ライフルクラブもありましたが、これはもっぱら故アーサー・バーナードの力添えによるものでした。

彼は射撃に熱心で、名手でしたし、スポーツ全般に優れていました。

後にアスレチック クラブにもまた射撃場の端の下の方にランニングコースができ、競技会が盛んに開かれました。

現在の住人の何人かが素晴らしい活躍を見せましたが、有名なのはアルフレッド・デア氏とスノー氏です。

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古いグラウンドの写真をまもなくご覧にいれましょう。

最初の、そしておそらく1度しか行われなかったと思われる、射撃場でのインター ポート アスレチック ミーティング(横浜・神戸対抗スポーツ大会)です。

私も参加して横浜勢として古いスコットランドの競技である三段跳で勝ちました。(会場から喝采)

神戸勢の優勝者は、この競技ばかりでなく、他の催しでもそうでしたが、神戸で名高い故シム氏でした。

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さて、コーヒー ハウス ヒルの頂上にしばし戻りましょう。

そこには番所があり、見張りがいたことを申し上げねばなりません。ジョエット氏の家が今あるところの近くです。

私が来るちょっと前、そして私が来た後も長くにわたって、キャンプヒルのふもとに見張りが一人配置されていました。

ちょうどウィーラー医師の家(山手町97番地)の下あたりです。

夜間に上り下りする者は皆、誰何されました。

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見張りといえば思い出すのは、私が来る前からずっとキャンプを占領していた連隊の数かずです。

私が来る以前は第20連隊で、私が着いたときは第9連隊がちょうど任期を終えるところでした。

次が第10連隊で、彼等については楽しい思い出があります。

故H. ヴィンセント氏のことは、もう全員の記憶に残っているとはいえませんが、私たちの音楽を通じた友人であるW. カール・ヴィンセント氏の父上であります。彼は第20連隊に所属していました。

第10連隊の士官は全員いい奴で、住民と一緒になってスポーツや社交によって居留地をたいそう活気づけました。

週に一度のゲスト ナイトのもてなしぶりは決して忘れられません。

そしてあの古い食堂…楽しい思い出です。

第10連隊に続いて海軍がきました。

赤いコートに身を包んだ英国兵の姿を最後に見たのは1874年8月のことでした。

(次回に続く)

*本文中、カッコ書きの番地は、当時のDirectoryに基づいて筆者が推察し、加筆したものです。

*本文は J. P. Mollison ”Reminiscence of Yokohama"から「東京訪問」「箱根旅行」「大名行列」ほか一部を除いた抄訳に、適宜加筆したものです。なお記事を全6回に分割して掲載する都合上、原文の項目の順番を変更・再構成しています。
 なお、モリソンの述懐であることから、本人の記憶違い等による事実と異なる内容や、また後世の研究から見て妥当と思われない事柄も含まれています。
 
今回の掲載分中「公共心に富むスミス」を描いたジャパン・パンチのイラストはそれに当たると思われます。斎藤多喜夫氏の著書に詳しいので、以下に引用させていただきます。
「ワーグマンが『ジャパン・パンチ』の1866年10月号に掲載したスミスの農園の絵があって、(中略)絵から受ける印象では、山手のように見えるが、山手が居留地に編有される前なので、山手の麓の68番地の農場を描いたことになる。」(斎藤多喜夫『幕末・明治の横浜 西洋文化事始め』(明石書店、2017)
 
このような点をご理解の上お読みいただくようお願いいたします。

図版:
・J. P. モリソン肖像写真(公益社団法人 横浜カントリーアンドアスレティッククラブ 蔵)
・Charles Wirgman, The Japan Punch, October, 1866

参考資料:
・J. P. Mollison,Reminiscences of Yokohama, Japan Gazette, Yokohama, January 11, 1909
The Japan Weekly Mail, January 9, 1909, January 16, 1909
・斎藤多喜夫著『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
・ウェルギリウス著、河津訳『牧歌・農耕詩』(未来社、1981)

 

map reminiscence

講演で語られている場所をモリソンの説明から推察して図示。左より
:ポニー ペーパー ハントの出発点
:レストハウス
:ストラチャン氏の家
:「公共心に富むスミス」の家
赤い点線:恋人たちの小道
:英国軍駐留地
:ウィーラー医師の家

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