「繁栄を謳歌する企業」
(1878年10月4日付『ジャパン・ガゼット』記事より抄訳)
大成功というのはたいていの場合、巧みに統率され、粘り強い取り組みを続ける事業に与えられるものである。
筆者は最近、スプリング・ヴァレー・ブルワリーがこの港のブラフに所有する施設を訪れる機会を得て、その興味深い一例を目にした。
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現在、貿易港である横浜に寄港する船舶上で、そして上海においてまで幅広く消費されている「ヨコハマビール」の生産業務全般がスプリング・ヴァレー・ブルワリーにおいて行われている。
(コープランドとウィーガントの)二人の共同事業者が、(スプリング・ヴァレー・ブルワリー)設立に同意してからしばらくの間、麦芽製造は(ウィーガントが経営していた)かつてのバヴァリア・ブルワリーの施設で継続されていた。
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しかし夏の終わりに近いある晩、屋根や窓から煙が上がり、瞬く間に火柱が上がった。
地元の従業の一人の不注意から炉が発火し、火の手はすぐに上階へと伸びた。
ブラフの住民及び地元民と消防隊の尽力により、建物は類焼を免れた。
しかし近隣にあった小屋はもろく燃えやすかったため、一時はきわめて危険な状態に陥った。
おそらく当時の住民たちは、家を襲った大量の有害な煙を忘れていないだろう。
彼らの多くが、沸騰したモルトから発生した水蒸気の刺激でひどい咳に苦しめられた。
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ブラフのはずれから本牧の漁村に向かって121、122、123、124番地が広がっている。
その3,000坪におよぶ区画は塀に覆われ、構内の上の方には大きな池があり、裏手はなだらかな丘になっている。
池は大部分が人工のものである。
形は丸く、深さは6から10フィート、中央の小さな島は庭に整えられており、ボートが浮かび、魚も豊富だ。
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冬になると池が凍って居留地のスケート愛好者に喜びをもたらしていたが、現在は所有者によりライフルレンジ付近の小さな水田のみが気温が華氏32度(摂氏0度)以下の夜に限ってスケート場とされている。
表面はなめらかとは言えず、通常の英国式ビリヤードテーブルの広さしかない。
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池については特筆すべき美しさは見られない。
それは大きな丸いパイの中央にティーカップを伏せたように見立てられよう。
周囲の土地は開墾されていない。
しかし大きな貯水池は貴重な動力の集積・備蓄に役立つので、必要に応じてモルトを粉砕するミルやその他の機械を動かすこともできる。
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醸造所の一階はコープランド氏の住居となっており、その近辺及び建物と池の間は庭園となっているが、まだ完全には整備されていない。
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上の方には、所有者らが土地の気候に順応して繁殖するようにと願って植えたカリフォルニアアップルの木が生えている。
残念なことに、手をかけたにもかかわらずこれらの木は健康な状態にあるとは見うけられず、実も着けていない。
横浜の気候に合わないことは明らかである。
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最近のことであるが、丘の端から池の端まで、醸造所の敷地の地下を通って石造りの大規模な排水溝が完成した。
楕円形で6フィートの奥行きがあり、中央の幅は4フィートである。
工事は地方政府の契約業者が請負、実施したが、見事な仕上がりである。
ブラフの上の地域からもたらされる大量の水は、浸水しやすい谷の地域や低い土地の村に居住する地元民や外国人らを頻繁に危険にさらし、悩みの種となっていたが、これはその余剰水を排水することを目的としたものだ。
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洪水をもたらすこともある近年の大雨の季節に特に必要となるが、丁度いい時期に完成し、最も降水量の多い時期でも排水溝の半分の深さにもならなかった。
コープランド氏はそれができたおかげで彼の会社だけでも2000ドルを下らない額の被害を回避できたと試算している。
空前の土砂降りにもかかわらず1ドルの損失も被ることはなかった。
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敷地内の丘は、頂上からの眺めにも、生い茂るたくさんの樹木にも大した価値はないが、そこから供給される水の質と地下に蓄えられた容量は素晴らしい。
水質は極めて純粋で、土手に設けられた深く幅広い貯水地に保存され、必要な分量を醸造所に供給する。
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丘の地下の粘土質の部分に設けられた地下通路が貯蔵庫になっており、内部は数百フィートにわたって広がっている。
この場所は常に温度が一定に保たれており、夏の一番暑い時期でも外部よりおよそ16度も低く、大樽に詰められたエールとビールがずらりと並べられている。
他の貯蔵庫には大量の詰め替え用ボトルが置かれていて、こんなに大量の液体がどこで消費されるのかという疑問が自然にわいてくる。
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この企業からの出荷量の大半が、横浜のホテルや、パブ、個人宅で日々消費されるというのがその答えだ。
東京にもかなりの量が供給されており、長崎、兵庫、函館またはより不便な地域の住人の喉の渇きもいくらかうるおしているのではと思われるが、現在調査中である。
装置や道具に費用を惜しまず、顧客によい飲料を届けようと不断の努力を続けることで各地の人々の信用を獲得し、さらに評判をたかめつつあるこの企業に対し、上海、さらには香港すら貢献している。
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港を訪れる船舶、特に軍艦は大量注文を発注する。
業務の規模は、経営者二人の他に、以前ヘフト氏の事業で責任ある地位にあった経験豊かな欧州人マネージャーであるイートン氏、職工長、平均30名の日本人従業員という大量の雇用を提供するに十分である。
ここで醸造の多岐にわたる工程や、器具や道具を記したり、詳しく説明したりするつもりはないし、そのスペースもない。
私たちが訪れた企業には、必要なものはすべてそろい、改善のために立ち止まるにも及ばない言えば十分であろう。
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地下貯蔵庫や特許の冷却桶により、夏季の最も気温の高い時期でも醸造を行うことができる。
その期間はしかしながら「ラガー」ビールの生産に止めており、地元ですぐに消費し、貯蔵は行わない。
冬季には着実に操業し、「イングリッシュ」エールや「ボック」「バヴァリア」ビール1年分を貯蔵する。
これらは地元やその他の地域の上級の顧客から望まれる品だ。
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蒸留酒醸造所に必要とされる器具もその大半がすでに揃っており、間もなく醸造を開始する予定である。
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私たちは家禽小屋から、広々とした家畜小屋、メッキばりの、ネズミ除けのあるモルトとホップの貯蔵室、敷地内に設けられた心地よい住居まで丁寧に案内されたが、いたるところでよき秩序と勤勉さがもたらす喜ばしい結果を目にすることができた。
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ウィーガント氏の説明によると、大樽はすべてサンフランシスコから輸入された新品で、修理用の木材も同様に運ばれてきた。
日本国内には樽に適した木材は見当たらないからだ。
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しかし雇っている日本人の桶職人について、新しい工程でも一旦覚えてしまえば、欧州や米国の職人と比べて勝るとも劣らないと、上長として心から称賛していた。
その言葉を強調するかのように、将来は樽を輸入するのではなく、原材料を輸入して現地生産する可能性があると語った。
当面のところ、醸造所の職人が作ったのは、輸入木材を用いた小型の樽にすぎなかったが、見たところ、強度においても仕上がりにおいてもこれ以上は望めないものであったと証言できる。
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醸造所の敷地のふもとの部分に、まさにビアガーデンと云えるものが併設されている。
この酒蔵には醸造所の貯蔵庫同様、夏場でも外部より約16度低く保たれている。
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庭には小さなパヴィリオンがいくつか設置されており、暑い午後から涼しい夕暮れ時、ここには、ホンムラの息苦しい雰囲気のねぐらやそこで商われているわいせつな行為や酒ではなく、里の新鮮な空気と明るい空、そして心地よいそよ風を、歌と、たっぷりと醸造されたばかりの清潔で冷たいビールを、一杯とは言わず楽しむために、様ざまな国の物のわかった水兵達が休み時に集まってくる。
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最近までこの小さなビアガーデンは外国人など数名に貸し出されていた。
現在は、店と客の双方の利益のために、責任感のある信頼に足る日本人の支配人の助けを借りて、敷地の他の部分と同様に自らの管理下に置いて運営している。
以上が新聞に掲載された工場見学記である。
これを読む限りスプリング・ヴァレー・ブルワリーは、冒頭に述べた水質に関する風評被害に打撃を受けることもなく、経営は順調そのもののようだ。
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しかしこれよりわずか1年後、共同経営は破たんする。
ウィーガントがコープランドの暴力と詐欺を理由に共同経営解消を米国領事裁判所に提訴したのだ。
裁判においてウィーガントはスプリング・ヴァレー・ブルワリーのビールには、コープランドにより濁り止めとして重亜硫酸石灰が添加されているが、これは人体に有害であると証言した。
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1880年1月、裁判所は共同経営解消を認め、醸造所は競売に付された。
コープランドは自ら落札して事業を再開する。
しかし裁判でのウィーガントの証言でいったん失われた顧客の信頼を取り戻すことはできず、1884年には廃業に追い込まれる。
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翌年、工場の跡地に別の資本家たちの手によってジャパン・ブルワリーが設立された。
1888年に「キリンビール」を発売して大いに「繁栄を謳歌」したこの企業は、後に商品の名を社名とし、日本を代表する飲料メーカーの一つとして今も人々ののどを潤している。
図版:手彩色絵葉書 年代不明 (筆者蔵)
参考資料:
・斎藤多喜夫『横浜外国人墓地に眠る人々』(有隣堂、2012)
・『ビールと文明開化の横浜 コープランド生誕150年記念』(キリンビール株式会社、1984)
・The Japan Gazette, Oct. 4, 1878.