私はもともと福音派の教会で救われて、その青年会で朝から晩まで礼拝をしている教会があることを知って、心から当時行っていた日曜日、礼拝一回のその教会の教会員で良かったと思ったけど、今私は日曜日朝から晩まで、おまけに毎日礼拝をしている教会に通っている、、不思議だな〜ということをなぜか最近よく考えています。
前回の日曜日の礼拝のメッセージ箇所は詩篇103編14節だったけど、私は実は次の聖書箇所が好き。「義人はいない。ひとりもいない。」聖書箇所忘れちゃったけど。安心する。私はこんなんだけどそれはむしろ当然なんだと思う。しかも「ちりにすぎない」とも書いてある。嬉しいわ〜。変かな?
最近、「のぼうの城」という歴史ものの映画を観た影響で、日本の歴史ものの映画を観るのにハマっているんですが、脚色もあると思うけど、織田信長の本能寺の変の時の部下たちの働きが素晴らしい、、命をかけて親方様を守る、、のに神の子イエス・キリストの弟子たちはイエス様が捕まった時、逃げちゃったんだな〜と思って。おまけに12弟子のひとりのペテロはイエス様の予告通りイエス様を3回知らないって言っちゃって、、しかも12弟子のひとりのユダに裏切られている、、この違いはなんだ?と思って。ま、そもそも、私だったら信長様に選んでもらえてないなと思った。
わた
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