1904(明治33)年9月20日、日本初のドイツ人居留民の子弟のための学校が横浜に開校した。
生徒数は男女合せてわずか9名。
ブラフ(山手町)248番地Bにあった賃貸の家屋を多少手直ししたつつましい学び舎でのスタートであった。
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ドイツ人貿易商ケルト・マイスナーはその回顧録の中で、当時の様子を次のように語っている。
第一次世界大戦まで、横浜に住むドイツ人女性は少なかった。
ドイツ人社員の給料はとても安かったので、ごくわずかの人しか妻を故郷から呼び寄せることができなかった。(中略)
(ドイツ学校の)生徒数は多くなかった。
まさに先に述べた理由から、横浜にドイツ人夫婦は少なかったからである
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その後、徐々に生徒数は増加した。
1908年6月に行われたドイツ学校協会総会では、男女合わせて28名と報告されている。
国別にみるとドイツ人17名、スイス人10名、デンマーク人1名。
その後一時は全生徒数36名を数えるまでに順調な伸びを見せた。
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折しもこの頃、ブラフにドイツ人のための教会や集会施設を兼ねた「ドイツハウス」が建設されることが決定し、この施設内にドイツ学校も移ることになった。
1907年末に起工式が行われ、1909年の秋ごろに完成。
ドイツ学校の生徒たちは、高々と塔のそびえる真新しい学び舎で授業を受けることになったのである。
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しかし当時、ドイツ学校の教師であったミシェル氏は、学校の将来について楽観していなかったようだ。
氏は1908年の秋ごろドイツ西部の都市メンデンから夫人を伴って来日した。
ドイツ学校に着任して間もないころから学校を取り巻く環境から推して、これ以上生徒数が伸びないことを予測していた。
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ドイツ人居留民のうち妻帯者の割合が低いために子供が少ないという状況に加え、学齢期の子供を持つ家族が帰国する傾向が強いこと、そして何より、男女共に年長の生徒が故国の学校に転校してしまうことが生徒数の増加を阻んでいた。
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学費収入が伸びなければ当然のことながら学校の財政は悪化し経営ひっ迫を招く。
ミシェル氏が考え出した起死回生案は、収入を増やすために付属幼稚園を創設することであった。
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学科ごとに教師や教材が必要となる学校と異なり、幼稚園は少ない費用で設立できる。
また幼稚園の園児はドイツ学校に進学が見込まれるため、学校の生徒数増加につながる。
園内での活動は遊びが中心となるため、ドイツ語のできない子供も受け入れ可能である。
これら「外国人」園児にとってはドイツ語習得のまたとない機会となることも、この幼稚園の大きな魅力となるだろう。
というのがおおよそのミシェル氏の考えである。
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実は学校の教育を担う彼にとって、幼児教育の必要性は財政面以外でも切実なものであった。
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英米人が数の上で勝る当時の外国人社会で使われる言葉は主に英語である。
ドイツ人家庭に育った子供でも英語や日本語が自然に身につく一方、ドイツ語力が劣る者もいた。
彼らが入学すると語学の指導に時間を取られ、それは学校全体の教育レベルの低下を招いてしまう。
幼稚園でドイツ語に浸る時間を増やせば、十分な語学力がついた状態で進学し、ドイツ語による各学科の授業に問題なくついていくことができるとミシェル氏は考えた。
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幼稚園とは元々19世紀前半のドイツの幼児教育者、フリードリヒ・フレーベルが1840年に設立した小学校就学前の幼児のための学校から始まったものである。
「幼稚園」ということば自体、彼の作った学校の名前である De-kindergarten.ogg Kindergarten(フレーベルの造語、「子供達の庭」、「子供の国」の意)の翻訳語であり、英語ではKindergartenということばをそのまま使用している。
ミシェル氏が幼稚園創設を思い立った背景には、ドイツこそ幼児教育の先進国であるという自負もあったのかもしれない。
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1909年7月、ミシェル氏は横浜居留地で発行されているドイツ語新聞ドイツ・ジャパンポスト紙にドイツ学校の現状報告を投稿した。
そしてその中で幼稚園の必要性を主張した。
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1911年、いよいよ業を煮やしたミシェル氏は再び筆を執る。
4月22日の同紙に投稿し、幼稚園がいかに必要とされているかを切々と訴えた。
紙面2ページを埋めるその全文をここに掲載することはできないが、彼の具体的な提案の部分を中心に以下に紹介する。
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子供たちはほんの少し努力するだけで、遊びながら母国語を学びますが、一部の子供たちはその機会を永遠に失ってしまうのです。
それは国の重大事でしょう。
したがって、実際的かつ物質的な理由から(もう一度言いますが)、この就学準備施設の設立が望ましいでしょう。
国家的およびイデオロギー的な理由から、私はそれが絶対に必要であると考えています。(中略)
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場所はドイツハウス内に用意できます。
大がかりな方法ですが、引き込み式の壁(引き戸または完全に取り外し可能な木製の壁)でボールルーム(舞踏室)を間仕切りすることを提案します。
これはアルンスベルクおよび他のドイツの都市で行われている方法です。
しかし生徒の数があまり多くなければ、既存の部屋で十分だと思います。
遊び場は用意されています。
雨天や荒天時には、屋根付きの部屋、いわゆる体育館を利用できます。
数脚の腰掛とさまざまなおもちゃ、模型、その他の道具を収納するための引き戸付きの小さな戸棚が必要でしょう。
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設備に関しては、初期段階では家庭の主婦にお任せして最低限必要とされるこまごまとしたものを用意いただくとよいでしょう。
また、ベルリンやドレスデンの有名なフレーベルハウスに援助を要請し、幼稚園の教師を雇うべきです。
なぜならここで幼稚園の教師を見つけることは難しく、困難な状況においては、経験ある一流の有能な人物を必要とするからです。
英語の知識を有することが望ましいですが、必須ではありません。
優れた専門的訓練と熟練度がより高く評価されるべきであることを強調したいと思います。
教師の技能面では、一流の教師を雇えば、緊急の際には一時的に学校の低学年のクラスの授業を受け持つこともできるので、その点でも有利です。
本国の制度で12歳までの小学校の科目を教えられると決められています。(中略)
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幼稚園は主に外国語を話す子供たちに利益が大きいと前述しましたが、家庭でドイツ語を話す子供たちにも自然に大きな利益をもたらすことを付け加えたいと思います。
このタイプの学校は、創設者のフレーベルの故郷であるドイツだけでなく、アメリカでも非常に普及しているのに、どうして日本ではそうならないといえるでしょうか。(中略)
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今回の私の発言は以上です。
読者諸氏がドイツ学校附属幼稚園を設立するという素晴らしい計画の必要性と可能性について納得していただければ、私は幸せであり、ささやかながら在日ドイツ人のために奉仕したと自負し、満足するでしょう。
最後に設立と当初の維持には必要となる資金についてですが、海外の学校で働く知人たちによると、幼稚園はその点における不安が極めて少ないとのことです。
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果たして彼の悲願はかなえられたのか。
その答えは翌年7月13日付のドイツ・ジャパンポスト紙の記事に見ることができる。
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ドイツ学校附属幼稚園開園
新学期初日の9月15日、ドイツハウス(ブラフ25番地)内に所在するドイツ学校内に幼稚園が開園する。
4〜7歳の児童が1日の数時間を仲間とともに楽しく遊び、学ぶ場所を提供することを目的とする。
ベルリンの幼稚園セミナーに参加し、数年間の経験において成功実績を有する教師が、有名な教育学者F.フレーベルの教育方針に基づいて指導にあたる。
リトミックやゲーム、子供向けのダンスやフォークソング、さまざまな素材を用いた楽しい工作、建物や模型作りなどにより児童の感覚を養い、音楽、色、形を味わうための刺激につなげるという。
他国の児童も受け入れ、遊びを通してドイツ語を学ぶ機会を与える。
夏季は午前8時から午前11時まで、冬季は午前9時から午後12時までの平日に開園。
園児は毎日登園する必要はない。
月謝は5円。
入園登録は横浜のドイツ総領事館内ドイツ学校学校評議会にて受け付ける。
図版
・『Deutsch Japan-Post』(1904年7月16日)に掲載されたドイツ学校開校時の生徒募集広告(横浜ドイツ学校/ブラフ248-Bにて9月15日開校/6歳から14歳までの男子女子入学可/登録及び問い合わせ先/学務委員会会長/ドイツ帝国総領事/ジーブルク/1904年7月12日 横浜)募集広告では9月15日開校となっているが、新聞記事は9月20日に開校式が行われたと伝えている。
参考資料
・『Deutsch Japan-Post』1904年8月6日
・―1904年9月24日
・―1908年7月4日
・―1911年4月22日
・―1912年7月13日
・-, 13. Juli 1912
・The Japan Weekly Mail, Dec. 14, 1907
・The Japan Gazette Directory, 1907-1912
・クルト・マイスナー「横浜のドイツ人- 1859年以後, 旧き横浜への回想 -」田中訳(『居留地の窓から 第四号』平成16年1月 所収)