玖波 大歳神社

神社の豆知識

現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化 五 大嘗祭の意義

2012-01-27 12:41:35 | 日記・エッセイ・コラム

 五 大嘗祭の意義
 「天の岩戸」伝説を日蝕などの自然現象と考える方も多くおられる様である。しかし、元々の神の性格付けとして、「国生み」の部分では大八洲国や山川草木を生んだ後、天下の主君として日の神・月の神・蛭子・素戔嗚尊を生み、日の神・月の神に付いては天に送り高天原の仕事をさせている。黄泉の国から伊奘諾尊が帰られて禊ぎを行ったとき、天照大神・月読尊・素戔嗚尊の三柱の神が生まれ、天照大神には高天原を、月読尊には青海原を、素戔嗚尊には天下を治めるように任じている。また、一書(第十一)では、天照大神には高天原を、月読尊には日と並んで天のことを、素戔嗚尊には青海原を治めるように任じている。これらの部分ではそれぞれの性格を決めることは出来ない。しかし、素戔嗚尊が田の溝を埋めたり畦を壊したり、荒らしたことから、梅雨や台風や暴風雨などの責任者であった面が窺える。また、保食神の一件については、太陽の運行に沿った季節折々の作業・行事日程が陰暦と不具合(閏月などで旧十一月に冬至が来ないなど)を生じた時の調整役(米・魚・動物など様々なものを揃えて相手の合意を得る)が保食神であって、その調整が上手くいかず、天照大神が暦について一手に扱う事になったことを意味しているように感じられる。天照大神は夏至冬至を始め太陽の運行を把握し、その季節折々の作業・行事日程を決める事を掌握し、月読神は月の運行による暦の編纂を司り、素戔嗚尊は潮の干満を始め、風雨についても司る存在であったのではないだろうか。天照大神が担った暦等に関わる仕事は誰にとっても非常に大切なことである。
 天照大神は多少の素戔嗚尊の荒びについては寛容であったが、行事の中で大切な新嘗祭を行うことの妨害(稚日女尊の死や席を糞で汚したことなど)をされることは許せなかった。岩戸に隠れられたことは、稚日女尊の死を忌むために受け持っている仕事を放棄したことであり、様々な面に支障をきたし、誰もが仕事に復帰することを望んだものと思える。その気持ちを天児屋命の神祝によって、皆に望まれていることを知り復活されたのであろう。この「皆に望まれての復活」こそ大嘗祭の由来だと考えられる。
 因みに新嘗祭は、天皇の御田の新穀を神事にお供えする祭りが中心であり、「天の岩戸」の時点においては、天皇は存在せず、天照大神が御田の新穀を神事にお供えしていたもので、天照大神と天皇が重なって見えてくる。新嘗祭の内容に国民の望むところによって天皇になられる意味を加えた大嘗祭において、「天皇霊が宿る」とは天照大神と一体になることを意味し、お供えの対象の神はおそらく高皇産霊尊であり、神官の最高位として奉仕することも最も大切な仕事の一つであろう。
 今日、皇位継承は日本国憲法、皇室典範によって、規定されておりそれに基づいて決定されるのに践祚の儀・即位式・大嘗祭がなぜ必要なのか疑問に感じることがある。三種の神器を受ける践祚の儀は「天つ日嗣」つまり皇祖の御霊威、御精神を継承される方であることを認める儀式であり、合わせて科学万能の現代においてなお神話とリンクして現在があることを示す儀式として意味がある。また、天皇であることを宣布する即位の儀は広く正統性を明示する儀式であり、公示公告と同様に考えることが出来る。大嘗祭については、新嘗祭が天皇の御田の新穀を神事にお供えすることに対して、「延喜式」の「百姓の営るところの田を用いよ」という規定により、悠紀・主基の斎国を定め、その斎田の新穀を神事にお供えすること、更に、各地の特産農林水産物の献上を行うことであり、この事は、天皇の即位を国民挙って望んでいることを示す意味がある。ただ、歴史的に新嘗祭と大嘗祭に差違があるのか否かについて精査する必要がある。また、大嘗祭が「国家国民挙ってのものでない。」と多くの国民が感じた場合、大嘗祭の意味は有るのか無いのか、もし無いとするならばそれは新嘗祭であり、差違を「天皇の即位を国民挙って望むこと」として意味を持たせたことが、形式としては天皇であっても実質として天皇では無いと言われることに繋がりはしないだろうか。別の場でより深い検討が必要である。


現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化  四 人間関係の希薄化

2012-01-27 12:39:33 | 日記・エッセイ・コラム

 四 人間関係の希薄化
 過疎過密と少子化と共に人間関係の希薄化も見逃すことが出来ない。生活が豊かになり楽しみ事が多くなったことや、テレビなどのメディアが視聴率を競って、視聴者の興味・関心を引きつけるために様々な工夫を行い、時計の替わりに常時玉石混合の情報を垂れ流していることなどにより、自分たちの努力で生活の中に楽しみを見付ける事が少なくなり、それだけで満足し、他者との関わりを煩わしいものと感じるまでになっている。それは、貧しい時代に形成された、四季折々の季節の変化を肌で感じ、多くの人々が集い、酒を飲み、会食をし歌舞に興じる様な楽しみを駆逐してしまっている。
 年寄りが、「昔は、腹一杯ご馳走を食べられることが楽しみであちこちの祭りによばれていった。しかし、今は、日頃からご馳走を食べていて、祭りのご馳走を特別に感じることもなく、逆にあまり好まなくなってしまっている。晴と異が逆転してしまった。」と話してくれたことを思い出す。日頃から、テレビで派手で豪華な催し物ばかりを見せられていると田舎の様々な行事が陳腐なものに感じられて、関心も非常に薄いものになってしまっているように思える。
 本来、世界人口と食料の生産量の関係から見て、人間は粗食・粗衣でなければならないもので、日本における生活水準は世界中を見渡しても非常に高いものである。今の豊かさは、先進国の特別なものであり、それを継続することは将来の人類に対して大きな負債を残すことになるだろうし、発展途上国が先進国並の生活水準になると世界規模の危機を迎えることになる。
 また、一人一人が助け合わなくても生きていける社会は、人との関わりを希薄にしていく。隣に誰が住んでいるのかも分からず、孤独によって精神を病むような人々も増加し、更に犯罪も増加してくる。戦後、日本の古きものを否定し、欧米を良しとする方向で進んできたが、今こそ日本の古きものの中にある良きものを見直すべきではないだろうか。その根本が生産を中心とした共同体文化であり、人間関係を濃密にしていくことである。その方法として、「同じ釜の飯を食べた仲」や「お近づきのしるしの一杯」や「一宿一飯の恩義」や三三九度や固めの杯のように寝食を共にすることによって人間関係をより深いものにしていくことが大事である。天皇即位の時、大嘗祭を行い、天皇としての資格完成のために、蓐・衾を備えた悠紀主基殿で神と寝食を共にし、天皇霊が身体に入るまで引き篭もり深い物忌みを行っていることと同様なものであり(この儀式は、一説には、天孫降臨の時邇邇芸命が真床襲衾を被っていたことに由来するとしており、これを取り除いたとき完全な天子になるのである。)、祭りの後の直会も同義であり、日本人の遺伝子にその感覚が残っているうちに、寝食、特に飲食を共にする場を多く持ち、共同体の結び付きを強化していくべきである。強い結び付きは、共同体内での助け合い、孤独感からの脱出、犯罪の減少に繋がっていくと思う。それ以上に、メディアという虚像に人生を支配されることなく、自分に直接触れ合う現実生活を確認しながら生きていける事に繋がり、限りある人生を大切にすることでもある。人生を大切にすることは、自分を大切にすることであり、自分を大切にすることは、自分をこの世に存在せしめるあらゆる存在に感謝の意を示すことである。


現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化  三 過疎過密と少子化

2012-01-27 12:37:37 | 日記・エッセイ・コラム
  1.  三 過疎過密と少子化
     地方の在来共同体を捨て、都会に存在していた共同体に入った段階では夢を追い、都会の周辺に家を構え、自動車に乗り、家電品家財道具で家を満たし、休日には家族で出掛ける幸せを手に入れていた。しかし、大不況からその共同体も所属員を限定し始めている現在、人々は何をどうすれば幸せになれるか解らないままに都会を彷徨い始めている。
     過疎過密は、村社会を崩壊させたため地域の行事が荒廃していっているが、過密な都市部においても、住人は自分本位で我が儘な人々の集団と化して、一部のイベントとして派手な行事には挙って参加するが、昔からの地域挙げての行事には参加せず実施を難しくしている。それに加え、少子化問題は、過疎地域をより一層過疎にし、行事のみならず地域そのものが荒廃する状況になり、現在人口増加地域でも長期的に考えれば、人口減少に転じる時期がやってくる。その時慌てても人はすぐには生まれないし育ちはしないのだから、過疎過密と少子化現象をくい止める努力を今の内に行っていなければならない。
     本当は、自然と触れ合える生活・家族との暮らしが、生活を潤し、豊かにし幸せを感じさせてくれると誰もが知っている。しかし、都会の暮らし・便利な暮らしに慣れた人々は自分の楽しみや楽な生活のためになかなかその生活をしようとは考えない。今行うべき事は意識改革である。自然の脅威を恐れる心、自然の恵みに感謝する心、生産することを喜ぶ心、自分たちの生きてきた証を次の時代に繋いでいこうとする心、失われつつある心を取り戻す活動を、国・地方公共団体・住民それぞれが一体となって取り組めればと思う。それが、悪循環に陥っている日本を再生し、良い循環に造り変える基本となるだろう。

現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化  二 会社一家の崩壊

2012-01-27 12:35:59 | 日記・エッセイ・コラム

 二 会社一家の崩壊
 日本では、近年まで終身雇用・年功序列が当然であり、会社が栄えれば社員も豊かになれると誰もが考えていた。会社とは、地域の共同体に替わって、商家から発展してきた共同体である。サービス残業をし休日には会社が行う運動会や催し物などに家族ぐるみで参加するなど、会社が全てであり会社の中に幸せを導き出していた。しかし、バブルが崩壊し日本型経営の限界が言われるようになり、不況が長期化してくると、米国型経営に大きく方向転換が始動し、政府も指導し始めた。これが会社一家の崩壊である。具体的に財界が経営のために改めようとしたことは、第一に従業員の身分保障の厚い現状から米国的に必要に応じた期間決め雇用契約・先任権に基づくレイオフ制度・経営階層のスカウト人事などの流動的雇用へシフトすること、第二にコーポレートガバナンス(企業統治)で、従業員優先から株主優先に変え株主の自己資本を守るために経営面のチェックを厳しくし、健全性と透明性を高める義務を課すこと、第三に企業の長期的発展を遂げるために地域からの高い評価を得ることを必要と感じるようになり、ステークホルダーへの対応が無視できない状況になっており、自己の利益追求だけでなく社会に存在する一組織体として調和を図る経営姿勢への転換をすることなどである。しかし、第一については大変な勢いで進んでいるが、第二については時代の流れとしてやらなければならないからするというテンポで進んでいる。第三については平成大不況の中、企業の生き残りこそが命題であって地域への貢献まで及ばないのが現実である。
 古代から維持してきた稲作を中心とする共同体を捨てて会社一家という共同体を選んだ者たちが今また篩に掛けられているのである。篩に掛けられ残れなかった者たちは①元の共同体に戻る・②第三次産業の隙間で生きていく・③家族に寄生して自分の当面の小遣いをアルバイトで過ごしていく・④自分で起業する・⑤破産の道を選ぶなど様々な選択肢が考えられるが、誇りと自信を持って生活出来る仕事は少なくなっているように思える。生活に自信を持てないことが結婚をしないことに繋がり、少子化に繋がっていっていると思う。


現代(従来環境の崩壊) 三 共同体の変化  一 一次産業の崩壊

2012-01-27 12:33:06 | 日記・エッセイ・コラム

三 共同体の変化
 一 一次産業の崩壊
 戦後の方針で財閥解体と農地解放がなされたが、財閥解体は上手くいかなかったために高度経済成長の原動力となり、農地解放は厳格になされたことにより、大地主から小作等に農地が分けられ、農業は小さな田畑を三ちゃん農業で効率化だけを頼りに行われてきたが衰退の一途を辿っている。農地は売買され家が建ち、減反を繰り返し、豊作でも喜べない現状を考えると人々は農業をする意味を見失ってしまうであろう。見失った人たちは故郷を捨て新天地である都会の二次産業三次産業へと出ていってしまい、農村は過疎化していっている。農業の法人化が言われると、なぜ、あのとき農地解放を行ったのだろうかと疑問に感じる。政府の政策通りにならなかった方と徹底してなされた方との違いを、今日の政府の政策を判断するときには考えてみなければならない。
 漁業についても工場の廃液等で海が汚れ、公害による魚の奇形や漁獲不振が生じたこと、また、多くの埋め立て事業により漁場は狭まり、潮の流れは変わり、海の自然浄化作用も機能しなくなり海を諦め、農業と同じように職場を求めて都会へ出ていくことになっている。
 単なる都会への憧れであれば、夢が覚め元に戻る可能性もあるが、現実の大きな壁がある以上、この流れをくい止めることは出来ないであろう。
 江戸時代前期においてもよりよい生活を求めて「走り(欠落・逐電・退転)」をする者が多かったが、領主達は農民の減少を年貢の減少と一致させて考え、「走り禁令」・「人返し令」などで「走り」の抑制に努めていた。その結果、走ってきた者を本百姓として迎え入れることもあったり、大開墾を行う為に他領地者を招致するなどの農村政策が採られ・比較的安定していた有力な農民は、庄屋・肝いりとして村政の運営を握り、領主は管理を行うために連帯責任による村請制度を確立していった。それぞれが自分たちの事を真剣に考える時代であった。しかし、現代の指導者には農業が無くなったとしても構わないくらいの考えしかなく、農業崩壊に対する危機感がない。故に農業に携わる者にとって可能性の見えない時代が続いているのである。
 近年専業で成り立つ神社は自動車の祓い・地鎮祭・商売繁盛などの雑祭諸々を中心に行っているように感じる。逆に、豊作・豊漁を祈り、祝うことを基本としている神社にとって、一次産業の崩壊は自らの崩壊を意味し、神の概念から言っても大きな柱の一本を失うことになる。だからと言って、ただ単に合祀による統廃合を行い、運営の成り立たない神社をなくす方向は早計であり、山崩しの上の棒だけが残っている姿を連想させ、末端の神職も職業選択の自由だからと言って、神職を捨てることも有ってはならないと思う。兼業などのあらゆる手立てを講じても神職を繋いでいくべきである。そのために、包括団体などは維持に努力する意思のある後継者が生きていけるように誠意のある柔軟な発想を以て対応して欲しい。また、生産の大切さを訴え続ける必要性がある。農業を自らの手で行っていない現代でも、稲作社会の内(弥生時代の延長線上)にあるのだから一次産業が国内において復活する可能性は十分にある。不遇な時代こそ次の時代のための準備期間として努力研鑽を積み重ねていかなければならない。


現代(従来環境の崩壊) 二 家庭の変化 三 生活様式の今後

2012-01-27 12:30:55 | 日記・エッセイ・コラム

 三 生活様式の今後
 生活が便利になるに従い、光熱費・電話代などの負担が重くなるのに加え、介護保険が運用面で国民全体に浸透してくると、社会を支える世帯の公的負担は重くなり可処分所得を減らしていく。しかし、企業が生き残りのために価格競争を行い、中国などに生産拠点を移し国内は急速に空洞化し、デフレの傾向は益々増えてくる。そうすると、所得が減りこそすれ増える可能性が無くなり、倒産、リストラ、失業が増えてくる。新卒者は求人が少なくフリーターと呼ばれるアルバイターが溢れ、もう暫くすると少子化世代によって学校の整理・倒産、新運転免許取得者の減少により新車登録台数の減少、新規造成地の売れ残り、更なる地価の下落による不良債権処理のイタチゴッコ等々という悪循環繰り返し、更なる悪化を生み至るべき所へ至るであろう。
 最悪になる要素は、これ以外にも数えればキリがないが、これだけの要素から見ても当分の間悪循環が続くことは明らかであろう。ではこの状況の中で神社に一体何が出来るのだろうか。


現代(従来環境の崩壊) 二 家庭の変化  二 家族関係の変化

2012-01-27 12:28:51 | 日記・エッセイ・コラム

 二 家族関係の変化
 以前福祉行政関係者に「子供はなるべくなら親とのスキンシップを大切にし、親から様々なことを学ぶべきではないか。零歳児から保育所で半日ぐらいを過ごし、家で食事・睡眠の時間を除けば親と一体どれだけ接することが出来るのか。」と尋ねると「そんなことは分かり切ったことで議論し尽くされている。その上で今の時代は親に育てられ、親と過ごすよりも、保育所で過ごす方が幸せな子どもたちが増えている。そのような子どもたちのためにもしっかり保育して欲しい。」とのことで、また介護保険について、「福祉施設は様々な理由でどうしても保護されなければならない方のためのものではないのか。」と尋ねると「民法上は子どもたちに扶養義務があるけれど、それは直接世話をすることだけではない。逆に今までのままでは多くの場合主婦に負担が掛かり、あまりに不公平な状況にあり、男女共同参画社会のためにも問題になる。」との見解だった。
 このことから、今の社会を分析すると第一に親子の情が薄くなっている。第二に特定の者に多くの負担をかけないような方に向いている。第三にお金で片の付くことはそれで済ますようになっている。第四に福祉は特定の者のためのものではなく条件に当てはまる全ての者が利用している。少なくともこれぐらいのことは分かるだろう。
 そのような社会は、血族といえども皆バラバラで、面倒なことは避けて通るか、お金で解決し、出来るだけ我慢をしないことを意味している。
 そして、その結果として現れた代表的なものが、高齢者の世代では介護保険であるのに対して、若者の世代では、少子化現象と言えよう。
 介護保険制度の成立の背景には、老人保険制度がばらばらで不公平感を持つ者が増えてきて制度の統合をしなければならなかったこともあるが、それ以上に民法上当然の義務である「子が親をみ、親が子をみる」ことが有名無実になってしまったことである。また、結婚したくない人、子供を持ちたくない人が急増していることは、合計特殊出生率からも明白なことである。親子の関係が今の日本には存在しなくなってきているのである。。


現代(従来環境の崩壊) 二 家庭の変化 一 生活様式の変化

2012-01-27 12:26:45 | 日記・エッセイ・コラム

二 家庭の変化
 一 生活様式の変化
 近年の生活の様相を見ると、家族中心から個中心に移行していることが顕著である。「家」とは最小限の社会単位である家族が喜怒哀楽を共に分かち合い、お互いがその中で学んだり、助け合ったりしながら思いやる気持ちを育てるものであり、衣食住を始めあらゆる文化がその中に存在しているものであったはずである。その「家」も、高度経済成長の頃の「核家族」から、一人暮らしの世帯が多くなっている。一人暮らしでない場合でも次第に主人は単身赴任、奥さんはパートに出かけ、大きな子は下宿をし、小さな子は鍵っ子で親が家に帰るまでどこで何をしているのかさっぱり解らない。「家」という建物があり時々戻ったり、寝に帰るだけの場所になってしまっている状況が多くなってきているのではないだろうか。米国の例だと家族が一緒に暮らすのは当然のことで単身赴任など考えられないし、幸せとは家族が一緒に楽しい時間を過ごすことであるらしい。離れて暮らすとすぐ離婚ということになるせいかもしれない。しかし、幸せを家族との時間の中に見いだす努力をしていることはよく考えてみるべきだと思う。
 家の造りから見ても昔は建具をはずせば広く使える造りが多かったが、最近は一階はリビングとキッチンそして和室が一部屋で二階は寝室や子供部屋などに区切られた造りになってきている。親戚縁者など多くの人が集まることの多かった時代から家族がくつろぐ時間以外は個別の部屋で過ごす時代への変遷を感じる。
 また、このような状況だから、食事についても沢山の煮炊きをする必要性が無くなり、仕事をした後に煮炊きをすることを面倒に感じる人が増加してきている。そうすると、コンビニ・スーパーなどがそのような家庭をターゲットにした戦略で個人単位の総菜や電子レンジで簡単に調理できる冷凍食品やインスタント食品を多様に販売し、家庭での煮炊きの必要性を感じさせなくなっている。
 衣類を始め生活必需品についても昔は粗末にせず、大切に使うことが当然のことであったが、その時だけの使い切りで購入する事が多くなってきている。物のデサインなどの変化のサイクルが非常に早くなり一年前に着ていた衣類などを着ることが流行に後れているように感じてしまうのだろう。
 欧州などの生活ぶりをテレビ等で見ていると家の寿命も長く親から子へ衣類やその他の物も多く受け継がれているように見える。自動車について日本におけるモデルチェンジと独逸におけるそれを思い浮かべると一事が万事のように感じる。
 本来、天然資源に恵まれていない日本にとって無駄遣いはしてはならないことであるし、大切にものを使うことは、小さな物一つから始まって身近な人を大切にする気持ちを育てその時その時に出会う事柄を大事にしていくことにつながり、人を育てていく上においてとても重要なことであるが、肥大化してしまった日本の経済や雇用を考えると大量生産大量消費を続けなければならない。この矛盾を抱えたまま時間を重ねることが大きなジレンマとなり、何が人として大切なのかを見失わせ、刹那的な享楽に時間を費やし、地球に住む生物の一員としてどう生きることが幸福を感じることが出来るのかを考える時間を少なくしてきている。


現代(従来環境の崩壊)  一 クニの変化  三 権利と義務(自由の履き違え)

2012-01-27 12:24:59 | 日記・エッセイ・コラム

 三 権利と義務(自由の履き違え)
 米国によって与えられた憲法が国民の考えていた以上に民主的であったことが、長い日本の歴史の中でお上の言うことは従わなければならないという国民性によって、あっさりと受け入れられ、特に「自由」について喜んだようである。この与えられた「自由」が独断専行して今日の日本を造ってきたと言っても過言ではないだろう。仏蘭西においては革命を通じて得ることの出来た「自由」について大変な重みをもっている。「自由」とは権利の一つであり、義務を果たすこと(責任)によって裏付けされていなければならないという意識が徹底している。
自分にとつての自由(権利)が他人にとっての自由(権利)と相反するとき問題が生じてくる。日本における自由について、「国旗・国歌」の周辺を例に見ていきたい。
 一般に独立主権国家は、「国旗・国歌」を持つことは当然のことである。国旗が無いために国旗を付けず他国に侵入した場合、攻撃を受けても仕方ないことであり、オリンピックなどで国旗・国歌を間違えた場合、国際問題になりかねない。「国旗・国歌」を持たないことは、独立主権国家でないことを認めることである。昭和二十五年頃天野貞祐文相が「学校の祝日行事には、学校で国旗掲揚、君が代斉唱をすることが望ましい。」との談話を発表し、通達を出したことに対して、日教組は激しく反発し、新国歌制定運動を起こし「緑の山河」を作ったがほとんど普及することはなかった。この時、日教組が国歌代替案を考えたことは君が代を否定する権利主張のための義務を果たしていると言えよう。しかし、その後の日教組の主張は何が何でも「日の丸・君が代」反対のみであり、仮に「日の丸・君が代」が「国旗・国歌」でなくなった場合のことを何も提言していない。日教組にとって日本は独立主権国家でなくてもいいのだろうかと思ってしまう。
 平成十一年に国旗国歌法が制定されてからも、上司である校長に対して職員組合が団結して自分たちに有利な条件を突き付けたり、教職員が斉唱時に起立しなかったり、妨害したりの行為は法制化以前よりかなり減ったものの未だに存在し、地方公務員法による職務命令違反や信用失墜行為禁止違反に問われる事例があった。犯人は判らないが、日の丸が焼かれる事例もでている。平成十五年には起立しての国歌斉唱率十割となっているが、その実体は、入場から斉唱終了まで全員を座らせない進行方法を採ったことと、日教組自体が自重しているためである。決して理想的な形での国歌斉唱が行われているとは考えられない。
 教育者は、学問を教えるだけではなく、生き方・考え方・人の有り様もその存在によって子どもたちに示していると思う。教育者が義務の裏付けのない権利の主張を繰り返していたらおそらく子どもたちもそれを見習うであろう。否、戦後五十数年間見習い続けた現実が今の日本社会を造り上げている。戦前は、家に鍵をかける習慣の無いことが多かったが、犯罪は少なく、地域の共同体内の結び付きは強く相互扶助を実践していた。親子が互いに養育・養護することも当たり前のことだった。しかし、現在は地域コミュニティーを造らなければならないと言っても造り運営することが難しく、親子の扶養関係も金銭で済ますケースが増えてきている。大人も子供も自分本位で我慢をすることが出来ず我が儘を通して争いになることもあり、裁判件数も増え、常識では考えられない犯罪も増加している。物質的には豊かになっており、人間の中身についても社会の流れに沿った形で変化しているのであるが、どう考えても良い方向に変化しているとは思えない。人と人とが信頼することが出来、いたわり合うことが出来、迷惑をかけないように我慢する気持ちを持つことが出来、またその気持ちを察して助けようと思う気持ちを持つことが出来る家庭・地域・社会を目差すべきだと思う。そのためには、家庭・地域・社会の現在の構成員が率先してそうした姿を実践し、次の世代の手本になっていくことが大切である。「子供は親の言うことを聞かず、する事をまねる。」である。家庭・地域・社会の建て直しを出来るだけ早く行わなければ将来に禍根を残すことになるのではないだろうか。


現代(従来環境の崩壊)  一 クニの変化  二 外圧に従う

2012-01-27 12:23:10 | 日記・エッセイ・コラム
  1.  二 外圧に従う
     ごまかし的行動の原因の第二は、日本が占領され、昭和二十六年九月サンフランシスコ講和条約により独立国になった(参加していない国も多くあったが)のであるが、片方で国民に占領・独立を意識させないように独立記念日も設けず、もう一方で大日本帝国から日本国に変わり、天皇主権から国民主権に変わったことを意識させていることであり、また、外国に対しては、戦前も戦後も日本は一貫して同じ国である様な態度(外務省も戦前戦後変わることがなかったために平成十四年には機密費問題・亡命問題・本来公務員であるはずの外交官が海外では特権階級のような生活をしているなど様々な問題が噴出してきた。)でありながら、自国に対する自信の無さと米国の占領政策によって、米国を始め近隣諸国の外圧が加わればそれに従う国と思われている。この様な内・外・内外それぞれの矛盾を修正していく努力をしなければ、米国の財布としてしか存在意義を認められないであろう。
     外圧の中でも中国と朝鮮半島に対しては複雑な問題がある。特に大きなものが南京問題と戦後補償問題と歴史認識問題である。南京問題は、極東国際軍事裁判の法廷から証拠付きで信憑性の高い報道をするラジオ放送「真相箱」で報道されたもの(南京で三十万人を虐殺したというもの)で、日本人を自己嫌悪に陥らせた最たるものである。この問題は様々に論議されてきているが、私は、原爆の投下により一般市民を大量虐殺した米国の責任をぼかすために考えられたものだと思う。南京陥落直前の昭和十二年十二月十三日にいた人口は田中正明氏著「南京事件の総括」日本軍捕虜張群思少佐による十万人・日本軍捕虜で後に汪兆銘政府軍官学校長による二十万人・ライフ誌による十五万人・フランクフルター紙の特派員の「南京脱出記」による十五万人・松井大将による十二万人と、すべて当時の証言であり凡そ十から二十万人が住んでおり、守備軍は公文書で五万人(実際は三万五千人)で全員殺されても三十万人にもならず、戦争が迫ると金持ちは逃げ、退去しない市民の保護(食料の支給も行っており人口の把握もかなり行われていた。)に欧米人中心の南京安全区国際委員会当たっていた。それに依ると陥落後一ヶ月後の人口は約二十万人で更に一ヶ月経つと五万人増加している。日本軍による治安状況で避難民が帰ってきていることは日本軍による治安への信頼以外の何物であろうか。極東国際軍事裁判の証人であるマギー牧師が「日本兵の歩哨が一人の中国人を呼びとめたが逃げ出したためにそれを撃った。」一件しか目撃していなかったこと、AP・UP・ロイターなどの通信社が南京陥落当時一切打電していなかったことからも南京大虐殺はあり得ないことである。しかし未だにこれを問題とし、自虐行為を続けている日本人がおり、政府も曖昧模糊とした態度をとっているのは信念の無さを示している。
    戦後補償(戦争責任については極東国際軍事裁判でA級戦犯とされた七名絞首刑・十八名終身禁固刑などに処せられ、軍事裁判で九百二十名が死刑に処せられたことで解決している。しかし、この裁判は連合国の訴因である①平和に対する罪、②通例の戦争犯罪、③人道に対する罪によるものであるが①・③は四十五年八月に米英仏露四カ国合意の「ロンドン憲章」で示されたもので、法律の出来る前に起こした犯罪は遡って罪に問われないという原則から、更には、連合国が一方的に裁き公平性を欠き、原爆投下もシベリア抑留・強制労働も「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」に該当し、それを追求しない点からも極東国際軍事裁判等の判決は無効と言わざるを得ない。)については、サンフランシスコ講和条約で連合国四十八カ国と調印しそれらは賠償請求の放棄をし、フィリピン・インドネシア・ビルマ(ミャンマー)・南ベトナム(当時)とは賠償協定を結び賠償金を支払い、中華民国(台湾政権)・印度とは平和条約を結んで賠償を放棄した。韓国とは昭和四十年の日韓条約で千八十億円の無償資金と七百二十億円の借款供与で解決をした。中華人民共和国とは昭和四十七年の日中共同声明で賠償請求権を放棄した。北朝鮮のみが解決せず国交が成立していない。これが戦後補償の状況であるにも拘わらず、日本が彼らの歴史認識と異なったことを行うたびに個人の賠償請求が平成に入った頃から韓国人残留者・元従軍慰安婦・軍人貯金の未払い等々出ている。日本政府は、国家間の賠償は解決済みとするが「女性のためのアジア平和国民基金」を設立するなど補償に変わる措置をとっている。国交がないにも拘わらず北朝鮮に対しての人道援助による米の大量支援も理屈が曖昧で傍目にはごまかし的行動に映る(拉致問題をもし信じていて行ったとすれば許し難いことであるし、信じていないで行ったとすれば非常識としか言いようがない。)。
     ナポレオンは仏蘭西では英雄であるが、英国では非道な人間としているように歴史の認識は各国それぞれに有っていいはずである。喧嘩をしたときそれぞれの言い分を聞くとどちらが先に手を出したが何が原因か殴ったか殴らなかったか等々水掛け論になる場合が多い。納得できるのならばよいが、納得できないことの方が多い為に誰かが仲裁に入ったりするのである。世の中には勧善懲悪のケースなど滅多になく、どちらもが正義である場合もあるしどちらもが悪である場合もある。問題は、外国に対して自分たちの歴史認識が正しいからそれに代えるよう訴えることである。これは明らかに内政干渉であり、思想信条の自由を奪うことになる(奪っている側は、自分たちの思想信条の自由を奪われていると感じている。)。日本は独立主権国であり、国内問題は、国民で決め、対外問題は筋道を立て、しっかりと国益を考えて取り組まなければならないのであるが、どうもそのように思えない。

現代(従来環境の崩壊)  一 クニの変化 一 日本国憲法

2012-01-27 12:21:19 | 日記・エッセイ・コラム

 一 日本国憲法
 戦後の日本は何事に付けてもごまかし的な行動をとり続けている。と言うよりもそうなる状況が存在している。その大きな理由の一つは、日本国憲法にある。日本は昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏をした。宣言は、軍国主義勢力の排除、民主主義の確立、言論・宗教・思想の自由、基本的人権の尊重などを指示していた。それに沿って、治安維持法の廃止、労働組合結成奨励、農地解放などの政策を行っていった。日本国憲法もそれに沿って作成されていった。十月四日のGHQ司令官と近衛文麿の会談の時点から始まっていくが、米国務省からA級戦犯容疑者を作成の中心に据えることへの批判が出て近衛文麿は解任され、幣原喜重郎に作成が委託された。同じような敗戦国である独逸では独立後に憲法を作成しているが、日本では連合国の占領下(幣原内閣の時)に作成されたのである。この時GHQは、間接統治を目指し、日本の自主性になるべく任せる態度をとっていたが、その「憲法改正要綱」の草案では、天皇の不可侵、天皇による軍の統帥、議会の協賛を持って天皇が戦を宣言したり和を講すると言った明治憲法とほとんど変わらない内容(共産党などを除いて他の民間研究団体や政党から出された案もほとんど差異がなかった。)で、GHQ内部で草案作成の決意をした。GHQは司令官の「天皇は社交的君主としての国家元首」・「国権の発動による戦争の廃止」「封建制度の廃止」を三原則とし、一週間で草案を作成し、吉田茂外相・松本憲法担当相らに「憲法改正要綱」を拒否し、自分たちの草案を突き付けた。政府は抵抗するもののほとんど変更することなく「憲法改正草案要綱」として、吉田内閣の時、明治憲法改正の手続きに従って(明治憲法七十三条「将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」)帝国議会によって(一部訂正は有ったものの)改正された。問題の第一は、時期が占領下であること、更に一度でき上がったとき占領軍にお窺いを立て、訂正をされ、占領軍の了承を得ていることで、とても日本国の意思が反映されているとは言えない。また、明治憲法の改正手続きによっているのに、「名称」を換え、「改正手続き」を民主的なものにはしたが、非常に困難なものにしてしまったことである。このことは、連合国の意思のまま改正できず従い続けなければならないことを意味する屈辱の憲法である。改正が難しい為に多くの政治家・学者が解釈という方法で現状にあった服を着せようと努力をしている。素直に読んだ場合とは正反対な意味を示す場合すらある。これがごまかし的行動の原点である。
 この憲法の中でも「戦争放棄」・「信教の自由・政教分離」は特に多くの問題を含んでいる。「戦争放棄」については憲法第九条に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」とあり戦力を持てないことになっているが、昭和二十五年六月二十五日に朝鮮動乱が始まり、司令官は、国内治安維持の名目で警察予備隊・海上保安庁の増員を指示してきた。GHQは「戦争放棄」をさせておきながら僅か三年で態度を一変させてしまったのである。そして、昭和二十六年にサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が調印されると、警察予備隊は、保安隊と改組され、昭和二十九年には、防衛庁設置法・自衛隊法を公布し、防衛庁、陸・海・空自衛隊を発足させている。その後も「集団的自衛権」を認める云々など様々な解釈論で着替えをしている。これこそ、解釈によるごまかしの最たるものである。また、国内的には「自衛」目的であるが、軍事技術・予算から世界有数の軍事力保持国になり、外国語では「ARMY(軍隊)」である。
 「信教の自由・政教分離」について憲法二十条に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権利を行使してはならない。何人も宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」とある。しかし、そもそも日本国憲法を作成した米国では、合衆国憲法修正一条に「連邦議会は国教の樹立を規定したり、宗教の自由な礼拝を禁止する法律を制定することは出来ない。」と規定しているが、「国が宗教に敬意をもち、宗教上の影響を拡げようとすることに反対するどのような憲法上の制約もない。」という判決を主としている。大統領の就任式の時「天の祝福あれ」と聖書に誓う行為を見れば、米国が(他国に政教分離をさせていながら)政教一致の国であることが解る。別の例として、英国では、国教会を置きつつ、他の宗教・宗派に対して信教の自由を保障している。これは明治憲法の信教の自由と同じである。独逸に至っては、公立小学校で正規の科目として「宗教」を設置し、すべての宗教・宗派を国家によって保護・優遇する方針をとっている。逆に仏蘭西では公機関から一切の宗教性を排除している。米国から押し付けられた形が日本に合致していないことは、様々な訴訟を生んでいる点・無秩序な新興宗教の多発を見ても明らかである。しかし、憲法は簡単には改正できないのである。世界中のほとんどの文化や伝統は宗教の影響を受けており、受けていない文化や伝統は薄っぺらな印象を受ける。日本国民として日本の伝統文化を守り、発展させていくことは、宗教を守ることと一致する部分が大きく、宗教を守らないことは、伝統文化を衰退させることに他ならない。このジレンマを解消しない限り、日本は自国に対して、自国の伝統文化に対して誇りを持つことは出来ないであろう。また、自国に対する自信の無さと米国の占領政策(紳士的な部隊を駐屯させ、豊作による余剰の小麦・脱脂粉乳等与え戦時中よりも敗戦後の方が素晴らしいものとの印象を植え付けた)は、自国の文化を否定し白人文化こそが上等でありそれを取り入れることが豊かな生活をもたらすと信じ込むことになっていった。その結果として、国のため、家のため、親のためなどの観念が消失し、自分さえよければということになってしまった。このことは、本来日本人が道徳規範としていた「祖先に顔向けできないようなことはするな。」とか「神様だけはお見通しだぞ。」というものを「ご近所に知られたら。」という過程を経て「誰がどう思おうと知ったことか。」という所まで落としてしまっているのである。そして、無気力・無関心・無感動・無責任等々に陥り、ついには面倒には係わりたくない大衆を生み、強い主張に対しては流されるだけの存在になってしまっている。
 次に神社の立場から戦後の状況を考えてみたい。当時は神社について、公的(皇室の御安泰と、国家・国民の繁栄を祈る国家性)・私的(民衆・大衆の信仰に基づく宗教性)の両面を有し、この両面の均衡がとれてこそ、神社の繁栄が期せられるものと考えていたが、昭和二十年十二月十五日にGHQは「神道指令」(〔条文の抜粋〕○神道及神社ニ対スル公ノ財政ヨリノアラユル財政的援助並ニアラユル公的要素ノ導入ハ之ヲ禁止スル。而テカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。○従来部分的ニ、或ハ全面的ニ公ノ財源ニヨツテ維持セラレテイタアラユル神道ノ神社ヲ、個人トシテ財政的ニ援助スルコトハ許サレル。○神道ノ教義、慣例、祭式、儀式或ハ礼式ニ於テ、軍国主義的乃至国家主義的「イデオロギー」ノ如何ナル宣伝、弘布モ之ヲ禁止スル。而テカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。○伊勢ノ大廟ニ関シテノ宗教的式典ノ指令、並ニ官国幣社ソノ他ノ神社ニ関シテノ宗教的式典ノ指令ハ之ヲ撤廃スルコト。○内務省ノ神祇院ハ之ヲ廃止スルコト。而テ政府ノ他ノ如何ナル機関モ或ハ租税ニ依ツテ維持セラレル如何ナル機関モ、神祇院ノ現在ノ機能、任務、行政的責務ヲ代行スルコトハ許サレナイ。○日本政府、都道府県庁、市町村ノ官公吏ハ、ソノ公ノ資格ニ於テ新任ノ奉告ヲナス為ニ、或ハ政府乃至役所ノ代表トシテ、神道ノ如何ナル儀式或ハ礼式タルヲ問ハズ之ニ参列スル為ニ、如何ナル神社ニモ参拝セザルコト。)を発し、日本政府に対して、神社と国家の分離並びに、国家が定めた祭祀制度の廃止を命じ、神社を一つの宗教とし、これを信奉する人々によって運営することは認める旨を指令した。これにより神社の公的面は悉く除去され、神社の本質、祭祀の在り方を、著しく歪曲されてしまったように思える。翌年二月二日官制廃止となり、神社は国家の管理を離れ、宗教法人として宗教法人令、更には宗教法人法に依つて運営されることとなっている。この状況をどう認識し、どうすることが将来の神社のあるべき姿かをこの章の四で考えていきたい。
 また、最近靖国神社に変わる施設の設置が問題になっている。靖国神社は明治二年に維新の戦没者慰霊のために東京招魂社として創建され、明治十二年に靖国神社と改称され、他の神社と異なり陸海軍省に所管されていた。つまり、戦没者や遺族の気持ちに対して国が創設した存在である。それが戦後の「政教分離」の立場で靖国神社参拝が難しくなったために戦没者や遺族の気持ちの間での苦肉の策としてごまかしのために打ち出したものと言える。そもそも、靖国神社はナショナリズムと戦意の昂揚のために国に利用されていたと見るべきで、そうすると政教分離とは国に対して特定・非特定の宗教の違いに関係なく霊の存在を認め、霊を祀り、霊を礼拝することを禁止する法と解釈すべきである。故に、礼拝施設を設けて、祝詞の代わりに弔意・不戦を表した文章を読み上げ、玉串の代わりに花や花輪を捧げることは神道形式で無いからと言って行ってはならない。この事は、八月十五日に戦没者の霊の木塚を設けて行っている儀式に政府関係者が参列することと全く同義であり、特定・非特定の宗教であることの違いを除けば靖国神社に参列することとも政教分離からは同義と言える。寧ろ靖国神社参列を毅然と戦前からの慣習という立場で行うことこそ政教分離の中で行いうる行為と言える。
 キリスト教徒などの「靖国神社に祀って欲しくない。信教の自由が侵されている。」との言い分に対して、「祀りたい者の信教の自由はどう保護されるのか。」と反論することもあるが、神社神道にとって、伊勢神宮の分霊を祀りたいからといって、何処にでも認めることが出来るのか、またそれを掘り下げていくと、大麻を天照大神の分霊と解釈しても良いのではないかという意見も出てくることになるだろう。国がごまかし的行動をとっている限り神社界も矛盾から開放されないだろう。
 A級戦犯についても、日本国のことを思い様々な経緯の結果戦争に突入し、敗戦したからといって、戦争の責任が一方的に敗戦国にあるはずが無く、日本国のために苦労された方々を日本人が祀って悪い理由は何処にも存在しない。逆に、極東国際軍事裁判のように、戦勝国側の主張のみを押し付けられた結果を国民の多くが納得している事実こそが日本のアイデンティティーを歪め、外国からの圧力に弱い国と言うレッテルを貼られる原因になっているのではないだろうか。