On The Bluffー横浜山手居留地ものがたり

山手外国人居留地(ブラフ)に生きた人々の「ある一日」の物語を毎月一話お届けします。

■山手クライストチャーチ献堂式

2016-09-19 | ある日、ブラフで

横浜の英国系住民らは、この日を2年余りも待ちわびていた。

1901年(明治34年)6月2日、三位一体の主日、あいにくの雨模様にもかかわらず、外国人墓地の道向かいに建つ真新しい建物には多くの人々が集まっていた。

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赤レンガの外壁には、ステンドグラスをはめたアーチ型の窓が上下2列に並んでいる。

屋根はスレート葺きで、鐘楼の部分に明かりとりの窓が開けられ、その上の尖塔にはもちろん十字架が高々とそびえていた。

このヴィクトリアン・ゴシック調の近代的な建物こそ、彼らの新たな教会、山手クライストチャーチである。

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クライストチャーチ聖堂

献堂式が始まるのは午前11時。メイン エントランスである鐘楼の下の玄関ポーチから聖堂内に足を進めると、天井の梁の高さは32フィート(10メートル弱)もあろうか。

壁の高い位置に窓が穿たれ、晴れた日にはそこから燦々と日の光が注ぐ様が想像される。

移転前より120席増えて350人分を備えた信徒席からは、内陣の正面にひときわ目立つ大きなステンドグラスの窓と、美しい彫刻が施されたケヤキ材の説教壇が見える。

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ウィリアム・オードリー主教

定刻になると、聖歌隊と数名の牧師・聖職者に先導されて、今日の司式を務める東京南部地方部主教ウィリアム・オードリー師が聖堂の入口に姿を見せた。

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主教に向かって言葉を発したのは被信託人代表のF. S.ジェームズ氏である。

――東京南部地方部主教ウィリアム・オードリー尊師へ

私たち横浜クライストチャーチ被信託人及び委員会は、この教会と、教会が建てられた地が永遠に全能の神への信仰と礼拝のために捧げられることを祈念します。

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教会オルガン奏者ヴィンセント氏の伴奏にのせて聖歌隊のコーラスが響き、主教は内陣へと歩みを進めた。

パイプオルガンは元のクライストチャーチから引き継がれた由緒あるものである。

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主教がジェームズ氏から教会の信託証書を受け取り、それを祭壇に置くと礼拝が始まった。

 

礼拝の中で、大執事ショー師が献堂の文書を読み上げ、主教に渡した。

――1875年12月28日付のこの信託証書の信用のもとに、横浜クライストチャーチとそれが建つ山手町235の土地353坪が日本政府より永久貸与され、永遠にすべての世俗的、一般的用途から離れて、英国国教会の儀式と典礼に則って全能の神への信仰と礼拝のために捧げられたことがここに宣言され、この証書の写しは登記権利書の中に保管される。

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主教はこれに署名すると、祭壇の中に保管するよう指示した。

聖歌隊がジャクソン作曲の「テ・デウム」厳かに歌い上げ、聖書の朗読の後、主教による説教が始まった。

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――今こそ、ゼルバベルよ、勇気を出せ、と主は言われる。

それは有名な「バビロンの捕囚」を描いた旧約聖書ハガイ書の一節だった。

主教は、自らの都を失いバビロンの地に連れ去られたユダヤの民の苦しみを、教会建替えまでの信徒たちの困難な道のりになぞらえたのである。

§

――信仰において極めて好ましくない時期でした。

その言葉は信徒たちにとって、今日までの辛い記憶を新たにするものであった。

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初代クライストチャーチは、薩英戦争が起きた1863年に外国人居留民の寄付と英国政府からの援助により山下居留地の101・105番地に建てられた。

1876年以降、政府の援助は途絶え、信徒の寄付のみで維持してきたが、木造の教会は補修に補修を重ね、1890年代後半には建替えが検討されることとなった。

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英国公使アーネスト・サトウ氏らが中心となって資金集めに奔走し、自らも進んで多額を出資した。

1899年にいよいよ移転が決定すると、その年の5月には早くも建物の解体が始まり、翌月、新教会建設のための委員会が設立された。

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教会は山下居留地からブラフ(山手町)へ移ることになり、新しい土地と建物を入手するための資金には、元の土地の売却費が充てられることとなった。

実際、期待通りの金額を手にすることができたが、それでも多額の資金が不足していた。そしてこのことが英国人コミュニティーの苦しみとなったのである。

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再三にわたって寄付が呼び掛けられ、費用を巡る会議が幾度も重ねられた。

婦人たちもまた何度もチャリティーイベントを企画した。

著名な建築家であるコンドル氏は無料で設計を引き受けてくれたが、その彼にまで批判の矛先が向けられることすらあった。

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古くからの住人で有力者の一人が、委員会の席で、建設費用が不当に高額であり、それは何者かが建設にあたって少なからぬ利益を得ているに違いないと糾弾したのである。

それはコンドル氏と建設業者に疑惑を投げかけるものであった。

§

その数日後、ジャパン ウィークリー メール紙に「建築関係者」による記事が掲載された。

「10銭ほどやれば人力車夫が喜んだ」時代のことを記憶している素人の戯言と、かの有力者のことをあげつらうものだった。

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翌月の同紙には、件の紳士からの投書が掲載された。

――「10銭ほどやれば人力車夫が喜んだ」時代どころか、私は1年程前、ある建物の見積もりを複数の業者に依頼した際の自らの経験に基づいて反論している。

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わずか3か月前に起こったこの応酬はここに集まった人々の記憶に生々しい。

まさしく「信仰において極めて好ましくない時期」はつい昨日までのことだったのである。

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しかし今日ついに新たな神の家が完成し、人々は再び「神の家」に集った。

オードリー主教は、エルサレムに帰還し神殿を再建したユダヤの民の喜びを、この教会に集った会衆のそれになぞらえ、人々の心を力づけた。

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長い説教の最後の言葉は次の通りである。

――祈りましょう。

私たちが今日、神に奉納するこの新しいクライストチャーチが、神に受け入れられんことを、そしてここに祈りをささげるすべての人々にとって、またこの素晴らしい都市の多くの人々にとって、平和の中心と祝福の源とならんことを。

私たちが祈り、感化し、手本を示すことによって、いつの日か彼らが「唯一の神と、神によって遣わされたイエス・キリスト」を学び知らんことを。

 

写真:(上から)手彩色絵葉書、Public Domain、絵葉書、筆者撮影

参考資料:
・The Japan Weekly Mail, June 8, 1901
The Japan Weekly Mail, June 1, 1901
The Japan Weekly Mail, March 2, 1901
The Japan Weekly Mail, Feb 16, 1901
The Japan Weekly Mail, July 2, 1899
The Japan Weekly Mail, May 20, 1899

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