横浜開港後、日本を訪れた多くの欧米人が、地面が揺れるという体験に驚愕した。
その一方で、大地の巨大なエネルギーを直に思い知らせるこの自然現象に強い興味を抱いたに違いない。
そもそも欧米では地震が少ないのだ。
1880年(明治13年)に工部大学校(後に東京大学と合併)のジョン・ミルン等が創設した「日本地震学会」の1881年12月の会員数は117名。
そのうち日本人は37名、在外会員18名、残りの62名は日本に在住する外国人達であった。
ちなみにこれは世界初の地震学会で、結成の契機となったのは1880年2月22日 に横浜で起きたマグニチュード5.5〜6.0の地震であったと言われている。
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1909年(明治42年)3月13日土曜日、多くの人がすでに床に就いていた23時29分、突然、突き上げるような激しい振動が襲った。強烈な横揺れが4分間程続いた。
揺れは10分程経ってようやく収まったが、ブラフ(山手町)の欧米人たちはその間、生きた心地がしなかったに違いない。
地震の規模はマグニチュード7.5。震源は千葉県の房総半島沖であった。
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翌日には被害が明らかになってきた。
山手では死者・重傷者はいなかったものの、多くの建物が損傷していた。
大きな被害のあった家屋は96戸、小破損は294戸に及んだ。
レンガ造りの煙突の倒壊が53箇所、壁の破壊が11箇所、門柱等の被害が4箇所であった。
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ブラフ35番地 E・エディソン邸
辛くも全壊は免れたものの、ブラフ82番地の横浜ゼネラルホスピタル、カーティング邸(同32番地)、H.・M・アーノルド邸(同33番地)、E・エディソン邸(同35番地)、E・C・デビス邸(同216番地)の被害は甚大であった。
横浜ゼネラルホスピタルは和洋折衷の2階建ての建物であったが、屋根瓦は全て崩落し、レンガの煙突は崩れ、病室や事務室は傾き、窓ガラスは割れ、壁のあちこちに割れ目が生じた。
入院患者が少なかったため建物の被害の大きさに比べて大きな混乱がなかったのが、不幸中の幸いといえよう。
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山手本通りから山手公園に向かう小道の右手、カトリック教会の向かいに建つエディソン邸は、外壁の一部が剝がれ、寝室は落ちてきたレンガや木材、倒れた家具で足の踏み場もないほどのひどいありさまであった。
その室内の様子をカメラに収めた写真家がいた。
山下町102番地で絵葉書の版元を営む米国人写真師、カール・ルイスである。
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元々船員だったルイスが来日したのは1900年。
かねてより身に着けた写真術で一旗揚げようと、日本の自然や人々の暮らしをカメラに収め、絵葉書にして販売したところ横浜に寄港する外国人船員達の間で人気となった。
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山下町121番地付近
横浜で遭遇した初の大地震。
ルイスはカメラを手にその惨状を記録した。
外国人らの邸宅が並ぶ山手町、商店が軒を連ねる山下町。
山下町の中でも埋立地である南京町の被害はひどかった。
山下町121番地付近の街並みは、倒壊は免れたものの外壁が無残にも剥げ落ちている。
人影のない街並みにレンズを向け、ルイスはシャッターを切った。
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日本人の妻をめとり、祖国に戻ることなく異国の地に骨を埋めたルイス。
その生涯の間に横浜はさらに激しく恐ろしい大地の揺れを経験することとなる。
1923年9月1日、山手地区の建物を全壊させた巨大地震、関東大震災である。
写真(3点とも):カール・ルイス撮影(筆者蔵)
参考資料:
・The Japan Weekly Mail, March 20, 1909
・『横浜貿易新報』明治42年3月15日、同3月16日
・武内博『来日西洋人名事典』(日外アソシエーツ、1995)*ルイス来日年は本資料による
・公益社団法人 日本地震学会ウェブサイト