川端康成と鹿屋特攻基地
拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第四章「戦時下の川端康成」から
切迫する戦況―昭和20年―
戦況は、切迫していた。
3月4日には、B29約150機が東京に来襲し、雲上より盲爆した。
3月10日の東京大空襲について、高見順『敗戦日記』(文藝春秋新社、1959・4・20)は、以下のように記している。
三月十一日
夜、義兄来る。9日夜の、というより10日暁方の爆撃の被害は今までにないひどいものだつた由。罹災家屋25万軒、罹災民100万と言われている由。
そして高見は翌12日、浅草へ行こうと東京駅で山手線に乗り換えようとして、歩廊に罹災者の群れを見、息を吞む。上野へ降りて、ふたたび息を吞む。駅前は罹災者でいっぱいだったのだ。
さらに浅草へ行こうとして、「駅前から見渡す限り、ことごとく焦土と化している。ひどい。何んとも言えないひどさだ。想像以上だ」と歎き、浅草に来て、「きれいさつぱり消えている」と、衝撃を隠さない。
3月17日に、硫黄島が玉砕した。大本営の発表は、その4日後だった。
3月26日には沖縄戦がはじまり、4月1日には、沖縄本島に米軍が上陸した。5日、小磯内閣は総辞職し、鈴木貫太郎内閣が7日に成立した。
このような時期、康成は、海軍報道部の吉川誠一の訪問を受けた。
海軍報道班員として、特攻隊基地の鹿屋(かのや)飛行場に行ってほしい、という依頼であった。
今急になにも書かなくてもいいから、後々のために特攻隊をとにかく見ておいてほしい。
そういう依頼である。
康成は二、三日考えたあと、承諾した。
じつは、康成に依頼したのには、以下のような事情があった。
近年に公刊された高戸顕隆『海軍主計大尉の太平洋戦争』に、その次第がくわしく語られている。
この書によると、当時、海軍報道班を統率していた高戸は、昭和20年2月に入ると、大物の報道班員を戦地に送ろうと考えた。というのは、「戦局いよいよきびしく、日本の運命はまさにきわまろうとしていた」ので、「この事態をより的確に語りつぐべきだと思った」からである。そこで高戸は、直接の折衝を吉川誠一に命じた。
吉川は当時、『台湾公論』という雑誌の東京支社長をしていたが、海軍に出入りし、高戸と気が合ったので嘱託として採用していたのである。2月の末か3月の初め、高戸は吉川に、ただちに手配するように言った。
「作戦開始に当たっては、日本の心を正確に誤りなく次代に語りつぐことのできる人材を選出し、報道班員に任命、フィリピンの現地に派遣したいので、ただちに手配するように。なお、原稿ないし報告書は書いてくれれば結構だが、あえて強制はしない。歴史的壮挙を、その目で正しく見ておくだけでもよい。」
吉川はまず、当時、文壇の大御所といわれていた志賀直哉を訪ねたが、志賀は実際より老けてみえた。そして残念ながら体力的に無理だと断った。そこで吉川が、横光利一と川端康成の名をあげて相談すると、志賀は「横光さんは大きく書くか小さく書くでしょう、川端さんなら正しく書くでしょう」と答えた。
そこで吉川は4月10日ごろ、川端康成を訪ねて要請したのである。
吉川が帰る際、康成は、「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね」と念を押すように言った。
高見順の『敗戦日記』によると、康成が承諾したのは、4月13日である。それから10日ほどのち、4月23日に康成は、山岡荘八、新田潤とともに海軍省に出頭した。康成は報道班員として初めて戦場に向かうので、報道班員としてはベテランの、山岡、新田を同行させることにしたのである。行先は、フィリピンから鹿屋に変更されていた。
この日、高戸は3名に「みなさんはこの戦いをよく見てきてください。そして今、ただちに書きたくなければ書かないでよろしい。いつの日か30年たってでも、あるいは50年たってでも、この戦さの実体を、日本の戦いを、若い人々の戦いを書いて頂きたい……」と述べた。
山岡荘八は、この言葉に感動し、戦後、『朝日新聞』に、このことを書いた。
四月二十四日、鹿屋に飛び立つ朝、厚木飛行場にリュックサックを背負って現れた康成を、高戸は「瘦身鶴のごとき」と形容し、山岡は「鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった」と語っている。
康成は、2年前に亡くなった徳田秋聲からもらった、小さな赤茶の編み上げ靴をはいていた。
昼ごろ神奈川県の厚木(あつぎ)飛行場から輸送機に乗ったが、敵機とハチ合わせの危険があったので、大井飛行場にいったん着陸、そこから乗りついで鹿屋に着いた。
本州南端の特攻基地
鹿屋(かのや)は、鹿児島湾にのぞむ鹿児島県南端の特攻基地である。本州最南端の基地の一つだ。
いったい、鹿屋特攻基地は、どのような歴史をもつ基地なのだろうか。
鹿屋が町制を布(し)いたのは大正元年。民営の鉄道も敷設されて、大隅半島の中心地となった。
昭和11年、鹿屋航空隊が開隊した。翌年、北支事変(のちの満州事変)が勃発すると同時に航空機が増勢され、台湾、海南島などに進出し、中国上海周辺華南方面を猛爆した。
昭和16年5月、鹿屋町、大姶良(おおあいら)村、花岡村が合併して鹿屋市となった。
その12月8日未明、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したが、同時に鹿屋基地からはフィリピン・ルソン島の米軍クラーク基地攻撃に参加。マレー沖海戦にも参加した。
以後、ラバウル、カビエン、テニアンなど南西方面艦隊作戦に従事して多数の戦果を上げ、事実上、鹿屋航空基地は、日本海軍航空基地の最前線基地となったのである。
しかしまもなく形勢が逆転し、昭和十九年秋のマリアナ海戦に敗れて以後は、神風特別攻撃隊を端緒に、特別攻撃が最後の手段として常套化されていった。
昭和20年1月28日、神雷部隊は九州に転出を命ぜられ、第5航空艦隊所属となった。同時に司令部も鹿屋航空隊に移された。この第5航空艦隊の司令長官は宇垣纏(まとめ)中将、参謀長は横井俊幸少将であった。
そして4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると、鹿屋航空基地を中心に、南九州の基地から菊水作戦と呼ばれる特攻作戦が継続されていったのである。
菊水作戦は4月6日にはじまり、6月22日まで、第1次から第10次まで、断続して敢行された。康成らは、その最中に鹿屋に到着したのだ。
4月末、康成らが鹿屋に着いてみると、格納庫の屋根は爆撃でゆがみ、壁は機銃掃射でえぐられて、完全に戦場の様相だった。滑走路のほかは、たび重なる爆撃で穴だらけだ。滑走路だけは、爆撃のあと、すぐ補修するのである。
康成たち3人は、第5航空艦隊付きとなり、海軍専用クラブ水交社に泊まった。基地の近くにあった料亭水泉閣が水交社に宛てられた。
3人が着いて間もなく、練習中の飛行機が飛行場のはずれに落ちて炎上した。「こんなところでは、死んでも死にきれないだろう」と、山岡はショックを受けたという。
康成は黙って、その方角を見ていた。目の中は、真っ赤だった。
夜となく昼となく、空襲があった。そのたびに、山の中に掘った防空壕に駆け込むのであった。
特攻隊の攻撃によって、沖縄戦は1週間か10日で日本の勝利に終わるだろうからと、康成らは出発を急がされたのだったが、九州についてみると、むしろ日々に形勢の悪化していることが、偵察写真などによっても察しがついた。
艦隊はすでになく、飛行機の不足も明らかだった。
また、鹿屋基地は、初めから特攻隊員が集結しているのではなく、飛び立ってゆくための最後の足場なのだということも知った。
各地の飛行隊から、特攻隊員は自分の用いる特攻機を操縦してやって来る。そして、翌日か翌々日には、発進してゆく。その後に、また新しい隊員と飛行機とが到着してまた出撃するのであった。
康成は水交社に滞在して、将校服に飛行靴をはき、特攻隊の出撃のたびに見送った。
私は特攻隊員を忘れることが出来ない。
あなたはこんなところへ来てはいけないといふ隊員も、早く帰つた方がいいといふ隊員もあつた。出撃の直前まで武者小路氏を読んでゐたり、出撃の直前まで武者小路氏を読んでゐたり、出撃の直前に安倍先生(能成氏、当時一高校長。)によろしくとことづけたりする隊員もあつた。
飛行場は連日爆撃されて、ほとんど無抵抗だつたが、防空壕にゐれば安全だつた。沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。
特攻隊についても、一行も報道は書かなかつた。
敗戦後10年たった昭和30年8月、『新潮』に「昭和20年の自画像」と題して掲載された文章「敗戦のころ」の一節である。
基地のみどり
鹿屋について間もなく、康成は鎌倉の秀子に手紙を書いた。秀子が読むと、「当地の隊読み物殆ど余りなく、特攻隊員も読み物を熱望してゐる。食べるものより心の糧の書物が欲しいとの事」とあった。
これは、後述するように、そのころ始めていた鎌倉文庫の人々に、是非、航空基地宛てに本を送ってもらうように、という康成からの要請であった。
死を前にした特攻隊員たちの、「心の糧」をもとめる心情に打たれ、じっとしていられなかったのであろう。
小山の多い基地は、5月の新緑が眼にしみた。また、野道の溝に垂れつらなる野いばらの花にも、特攻隊員の宿舎の庭の栴檀の花にも、康成は眼をみはった。
どうして、自然がこんなに美しいのだろう。
晴れた夜には、満天に星がきらめいた。
しかし五月の基地は、雨も多かった。作戦が妨げられ、特攻隊員は気を腐らせたが、雨がやむと、紫紺に洗いだされた緑の山がまぶしいばかりだった。そのみどりの中を、特攻隊員たちは飛び去っていった。
――康成は鹿屋に1ヶ月いて、5月24日に鎌倉に帰ってきた。
死に向かう若者たちを身近に見つづけた康成が、どのような心境であったか、知るすべはない。
ただ夫人によると、「3号報道班 川端 焼却の事」と表紙の裏に記してある小さな手帳が残されているそうだ。
その手帳には、90頁にわたって、びっしりと何かが書きつけられているのだが、判読がむずかしい、という。康成が鹿屋で何を見て、何を感じたか、知りたいところだ。この手帳の翻刻が望まれる。
――戦後、康成は鹿屋の経験を具体的に素材として、たった一つだけ小説を書いた。
「生命の樹」(いのちのき)(『婦人文庫』、1946・7・1)である。
この作品については、さまざまな論議があるが、それはまた、のちの章で考えることとしよう。
ともあれ、康成は鹿屋航空基地で1ヶ月、特攻機の出撃してゆく姿を見送った。このことは、戦後の川端康成を考える上に、無視できぬ事実であろう。
昭和20年の3月11日から6月21日までの間に、鹿屋特攻基地から発進した特攻隊は70隊、445機、将兵828名という(米永代一郎『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』による)。
杉山幸照『海の歌声』と川端康成
李聖傑に、康成の二度にわたる満州行と一ヶ月の鹿屋体験を検証した詳細な論考がある。
以下つづく
拙著「魔界の住人 川端康成―その生涯と文学―」(勉誠出版、2014年8月30日刊行)第四章「戦時下の川端康成」から
切迫する戦況―昭和20年―
戦況は、切迫していた。
3月4日には、B29約150機が東京に来襲し、雲上より盲爆した。
3月10日の東京大空襲について、高見順『敗戦日記』(文藝春秋新社、1959・4・20)は、以下のように記している。
三月十一日
夜、義兄来る。9日夜の、というより10日暁方の爆撃の被害は今までにないひどいものだつた由。罹災家屋25万軒、罹災民100万と言われている由。
そして高見は翌12日、浅草へ行こうと東京駅で山手線に乗り換えようとして、歩廊に罹災者の群れを見、息を吞む。上野へ降りて、ふたたび息を吞む。駅前は罹災者でいっぱいだったのだ。
さらに浅草へ行こうとして、「駅前から見渡す限り、ことごとく焦土と化している。ひどい。何んとも言えないひどさだ。想像以上だ」と歎き、浅草に来て、「きれいさつぱり消えている」と、衝撃を隠さない。
3月17日に、硫黄島が玉砕した。大本営の発表は、その4日後だった。
3月26日には沖縄戦がはじまり、4月1日には、沖縄本島に米軍が上陸した。5日、小磯内閣は総辞職し、鈴木貫太郎内閣が7日に成立した。
このような時期、康成は、海軍報道部の吉川誠一の訪問を受けた。
海軍報道班員として、特攻隊基地の鹿屋(かのや)飛行場に行ってほしい、という依頼であった。
今急になにも書かなくてもいいから、後々のために特攻隊をとにかく見ておいてほしい。
そういう依頼である。
康成は二、三日考えたあと、承諾した。
じつは、康成に依頼したのには、以下のような事情があった。
近年に公刊された高戸顕隆『海軍主計大尉の太平洋戦争』に、その次第がくわしく語られている。
この書によると、当時、海軍報道班を統率していた高戸は、昭和20年2月に入ると、大物の報道班員を戦地に送ろうと考えた。というのは、「戦局いよいよきびしく、日本の運命はまさにきわまろうとしていた」ので、「この事態をより的確に語りつぐべきだと思った」からである。そこで高戸は、直接の折衝を吉川誠一に命じた。
吉川は当時、『台湾公論』という雑誌の東京支社長をしていたが、海軍に出入りし、高戸と気が合ったので嘱託として採用していたのである。2月の末か3月の初め、高戸は吉川に、ただちに手配するように言った。
「作戦開始に当たっては、日本の心を正確に誤りなく次代に語りつぐことのできる人材を選出し、報道班員に任命、フィリピンの現地に派遣したいので、ただちに手配するように。なお、原稿ないし報告書は書いてくれれば結構だが、あえて強制はしない。歴史的壮挙を、その目で正しく見ておくだけでもよい。」
吉川はまず、当時、文壇の大御所といわれていた志賀直哉を訪ねたが、志賀は実際より老けてみえた。そして残念ながら体力的に無理だと断った。そこで吉川が、横光利一と川端康成の名をあげて相談すると、志賀は「横光さんは大きく書くか小さく書くでしょう、川端さんなら正しく書くでしょう」と答えた。
そこで吉川は4月10日ごろ、川端康成を訪ねて要請したのである。
吉川が帰る際、康成は、「場合によっては、原稿は書かなくてもいいんですね」と念を押すように言った。
高見順の『敗戦日記』によると、康成が承諾したのは、4月13日である。それから10日ほどのち、4月23日に康成は、山岡荘八、新田潤とともに海軍省に出頭した。康成は報道班員として初めて戦場に向かうので、報道班員としてはベテランの、山岡、新田を同行させることにしたのである。行先は、フィリピンから鹿屋に変更されていた。
この日、高戸は3名に「みなさんはこの戦いをよく見てきてください。そして今、ただちに書きたくなければ書かないでよろしい。いつの日か30年たってでも、あるいは50年たってでも、この戦さの実体を、日本の戦いを、若い人々の戦いを書いて頂きたい……」と述べた。
山岡荘八は、この言葉に感動し、戦後、『朝日新聞』に、このことを書いた。
四月二十四日、鹿屋に飛び立つ朝、厚木飛行場にリュックサックを背負って現れた康成を、高戸は「瘦身鶴のごとき」と形容し、山岡は「鶴のようにやせた川端さんが痛々しい感じであった」と語っている。
康成は、2年前に亡くなった徳田秋聲からもらった、小さな赤茶の編み上げ靴をはいていた。
昼ごろ神奈川県の厚木(あつぎ)飛行場から輸送機に乗ったが、敵機とハチ合わせの危険があったので、大井飛行場にいったん着陸、そこから乗りついで鹿屋に着いた。
本州南端の特攻基地
鹿屋(かのや)は、鹿児島湾にのぞむ鹿児島県南端の特攻基地である。本州最南端の基地の一つだ。
いったい、鹿屋特攻基地は、どのような歴史をもつ基地なのだろうか。
鹿屋が町制を布(し)いたのは大正元年。民営の鉄道も敷設されて、大隅半島の中心地となった。
昭和11年、鹿屋航空隊が開隊した。翌年、北支事変(のちの満州事変)が勃発すると同時に航空機が増勢され、台湾、海南島などに進出し、中国上海周辺華南方面を猛爆した。
昭和16年5月、鹿屋町、大姶良(おおあいら)村、花岡村が合併して鹿屋市となった。
その12月8日未明、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発したが、同時に鹿屋基地からはフィリピン・ルソン島の米軍クラーク基地攻撃に参加。マレー沖海戦にも参加した。
以後、ラバウル、カビエン、テニアンなど南西方面艦隊作戦に従事して多数の戦果を上げ、事実上、鹿屋航空基地は、日本海軍航空基地の最前線基地となったのである。
しかしまもなく形勢が逆転し、昭和十九年秋のマリアナ海戦に敗れて以後は、神風特別攻撃隊を端緒に、特別攻撃が最後の手段として常套化されていった。
昭和20年1月28日、神雷部隊は九州に転出を命ぜられ、第5航空艦隊所属となった。同時に司令部も鹿屋航空隊に移された。この第5航空艦隊の司令長官は宇垣纏(まとめ)中将、参謀長は横井俊幸少将であった。
そして4月1日に米軍が沖縄本島に上陸すると、鹿屋航空基地を中心に、南九州の基地から菊水作戦と呼ばれる特攻作戦が継続されていったのである。
菊水作戦は4月6日にはじまり、6月22日まで、第1次から第10次まで、断続して敢行された。康成らは、その最中に鹿屋に到着したのだ。
4月末、康成らが鹿屋に着いてみると、格納庫の屋根は爆撃でゆがみ、壁は機銃掃射でえぐられて、完全に戦場の様相だった。滑走路のほかは、たび重なる爆撃で穴だらけだ。滑走路だけは、爆撃のあと、すぐ補修するのである。
康成たち3人は、第5航空艦隊付きとなり、海軍専用クラブ水交社に泊まった。基地の近くにあった料亭水泉閣が水交社に宛てられた。
3人が着いて間もなく、練習中の飛行機が飛行場のはずれに落ちて炎上した。「こんなところでは、死んでも死にきれないだろう」と、山岡はショックを受けたという。
康成は黙って、その方角を見ていた。目の中は、真っ赤だった。
夜となく昼となく、空襲があった。そのたびに、山の中に掘った防空壕に駆け込むのであった。
特攻隊の攻撃によって、沖縄戦は1週間か10日で日本の勝利に終わるだろうからと、康成らは出発を急がされたのだったが、九州についてみると、むしろ日々に形勢の悪化していることが、偵察写真などによっても察しがついた。
艦隊はすでになく、飛行機の不足も明らかだった。
また、鹿屋基地は、初めから特攻隊員が集結しているのではなく、飛び立ってゆくための最後の足場なのだということも知った。
各地の飛行隊から、特攻隊員は自分の用いる特攻機を操縦してやって来る。そして、翌日か翌々日には、発進してゆく。その後に、また新しい隊員と飛行機とが到着してまた出撃するのであった。
康成は水交社に滞在して、将校服に飛行靴をはき、特攻隊の出撃のたびに見送った。
私は特攻隊員を忘れることが出来ない。
あなたはこんなところへ来てはいけないといふ隊員も、早く帰つた方がいいといふ隊員もあつた。出撃の直前まで武者小路氏を読んでゐたり、出撃の直前まで武者小路氏を読んでゐたり、出撃の直前に安倍先生(能成氏、当時一高校長。)によろしくとことづけたりする隊員もあつた。
飛行場は連日爆撃されて、ほとんど無抵抗だつたが、防空壕にゐれば安全だつた。沖縄戦も見こみがなく、日本の敗戦も見えるやうで、私は憂鬱で帰つた。
特攻隊についても、一行も報道は書かなかつた。
敗戦後10年たった昭和30年8月、『新潮』に「昭和20年の自画像」と題して掲載された文章「敗戦のころ」の一節である。
基地のみどり
鹿屋について間もなく、康成は鎌倉の秀子に手紙を書いた。秀子が読むと、「当地の隊読み物殆ど余りなく、特攻隊員も読み物を熱望してゐる。食べるものより心の糧の書物が欲しいとの事」とあった。
これは、後述するように、そのころ始めていた鎌倉文庫の人々に、是非、航空基地宛てに本を送ってもらうように、という康成からの要請であった。
死を前にした特攻隊員たちの、「心の糧」をもとめる心情に打たれ、じっとしていられなかったのであろう。
小山の多い基地は、5月の新緑が眼にしみた。また、野道の溝に垂れつらなる野いばらの花にも、特攻隊員の宿舎の庭の栴檀の花にも、康成は眼をみはった。
どうして、自然がこんなに美しいのだろう。
晴れた夜には、満天に星がきらめいた。
しかし五月の基地は、雨も多かった。作戦が妨げられ、特攻隊員は気を腐らせたが、雨がやむと、紫紺に洗いだされた緑の山がまぶしいばかりだった。そのみどりの中を、特攻隊員たちは飛び去っていった。
――康成は鹿屋に1ヶ月いて、5月24日に鎌倉に帰ってきた。
死に向かう若者たちを身近に見つづけた康成が、どのような心境であったか、知るすべはない。
ただ夫人によると、「3号報道班 川端 焼却の事」と表紙の裏に記してある小さな手帳が残されているそうだ。
その手帳には、90頁にわたって、びっしりと何かが書きつけられているのだが、判読がむずかしい、という。康成が鹿屋で何を見て、何を感じたか、知りたいところだ。この手帳の翻刻が望まれる。
――戦後、康成は鹿屋の経験を具体的に素材として、たった一つだけ小説を書いた。
「生命の樹」(いのちのき)(『婦人文庫』、1946・7・1)である。
この作品については、さまざまな論議があるが、それはまた、のちの章で考えることとしよう。
ともあれ、康成は鹿屋航空基地で1ヶ月、特攻機の出撃してゆく姿を見送った。このことは、戦後の川端康成を考える上に、無視できぬ事実であろう。
昭和20年の3月11日から6月21日までの間に、鹿屋特攻基地から発進した特攻隊は70隊、445機、将兵828名という(米永代一郎『半世紀の鹿屋航空隊 戦前編』による)。
杉山幸照『海の歌声』と川端康成
李聖傑に、康成の二度にわたる満州行と一ヶ月の鹿屋体験を検証した詳細な論考がある。
以下つづく
大正10年、川端康成の汽車の旅
川端康成と伊藤初代
康成と永無は、どの列車で岐阜に行ったのか?
偶然にも、去年2019年は、明治32年(1899)に生まれた康成の生誕120年の年であり、しかも初恋の女性伊藤初代と、本郷元町2丁目のカフェ・エランで出会った大正8年(1919)から、ちょうど100年に当たる節目の年であった。
「篝火(かがりび)」「非常」「南方の火」「彼女の盛装」など、岐阜で二人が結婚の約束をした、大正10年秋の一連の出来事を描いた作品を読んでゆくと、いやでも康成たちの汽車の旅が浮かんでくる。
9月16日の最初の訪問は、夏休みが終わって東京へ帰る途上、島根県温泉津(ゆのつ)から山陰本線で来た三明永無(みあけ・えいむ)と、大阪に帰省していた康成が前日、京都駅で落ち合い、東海道線の汽車に乗って岐阜に着いたのである。それも「午前2時」、岐阜駅に着いたと康成は「新晴」に明記している。そして駅前の「壁の赤い宿」(濃陽館支店)に落ち着いて朝を迎え、それから初代の寄寓している西方寺を三明が訪れて連れ出したのである。
2度目は10月8日で、東京駅から汽車に乗って、やはり夜明けに岐阜駅に着き、駅前の宿で朝食をとる。この日も、二人は初代を寺から連れ出すことに成功して、長良川に面した宿(鐘秀館)で、康成の結婚の申し入れ(これは、三明永無が代わりにしてくれていた)の返事を訊く。幸いにも、初代が受諾してくれたので、三人はこの宿で鵜飼の「篝火」を見る。康成はこのあと初代を寺へ送ってゆき、三明と康成はこの宿に泊まる。
翌9日、約束どおり初代は寺から出てくる。三人は岐阜市内の繁華街に出て、裁判所の前の瀬古写真館で記念の写真を撮るのだ。
その夜、二人は東京へ帰る。康成は催眠剤を飲みすぎて座席からころげ落ちたりする。
次には、この10月の末、三明永無の提唱で、エランへ通った鈴木彦次郎、石浜金作と、計4人の帝大生は、制服を着て夜行列車に乗り、初代の父親の住む遠い岩手県の岩谷堂へ行く。東北本線の水沢駅で降り、父親が小使として勤める岩谷堂小学校を訪ねて、結婚の承諾をもとめる。「南方の火」に「土曜日の朝だつた」と明記されているので、大正10年の暦を調べると、これが10月29日であったことがわかる。。
翌30日朝、彼らは水沢駅を発ち、鈴木彦次郎の郷里である盛岡に寄り、鈴木宅に一泊して、翌11月1日、東京に帰り着く。
いずれも、夜行列車による行程である。
ところが11月8日、東京浅草の康成の下宿へ、岐阜の初代から「非常」の手紙が来て愕然とし、康成は一人で最終の夜行に乗って岐阜へ急行する。
朝、岐阜駅に着くと、駅の柱という柱は紅白の布に覆われて、祝賀模様だった。駅前の宿で尋ねると、11月1日に岐阜駅が一等駅に昇格した、その祝賀だというのであった。
……このように康成はこの秋、岐阜へ3度、岩手県の岩谷堂へ1度、計4度の、大きな汽車の旅をした。前後の叙述から、これらの旅はいずれも夜行列車を用いたものと推定される。
この経過を文章に書いていると、当然、「いったい彼らは何時に京都や東京を発ち、何時に岐阜に着いたのだろう?」という疑問が湧いてくる。
これらの日程は、作品中にかなり細かく描かれているが、肝腎の、汽車の時刻がわからない。これまで誰も調べた人はない。
そこで私は大望を抱いた。康成が乗った、これらの汽車の時刻を調べる、そしてその結果を今度の本に書き込むという野望である。
いずれも夜行列車だ。多分、急行列車であろうが、当時の時刻表を見ようにも、どうすればよいか、手につかない。そんな本があるだろうか。
そこで私は、アマゾンでさまざまに検索してみた。「夜汽車」とか「夜行列車」とか、「時刻表」「岐阜駅」「東海道本線」など……。
すると、こんな題名の本が出てきたのだ。
三宅俊彦「時刻表でたどる夜行列車の歴史」――これには、ピンと来るものがあった。しかもレビュー(読者による本の感想)が載っている。それを見ると、こう書いてあった。
「本書の最大の特徴は、歴代夜行列車の登場→廃止年月日が、臨時便以外はすべて網羅されていることです。」
私は狂喜した。この本を見れば、大正十年に東海道線や東北本線を走っていた夜行列車の時刻表が一目瞭然なのかもしれない。もしそうだったら、私の野望は、この本1冊によって達せられるかもしれない……。
早速、購入を申し込むと、3日めには郵便受けに届いていた。値段の割には薄いのがちょっと気になったが、包みを開くと、何と、これは昭和31年以降の夜行列車を取り上げたものだった。「歴代の」とあったので、当然、明治以来の夜行列車が網羅されていると思ったのが甘かった。ブルートレインは確かに美しいが、今の私に関心はない。
……以後の紆余曲折は、省く。
結局、近くの姫路市立城内図書館に依頼して、『復刻版 明治大正鉄道省列車時刻表』新人物往来社・2000年、『復刻版 明治大正時刻表』同・1998年、の2つのセットを取り寄せていただいた。個人で買える価格ではない。
すると後者に、捜し求めていた大正10年8月改訂の時刻表が1冊、入っていたのである。康成の旅の直前に改訂されたばかりのものだ。
康成が三明永無と前日、京都の停車場で落ち合って、岐阜駅に初めて降り立った9月16日の訪問について、習作「新晴」に康成は、前日、島根県から山陰本線で来た三明永無と「京都の駅で待合はし」、「午前2時」岐阜に着いた、と書いている。
この表現を手がかりとして、この時刻表によって、二人が乗った汽車を割り出してみよう。
この時刻表によると、京都から岐阜に至る上り列車は、1日に特急が1本、急行列車が6本、普通列車が10本ある。
このうち、「午前2時」前後に岐阜着の列車は、午後10:41京都を発して、午前01:36岐阜発の、急行列車第14号以外に該当するものはない。午前2時ちょうどではないが、次の午前02:59岐阜発の列車なら、康成は「午前3時」と書いただろうから、これは該当しない。
二人は、神戸始発午後08:40、東京着午前11:40の急行列車第14号に乗って岐阜に着き、駅前の「壁の赤い宿」濃陽館支店に旅装を解き、朝まで仮眠したと確定できるのだ。
『文芸日女道』622号(2020.02.05)
川端康成と伊藤初代
康成と永無は、どの列車で岐阜に行ったのか?
偶然にも、去年2019年は、明治32年(1899)に生まれた康成の生誕120年の年であり、しかも初恋の女性伊藤初代と、本郷元町2丁目のカフェ・エランで出会った大正8年(1919)から、ちょうど100年に当たる節目の年であった。
「篝火(かがりび)」「非常」「南方の火」「彼女の盛装」など、岐阜で二人が結婚の約束をした、大正10年秋の一連の出来事を描いた作品を読んでゆくと、いやでも康成たちの汽車の旅が浮かんでくる。
9月16日の最初の訪問は、夏休みが終わって東京へ帰る途上、島根県温泉津(ゆのつ)から山陰本線で来た三明永無(みあけ・えいむ)と、大阪に帰省していた康成が前日、京都駅で落ち合い、東海道線の汽車に乗って岐阜に着いたのである。それも「午前2時」、岐阜駅に着いたと康成は「新晴」に明記している。そして駅前の「壁の赤い宿」(濃陽館支店)に落ち着いて朝を迎え、それから初代の寄寓している西方寺を三明が訪れて連れ出したのである。
2度目は10月8日で、東京駅から汽車に乗って、やはり夜明けに岐阜駅に着き、駅前の宿で朝食をとる。この日も、二人は初代を寺から連れ出すことに成功して、長良川に面した宿(鐘秀館)で、康成の結婚の申し入れ(これは、三明永無が代わりにしてくれていた)の返事を訊く。幸いにも、初代が受諾してくれたので、三人はこの宿で鵜飼の「篝火」を見る。康成はこのあと初代を寺へ送ってゆき、三明と康成はこの宿に泊まる。
翌9日、約束どおり初代は寺から出てくる。三人は岐阜市内の繁華街に出て、裁判所の前の瀬古写真館で記念の写真を撮るのだ。
その夜、二人は東京へ帰る。康成は催眠剤を飲みすぎて座席からころげ落ちたりする。
次には、この10月の末、三明永無の提唱で、エランへ通った鈴木彦次郎、石浜金作と、計4人の帝大生は、制服を着て夜行列車に乗り、初代の父親の住む遠い岩手県の岩谷堂へ行く。東北本線の水沢駅で降り、父親が小使として勤める岩谷堂小学校を訪ねて、結婚の承諾をもとめる。「南方の火」に「土曜日の朝だつた」と明記されているので、大正10年の暦を調べると、これが10月29日であったことがわかる。。
翌30日朝、彼らは水沢駅を発ち、鈴木彦次郎の郷里である盛岡に寄り、鈴木宅に一泊して、翌11月1日、東京に帰り着く。
いずれも、夜行列車による行程である。
ところが11月8日、東京浅草の康成の下宿へ、岐阜の初代から「非常」の手紙が来て愕然とし、康成は一人で最終の夜行に乗って岐阜へ急行する。
朝、岐阜駅に着くと、駅の柱という柱は紅白の布に覆われて、祝賀模様だった。駅前の宿で尋ねると、11月1日に岐阜駅が一等駅に昇格した、その祝賀だというのであった。
……このように康成はこの秋、岐阜へ3度、岩手県の岩谷堂へ1度、計4度の、大きな汽車の旅をした。前後の叙述から、これらの旅はいずれも夜行列車を用いたものと推定される。
この経過を文章に書いていると、当然、「いったい彼らは何時に京都や東京を発ち、何時に岐阜に着いたのだろう?」という疑問が湧いてくる。
これらの日程は、作品中にかなり細かく描かれているが、肝腎の、汽車の時刻がわからない。これまで誰も調べた人はない。
そこで私は大望を抱いた。康成が乗った、これらの汽車の時刻を調べる、そしてその結果を今度の本に書き込むという野望である。
いずれも夜行列車だ。多分、急行列車であろうが、当時の時刻表を見ようにも、どうすればよいか、手につかない。そんな本があるだろうか。
そこで私は、アマゾンでさまざまに検索してみた。「夜汽車」とか「夜行列車」とか、「時刻表」「岐阜駅」「東海道本線」など……。
すると、こんな題名の本が出てきたのだ。
三宅俊彦「時刻表でたどる夜行列車の歴史」――これには、ピンと来るものがあった。しかもレビュー(読者による本の感想)が載っている。それを見ると、こう書いてあった。
「本書の最大の特徴は、歴代夜行列車の登場→廃止年月日が、臨時便以外はすべて網羅されていることです。」
私は狂喜した。この本を見れば、大正十年に東海道線や東北本線を走っていた夜行列車の時刻表が一目瞭然なのかもしれない。もしそうだったら、私の野望は、この本1冊によって達せられるかもしれない……。
早速、購入を申し込むと、3日めには郵便受けに届いていた。値段の割には薄いのがちょっと気になったが、包みを開くと、何と、これは昭和31年以降の夜行列車を取り上げたものだった。「歴代の」とあったので、当然、明治以来の夜行列車が網羅されていると思ったのが甘かった。ブルートレインは確かに美しいが、今の私に関心はない。
……以後の紆余曲折は、省く。
結局、近くの姫路市立城内図書館に依頼して、『復刻版 明治大正鉄道省列車時刻表』新人物往来社・2000年、『復刻版 明治大正時刻表』同・1998年、の2つのセットを取り寄せていただいた。個人で買える価格ではない。
すると後者に、捜し求めていた大正10年8月改訂の時刻表が1冊、入っていたのである。康成の旅の直前に改訂されたばかりのものだ。
康成が三明永無と前日、京都の停車場で落ち合って、岐阜駅に初めて降り立った9月16日の訪問について、習作「新晴」に康成は、前日、島根県から山陰本線で来た三明永無と「京都の駅で待合はし」、「午前2時」岐阜に着いた、と書いている。
この表現を手がかりとして、この時刻表によって、二人が乗った汽車を割り出してみよう。
この時刻表によると、京都から岐阜に至る上り列車は、1日に特急が1本、急行列車が6本、普通列車が10本ある。
このうち、「午前2時」前後に岐阜着の列車は、午後10:41京都を発して、午前01:36岐阜発の、急行列車第14号以外に該当するものはない。午前2時ちょうどではないが、次の午前02:59岐阜発の列車なら、康成は「午前3時」と書いただろうから、これは該当しない。
二人は、神戸始発午後08:40、東京着午前11:40の急行列車第14号に乗って岐阜に着き、駅前の「壁の赤い宿」濃陽館支店に旅装を解き、朝まで仮眠したと確定できるのだ。
『文芸日女道』622号(2020.02.05)
カフェ・エランの少女―川端康成の初恋・伊藤初代
カフェと文士たち
その序章から
明治44年(1911)の3月、わが国で最初のカフェ「プランタン」が銀座・日吉町の町角に開店した。東京美術学校(現・東京藝術大学)を出た画家・松山省三が経営に乗り出したのである。
松山は美術学校時代、恩師の黒田清輝から、たびたび、パリ留学時代の思い出話を聞いたが、そのなかでも最も印象的なのが、パリのあちこちにあるカフェの話であった。
そこでは香りの高い珈琲やワインが提供され、有名無名を問わず、若い画家や詩人たちが集まってきて、芸術や文学について理想を語り合う。格別に高踏的な空間だ、というのである。
松山は、日本にもそのような空間ができたら楽しいだろうと考え、たまたま資産家の息子だったので、友人と資金を出しあって店を開いたのだった。
銀座は、慶応義塾大学のある三田(みた)の丘から近い。早速、永井荷風がこの店に現われ、馴染みの新橋芸者・八重次(やえじ)と待ち合わせ、この店の風雅な趣きを共に楽しんだ。
3年前、4年間におよぶアメリカ、フランス遊学の旅を終え、帰朝した荷風は、清新で官能的な「歓楽」や、日本の新時代を批判する「新帰朝者日記」「冷笑」を発表するなどして、注目すべき作家として高い評価を得た。
加えて前年の明治43年4月から、文科刷新をめざす慶応義塾大学の文科教授として迎えられ、かつ、新雑誌『三田文学』の編集主幹を命ぜられて、ライバル早稲田の文科に対抗する切り札として活躍していたのである。
そんな荷風は、カフェ・プランタンを讃美する即興の詩を作って『三田文学』に発表したり、時には学生たちと歓談したり、カフェ文化を満喫したが、やがて銀座を中心に、「パウリスタ」「ライオン」など、あちこちにカフェが開店して、珈琲や洋食を提供したりした。森鴎外を顧問にいただく『スバル』に拠った北原白秋、高村光太郎、吉井勇、谷崎潤一郎、さらには『青鞜』の新しい女性たちも、カフェにつどった。すなわち、日本にカフェ文化ともいうべきものが花ひらいたのだ。
しかし大正12年(1923)の関東大震災は、これらのカフェを倒壊させ、焼け跡に出現した新規のカフェは、従来とは趣の異なるものとなった。白いエプロンをつけ、客席で媚びを売る女給たちが、カフェを象徴する存在になったのである。
大正年間に麻布(あざぶ)市兵衞町に洋風の偏奇館(へんきかん)をもうけて独居凄涼の生活を始めた荷風も、ふたたび銀座のカフェに姿を見せるようになった。荷風が毎日のように立ち寄ったのは、かつての老舗「ライオン」に対抗するように、阿漕(あこぎ)な商売をはじめた「タイガー」であった。
「ライオン」は、風儀の悪い女給のクビをきったが、「タイガー」は「ライオン」から追放された女給を喜んで採用した。あまつさえ、女給の引き抜きをして美女を集めた。酒を介在し、女給が客から媚びと引き替えに金をむしり取る、新しい形のカフェが流行し、世人の興味と羨望を誘ったのだ。
荷風は「タイガー」の女給・お久から脅迫されて金を取られたが(もちろん、お久の肉体を堪能した見返りとして)、その代わり、お久をモデルに銀座風俗の変遷を描いた名作「つゆのあとさき」を書いた。
「タイガー」は、銀座の時事新報社の前にあったから、かつてここに勤めた、文壇の大御所・菊池寛も、この店を贔屓(ひいき)にした。このため、友人の文士たちの多くも、「タイガー」にむらがった。
そのころ、本郷の高台に、有名な高等下宿・菊富士ホテルがあって、竹久夢二と愛人のお葉をはじめ、種々の作家や学者、畸人変人たちが、ここに住んだ。
宇野浩二の親友・広津和郎もここに投宿して原稿を書いたが、あるとき、ひとりの女性から「私のこれまでの人生を小説に書いてほしい」と頼まれた。しかもこの女性は「タイガー」の女給であり、北海道から上京して「タイガー」に勤めた最初の夜の客が菊池寛だった。
菊池寛は彼女に好意を寄せ、多額のチップを渡し、また、食事に誘った。
広津は、かねてより雑誌『婦人公論』から大衆的な小説を依頼されていたので、この女性をモデルとした小説「女給」を連載しはじめた。菊池寛をモデルとした詩人が、第一回から登場する。『婦人公論』の社長・嶋中雄作は、これを機に雑誌の売上げを爆発的に伸ばそうと、策を打った。新聞の広告に、「文壇の大御所」と「女給・小夜子」を大きな活字で載せ、あたかも菊池寛のスキャンダルがあばかれるかのような宣伝をしたのである。
広津の作品では、単なる大物詩人であるばかりなのに、嶋中は、わざと「文壇の大御所」とし、読者に菊池寛がモデルだと錯覚させたのだった。
怒った菊池寛は雑誌社を訪ね、嶋中に抗議したが、嶋中は煮えきらぬ態度をとる。本気で怒った菊池寛は、嶋中を殴りたくなったが、間に大きなテーブルがあったので、仕方なく、隣に座っている若い編集者の頭を一発をポカリと殴った。
翌日の各新聞は社会面でこの事件を面白おかしく報じた。菊池寛の「女給」事件として、派手に騒がれ、翌昭和6年、単行本が刊行されると飛ぶように売れ、すぐ映画化された。主題歌「女給の唄」も中山晋平の作詞で、大流行した。
この作品を書いた広津和郎の愛妻(事情があって、生涯、籍が入ることはなかったが)も、カフェの女給であったし、友人宇野浩二の生涯にただ一人の子供を産んだのも、銀座の台湾喫茶「ウーロン」に勤める女性であった。
そのように、カフェは、この時代を彩る象徴的存在となった。作家も詩人も、こぞってカフェの女性を妻とし、愛人としたし、カフェを舞台とした作品を書いた。真剣な愛もあった。
谷崎潤一郎の話題作「痴人の愛」のナオミと譲治が出会ったのも、浅草の雷門(かみなりもん)近くのカフェだし、江戸川乱歩初期の名作「D坂の殺人事件」も、カフェが舞台となっている。
そのように、カフェと文士たちの交流は深い。
そのようなカフェ文化の坩堝(るつぼ)のほんの片隅に、小さな花が咲いていた。
大正8年の春ごろ、東京本郷元町2丁目にあった、ミルクホールのような質素なカフェ・エラン。そこに住み込んでいる、数え年14歳の、「ちよ」と呼ばれる色白の少女が、川端康成の生涯を決定する、運命の女性となったのである。
『文芸日女道』610号(2019.02.05)
カフェと文士たち
その序章から
明治44年(1911)の3月、わが国で最初のカフェ「プランタン」が銀座・日吉町の町角に開店した。東京美術学校(現・東京藝術大学)を出た画家・松山省三が経営に乗り出したのである。
松山は美術学校時代、恩師の黒田清輝から、たびたび、パリ留学時代の思い出話を聞いたが、そのなかでも最も印象的なのが、パリのあちこちにあるカフェの話であった。
そこでは香りの高い珈琲やワインが提供され、有名無名を問わず、若い画家や詩人たちが集まってきて、芸術や文学について理想を語り合う。格別に高踏的な空間だ、というのである。
松山は、日本にもそのような空間ができたら楽しいだろうと考え、たまたま資産家の息子だったので、友人と資金を出しあって店を開いたのだった。
銀座は、慶応義塾大学のある三田(みた)の丘から近い。早速、永井荷風がこの店に現われ、馴染みの新橋芸者・八重次(やえじ)と待ち合わせ、この店の風雅な趣きを共に楽しんだ。
3年前、4年間におよぶアメリカ、フランス遊学の旅を終え、帰朝した荷風は、清新で官能的な「歓楽」や、日本の新時代を批判する「新帰朝者日記」「冷笑」を発表するなどして、注目すべき作家として高い評価を得た。
加えて前年の明治43年4月から、文科刷新をめざす慶応義塾大学の文科教授として迎えられ、かつ、新雑誌『三田文学』の編集主幹を命ぜられて、ライバル早稲田の文科に対抗する切り札として活躍していたのである。
そんな荷風は、カフェ・プランタンを讃美する即興の詩を作って『三田文学』に発表したり、時には学生たちと歓談したり、カフェ文化を満喫したが、やがて銀座を中心に、「パウリスタ」「ライオン」など、あちこちにカフェが開店して、珈琲や洋食を提供したりした。森鴎外を顧問にいただく『スバル』に拠った北原白秋、高村光太郎、吉井勇、谷崎潤一郎、さらには『青鞜』の新しい女性たちも、カフェにつどった。すなわち、日本にカフェ文化ともいうべきものが花ひらいたのだ。
しかし大正12年(1923)の関東大震災は、これらのカフェを倒壊させ、焼け跡に出現した新規のカフェは、従来とは趣の異なるものとなった。白いエプロンをつけ、客席で媚びを売る女給たちが、カフェを象徴する存在になったのである。
大正年間に麻布(あざぶ)市兵衞町に洋風の偏奇館(へんきかん)をもうけて独居凄涼の生活を始めた荷風も、ふたたび銀座のカフェに姿を見せるようになった。荷風が毎日のように立ち寄ったのは、かつての老舗「ライオン」に対抗するように、阿漕(あこぎ)な商売をはじめた「タイガー」であった。
「ライオン」は、風儀の悪い女給のクビをきったが、「タイガー」は「ライオン」から追放された女給を喜んで採用した。あまつさえ、女給の引き抜きをして美女を集めた。酒を介在し、女給が客から媚びと引き替えに金をむしり取る、新しい形のカフェが流行し、世人の興味と羨望を誘ったのだ。
荷風は「タイガー」の女給・お久から脅迫されて金を取られたが(もちろん、お久の肉体を堪能した見返りとして)、その代わり、お久をモデルに銀座風俗の変遷を描いた名作「つゆのあとさき」を書いた。
「タイガー」は、銀座の時事新報社の前にあったから、かつてここに勤めた、文壇の大御所・菊池寛も、この店を贔屓(ひいき)にした。このため、友人の文士たちの多くも、「タイガー」にむらがった。
そのころ、本郷の高台に、有名な高等下宿・菊富士ホテルがあって、竹久夢二と愛人のお葉をはじめ、種々の作家や学者、畸人変人たちが、ここに住んだ。
宇野浩二の親友・広津和郎もここに投宿して原稿を書いたが、あるとき、ひとりの女性から「私のこれまでの人生を小説に書いてほしい」と頼まれた。しかもこの女性は「タイガー」の女給であり、北海道から上京して「タイガー」に勤めた最初の夜の客が菊池寛だった。
菊池寛は彼女に好意を寄せ、多額のチップを渡し、また、食事に誘った。
広津は、かねてより雑誌『婦人公論』から大衆的な小説を依頼されていたので、この女性をモデルとした小説「女給」を連載しはじめた。菊池寛をモデルとした詩人が、第一回から登場する。『婦人公論』の社長・嶋中雄作は、これを機に雑誌の売上げを爆発的に伸ばそうと、策を打った。新聞の広告に、「文壇の大御所」と「女給・小夜子」を大きな活字で載せ、あたかも菊池寛のスキャンダルがあばかれるかのような宣伝をしたのである。
広津の作品では、単なる大物詩人であるばかりなのに、嶋中は、わざと「文壇の大御所」とし、読者に菊池寛がモデルだと錯覚させたのだった。
怒った菊池寛は雑誌社を訪ね、嶋中に抗議したが、嶋中は煮えきらぬ態度をとる。本気で怒った菊池寛は、嶋中を殴りたくなったが、間に大きなテーブルがあったので、仕方なく、隣に座っている若い編集者の頭を一発をポカリと殴った。
翌日の各新聞は社会面でこの事件を面白おかしく報じた。菊池寛の「女給」事件として、派手に騒がれ、翌昭和6年、単行本が刊行されると飛ぶように売れ、すぐ映画化された。主題歌「女給の唄」も中山晋平の作詞で、大流行した。
この作品を書いた広津和郎の愛妻(事情があって、生涯、籍が入ることはなかったが)も、カフェの女給であったし、友人宇野浩二の生涯にただ一人の子供を産んだのも、銀座の台湾喫茶「ウーロン」に勤める女性であった。
そのように、カフェは、この時代を彩る象徴的存在となった。作家も詩人も、こぞってカフェの女性を妻とし、愛人としたし、カフェを舞台とした作品を書いた。真剣な愛もあった。
谷崎潤一郎の話題作「痴人の愛」のナオミと譲治が出会ったのも、浅草の雷門(かみなりもん)近くのカフェだし、江戸川乱歩初期の名作「D坂の殺人事件」も、カフェが舞台となっている。
そのように、カフェと文士たちの交流は深い。
そのようなカフェ文化の坩堝(るつぼ)のほんの片隅に、小さな花が咲いていた。
大正8年の春ごろ、東京本郷元町2丁目にあった、ミルクホールのような質素なカフェ・エラン。そこに住み込んでいる、数え年14歳の、「ちよ」と呼ばれる色白の少女が、川端康成の生涯を決定する、運命の女性となったのである。
『文芸日女道』610号(2019.02.05)
戦時下の川端康成 その3
第2節 「日本の母」
日本文学報国会
1942年(昭和17年)5月に文芸家協会の解散と同時に設立された日本文学報国会は、文士を大政翼賛会の傘下に加えようとする当局の攻勢と、文学の自律性を守ろうとする文士たちとのせめぎあいの中で誕生した、一見、国策推進を標榜した組織、ということができるだろう。
これに属した作家たちの態度は、おのおので異なった。小説部門の部長となり、また大東亜文学者会議に出席して決議文を起草、宣言したりして、積極的に戦争推進に協力した横光利一と、一歩も二歩も引いて、消極的に報国会に協力した康成とは、対照的であったといえるだろう。
それでも1942年10月には、康成は日本文学報国会作家という肩書きで長野県伊那の農家を訪問して「日本の母」という記事を書いた(『読売報知新聞』1942・10・30、朝刊)。第48回である。
この「日本の母」は、1県から1人ずつ、戦死した夫(あるいは息子)のあとを守って健気に生きている「母」を選び出し、その家を作家が訪問して記事を書く、という企画である。
当時、康成は軽井沢に住んでいたので、比較的近いから、という理由で、長野県下、下伊那郡松尾村の農婦・井上ツタヱを訪問することになった。
康成が最初に訪問したのは、10月8日だった。が、軽井沢から中央本線の辰野駅まで行き、そこから伊那電鉄に乗り換えて天龍川の流れに沿って飯田まで南下し、さらに飯田から三信鉄道で4つ目の駅「伊那八幡」まで行くには、7時間もかかった。
康成は、最初の訪問で、書くべきことを何も聞き出すことができなかった。そこで10月24日にふたたび訪ねた。
さて、ツタヱさんからなにか話を引き出さねばならないのだが、夫の戦死の後のことなど、私は2度会つても、よう聞けなかつた。
やむなく康成は、軍人援護会長野支部がツタヱの履歴と善行を書いた刷り物をツタヱに渡す。
「わしや、こんなこと言はれたつて、なにも……。なにも話すやうなことありませんで……。」と、ツタヱは困ってしまう。
それを無理して話を引き出せるような康成ではなかった。夫を失ったツタヱの悲しみを労(いたわ)っての思いやりである。
残された家族
一家は、夫の戦死のあと、ツタヱと女の子と、夫の母である姑(しゅうとめ)の、3人が残された。
その真二さんは蘭封院真正忠肝居士(こじ)といふ戒名の通りに、蘭封(らんぷう)で戦死した。中隊と小隊との連絡兵として任務を果し、ほつと横になつた途端に「ここやられましてな。」と、老母は自分の胸の横をおさへた。老母はまた、ツタヱさんの膝の孫を見ながら、
「この子の、生れて63日目の写真を見たきりでな。生れた時は、400匁(もんめ)しかない子でありましてな。2度目に送つた写真は、大分ふつくらしてたのに……。」戦死の後に着いた。その美智代さんは、今6つになる。少し弱々しく見えるが、きれいな子である。
「ほんに、1代暮すうちにや、いろんな目にあはなけやなりませんな。」と、老母は生涯を振り返つた。嫁が遺骨を迎へに行つた晩は、うちに1人でさみしかつたなあと言つた。
期せずして康成は、この気丈な母の、息子に戦死された深い失意を、読者に伝えているのである。
「『日本の母』を訪ねて」
康成は、この訪問について、『婦人画報』(1942・12・1)にも書いている。
ここでは、もう少し客観的に、一家の様子を描いている。
ツタヱさんの夫の陸軍歩兵伍長井上真二さんは、昭和12年8月に応召(おうしょう)、北支に出征、翌13年5月に戦死した。信州兵の武名を高め、また難戦を重ねた遠山部隊に属してゐた。戦死の時、真二さんは36、ツタヱさんは結婚して8年目で、30であつた。家庭には老母と、2人の義弟と、1女とがあつた。
姑は60を過ぎ、義弟の1人は病弱、もう1人はまた出征、子供は生れたばかりであつた。かういふ1家をツタヱさんは背負つた。ひたすら農蠶(のうさん)業に励んだ。軍人の遺家族に対する村人の勤労奉仕などは、いつも辞退して、ただ自力で働き通した。恩賜金(おんしきん)のお陰もあつたが、夫の生前からの負債を全く返し、また8畝(せ)の田を買ふところまで、家政を整へて来た。(中略)
ツタヱさんの家などは貧農の方だらうが、暗影も不安もなかつた。家族の顔色に、平和と希望とがあつた。これがツタヱさんの力であると思ふと戦死者の遺家族として、これほどありがたいことはない。(中略)
見るからに素朴醇情(じゅんじょう)の「日本の母」に対して私はなにも言ふことがなかつた。
銃後の読者を励ます、多少、舞文の面がないではないが、康成としては、この一家の健気(けなげ)な明るさに、かろうじて自分自身が慰められるところがあったのであろう。
「父の名」
井上ツタヱの家を2度目に訪問していた10月24日の午後、役場の少女が康成宛ての電報を持ってきた。康成の「母の姉が死んだ報せ」であつた。
井上家は晩に五平餅(ごへいもち)を作って康成に食べさせようとしていたし、康成も「温いこの家に夜までゐたかった」。
しかし、86で死んだ伯母は、この間見舞ひに行くと「栄吉つつあんかいな。」と、40年も前に死んだ父と私とをまちがへたことなどを思へば、やはり通夜に帰らねばならない。
康成は伊那電車の窓から木曽駒の峰にも甲斐境(かい ざかい)の高山にも雪が降っているらしいのを目にしながら、伊那を去る。
伊那谷(いなたに)の稲刈りは七分通りすんでいた。
さて、「父の名」は、雑誌『文藝』の1943年(昭和18年)の2月号と3月号に、2回にわたって掲載された作品である。その死の電報を受け取った伯母の、生前のことから書いてある。
康成の生母ゲンの、姉と弟のことが描かれた作品である。私小説といっていいだろう。
私の母のきやうだいは、たしか7人だと思ふが、1番上の姉と1番下の弟とが長生きで後に残つた。2人とも私の母とは腹ちがひで、その2人がまた腹ちがひである。正妻の子でないので、小さい時から苦労させられた。姉の方は私の祖父母が養女として嫁がせた。弟の方は他人の家へ小僧に出され、やがて奉公先(ほうこうさき)の金箔屋(きんぱくや)の養子になつた。さういふ離れ方だし、年も大分ちがふので、きゃうだいらしく暮したこと時はなかつたが、後に二人が東京に住むやうになつてから、弟は姉をさがしあてて、きゃうだいの名乗りをした。その時、姉はもう60を過ぎ、弟も50に近かつた。
金箔屋の叔父
「この金箔屋の叔父は変り者で、自分の自転車から帽子や靴にまで金箔を置いて金色燦然(さんぜん)と出歩いてゐた。」とあるように、本名山田豊蔵という、この叔父は、家業を生かして、身辺のあらゆるものに金箔を貼った。また自分の羽織に、有名人に揮毫(きごう)してもらって、その文字を金で浮き立たせて紋付の代りのように来て歩く、というふうだった。鴈治郎や歌右衛門といった一流の老優を選んで頼むのである。またここから転じて、一流の芸人と一緒に写真を撮ることを道楽とし、その対象は歌舞伎役者、映画俳優から政治家に及んだ。
この金箔屋の叔父・山田豊蔵のことは、康成初期の「大黒像と駕籠(かご)」にも出てくるが、その姉――田中ソノが、この作品の主人公である。
1917(大正6)年、康成が茨木中学を卒業して上京し、最初に頼って下宿した浅草蔵前の親戚が、この田中ソノであった。次男岩太郎が医者を開業して、この母を国もとから引き取ったばかりのところであった。もっとも、この作品では医者となっているが、川端秀子『川端康成とともに』によれば、歯医者である。
いずれにしても、この人たちは康成に、過分といっていいほどの愛情をそそぎ、親身な世話をしつづけた。
この伯母が85歳で病がちであることを気にしながらも、康成がそのままでいると、金箔屋の叔父が軽井沢まで来て、それとなく、生きているうちに逢ってやってくれ、という意味のことを遠慮がちに言った。
康成は早速、東京に出て、伯母に逢いに行った。/font>
「栄吉ツつあんか。」
伯母はなにもかも抜けてしまつたやうな顔で、少し口をあけて眠つてゐた。私はただ枕もとに坐つて、伯母を見てゐれば、それでいいので、従兄の嫁が伯母を起すのを止(と)めてゐると、伯母はふつと目をあいて、
「栄吉ツつあんか。」
と、きよとんと言つた。私の父の名である。40年前に死んだ私の父の名を、伯母は呼んだのである。
この数行に書かれた事実――目をさました伯母がきょとんとして、康成を父の栄吉と間違えて「栄吉ツつあんか。」と呼んだ一言が、康成の魂を震撼させたのである。
伯母は私を父とまちがへたことも、父の名を呼んだことも、自分で気がつかぬ、と言ふよりも、その時はもう私を認めた喜びに、なにもかもなくなつてゐた。よう来とくれた、よう来とくれた、会ひたうて、会ひたうて、とおろおろ言ひながら、涙を流して、這ひ出さうとし、起き上らうとするのを、私は無理に寝かせた。私に会へたのでもう死んでもいいと、伯母は言つた。
それから従兄夫婦は、伯母が康成に会いたがって、東京駅へ行けばわかるといって承知しなかったとか、さまざまなことを笑い話のように語る。康成は涙をこらえる。
早く死んだ父母の記憶を、康成はなにも持っていない。夢に出てくる肉親も、16の時まで生きていてくれた祖父一人だけである。
「さういふ私にとつて、『栄吉ツつあんか。』といふ伯母のひとことは、父母の復活であり、父母の誕生であつた」のである。
信州の伊那の農家で、この伯母が死んだという電報を受け取った康成は、すぐに伊那を立ち、10月末の冷たい雨の降る東京に着く。
伯母はもう柩(ひつぎ)に入っていた。そして夜半近く、この伯母の娘たち二人が大阪から着く。もう60過ぎの老女なのだが、特に上の娘は若い時から美人として人目を惹(ひ)いていたひとだった。その名残か、立ち居にあざやかなところがあり、仏前にしゃんと坐ると、このひとの娘も器量望みでもらわれて行ったことを思い出す。
伯母からこの姉娘へ、姉娘から小町娘へと、3代の女が母に似て、母より美しくなりまさってきた事実を、康成は考える。
「栄吉ツつあんか。」
と、私の父の名を呼んだ伯母の声が私のなかからも聞えた。
「父の名」は、伯母の一言を繰り返して結ばれる。思いがけず父の名を呼ばれた経験は、康成に、自分の顔も知らない父の存在を印象づけた。康成は、この一言を契機に、自己の根源を探る思考へといざなわれるのである。
第2節 「日本の母」
日本文学報国会
1942年(昭和17年)5月に文芸家協会の解散と同時に設立された日本文学報国会は、文士を大政翼賛会の傘下に加えようとする当局の攻勢と、文学の自律性を守ろうとする文士たちとのせめぎあいの中で誕生した、一見、国策推進を標榜した組織、ということができるだろう。
これに属した作家たちの態度は、おのおので異なった。小説部門の部長となり、また大東亜文学者会議に出席して決議文を起草、宣言したりして、積極的に戦争推進に協力した横光利一と、一歩も二歩も引いて、消極的に報国会に協力した康成とは、対照的であったといえるだろう。
それでも1942年10月には、康成は日本文学報国会作家という肩書きで長野県伊那の農家を訪問して「日本の母」という記事を書いた(『読売報知新聞』1942・10・30、朝刊)。第48回である。
この「日本の母」は、1県から1人ずつ、戦死した夫(あるいは息子)のあとを守って健気に生きている「母」を選び出し、その家を作家が訪問して記事を書く、という企画である。
当時、康成は軽井沢に住んでいたので、比較的近いから、という理由で、長野県下、下伊那郡松尾村の農婦・井上ツタヱを訪問することになった。
康成が最初に訪問したのは、10月8日だった。が、軽井沢から中央本線の辰野駅まで行き、そこから伊那電鉄に乗り換えて天龍川の流れに沿って飯田まで南下し、さらに飯田から三信鉄道で4つ目の駅「伊那八幡」まで行くには、7時間もかかった。
康成は、最初の訪問で、書くべきことを何も聞き出すことができなかった。そこで10月24日にふたたび訪ねた。
さて、ツタヱさんからなにか話を引き出さねばならないのだが、夫の戦死の後のことなど、私は2度会つても、よう聞けなかつた。
やむなく康成は、軍人援護会長野支部がツタヱの履歴と善行を書いた刷り物をツタヱに渡す。
「わしや、こんなこと言はれたつて、なにも……。なにも話すやうなことありませんで……。」と、ツタヱは困ってしまう。
それを無理して話を引き出せるような康成ではなかった。夫を失ったツタヱの悲しみを労(いたわ)っての思いやりである。
残された家族
一家は、夫の戦死のあと、ツタヱと女の子と、夫の母である姑(しゅうとめ)の、3人が残された。
その真二さんは蘭封院真正忠肝居士(こじ)といふ戒名の通りに、蘭封(らんぷう)で戦死した。中隊と小隊との連絡兵として任務を果し、ほつと横になつた途端に「ここやられましてな。」と、老母は自分の胸の横をおさへた。老母はまた、ツタヱさんの膝の孫を見ながら、
「この子の、生れて63日目の写真を見たきりでな。生れた時は、400匁(もんめ)しかない子でありましてな。2度目に送つた写真は、大分ふつくらしてたのに……。」戦死の後に着いた。その美智代さんは、今6つになる。少し弱々しく見えるが、きれいな子である。
「ほんに、1代暮すうちにや、いろんな目にあはなけやなりませんな。」と、老母は生涯を振り返つた。嫁が遺骨を迎へに行つた晩は、うちに1人でさみしかつたなあと言つた。
期せずして康成は、この気丈な母の、息子に戦死された深い失意を、読者に伝えているのである。
「『日本の母』を訪ねて」
康成は、この訪問について、『婦人画報』(1942・12・1)にも書いている。
ここでは、もう少し客観的に、一家の様子を描いている。
ツタヱさんの夫の陸軍歩兵伍長井上真二さんは、昭和12年8月に応召(おうしょう)、北支に出征、翌13年5月に戦死した。信州兵の武名を高め、また難戦を重ねた遠山部隊に属してゐた。戦死の時、真二さんは36、ツタヱさんは結婚して8年目で、30であつた。家庭には老母と、2人の義弟と、1女とがあつた。
姑は60を過ぎ、義弟の1人は病弱、もう1人はまた出征、子供は生れたばかりであつた。かういふ1家をツタヱさんは背負つた。ひたすら農蠶(のうさん)業に励んだ。軍人の遺家族に対する村人の勤労奉仕などは、いつも辞退して、ただ自力で働き通した。恩賜金(おんしきん)のお陰もあつたが、夫の生前からの負債を全く返し、また8畝(せ)の田を買ふところまで、家政を整へて来た。(中略)
ツタヱさんの家などは貧農の方だらうが、暗影も不安もなかつた。家族の顔色に、平和と希望とがあつた。これがツタヱさんの力であると思ふと戦死者の遺家族として、これほどありがたいことはない。(中略)
見るからに素朴醇情(じゅんじょう)の「日本の母」に対して私はなにも言ふことがなかつた。
銃後の読者を励ます、多少、舞文の面がないではないが、康成としては、この一家の健気(けなげ)な明るさに、かろうじて自分自身が慰められるところがあったのであろう。
「父の名」
井上ツタヱの家を2度目に訪問していた10月24日の午後、役場の少女が康成宛ての電報を持ってきた。康成の「母の姉が死んだ報せ」であつた。
井上家は晩に五平餅(ごへいもち)を作って康成に食べさせようとしていたし、康成も「温いこの家に夜までゐたかった」。
しかし、86で死んだ伯母は、この間見舞ひに行くと「栄吉つつあんかいな。」と、40年も前に死んだ父と私とをまちがへたことなどを思へば、やはり通夜に帰らねばならない。
康成は伊那電車の窓から木曽駒の峰にも甲斐境(かい ざかい)の高山にも雪が降っているらしいのを目にしながら、伊那を去る。
伊那谷(いなたに)の稲刈りは七分通りすんでいた。
さて、「父の名」は、雑誌『文藝』の1943年(昭和18年)の2月号と3月号に、2回にわたって掲載された作品である。その死の電報を受け取った伯母の、生前のことから書いてある。
康成の生母ゲンの、姉と弟のことが描かれた作品である。私小説といっていいだろう。
私の母のきやうだいは、たしか7人だと思ふが、1番上の姉と1番下の弟とが長生きで後に残つた。2人とも私の母とは腹ちがひで、その2人がまた腹ちがひである。正妻の子でないので、小さい時から苦労させられた。姉の方は私の祖父母が養女として嫁がせた。弟の方は他人の家へ小僧に出され、やがて奉公先(ほうこうさき)の金箔屋(きんぱくや)の養子になつた。さういふ離れ方だし、年も大分ちがふので、きゃうだいらしく暮したこと時はなかつたが、後に二人が東京に住むやうになつてから、弟は姉をさがしあてて、きゃうだいの名乗りをした。その時、姉はもう60を過ぎ、弟も50に近かつた。
金箔屋の叔父
「この金箔屋の叔父は変り者で、自分の自転車から帽子や靴にまで金箔を置いて金色燦然(さんぜん)と出歩いてゐた。」とあるように、本名山田豊蔵という、この叔父は、家業を生かして、身辺のあらゆるものに金箔を貼った。また自分の羽織に、有名人に揮毫(きごう)してもらって、その文字を金で浮き立たせて紋付の代りのように来て歩く、というふうだった。鴈治郎や歌右衛門といった一流の老優を選んで頼むのである。またここから転じて、一流の芸人と一緒に写真を撮ることを道楽とし、その対象は歌舞伎役者、映画俳優から政治家に及んだ。
この金箔屋の叔父・山田豊蔵のことは、康成初期の「大黒像と駕籠(かご)」にも出てくるが、その姉――田中ソノが、この作品の主人公である。
1917(大正6)年、康成が茨木中学を卒業して上京し、最初に頼って下宿した浅草蔵前の親戚が、この田中ソノであった。次男岩太郎が医者を開業して、この母を国もとから引き取ったばかりのところであった。もっとも、この作品では医者となっているが、川端秀子『川端康成とともに』によれば、歯医者である。
いずれにしても、この人たちは康成に、過分といっていいほどの愛情をそそぎ、親身な世話をしつづけた。
この伯母が85歳で病がちであることを気にしながらも、康成がそのままでいると、金箔屋の叔父が軽井沢まで来て、それとなく、生きているうちに逢ってやってくれ、という意味のことを遠慮がちに言った。
康成は早速、東京に出て、伯母に逢いに行った。/font>
「栄吉ツつあんか。」
伯母はなにもかも抜けてしまつたやうな顔で、少し口をあけて眠つてゐた。私はただ枕もとに坐つて、伯母を見てゐれば、それでいいので、従兄の嫁が伯母を起すのを止(と)めてゐると、伯母はふつと目をあいて、
「栄吉ツつあんか。」
と、きよとんと言つた。私の父の名である。40年前に死んだ私の父の名を、伯母は呼んだのである。
この数行に書かれた事実――目をさました伯母がきょとんとして、康成を父の栄吉と間違えて「栄吉ツつあんか。」と呼んだ一言が、康成の魂を震撼させたのである。
伯母は私を父とまちがへたことも、父の名を呼んだことも、自分で気がつかぬ、と言ふよりも、その時はもう私を認めた喜びに、なにもかもなくなつてゐた。よう来とくれた、よう来とくれた、会ひたうて、会ひたうて、とおろおろ言ひながら、涙を流して、這ひ出さうとし、起き上らうとするのを、私は無理に寝かせた。私に会へたのでもう死んでもいいと、伯母は言つた。
それから従兄夫婦は、伯母が康成に会いたがって、東京駅へ行けばわかるといって承知しなかったとか、さまざまなことを笑い話のように語る。康成は涙をこらえる。
早く死んだ父母の記憶を、康成はなにも持っていない。夢に出てくる肉親も、16の時まで生きていてくれた祖父一人だけである。
「さういふ私にとつて、『栄吉ツつあんか。』といふ伯母のひとことは、父母の復活であり、父母の誕生であつた」のである。
信州の伊那の農家で、この伯母が死んだという電報を受け取った康成は、すぐに伊那を立ち、10月末の冷たい雨の降る東京に着く。
伯母はもう柩(ひつぎ)に入っていた。そして夜半近く、この伯母の娘たち二人が大阪から着く。もう60過ぎの老女なのだが、特に上の娘は若い時から美人として人目を惹(ひ)いていたひとだった。その名残か、立ち居にあざやかなところがあり、仏前にしゃんと坐ると、このひとの娘も器量望みでもらわれて行ったことを思い出す。
伯母からこの姉娘へ、姉娘から小町娘へと、3代の女が母に似て、母より美しくなりまさってきた事実を、康成は考える。
「栄吉ツつあんか。」
と、私の父の名を呼んだ伯母の声が私のなかからも聞えた。
「父の名」は、伯母の一言を繰り返して結ばれる。思いがけず父の名を呼ばれた経験は、康成に、自分の顔も知らない父の存在を印象づけた。康成は、この一言を契機に、自己の根源を探る思考へといざなわれるのである。
三明永無(みあけ・えいむ)の役割
川端康成と阿部知二と岡本かの子と――三明永無(みあけ・えいむ)を接点に――
1 川端康成の好意
川端康成と阿部知二の間には深い関わりがある。とりわけ川端康成から阿部知二にかけた好意の跡がいちじるしいことは、多くの読者が知っていることであろう。
まず、川端康成や小林秀雄たちが昭和8年に始めた同人雑誌『文学界』 に昭和10年、同人として阿部知二を招き入れたこと。そしてその翌年、1月号から10月号まで、その誌上に「冬の宿」掲載の機会を与え、さらに第10回『文学界賞』授賞に際して「道は晴れてあり」の讃辞を送ったこと。この「冬の宿」の成功によって、知二がいわば国民作家として広い読者層をもつ作家に成長したことは、繰り返すまでもない。
ちなみに、このとき同誌(昭11・11月号)に寄せた川端康成の「選評」を、37巻本第四次川端康成全集第34巻から抜き出しておこう。
第10回 阿部知二「冬の宿」
道は晴れてあり
新年以来連載10ヶ月の「冬の宿」は完結した。同人に精
励の範を垂れたばかりでなく、感興自から溢れてみごとな
長篇をなし、作者自身にも恐らく豁然たる思ひあらしめ、
冬の宿よさらば、道は晴れてあり、ここに1票を投ず。他
に保田君の「日本の橋」にも投票したいが。
この文学界賞選定に川端康成の影響力が強いことは、その第2回に北条民雄「いのちの初夜」を授賞していることからも明らかであろう。
また昭和25(1950)年、第2次大戦後初めて、国際ペンクラブに日本が招待されて英国エジンバラで大会が開催された際、日本ペンクラブ会長であり、このペンクラブ参加に激しい情熱を見せていた川端康成が、日本代表として、阿部知二と北村喜八を選び、送り出した事実も忘れがたい。
演劇人であり、ヨーロッパにおける文芸理論に精通した北村喜八は、一高、東大時代から川端の日記にしばしば登場する旧友であり、康成の盟友であったから当然として、英語に堪能であるとはいえ、なぜ多くの作家・詩人の中から、あえて阿部知二に白羽の矢を立てたのか。
それは知二に寄せる、川端の深い好意を抜きにしては考えられないのである。
川端が知二に示した好意は、これら2つだけではない。昭和初年、文芸時評を連載して評論家としても強い影響力を持っていた川端は、さまざまな形で阿部知二の名前を出して、その文壇登場を応援していたのである。
上記全集第30巻に掲載されている、昭和初期の文芸時評を概観すると、川端がいかに無名時代の阿部知二に注目し、応援していたかが読み取れる。もっとも、身びいきのために、力のない作品を推奨するようなことはしていない。
知二が、当時の有望な新人作家を網羅した雑誌『文藝都市』 に参加したのは昭和3年からであるが、川端がこの雑誌で最初に注目したのは、井伏鱒二であった。早くも昭和4年の「文藝時評」(2―3月)では、「君の愛読する作家は? と問はれるなら、私は言下に答へるであらう。井伏鱒二と。」と書き初めて、井伏の「谷間」(1月~3月号)、「朽助のゐる谷間」(3月号)を挙げ、絶賛している。まだこの時期の知二作品は、川端には未熟と映ったのであろう。
阿部知二の名が初めて登場するのは、『新文藝日記』昭和5年版(昭4・11・12、新潮社)の「小説界の1年」という文章においてである。「新人では、中本たか子氏が、野心的な作品を続々発表した。それから井伏鱒二氏の古い新しさ、久野豊彦氏、堀辰雄氏の新しい新しさは、最も注目すべきであつた。その他、阿部知二氏、(中略)丹羽文雄氏、深田久弥氏、(中略)今日出海氏、(中略)吉行エイスケ氏、(以下略)。」
昭和4年に知二は、「或青年の手記―美しい跛足の女」、「森林―或青年の手記」などを『文藝都市』 に発表していたのだが、川端の目には、「その他」の筆頭としてしか、映らなかったのであろう。
しかし、昭和5年になると、事情は変わる。「新人才華(昭和5年5月)」(昭5・6、『新潮』)において、その最後に「その他」として「その他、私はこの月評のために、5月の雑誌は殆ど皆読んだ。そして、次の3作を選び出した。村山知義氏「日清戦後」(中央公論)/橋本英吉氏「メキシコ共和国の滅亡」(中央公論)/阿部知二氏「白い士官」」
同月の「新興芸術派の作品(昭和5年5月)」(『文学時代』昭5・6)には、以下のような文言が見られる。
「新興芸術派の代表作といはれるやうなものを発表してゐるのは、龍膽寺君位しかないが、短いもので、僕の非常にいい作品と思ふものを挙げるなら――/阿部知二君の最近の作品「すちいる・べいす」、「シネマの黒人」、「恋とアフリカ」、堀辰雄君の「眠つてゐる男」「ルウベンスの偽画」、(中略)井伏君の「朽助のゐる谷間」「シグレ島敍景」等。」
ここにおいて、阿部知二は新人作家として、ようやく川端康成に認知されたようだ。著名な時評家によって、その名前や作品名を記されることが、そのまま文壇登場につながったことは、康成自身の「招魂祭一景」を想起するまでもなく、明らかなことだった。
つづく「文壇散景(昭和5年6月)」(『読売新聞』昭5・6・12~14、『読売新聞』)では、「近代派」と小題がついて、「私の考へによると、ほんたうに近代派らしい作家は、阿部知二氏や吉行エイスケ氏なんかではないだらうか。その阿部氏すら一脈の――いや多分に近代派作家らしからぬものを持つてゐる。」と評されている。
さらに「創作界の一年(昭和5年12月)」(『昭和6年新文藝日記』昭5・11・13、新潮社)では、「阿部知二氏は「日独対抗競技」(新潮1月号)、「白い士官」(新潮5月号)その他で、近代的な理知の明朗で構成的な作風を、はつきり印象づけた。」と結論づけている。
加えて康成は「昭和5年の芸術派作家及び作品」(『新潮』昭5・12)において、「昭和5年中に、傑作または力作を書いた作家、数多くの作品を書いた作家、つまり働いた作家は――」として、その一人に阿部知二を挙げている。「新興芸術派の作家達には、実に無数の小さい作品がある。(中略)しかも、目星いものが非常に少い。傑れたものを拾い出してみると」として「阿部知二氏「日独対抗競技」(新潮一月号)、「白い士官」(新潮五月号)」を抜き出している。
阿部知二は、昭和5年に「新進作家の地位を確立した」と、これまでの年譜に描かれているとおり、川端康成の時評によっても、その確立ぶりが伺える。言い換えると、知二の文壇登場に、川端康成は十分な役割を果たしているのである。
その後も康成の知二に対する関心はつづき、『新潮』昭和6年8月号に発表された「航海」についても、次のような述懐を寄せている。
阿部氏の「航海」は、苦しんだ知識の所産であると思は
れる。近頃の文壇に移入された心理学を頭に備へつけて、
しかもそれを抑へつけることに、作者の多分の努力が払は
れてゐる。これは知識人らしい身だしなみであらうが、読
者はそのために、作者の懐疑の匂ひを感じてしまふ。人物
の生彩が伸び上らうとしては頭を切られる所以であらう。
同年9月の「高原」(『文藝春秋』)についても、康成は評言を寄せた。
このような川端康成の評価は、疑いなく、知二を文壇へ登壇させ、さらには一人前の作家として自立させる役割を果たしたはずである。
それは一方では、時評家としての康成の見識によるものであったが、同時に、阿部知二にたいする温かい好意が、その底にあると感じられるのである。
それは、どこから生じたのであろうか。
2 三明永無の存在
川端康成初期の一大事件であった、大正10(1921)年秋の岐阜における、伊藤初代との婚約および破約事件――。これは、連作の中心となった作品名によって「非常」事件と呼ぶべきものだ。その経緯については、私の『魔界の住人・川端康成―その生涯と文学―』(2014・9・30、勉誠出版)上巻に詳しく描いたので、ここでは割愛するが、、この恋愛事件において月下氷人として活躍したのが三明(みあけ)永無(えいむ)であった。
三明永無の役割と、その演じた重要性については、康成自身、第一次川端康成全集の「あとがき」(のち「独影自命」として、まとめられた)に、次のように書いている。
「霰(あられ)」の友人は石濱(注・金作)君である。
「篝火(かがりび)」の朝倉、「非常」の柴田、「南方の火」の友人
は、「明日の約束」の片桐とも同一人で、今は最早三十年
近く昔のことだから明してもいいだらうが、E・M君であ
る。「明日の約束」のはじめにもある通り、ずゐぶん私の
世話を焼いてくれた。(2ノ6)
ここに告白されたE・M君こそ、三明永無(みあけ・えいむ)である。
今から48年前、すなわち昭和43(1968)年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した年から川端文学の研究に入った私は、川嶋至 『川端康成の文学』(1969、講談社)や長谷川泉編『川端康成作品研究』(1968、八木書店)などによって、三明永無の名はよく知っていたが、その正体や出自については、まったく知らないままだった。
ところが今から20十数年前、偶然に、意外なところで三明永無の名前に遭遇し、その出自の一端を知ったのだった。
あれは、姫路文学館で『抒情と行動―昭和の作家 阿部知二展』が大々的に開催された年だったから、今から23年前の1993年の初夏のことだった。
9月から開かれる展覧会の準備にあたり、この展覧会を責任担当する阿部知二担当の学芸員・甲斐史子さんが、提供してもらう資料を確認するため、島根県の、出雲大社のほとりにある島根県立大社高校を訪問するという。ちょうどそのころ、阿部知二の評伝を書こうと、同人雑誌『文芸日女道』に「阿部知二への旅 評伝のための基礎ノート』を連載しはじめていた私には、それは絶好の機会だった。
ぜひ同行させてください、と私は甲斐さんにお願いした。
大社高校の前身は、旧制杵築(きづき)中学である。この学校こそ、文部省検定試験(通称・文検 〈もんけん〉)によって中学教師の資格を得た、知二の父・阿部良平が、米子中学に1年勤めた後、日露戦争の戦端が開かれたばかりの明治37年4月から大正2年までの九年間、赴任し、博物の教師として勤務した学校である。
次男であった知二(明治36年6月生まれ)も、満1歳足らずの年から米子より島根県簸川(ひかわ)郡に移り、初めは杵築町の町はずれの遥堪村菱根(ようかんむら・ひしね)に住み、やがて明治42年9月から父が杵築中学の舎監になったので、翌43年の9月から、知二たち家族も中学敷地内の舎監官舎に住む。
つまり知二と、その父親良平の生涯にとって、杵築は生涯の重要な町であり、杵築中学はおそらく、良平の教師生活の痕跡を大量に残す資料の宝庫であるに違いないのだ。
季節は初夏であった。前日、別々の行程で松江に着いた甲斐さんと私は大社高校門前で落ち合い、その歴史の長さをしのばせる典雅な同窓会館(現・いなさ館)に招き入れられて、甲斐さんは膨大な資料から展覧会に出品したいものを探し出していた。
私は同校の校友会雑誌 『七生』 のバック・ナンバーを閲覧させていただいた。この誌名は、楠木正成の「七生報国」から採用されたものであろう。この学校の、古い歴史を感じさせる。
そして果たして、明治40年4月刊行の『七生』第14号に、父阿部良平の「平年の話」というエッセイが発表されていたのである。今日でいう、生態系のバランスが大切だ、といった趣旨の文章であった。
他の号にも良平の文章がないかと、さらに頁を繰って、別の号を見ていたとき、私は思いがけぬ人の名を発見したのである。
三明永無の、名前と文章であった。
それは大正3年3月15日刊行の『七生』第23号で、そこに3年生・三明永無の「意志の論」という文章が掲載されていたのである。
「重荷を負うて遠きに行かむには、意志の力に俟たざるべからず。百折撓まず千挫屈せずして、己の初志を遂げむにも亦、意志の力に由らざるべからず。」と始まる、勇ましい漢語調の文章であった。
「あっ、三明永無は、杵築中学の生徒だったのか!」と、私は驚いた。川端康成の研究で、三明永無の名は私に近しいものだった。だが、一高で川端康成の同級生であったという事実(川端は大正6年、一高に入学している)以外、私はほとんど何も、彼についての知識を持ち合わせていなかったのである。
しかし、三明永無が大正3年において杵築中学の生徒であること、従って恐らく、この近辺に彼の故郷があることは確かであった。
……それから20年余り、この事実は私の胸底に深く蔵されたまま、それを明かす機会がなかった。
だが、思いがけない契機が、三明永無の出身地を明かし、その生涯のあらましを知る機会を与えてくれたのである。
一昨年(2014年)夏のことだった。私はその9月、前述の川端康成の著書を刊行する直前で、意気大いに上がっていた。また、その著書を仕上げる半年前に知遇を得た畏友・水原園博(そのひろ)氏との交友に熱中していた。水原氏は、公益財団法人・川端康成記念会の理事、東京事務所代表、という肩書きを持っている。といえば堅苦しい人物を想像されようが、近年「川端康成と東山魁夷展」を全国の各都市で開催している、その企画と実施を担っている、豪放かつ繊細な人物だ。
私は自分の本の口絵に、川端康成記念会が所蔵している数々の名品や写真を掲載させていただきたいと願った。幸い、理事長である川端香男里先生のお許しをいただいて、自由に撮影してよい、との許可を得た。とりわけ私が掲載を渇望したのは、川端康成が戦中から戦後にかけて耽読した、源氏物語湖月抄であった。
江戸時代、元禄の少し前の延宝年間、北村季吟(きたむら・きぎん)によって執筆され、木版で印刷されて全国に普及した、源氏物語の本文と注釈書全60巻だ。54巻に、年立て(源氏物語の年譜)などが付されて60巻あるという。
以前、展覧会でガラスケースの外から見たことはあったが、川端康成が精読した、その本物の写真を私の著書に載せたかった。川端が湖月抄から受けた影響について、私はその書において詳細に描いていたからである。湖月抄は、川端研究に必須の重要資料であった。
しかし、写真の素人である私には、上手に撮影する技術がない。そのとき、川端康成学会の仲間である平山三男さんが、水原さんを紹介してくださったのだった。
水原さんは、写真専門誌の表紙を飾ったこともあるほどの、撮影のプロである。また、川端康成について、繊細かつ男性的なエッセイを数多く書いてきた人だった。水原園博氏撮影になる湖月抄など数々の秘宝を自著に掲載できたことは、実にありがたかった。
さて、その夏7月、水原さんと電話で話していると、「来年の3月、松江で『川端康成と東山魁夷(かいい)展』を開催するよ」と水原さんが口にしたのである。島根県……と耳にした途端、私の胸に三明永無の存在が浮かんだ。
「それなら、地元の『山陰中央新報』に連絡して、三明永無の故郷を調べ出してもらうと、展覧会の話題づくりになるよ」と私は言った。というのも、その1ヶ月前、2014年7月9日、川端康成の、伊藤初代に宛てた未投函書簡が発表され、この若き日の恋愛と、その折り、岐阜で撮影された記念写真がNHKや全国の各新聞紙上に大々的に紹介されて、全国的に話題となっていたからである。その直後、静岡市、岡山市で開催された『川端康成と東山魁夷展』でも、岐阜の写真と、伊藤初代からの10通の手紙は展示されて、大きな反響を呼んでいた。
その婚約事件の中心的役割を果たした三明永無(みあけ・えいむ)が、これまでは影の存在であった。しかし、おそらく三明永無の故郷である島根県で開催される以上、三明永無の出身地が具体的に解明されれば、話題は沸騰するであろう……。
水原さんは行動が早い。ただちに、島根・鳥取両県をエリアとする『山陰中央新報』に連絡した。するとたちまち、文化部の石川麻衣記者に、その解明・探索が委ねられたのである。
石川記者は事情を知るため、水原さんに連絡をとった。すると水原さんは、姫路に、三明永無や伊藤初代に詳しい、川端文学の専門家がいますよと、私を紹介してくださったのである。
一方、石川麻衣記者は、たちどころに、三明永無の出身は、大田市温泉津(ゆのつ)町西田の瑞泉寺(ずいせんじ)である、と探り出し、瑞泉寺に連絡をとった。
石川記者は、探索を委ねられると、すぐ『島根県歴史人物事典』を開いた。そこには、「自謙(じけん)」という傑出した僧侶の名が出ていた。そこに、自謙は大田市温泉津の「三明山瑞泉寺(さんみょうざん・ずいせんじ)」の僧であると記されていたのである。
石川記者は、この「三明山(さんみょうざん)」が「三明(みあけ)」という珍しい姓を連想させるところから、瑞泉寺と三明永無に深い関わりがあるのではないかと推理した。
きっと永無と親戚関係にある人物であろうと見当をつけ、その自謙の出自たる寺院・瑞泉寺の電話番号を調べ、電話をかけた。
現住職の三明慶輝(みあけ・けいき)氏が電話口に出られた。慶輝氏はかねがね、大叔父(祖父・三明得玄の弟)に当たる永無が川端康成や、岡本一平・かの子夫妻と関わりがあったということを聞き知っており、それにも関わらず、世間が三明永無という存在を忘れ去っていることを残念に思っていた。だから電話を受けると、三明永無が間違いなく瑞泉寺の出身であること、その遺品も多く残っていることを告げた。石川記者が「伺ってもいいですか?」と尋ねると、「どうぞ、ぜひおいでください」と快諾した。
ご住職は、幼時、永無と顔を合わせたことがあった。この偉大な大叔父の強烈な印象が残っている。川端康成や岡本かの子と深い交流のあったことも耳にし、実際に、それを裏づける幾枚もの写真や色紙も眼にしていた。だがこれまで、三明永無の存在は、世の注目を浴びることがなかったのである。
永無は晩年を故郷に近い、島根県浜田市で過ごし、そこで亡くなった。しかし墓は故郷の瑞泉寺にあり、また遺品の数々も、瑞泉寺で大切に保管されていた。
その遺品の中には、あの岐阜の、三人の記念写真もあったのだ。石川記者は目ざとく、この写真を見つけ、これこそ先日、全国各紙に流された写真の原本だと直感した。
石川記者は、その写真も撮影し、発表する許しも得た。
さて、その三明永無の出身地について記事にするためには、川端康成をめぐる三人の関係などを十分に知りたい。石川記者は水原さんに電話で相談し、紹介されて、姫路に住む私に電話をかけてこられた。
川端康成と三明永無との関係について詳しく教えてほしい、ついては姫路まで伺ってもいいか、というものであった。もちろん私は快諾した。
石川記者は、出張の許可を得て、松江から伯備線特急と新幹線を乗り継いで、岡山経由で姫路に来てくださった。
姫路駅の中央改札口で落ち合うと、20代の、瞳の澄んだ美しいひとであった。私は行きつけの喫茶店パルチザンへ招待して、そこで3時間たっぷり、若き日の川端康成の恋と、三明永無の役割について講義させていただいたのである。
まもなく石川麻衣記者は、岐阜の記念写真と、それにまつわる詳しい記事を『山陰中央新報』朝刊に、3度にわたって発表した。
すなわち第1報は、2014年7月23日、「川端康成と伊藤初代の恋 三明永無(大田市出身)が仲取り持つ」、第2報は文化欄に「3人の写真現存 唯一の原本を確認」(7月27日)として掲載された。これは、『山陰中央新報』の石川記者たちと、東京から遙々訪れた水原園博氏が同行して、温泉津町の瑞泉寺を訪問して確認した報告である。三明永無の遺品にあった、岐阜の3人の記念写真とともに、これも遺品の中にあった三明永無の結婚式の記念写真も掲載された。これは岡本一平・かの子夫妻が媒酌人として永無夫妻の両側に席を占め、背後には川端康成や石濱金作も写っている、貴重なものである。
そして第3報は、「川端康成の初恋と三明永無」(2014・8・2)と題したもので、川端と伊藤初代の恋と、結婚の約束において三明永無の果たした役割を、具体的に解説した内容であった。この記事には、かの子の短歌に、一平がかの子の似顔絵を描き加えた、美しい色紙が添えられていた。
これらの記事には、岐阜の記念写真の原本に加え、岡本一平の描いた三明永無の肖像画も載せられていたから、島根県ばかりでなく、全国的にも、大変なスクープとなった。
7月9日に川端康成の未投函書簡が大々的に発表されてから、まだ1ヶ月も経っていない時点だ。全国に、その余韻が残っていた。地元の島根県でも、あの写真に関わりの深い人物が大田市温泉津の出身であったと知られて、大いに話題を集めた。『山陰中央新報』に、読者から、いくつも電話がかかった。投書も寄せられた。瑞泉寺にも、電話がひっきりなしにかかったという。
そればかりか、未投函書簡の続編という意味もあったから、共同通信系列の全国の新聞も、他の新聞も、いっせいに後追いの記事と岐阜記念写真を載せて、注目した。
3 岐阜記念写真
ところで、三明永無の遺品の中にあった、この写真は、いわくつきの、格別な意味を持つものであった。
この写真は、前述のごとく、その93年前の大正10年(1921年)10月9日、すなわち康成と伊藤初代の結婚の約束ができた翌日、岐阜市の裁判所前にある瀬古写真館で撮影されたものであったが、長い転変の間に、康成も、初代も、この写真を失ってしまっていた。
昭和47年(1972年)4月16日に康成が自裁すると、その秋、日本近代文学館が主催して、『川端康成展―その芸術と生涯―』が東京・新宿伊勢丹(9月27日~10月8日)を皮切りに、全国11都市を巡回して開催された。
このとき、準備にあたった一人に長谷川泉がいた。当時の川端研究の第一人者であった長谷川は、すでに三明永無と接触し、旧知の間柄であったところから、三明に、この記念写真を貸してほしい、展示したいから、と依頼した。三人が一葉ずつ持っていた写真だが、康成、伊藤初代は長い歳月の流れの間にこの写真を失ってしまい、三明永無だけが、所持していたのである。最後の1枚だった。
三明永無はこの写真を長谷川に貸したが、展示は、思わぬ反対が出て、実現されなかった。つまり康成の秀子未亡人が、展示することに同意しなかったのである。
康成と結婚したころ、康成の心に伊藤初代が生きつづけていることに苦しまされ、その心の傷が残っていたので、康成の死後にまで、伊藤初代が重視されることに耐えられなかったのであろう。
そこで長谷川はこの展覧会に展示することは断念した。しかし写真の複製を2、3葉つくり、みずからの文章に発表するとともに(「『南方の火』の写真」(『向陵』一高同窓会、昭47・11・15)、岐阜市の、川端文学研究家(川端の岐阜訪問と婚約の経緯を調査していた)島秋夫に1枚を贈呈した。また、財団法人・川端康成記念会にも、この複製を、本来川端家が所持しているべきものとして、返却した。(これらがその後、さらにあちこちで複製されて、現在、日本近代文学館や各新聞社が所蔵するところとなっているのだ。)
つまり、これまで公表されてきた岐阜の記念写真は、いずれも、長谷川泉が三明永無から借り出した写真を原本とするものであった。その後、果たして長谷川泉が三明永無に確かにこの写真を返却したのかどうかは、40数年間、杳(よう)としてわからなかった。
だが今回、瑞泉寺の三明慶輝住職が石川記者に見せた永無遺品の中に、セピア色に化した、この記念写真があることに、石川麻衣記者は気づいた。そしてこれを『山陰中央新報』の記事の中に掲載した。
今回新たに発見された写真は、セピア色に変色し、また、3人の肖像の近くに、白い大きなシミがいくつかあったけれど、まさしく、この原本が生きつづけてきたことを証明していたのである。長谷川泉が三明永無に写真を返却していたことも、ここで確認されたわけである。また三明永無が生涯を通じて、この写真を大切に蔵していたことも判明した。
私は、瑞泉寺の三明慶輝ご住職と石川記者から、この写真を使用してもよい、との許可を得たので、私の著書上巻の表紙に使わせていただいた。私はあえて、世に普及している、修正された版ではなく、白いシミが幾つも残る、三明永無の遺品である、この本物の写真を使用させていただいたのだ。
それほどにこの写真原本は、大正10年(1921年)から平成26年(2014年)まで、94年の歴史を生き延びた、特筆すべき写真であったのだ。
4 三明永無と岡本一平・かの子
さて、こうして松江市で開催された『川端康成と東山魁夷展』を機に、三明永無の存在は世に蘇(よみがえ)り、川端康成との関わりも、伊藤初代との初恋事件をもとに世間に知られることとなったのだが、三明永無の役割は、これだけに止まるものではなかった。
石川記者は、三明永無の遺品の中に、岡本一平、かの子夫妻との関わり深い写真や絵画を見つけて、これも意外に思って、紙面に紹介した。
1つは、岡本一平が若き日の三明永無を描いた、やや戯画調の肖像画であったが、今1つは、三明永無の結婚式披露宴に、岡本夫妻が媒酌人として中央に座っている写真であった。これは、岐阜事件の3年後の大正13年12月、三明永無が東京の帝大仏教青年会館で挙式した披露宴の際に撮影されたものである。この写真には、川端康成も参列者の1人として写っている。
三明慶輝住職は、永無と岡本夫妻との関わりが深いことも知っておられたが、なぜこのような交流があったか、という次第は、はっきりとはご存知なかったという。
ところが、川端康成と阿部知二と岡本かの子とを結ぶ強力な1本の線について、その謎が一気に解ける鍵――1つの情報――が、松江から手に入ったのである。
4 杵築(きづき)中学校の同級生
かねがね、阿部知二と、彼が幼少期九年間を過ごした出雲(すなわち島根県)との関係を調査し研究をつづけている引野律子氏と、私は面識があった。阿部知二研究の仲間として、引野氏はいつも私に貴重な情報を知らせてくださった。引野氏は現在、松江市に住んでおられる。
出雲で知二が最初に住んだのが遥堪村(ようかんむら)であったところから、遥堪村に生まれ、遥堪小学校時代に阿部知二の講演を聴いたことのある引野さんは、阿部知二と島根県との関わりについて、熱心に調査をつづけてきた。そしていくつかの論考を『阿部知二研究』に掲載すると同時に、私とメールの交流をつづけていた。
あるとき、もう10年ほど前であったか、引野さんがメールで重要な情報をくださった。
それは、「阿部知二が後年、少なくとも8度、島根県を訪れているのは、島根県の恒松安夫(つねまつ・やすお)知事との関係からである。そして知二と恒松知事との知遇は、知二の兄・公平が、恒松と、杵築中学で同級生だったから生じた」という内容であった。
ちなみに、恒松安夫は杵築中学から慶應義塾大学に進み、卒業後は慶応の教授になった。戦後、島根県知事にかつぎ出され、昭和26年から34年まで2期8年間、知事をつとめている。その知事時代、招待されて知二は何度も島根県を訪れている。
公平は知二より5歳年長の、明治31年生まれである。そして明治44年、杵築中学に入学し、2年間在学したが、父・良平が大正2年3月末、兵庫県の姫路中学に転勤したので、それにともなって一家は姫路に移り、公平は杵築中学から姫路中学3年に転入したのである。
公平は広島高等師範学校に進んだが、姫路高等女学校教諭であった大正12年、25歳の若さで結核により姫路市坊主町の自宅で死去した。
しかし公平は弟知二に、またとない贈り物を残してくれたのである。杵築中学で、公平の同期であった人々との人脈である。
公平は2年だけで姫路中学へ転入したから杵築中学を卒業してはいないが、第15期生、大正5年3月卒業の人たちと同期であった。2年間、教室を共にした親しい顔見知りだったのである。
それが三明永無、恒松安夫たちである。しかも、永無も恒松も生家が杵築中学から遠いため、寄宿生であった。つまり、舎監をしていた、人望の篤かった良平のもとにあり、かつ良平の官舎は、寄宿舎と同じ敷地内にあったから、三明永無、恒松安夫と阿部公平は、一つ屋根の下で過ごしたといっても過言ではない。5歳年下の知二の顔を見知っていた可能性もある。
ところで、岡本かの子の愛読者や研究者なら、恒松安夫の名はよくご存知だろう。大正6年、慶応義塾に進学した恒松は、兄源吉もそうだったことから岡本家に寄宿し、ついにはその家計全般を任されるようになったのである。
この事実は、諸年譜にも記載されており、また岩崎呉夫『芸術餓鬼 岡本かの子伝』(七曜社、昭38・12・10) にも瀬戸内寂聴 『かの子繚乱』(講談社、昭40・4)にも詳しく記されている。
恒松は岡本夫妻から深い信頼を寄せられ、関東大震災の直後も、第二次大戦中も、一家は、恒松家の世話で島根県に一時、身を寄せている。また昭和4年から昭和7年にかけての、岡本一平、かの子、太郎の洋行の際にも、恒松は同行したほどだ。
このように恒松安夫は、岡本家と深い関わりがあった。(岡本家と恒松家との関わりは、前記引野律子氏の発表資料(注1)によれば、源吉・安夫の祖父で衆議院議員であった恒松慶隆と、かの子の父・大貫寅吉(おおぬき・とらきち)が親しかったことから生じたという。)
さて、岡本かの子年譜に、突然、三明永無の名が現れて、かの子の評伝家を悩ませているのも、この杵築中学を基点とする事実を知っていれば、何でもなく解決できるのだ。
そう、杵築中学時代に親密であった三明永無と恒松安夫は、上京後も、頻繁に交際した。外交的で明朗であった三明永無は、恒松が岡本家に寄宿すると、すぐに訪問したであろう。そして岡本夫妻とも親密になった。
この事実を知らなかった岩崎呉夫は、前述の著『芸術餓鬼 岡本かの子伝』において、「三明永無は、かねてよりかの子のファンであったところから交際を求め……」など、想像を巡らせて苦しい創作をしているが、前述の恒松と三明との関係を知っていれば、別段、難しいことを考える必要はないのだ。
さらに、川端康成と岡本かの子の関わりについても、以上のいきさつを知っていれば、三明永無が両者を仲介したことは、容易に了解される。
歌人としてはすでに有名であったが、小説家になることを切望したかの子を、康成が、まだまったく小説らしきものを書けなかった時代から辛抱づよく指導したことも、よく知られた事実だ。
川端康成がようやく合格点をつけて、自分たちの雑誌『文学界』に掲載した、芥川龍之介の晩年を描いた「鶴は病みき」(昭和11、6)によって、かの子が作家として鮮やかなデビューを果たしたのも偶然ではない。恒松を訪ねて岡本家をしばしば訪れ、夫妻とすでに面識のあった三明永無が、かの子を川端に紹介したと解すれば、接点の謎は簡単に解けるのだ。
実際、三明永無は後年、長谷川泉に慫慂されて書いたエッセイ「川端康成の思い出」(長谷川泉編著『川端康成作品研究』昭和44・3・1、八木書店) において、以下のように述べている。
岡本かの子はその頃青山にいて、同宿の恒松安夫(後の
島根県知事)が私の中学の同窓であるという関係から、よ
く出入りしていたが、新思潮で評判のよくなった川端に会
いたいというので私が紹介して銀座のモナミというレスト
ランへ川端を伴い岡本一平、かの子、恒松安夫等に会わせ
た。
「岡本かの子年譜」(『岡本かの子全集』第12巻、ちくま文庫、1994・7・21)には、かの子が川端康成の知遇を得たのは大正8年(1919)とある。しかし、これは、おかしい。川端康成らが第六次『新思潮』を発刊し、「招魂祭一景」で名が出たのは、大正10年だからである。三明永無が書いているように、「新思潮で評判になった川端に会いたい」と言ったのは、大正10年でなければならない。
大正5年3月に杵築中学を首席で卒業した三明永無は翌大正6年、一高文科に入学し、寄宿舎の東寮3番で康成と同室になった。翌年も南寮4番で同室になり、石濱金作、鈴木彦次郎を加えた4人で、伊藤初代のいるカフェ・エランにも通ったのである。
三明永無のこの文章には、もちろん岐阜行のことも出てくるが、ここでは割愛しよう。
もう1つ、岡本かの子年譜を見ると、大正11年ごろ、かの子が高楠順次郎の教えを受けた、とあるが、これも、三明永無の存在抜きには考えられない。というのは、一高文科から東京帝国大学文学部印度哲学科に進んだ永無は、みずから、前期の文章に「大正大蔵経の編纂、校訂にあたり」と書いているように、高楠教授の指導のもと、この編纂校訂作業に従事していたのである。そのころ、仏教を必死で研究していた、かの子を、高楠教授に紹介したことが、容易に推察できるのだ。
ちなみに、三明慶輝住職のまとめた「三明永無略年譜」には、生涯の師として、高楠順次郎が挙げられている。(高楠は昭和19年に文化勲章を受章している。また、現・武蔵野大学(前身は千代田学園、のち武蔵野女子大学)を創設し、みずから校長にも就任している。
三明永無がハワイから帰国後、この学校に奉職した履歴を持つのも、高楠との師弟関係によるものであろう。
5 三明永無の生涯
ここで、瑞泉寺第19世住職である三明慶輝氏のまとめられた資料をもとに、三明永無の生涯の概略を述べておこう。
初めに、A4用紙一枚にまとめられた「三明永無 略歴」を、そのままに写す。
三明永無 略歴
誕生 明治29年(1896)6月8日生れ
瑞泉寺第16世住職 得玄・ミチの次男
同上17世住職 謙譲の弟
学歴 湯里村西田尋常小学校卒業 明治40年3月 10歳
湯里村湯里高等小学校卒業 明治44年3月 14歳
島根県立杵築中学校卒業 大正5年3月 19歳
第一高等学校卒業 大正9年3月 23歳
東京帝国大学文学部卒業 大正12年3月 26歳
職歴 昭和5年(1930)ハワイへ渡米 34歳
本願寺ハワイ別院付属ハワイ中学校で教鞭
昭和18年9月 第二次交換船(帝亜丸)にて帰国 47歳
宗門立千代田女子専門学校 千代田学園で教鞭
同上 武蔵野女子学園にて教鞭
昭和25年 ハワイ教団直属布教師として渡米 54歳
昭和33年同上開教本部賛事長 62歳
昭和36年 帰国 東京:代官山にて居住 65歳
家族 結婚 大正13年(1924)12月 28歳
津山利恵子(新潟県東頸城郡牧村 西念寺出身)
*子息 大蔵、次朗 *媒酌 岡本一平・かの子
再婚 昭和38年(1963) 67歳
原田寿恵(島根県大田市大家 浄土寺出身)
昭和47年 島根県浜田市へ移住 76歳
逝去 昭和54年(1979)1月11日 82歳
*院号法名 無明院釋永無
交友 杵築中学時代
恒松安夫(慶応大学教授;島根県知事)
一高時代
今東光(作家;中尊寺貫首)
一高・東大時代
川端康成(ノーベル賞作家)
恩師
高楠順次郎(東大インド哲学教授;『大正新修大蔵経』編纂)
*文責 三明慶輝 浄土真宗本願寺派三明山・瑞泉寺第19世住職
以下、平成8年11月25日に刊行された『瑞泉寺縁起史』を中心に、私の知見を多少加えて、瑞泉寺と三明永無について、若干の補足をしておきたい。
瑞泉寺は、鎌倉時代の末、嘉暦2年(1327)に真言宗として開基された、7百年の歴史を有する名刹である。開基からほぼ2百年後の天文9年(1540)、浄土真宗に改宗された。
天文年間といえば戦国時代の真っただ中、石見銀山の権益をめぐって、尼子、大内、毛利の戦国大名が激烈な争奪戦を繰り広げた時代であった。石見銀山から、海浜の温泉津(ゆのつ)に至る街道に面する瑞泉寺は、まさしく石見銀山の興亡とともに歴史を歩んできたといっても過言ではない。
今日においても、壮麗な山門、豪放な本堂などから、往時の殷賑(いんしん)ぶりを十分に想像できる、歴史を生き抜いてきた寺院だ。
だからこの瑞泉寺からは、歴代の名僧を輩出した。なかでも江戸後期の宝暦元年(1751)から幕末の弘化3年(1846)まで96年の長寿を保った、前述の自謙は、全国にその学識を謳われた傑僧で、本山の勧学に任ぜられて、石州学派の名を轟かせた。勧学の筆頭に任ぜられ、三業惑乱と呼ばれた法難の時代に、その卓越した学問によって、本山の秩序を護ったのである。
ちなみに、勧学とは、広辞苑によれば「浄土宗、浄土真宗の本願寺派・興正寺派における最高の学階」である。
また、幕末の嘉永6年(1853)に生まれた範嶺も、明治・大正を生き、やはり勧学に任ぜられ、大谷光瑞門主より篤い信頼を寄せられた。
このような才質を受け継いだためであろうか、三明永無も幼時から秀才ぶりを示した。遺品の中には、杵築中学卒業時における名簿がある。「島根県立杵築中学校第15回卒業生成績表」と題されたもので、全生徒の全科目の成績一覧表を兼ねている。その筆頭に、三明永無の名前と成績があるのだ。つまり首席である。「席次」が「1」と記されていることは、いうまでもない。抜群の成績である。志望校も書いてあり、「高等学校」と明記されている。(私も後日、瑞泉寺を訪問し、これらの遺品を閲覧させていただき、写真撮影もした。)
なお、永無が杵築中学を卒業したのは大正5年3月、川端康成が茨木中学を卒業したのは大正6年3月である。あるいは、さすがの三明永無も1浪して一高に入学したのかもしれない。
なお、永無の生年月日を見ると、明治29年6月だ。康成は明治32年6月だから、3歳違いである。康成の恋愛においても、同級生ではあっても世間を知らず、奥手であった康成を、3歳年長で、明朗闊達な永無が何かとリードし、応援した実相が見えてくるのである。
康成が前引の「あとがき」(2ノ6)において、「今は最早30年近く昔のことだから明してもいいだらうが、E・M君である。「明日の約束」のはじめにもある通り、ずゐぶん私の世話を焼いてくれた」と書いたとおり、兄貴分としての三明永無のはたらきがあってこそ、康成は伊藤初代との結婚の約束を取りつけることができたのだった。(1ヶ月後に、この約束は一方的に破棄されてしまったが……。)
なお、三明永無の生涯でもう1つ重要なことは、日系人の多いハワイにおいて教鞭をとり、あるいは布教師として活躍したにもかかわらず、太平洋戦争の勃発により、強制収容所に入れられ、第2次交換船で日本に帰国した、という事実である(注2)。三明慶輝氏によると、このとき永無は妻子と別れて帰国したそうだ。
前述の引野律子氏は、この事実を重視して、永無もまた戦争の犠牲者であったとして、その視点から三明永無の生涯を改めて見直そうとしておられる。
6 結語
以上述べてきたように、三明永無の杵築中学卒業という経歴から、その人脈によって、多くのゆたかな人間関係が生じてきたことは、明らかになった。
阿部知二と恒松安夫(つねまつ・やすお)の親交についても、前記引野律子資料には、興味深い事実が述べられている。『恒松安夫追悼録』(1965・5・15、新文名社)に、慶応普通部の教え子・大原胤政「教え子の追憶」の1文があり、その中に、次のような一節があるのだ。
恒松さんが野球部長になったのと、奥さんをもらったの
とどっちが早かったか思い出せない。野球部長になってか
ら、誰の発案か時折虎ノ門の晩翠軒(井上恒一さん)で、
戸川秋骨さん,奥野信太郎さん、和木清三郎さん、阿部知
二さん、それに私達(中略)なんかが何となく集まりをも
った。戸川先生を囲む会だったのか、野球部長を激励する
会だったのか、そこいらがはっきりしない。会は割合長く
続いた。私達が岡本かの子さんのお供をして、歩き廻った
のも此の頃である。
恒松が野球部長になったのは昭和8年だという。知二が文壇で旺盛な筆力を見せたころと重なっているが、この時期に知二が恒松安夫と親密な間柄にあった事実の背後に、三明永無の存在があったことは、否定する方に無理があろう。この時期、岡本かの子とも、大原胤政ら恒松の教え子たちの交流があったことによって、三明永無の存在がいっそう大きく浮上するのである。
とすれば、最初に述べた、阿部知二に寄せた川端康成の好意も、三明永無に淵源を持つことが、もはや自明であろう。
おそらく、阿部知二の名が文壇の片隅に出てきたころ、三明永無は川端康成に、「阿部知二の父親は僕の杵築中学の恩師で、兄・公平は僕と杵築中学で同期だったんだ」と告げたことであろう。
親友のこの一言によって、川端康成は阿部知二に並々ならぬ関心と好意を寄せ、それが文芸時評や『文学界』、さらに戦後の国際ペンクラブ・エジンバラ大会派遣という好意につながったと私は考えるのである。
(注1)引野律子「続・知二と遥堪と私」(阿部知二研究会第22回知二忌発表資料 2014年4月20日、於 姫路文学館)
(注2)引野道生「明窓」(『山陰中央新報』、2014・7・29)
この他にも、この稿を書くにあたり、引野律子氏より、多くのご教示をいただいた。記して謝意を表したい。
写真1
大正10年(1921)10月9日、婚約の翌日に瀬古写真館で撮影された、岐阜市における記念写真(左より川端康成、伊藤初代、三明永無)。島根県瑞泉寺・三明慶輝氏ご提供による。
">(『阿部知二研究』第23号。2016・4・23)
川端康成と阿部知二と岡本かの子と――三明永無(みあけ・えいむ)を接点に――
1 川端康成の好意
川端康成と阿部知二の間には深い関わりがある。とりわけ川端康成から阿部知二にかけた好意の跡がいちじるしいことは、多くの読者が知っていることであろう。
まず、川端康成や小林秀雄たちが昭和8年に始めた同人雑誌『文学界』 に昭和10年、同人として阿部知二を招き入れたこと。そしてその翌年、1月号から10月号まで、その誌上に「冬の宿」掲載の機会を与え、さらに第10回『文学界賞』授賞に際して「道は晴れてあり」の讃辞を送ったこと。この「冬の宿」の成功によって、知二がいわば国民作家として広い読者層をもつ作家に成長したことは、繰り返すまでもない。
ちなみに、このとき同誌(昭11・11月号)に寄せた川端康成の「選評」を、37巻本第四次川端康成全集第34巻から抜き出しておこう。
第10回 阿部知二「冬の宿」
道は晴れてあり
新年以来連載10ヶ月の「冬の宿」は完結した。同人に精
励の範を垂れたばかりでなく、感興自から溢れてみごとな
長篇をなし、作者自身にも恐らく豁然たる思ひあらしめ、
冬の宿よさらば、道は晴れてあり、ここに1票を投ず。他
に保田君の「日本の橋」にも投票したいが。
この文学界賞選定に川端康成の影響力が強いことは、その第2回に北条民雄「いのちの初夜」を授賞していることからも明らかであろう。
また昭和25(1950)年、第2次大戦後初めて、国際ペンクラブに日本が招待されて英国エジンバラで大会が開催された際、日本ペンクラブ会長であり、このペンクラブ参加に激しい情熱を見せていた川端康成が、日本代表として、阿部知二と北村喜八を選び、送り出した事実も忘れがたい。
演劇人であり、ヨーロッパにおける文芸理論に精通した北村喜八は、一高、東大時代から川端の日記にしばしば登場する旧友であり、康成の盟友であったから当然として、英語に堪能であるとはいえ、なぜ多くの作家・詩人の中から、あえて阿部知二に白羽の矢を立てたのか。
それは知二に寄せる、川端の深い好意を抜きにしては考えられないのである。
川端が知二に示した好意は、これら2つだけではない。昭和初年、文芸時評を連載して評論家としても強い影響力を持っていた川端は、さまざまな形で阿部知二の名前を出して、その文壇登場を応援していたのである。
上記全集第30巻に掲載されている、昭和初期の文芸時評を概観すると、川端がいかに無名時代の阿部知二に注目し、応援していたかが読み取れる。もっとも、身びいきのために、力のない作品を推奨するようなことはしていない。
知二が、当時の有望な新人作家を網羅した雑誌『文藝都市』 に参加したのは昭和3年からであるが、川端がこの雑誌で最初に注目したのは、井伏鱒二であった。早くも昭和4年の「文藝時評」(2―3月)では、「君の愛読する作家は? と問はれるなら、私は言下に答へるであらう。井伏鱒二と。」と書き初めて、井伏の「谷間」(1月~3月号)、「朽助のゐる谷間」(3月号)を挙げ、絶賛している。まだこの時期の知二作品は、川端には未熟と映ったのであろう。
阿部知二の名が初めて登場するのは、『新文藝日記』昭和5年版(昭4・11・12、新潮社)の「小説界の1年」という文章においてである。「新人では、中本たか子氏が、野心的な作品を続々発表した。それから井伏鱒二氏の古い新しさ、久野豊彦氏、堀辰雄氏の新しい新しさは、最も注目すべきであつた。その他、阿部知二氏、(中略)丹羽文雄氏、深田久弥氏、(中略)今日出海氏、(中略)吉行エイスケ氏、(以下略)。」
昭和4年に知二は、「或青年の手記―美しい跛足の女」、「森林―或青年の手記」などを『文藝都市』 に発表していたのだが、川端の目には、「その他」の筆頭としてしか、映らなかったのであろう。
しかし、昭和5年になると、事情は変わる。「新人才華(昭和5年5月)」(昭5・6、『新潮』)において、その最後に「その他」として「その他、私はこの月評のために、5月の雑誌は殆ど皆読んだ。そして、次の3作を選び出した。村山知義氏「日清戦後」(中央公論)/橋本英吉氏「メキシコ共和国の滅亡」(中央公論)/阿部知二氏「白い士官」」
同月の「新興芸術派の作品(昭和5年5月)」(『文学時代』昭5・6)には、以下のような文言が見られる。
「新興芸術派の代表作といはれるやうなものを発表してゐるのは、龍膽寺君位しかないが、短いもので、僕の非常にいい作品と思ふものを挙げるなら――/阿部知二君の最近の作品「すちいる・べいす」、「シネマの黒人」、「恋とアフリカ」、堀辰雄君の「眠つてゐる男」「ルウベンスの偽画」、(中略)井伏君の「朽助のゐる谷間」「シグレ島敍景」等。」
ここにおいて、阿部知二は新人作家として、ようやく川端康成に認知されたようだ。著名な時評家によって、その名前や作品名を記されることが、そのまま文壇登場につながったことは、康成自身の「招魂祭一景」を想起するまでもなく、明らかなことだった。
つづく「文壇散景(昭和5年6月)」(『読売新聞』昭5・6・12~14、『読売新聞』)では、「近代派」と小題がついて、「私の考へによると、ほんたうに近代派らしい作家は、阿部知二氏や吉行エイスケ氏なんかではないだらうか。その阿部氏すら一脈の――いや多分に近代派作家らしからぬものを持つてゐる。」と評されている。
さらに「創作界の一年(昭和5年12月)」(『昭和6年新文藝日記』昭5・11・13、新潮社)では、「阿部知二氏は「日独対抗競技」(新潮1月号)、「白い士官」(新潮5月号)その他で、近代的な理知の明朗で構成的な作風を、はつきり印象づけた。」と結論づけている。
加えて康成は「昭和5年の芸術派作家及び作品」(『新潮』昭5・12)において、「昭和5年中に、傑作または力作を書いた作家、数多くの作品を書いた作家、つまり働いた作家は――」として、その一人に阿部知二を挙げている。「新興芸術派の作家達には、実に無数の小さい作品がある。(中略)しかも、目星いものが非常に少い。傑れたものを拾い出してみると」として「阿部知二氏「日独対抗競技」(新潮一月号)、「白い士官」(新潮五月号)」を抜き出している。
阿部知二は、昭和5年に「新進作家の地位を確立した」と、これまでの年譜に描かれているとおり、川端康成の時評によっても、その確立ぶりが伺える。言い換えると、知二の文壇登場に、川端康成は十分な役割を果たしているのである。
その後も康成の知二に対する関心はつづき、『新潮』昭和6年8月号に発表された「航海」についても、次のような述懐を寄せている。
阿部氏の「航海」は、苦しんだ知識の所産であると思は
れる。近頃の文壇に移入された心理学を頭に備へつけて、
しかもそれを抑へつけることに、作者の多分の努力が払は
れてゐる。これは知識人らしい身だしなみであらうが、読
者はそのために、作者の懐疑の匂ひを感じてしまふ。人物
の生彩が伸び上らうとしては頭を切られる所以であらう。
同年9月の「高原」(『文藝春秋』)についても、康成は評言を寄せた。
このような川端康成の評価は、疑いなく、知二を文壇へ登壇させ、さらには一人前の作家として自立させる役割を果たしたはずである。
それは一方では、時評家としての康成の見識によるものであったが、同時に、阿部知二にたいする温かい好意が、その底にあると感じられるのである。
それは、どこから生じたのであろうか。
2 三明永無の存在
川端康成初期の一大事件であった、大正10(1921)年秋の岐阜における、伊藤初代との婚約および破約事件――。これは、連作の中心となった作品名によって「非常」事件と呼ぶべきものだ。その経緯については、私の『魔界の住人・川端康成―その生涯と文学―』(2014・9・30、勉誠出版)上巻に詳しく描いたので、ここでは割愛するが、、この恋愛事件において月下氷人として活躍したのが三明(みあけ)永無(えいむ)であった。
三明永無の役割と、その演じた重要性については、康成自身、第一次川端康成全集の「あとがき」(のち「独影自命」として、まとめられた)に、次のように書いている。
「霰(あられ)」の友人は石濱(注・金作)君である。
「篝火(かがりび)」の朝倉、「非常」の柴田、「南方の火」の友人
は、「明日の約束」の片桐とも同一人で、今は最早三十年
近く昔のことだから明してもいいだらうが、E・M君であ
る。「明日の約束」のはじめにもある通り、ずゐぶん私の
世話を焼いてくれた。(2ノ6)
ここに告白されたE・M君こそ、三明永無(みあけ・えいむ)である。
今から48年前、すなわち昭和43(1968)年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した年から川端文学の研究に入った私は、川嶋至 『川端康成の文学』(1969、講談社)や長谷川泉編『川端康成作品研究』(1968、八木書店)などによって、三明永無の名はよく知っていたが、その正体や出自については、まったく知らないままだった。
ところが今から20十数年前、偶然に、意外なところで三明永無の名前に遭遇し、その出自の一端を知ったのだった。
あれは、姫路文学館で『抒情と行動―昭和の作家 阿部知二展』が大々的に開催された年だったから、今から23年前の1993年の初夏のことだった。
9月から開かれる展覧会の準備にあたり、この展覧会を責任担当する阿部知二担当の学芸員・甲斐史子さんが、提供してもらう資料を確認するため、島根県の、出雲大社のほとりにある島根県立大社高校を訪問するという。ちょうどそのころ、阿部知二の評伝を書こうと、同人雑誌『文芸日女道』に「阿部知二への旅 評伝のための基礎ノート』を連載しはじめていた私には、それは絶好の機会だった。
ぜひ同行させてください、と私は甲斐さんにお願いした。
大社高校の前身は、旧制杵築(きづき)中学である。この学校こそ、文部省検定試験(通称・文検 〈もんけん〉)によって中学教師の資格を得た、知二の父・阿部良平が、米子中学に1年勤めた後、日露戦争の戦端が開かれたばかりの明治37年4月から大正2年までの九年間、赴任し、博物の教師として勤務した学校である。
次男であった知二(明治36年6月生まれ)も、満1歳足らずの年から米子より島根県簸川(ひかわ)郡に移り、初めは杵築町の町はずれの遥堪村菱根(ようかんむら・ひしね)に住み、やがて明治42年9月から父が杵築中学の舎監になったので、翌43年の9月から、知二たち家族も中学敷地内の舎監官舎に住む。
つまり知二と、その父親良平の生涯にとって、杵築は生涯の重要な町であり、杵築中学はおそらく、良平の教師生活の痕跡を大量に残す資料の宝庫であるに違いないのだ。
季節は初夏であった。前日、別々の行程で松江に着いた甲斐さんと私は大社高校門前で落ち合い、その歴史の長さをしのばせる典雅な同窓会館(現・いなさ館)に招き入れられて、甲斐さんは膨大な資料から展覧会に出品したいものを探し出していた。
私は同校の校友会雑誌 『七生』 のバック・ナンバーを閲覧させていただいた。この誌名は、楠木正成の「七生報国」から採用されたものであろう。この学校の、古い歴史を感じさせる。
そして果たして、明治40年4月刊行の『七生』第14号に、父阿部良平の「平年の話」というエッセイが発表されていたのである。今日でいう、生態系のバランスが大切だ、といった趣旨の文章であった。
他の号にも良平の文章がないかと、さらに頁を繰って、別の号を見ていたとき、私は思いがけぬ人の名を発見したのである。
三明永無の、名前と文章であった。
それは大正3年3月15日刊行の『七生』第23号で、そこに3年生・三明永無の「意志の論」という文章が掲載されていたのである。
「重荷を負うて遠きに行かむには、意志の力に俟たざるべからず。百折撓まず千挫屈せずして、己の初志を遂げむにも亦、意志の力に由らざるべからず。」と始まる、勇ましい漢語調の文章であった。
「あっ、三明永無は、杵築中学の生徒だったのか!」と、私は驚いた。川端康成の研究で、三明永無の名は私に近しいものだった。だが、一高で川端康成の同級生であったという事実(川端は大正6年、一高に入学している)以外、私はほとんど何も、彼についての知識を持ち合わせていなかったのである。
しかし、三明永無が大正3年において杵築中学の生徒であること、従って恐らく、この近辺に彼の故郷があることは確かであった。
……それから20年余り、この事実は私の胸底に深く蔵されたまま、それを明かす機会がなかった。
だが、思いがけない契機が、三明永無の出身地を明かし、その生涯のあらましを知る機会を与えてくれたのである。
一昨年(2014年)夏のことだった。私はその9月、前述の川端康成の著書を刊行する直前で、意気大いに上がっていた。また、その著書を仕上げる半年前に知遇を得た畏友・水原園博(そのひろ)氏との交友に熱中していた。水原氏は、公益財団法人・川端康成記念会の理事、東京事務所代表、という肩書きを持っている。といえば堅苦しい人物を想像されようが、近年「川端康成と東山魁夷展」を全国の各都市で開催している、その企画と実施を担っている、豪放かつ繊細な人物だ。
私は自分の本の口絵に、川端康成記念会が所蔵している数々の名品や写真を掲載させていただきたいと願った。幸い、理事長である川端香男里先生のお許しをいただいて、自由に撮影してよい、との許可を得た。とりわけ私が掲載を渇望したのは、川端康成が戦中から戦後にかけて耽読した、源氏物語湖月抄であった。
江戸時代、元禄の少し前の延宝年間、北村季吟(きたむら・きぎん)によって執筆され、木版で印刷されて全国に普及した、源氏物語の本文と注釈書全60巻だ。54巻に、年立て(源氏物語の年譜)などが付されて60巻あるという。
以前、展覧会でガラスケースの外から見たことはあったが、川端康成が精読した、その本物の写真を私の著書に載せたかった。川端が湖月抄から受けた影響について、私はその書において詳細に描いていたからである。湖月抄は、川端研究に必須の重要資料であった。
しかし、写真の素人である私には、上手に撮影する技術がない。そのとき、川端康成学会の仲間である平山三男さんが、水原さんを紹介してくださったのだった。
水原さんは、写真専門誌の表紙を飾ったこともあるほどの、撮影のプロである。また、川端康成について、繊細かつ男性的なエッセイを数多く書いてきた人だった。水原園博氏撮影になる湖月抄など数々の秘宝を自著に掲載できたことは、実にありがたかった。
さて、その夏7月、水原さんと電話で話していると、「来年の3月、松江で『川端康成と東山魁夷(かいい)展』を開催するよ」と水原さんが口にしたのである。島根県……と耳にした途端、私の胸に三明永無の存在が浮かんだ。
「それなら、地元の『山陰中央新報』に連絡して、三明永無の故郷を調べ出してもらうと、展覧会の話題づくりになるよ」と私は言った。というのも、その1ヶ月前、2014年7月9日、川端康成の、伊藤初代に宛てた未投函書簡が発表され、この若き日の恋愛と、その折り、岐阜で撮影された記念写真がNHKや全国の各新聞紙上に大々的に紹介されて、全国的に話題となっていたからである。その直後、静岡市、岡山市で開催された『川端康成と東山魁夷展』でも、岐阜の写真と、伊藤初代からの10通の手紙は展示されて、大きな反響を呼んでいた。
その婚約事件の中心的役割を果たした三明永無(みあけ・えいむ)が、これまでは影の存在であった。しかし、おそらく三明永無の故郷である島根県で開催される以上、三明永無の出身地が具体的に解明されれば、話題は沸騰するであろう……。
水原さんは行動が早い。ただちに、島根・鳥取両県をエリアとする『山陰中央新報』に連絡した。するとたちまち、文化部の石川麻衣記者に、その解明・探索が委ねられたのである。
石川記者は事情を知るため、水原さんに連絡をとった。すると水原さんは、姫路に、三明永無や伊藤初代に詳しい、川端文学の専門家がいますよと、私を紹介してくださったのである。
一方、石川麻衣記者は、たちどころに、三明永無の出身は、大田市温泉津(ゆのつ)町西田の瑞泉寺(ずいせんじ)である、と探り出し、瑞泉寺に連絡をとった。
石川記者は、探索を委ねられると、すぐ『島根県歴史人物事典』を開いた。そこには、「自謙(じけん)」という傑出した僧侶の名が出ていた。そこに、自謙は大田市温泉津の「三明山瑞泉寺(さんみょうざん・ずいせんじ)」の僧であると記されていたのである。
石川記者は、この「三明山(さんみょうざん)」が「三明(みあけ)」という珍しい姓を連想させるところから、瑞泉寺と三明永無に深い関わりがあるのではないかと推理した。
きっと永無と親戚関係にある人物であろうと見当をつけ、その自謙の出自たる寺院・瑞泉寺の電話番号を調べ、電話をかけた。
現住職の三明慶輝(みあけ・けいき)氏が電話口に出られた。慶輝氏はかねがね、大叔父(祖父・三明得玄の弟)に当たる永無が川端康成や、岡本一平・かの子夫妻と関わりがあったということを聞き知っており、それにも関わらず、世間が三明永無という存在を忘れ去っていることを残念に思っていた。だから電話を受けると、三明永無が間違いなく瑞泉寺の出身であること、その遺品も多く残っていることを告げた。石川記者が「伺ってもいいですか?」と尋ねると、「どうぞ、ぜひおいでください」と快諾した。
ご住職は、幼時、永無と顔を合わせたことがあった。この偉大な大叔父の強烈な印象が残っている。川端康成や岡本かの子と深い交流のあったことも耳にし、実際に、それを裏づける幾枚もの写真や色紙も眼にしていた。だがこれまで、三明永無の存在は、世の注目を浴びることがなかったのである。
永無は晩年を故郷に近い、島根県浜田市で過ごし、そこで亡くなった。しかし墓は故郷の瑞泉寺にあり、また遺品の数々も、瑞泉寺で大切に保管されていた。
その遺品の中には、あの岐阜の、三人の記念写真もあったのだ。石川記者は目ざとく、この写真を見つけ、これこそ先日、全国各紙に流された写真の原本だと直感した。
石川記者は、その写真も撮影し、発表する許しも得た。
さて、その三明永無の出身地について記事にするためには、川端康成をめぐる三人の関係などを十分に知りたい。石川記者は水原さんに電話で相談し、紹介されて、姫路に住む私に電話をかけてこられた。
川端康成と三明永無との関係について詳しく教えてほしい、ついては姫路まで伺ってもいいか、というものであった。もちろん私は快諾した。
石川記者は、出張の許可を得て、松江から伯備線特急と新幹線を乗り継いで、岡山経由で姫路に来てくださった。
姫路駅の中央改札口で落ち合うと、20代の、瞳の澄んだ美しいひとであった。私は行きつけの喫茶店パルチザンへ招待して、そこで3時間たっぷり、若き日の川端康成の恋と、三明永無の役割について講義させていただいたのである。
まもなく石川麻衣記者は、岐阜の記念写真と、それにまつわる詳しい記事を『山陰中央新報』朝刊に、3度にわたって発表した。
すなわち第1報は、2014年7月23日、「川端康成と伊藤初代の恋 三明永無(大田市出身)が仲取り持つ」、第2報は文化欄に「3人の写真現存 唯一の原本を確認」(7月27日)として掲載された。これは、『山陰中央新報』の石川記者たちと、東京から遙々訪れた水原園博氏が同行して、温泉津町の瑞泉寺を訪問して確認した報告である。三明永無の遺品にあった、岐阜の3人の記念写真とともに、これも遺品の中にあった三明永無の結婚式の記念写真も掲載された。これは岡本一平・かの子夫妻が媒酌人として永無夫妻の両側に席を占め、背後には川端康成や石濱金作も写っている、貴重なものである。
そして第3報は、「川端康成の初恋と三明永無」(2014・8・2)と題したもので、川端と伊藤初代の恋と、結婚の約束において三明永無の果たした役割を、具体的に解説した内容であった。この記事には、かの子の短歌に、一平がかの子の似顔絵を描き加えた、美しい色紙が添えられていた。
これらの記事には、岐阜の記念写真の原本に加え、岡本一平の描いた三明永無の肖像画も載せられていたから、島根県ばかりでなく、全国的にも、大変なスクープとなった。
7月9日に川端康成の未投函書簡が大々的に発表されてから、まだ1ヶ月も経っていない時点だ。全国に、その余韻が残っていた。地元の島根県でも、あの写真に関わりの深い人物が大田市温泉津の出身であったと知られて、大いに話題を集めた。『山陰中央新報』に、読者から、いくつも電話がかかった。投書も寄せられた。瑞泉寺にも、電話がひっきりなしにかかったという。
そればかりか、未投函書簡の続編という意味もあったから、共同通信系列の全国の新聞も、他の新聞も、いっせいに後追いの記事と岐阜記念写真を載せて、注目した。
3 岐阜記念写真
ところで、三明永無の遺品の中にあった、この写真は、いわくつきの、格別な意味を持つものであった。
この写真は、前述のごとく、その93年前の大正10年(1921年)10月9日、すなわち康成と伊藤初代の結婚の約束ができた翌日、岐阜市の裁判所前にある瀬古写真館で撮影されたものであったが、長い転変の間に、康成も、初代も、この写真を失ってしまっていた。
昭和47年(1972年)4月16日に康成が自裁すると、その秋、日本近代文学館が主催して、『川端康成展―その芸術と生涯―』が東京・新宿伊勢丹(9月27日~10月8日)を皮切りに、全国11都市を巡回して開催された。
このとき、準備にあたった一人に長谷川泉がいた。当時の川端研究の第一人者であった長谷川は、すでに三明永無と接触し、旧知の間柄であったところから、三明に、この記念写真を貸してほしい、展示したいから、と依頼した。三人が一葉ずつ持っていた写真だが、康成、伊藤初代は長い歳月の流れの間にこの写真を失ってしまい、三明永無だけが、所持していたのである。最後の1枚だった。
三明永無はこの写真を長谷川に貸したが、展示は、思わぬ反対が出て、実現されなかった。つまり康成の秀子未亡人が、展示することに同意しなかったのである。
康成と結婚したころ、康成の心に伊藤初代が生きつづけていることに苦しまされ、その心の傷が残っていたので、康成の死後にまで、伊藤初代が重視されることに耐えられなかったのであろう。
そこで長谷川はこの展覧会に展示することは断念した。しかし写真の複製を2、3葉つくり、みずからの文章に発表するとともに(「『南方の火』の写真」(『向陵』一高同窓会、昭47・11・15)、岐阜市の、川端文学研究家(川端の岐阜訪問と婚約の経緯を調査していた)島秋夫に1枚を贈呈した。また、財団法人・川端康成記念会にも、この複製を、本来川端家が所持しているべきものとして、返却した。(これらがその後、さらにあちこちで複製されて、現在、日本近代文学館や各新聞社が所蔵するところとなっているのだ。)
つまり、これまで公表されてきた岐阜の記念写真は、いずれも、長谷川泉が三明永無から借り出した写真を原本とするものであった。その後、果たして長谷川泉が三明永無に確かにこの写真を返却したのかどうかは、40数年間、杳(よう)としてわからなかった。
だが今回、瑞泉寺の三明慶輝住職が石川記者に見せた永無遺品の中に、セピア色に化した、この記念写真があることに、石川麻衣記者は気づいた。そしてこれを『山陰中央新報』の記事の中に掲載した。
今回新たに発見された写真は、セピア色に変色し、また、3人の肖像の近くに、白い大きなシミがいくつかあったけれど、まさしく、この原本が生きつづけてきたことを証明していたのである。長谷川泉が三明永無に写真を返却していたことも、ここで確認されたわけである。また三明永無が生涯を通じて、この写真を大切に蔵していたことも判明した。
私は、瑞泉寺の三明慶輝ご住職と石川記者から、この写真を使用してもよい、との許可を得たので、私の著書上巻の表紙に使わせていただいた。私はあえて、世に普及している、修正された版ではなく、白いシミが幾つも残る、三明永無の遺品である、この本物の写真を使用させていただいたのだ。
それほどにこの写真原本は、大正10年(1921年)から平成26年(2014年)まで、94年の歴史を生き延びた、特筆すべき写真であったのだ。
4 三明永無と岡本一平・かの子
さて、こうして松江市で開催された『川端康成と東山魁夷展』を機に、三明永無の存在は世に蘇(よみがえ)り、川端康成との関わりも、伊藤初代との初恋事件をもとに世間に知られることとなったのだが、三明永無の役割は、これだけに止まるものではなかった。
石川記者は、三明永無の遺品の中に、岡本一平、かの子夫妻との関わり深い写真や絵画を見つけて、これも意外に思って、紙面に紹介した。
1つは、岡本一平が若き日の三明永無を描いた、やや戯画調の肖像画であったが、今1つは、三明永無の結婚式披露宴に、岡本夫妻が媒酌人として中央に座っている写真であった。これは、岐阜事件の3年後の大正13年12月、三明永無が東京の帝大仏教青年会館で挙式した披露宴の際に撮影されたものである。この写真には、川端康成も参列者の1人として写っている。
三明慶輝住職は、永無と岡本夫妻との関わりが深いことも知っておられたが、なぜこのような交流があったか、という次第は、はっきりとはご存知なかったという。
ところが、川端康成と阿部知二と岡本かの子とを結ぶ強力な1本の線について、その謎が一気に解ける鍵――1つの情報――が、松江から手に入ったのである。
4 杵築(きづき)中学校の同級生
かねがね、阿部知二と、彼が幼少期九年間を過ごした出雲(すなわち島根県)との関係を調査し研究をつづけている引野律子氏と、私は面識があった。阿部知二研究の仲間として、引野氏はいつも私に貴重な情報を知らせてくださった。引野氏は現在、松江市に住んでおられる。
出雲で知二が最初に住んだのが遥堪村(ようかんむら)であったところから、遥堪村に生まれ、遥堪小学校時代に阿部知二の講演を聴いたことのある引野さんは、阿部知二と島根県との関わりについて、熱心に調査をつづけてきた。そしていくつかの論考を『阿部知二研究』に掲載すると同時に、私とメールの交流をつづけていた。
あるとき、もう10年ほど前であったか、引野さんがメールで重要な情報をくださった。
それは、「阿部知二が後年、少なくとも8度、島根県を訪れているのは、島根県の恒松安夫(つねまつ・やすお)知事との関係からである。そして知二と恒松知事との知遇は、知二の兄・公平が、恒松と、杵築中学で同級生だったから生じた」という内容であった。
ちなみに、恒松安夫は杵築中学から慶應義塾大学に進み、卒業後は慶応の教授になった。戦後、島根県知事にかつぎ出され、昭和26年から34年まで2期8年間、知事をつとめている。その知事時代、招待されて知二は何度も島根県を訪れている。
公平は知二より5歳年長の、明治31年生まれである。そして明治44年、杵築中学に入学し、2年間在学したが、父・良平が大正2年3月末、兵庫県の姫路中学に転勤したので、それにともなって一家は姫路に移り、公平は杵築中学から姫路中学3年に転入したのである。
公平は広島高等師範学校に進んだが、姫路高等女学校教諭であった大正12年、25歳の若さで結核により姫路市坊主町の自宅で死去した。
しかし公平は弟知二に、またとない贈り物を残してくれたのである。杵築中学で、公平の同期であった人々との人脈である。
公平は2年だけで姫路中学へ転入したから杵築中学を卒業してはいないが、第15期生、大正5年3月卒業の人たちと同期であった。2年間、教室を共にした親しい顔見知りだったのである。
それが三明永無、恒松安夫たちである。しかも、永無も恒松も生家が杵築中学から遠いため、寄宿生であった。つまり、舎監をしていた、人望の篤かった良平のもとにあり、かつ良平の官舎は、寄宿舎と同じ敷地内にあったから、三明永無、恒松安夫と阿部公平は、一つ屋根の下で過ごしたといっても過言ではない。5歳年下の知二の顔を見知っていた可能性もある。
ところで、岡本かの子の愛読者や研究者なら、恒松安夫の名はよくご存知だろう。大正6年、慶応義塾に進学した恒松は、兄源吉もそうだったことから岡本家に寄宿し、ついにはその家計全般を任されるようになったのである。
この事実は、諸年譜にも記載されており、また岩崎呉夫『芸術餓鬼 岡本かの子伝』(七曜社、昭38・12・10) にも瀬戸内寂聴 『かの子繚乱』(講談社、昭40・4)にも詳しく記されている。
恒松は岡本夫妻から深い信頼を寄せられ、関東大震災の直後も、第二次大戦中も、一家は、恒松家の世話で島根県に一時、身を寄せている。また昭和4年から昭和7年にかけての、岡本一平、かの子、太郎の洋行の際にも、恒松は同行したほどだ。
このように恒松安夫は、岡本家と深い関わりがあった。(岡本家と恒松家との関わりは、前記引野律子氏の発表資料(注1)によれば、源吉・安夫の祖父で衆議院議員であった恒松慶隆と、かの子の父・大貫寅吉(おおぬき・とらきち)が親しかったことから生じたという。)
さて、岡本かの子年譜に、突然、三明永無の名が現れて、かの子の評伝家を悩ませているのも、この杵築中学を基点とする事実を知っていれば、何でもなく解決できるのだ。
そう、杵築中学時代に親密であった三明永無と恒松安夫は、上京後も、頻繁に交際した。外交的で明朗であった三明永無は、恒松が岡本家に寄宿すると、すぐに訪問したであろう。そして岡本夫妻とも親密になった。
この事実を知らなかった岩崎呉夫は、前述の著『芸術餓鬼 岡本かの子伝』において、「三明永無は、かねてよりかの子のファンであったところから交際を求め……」など、想像を巡らせて苦しい創作をしているが、前述の恒松と三明との関係を知っていれば、別段、難しいことを考える必要はないのだ。
さらに、川端康成と岡本かの子の関わりについても、以上のいきさつを知っていれば、三明永無が両者を仲介したことは、容易に了解される。
歌人としてはすでに有名であったが、小説家になることを切望したかの子を、康成が、まだまったく小説らしきものを書けなかった時代から辛抱づよく指導したことも、よく知られた事実だ。
川端康成がようやく合格点をつけて、自分たちの雑誌『文学界』に掲載した、芥川龍之介の晩年を描いた「鶴は病みき」(昭和11、6)によって、かの子が作家として鮮やかなデビューを果たしたのも偶然ではない。恒松を訪ねて岡本家をしばしば訪れ、夫妻とすでに面識のあった三明永無が、かの子を川端に紹介したと解すれば、接点の謎は簡単に解けるのだ。
実際、三明永無は後年、長谷川泉に慫慂されて書いたエッセイ「川端康成の思い出」(長谷川泉編著『川端康成作品研究』昭和44・3・1、八木書店) において、以下のように述べている。
岡本かの子はその頃青山にいて、同宿の恒松安夫(後の
島根県知事)が私の中学の同窓であるという関係から、よ
く出入りしていたが、新思潮で評判のよくなった川端に会
いたいというので私が紹介して銀座のモナミというレスト
ランへ川端を伴い岡本一平、かの子、恒松安夫等に会わせ
た。
「岡本かの子年譜」(『岡本かの子全集』第12巻、ちくま文庫、1994・7・21)には、かの子が川端康成の知遇を得たのは大正8年(1919)とある。しかし、これは、おかしい。川端康成らが第六次『新思潮』を発刊し、「招魂祭一景」で名が出たのは、大正10年だからである。三明永無が書いているように、「新思潮で評判になった川端に会いたい」と言ったのは、大正10年でなければならない。
大正5年3月に杵築中学を首席で卒業した三明永無は翌大正6年、一高文科に入学し、寄宿舎の東寮3番で康成と同室になった。翌年も南寮4番で同室になり、石濱金作、鈴木彦次郎を加えた4人で、伊藤初代のいるカフェ・エランにも通ったのである。
三明永無のこの文章には、もちろん岐阜行のことも出てくるが、ここでは割愛しよう。
もう1つ、岡本かの子年譜を見ると、大正11年ごろ、かの子が高楠順次郎の教えを受けた、とあるが、これも、三明永無の存在抜きには考えられない。というのは、一高文科から東京帝国大学文学部印度哲学科に進んだ永無は、みずから、前期の文章に「大正大蔵経の編纂、校訂にあたり」と書いているように、高楠教授の指導のもと、この編纂校訂作業に従事していたのである。そのころ、仏教を必死で研究していた、かの子を、高楠教授に紹介したことが、容易に推察できるのだ。
ちなみに、三明慶輝住職のまとめた「三明永無略年譜」には、生涯の師として、高楠順次郎が挙げられている。(高楠は昭和19年に文化勲章を受章している。また、現・武蔵野大学(前身は千代田学園、のち武蔵野女子大学)を創設し、みずから校長にも就任している。
三明永無がハワイから帰国後、この学校に奉職した履歴を持つのも、高楠との師弟関係によるものであろう。
5 三明永無の生涯
ここで、瑞泉寺第19世住職である三明慶輝氏のまとめられた資料をもとに、三明永無の生涯の概略を述べておこう。
初めに、A4用紙一枚にまとめられた「三明永無 略歴」を、そのままに写す。
三明永無 略歴
誕生 明治29年(1896)6月8日生れ
瑞泉寺第16世住職 得玄・ミチの次男
同上17世住職 謙譲の弟
学歴 湯里村西田尋常小学校卒業 明治40年3月 10歳
湯里村湯里高等小学校卒業 明治44年3月 14歳
島根県立杵築中学校卒業 大正5年3月 19歳
第一高等学校卒業 大正9年3月 23歳
東京帝国大学文学部卒業 大正12年3月 26歳
職歴 昭和5年(1930)ハワイへ渡米 34歳
本願寺ハワイ別院付属ハワイ中学校で教鞭
昭和18年9月 第二次交換船(帝亜丸)にて帰国 47歳
宗門立千代田女子専門学校 千代田学園で教鞭
同上 武蔵野女子学園にて教鞭
昭和25年 ハワイ教団直属布教師として渡米 54歳
昭和33年同上開教本部賛事長 62歳
昭和36年 帰国 東京:代官山にて居住 65歳
家族 結婚 大正13年(1924)12月 28歳
津山利恵子(新潟県東頸城郡牧村 西念寺出身)
*子息 大蔵、次朗 *媒酌 岡本一平・かの子
再婚 昭和38年(1963) 67歳
原田寿恵(島根県大田市大家 浄土寺出身)
昭和47年 島根県浜田市へ移住 76歳
逝去 昭和54年(1979)1月11日 82歳
*院号法名 無明院釋永無
交友 杵築中学時代
恒松安夫(慶応大学教授;島根県知事)
一高時代
今東光(作家;中尊寺貫首)
一高・東大時代
川端康成(ノーベル賞作家)
恩師
高楠順次郎(東大インド哲学教授;『大正新修大蔵経』編纂)
*文責 三明慶輝 浄土真宗本願寺派三明山・瑞泉寺第19世住職
以下、平成8年11月25日に刊行された『瑞泉寺縁起史』を中心に、私の知見を多少加えて、瑞泉寺と三明永無について、若干の補足をしておきたい。
瑞泉寺は、鎌倉時代の末、嘉暦2年(1327)に真言宗として開基された、7百年の歴史を有する名刹である。開基からほぼ2百年後の天文9年(1540)、浄土真宗に改宗された。
天文年間といえば戦国時代の真っただ中、石見銀山の権益をめぐって、尼子、大内、毛利の戦国大名が激烈な争奪戦を繰り広げた時代であった。石見銀山から、海浜の温泉津(ゆのつ)に至る街道に面する瑞泉寺は、まさしく石見銀山の興亡とともに歴史を歩んできたといっても過言ではない。
今日においても、壮麗な山門、豪放な本堂などから、往時の殷賑(いんしん)ぶりを十分に想像できる、歴史を生き抜いてきた寺院だ。
だからこの瑞泉寺からは、歴代の名僧を輩出した。なかでも江戸後期の宝暦元年(1751)から幕末の弘化3年(1846)まで96年の長寿を保った、前述の自謙は、全国にその学識を謳われた傑僧で、本山の勧学に任ぜられて、石州学派の名を轟かせた。勧学の筆頭に任ぜられ、三業惑乱と呼ばれた法難の時代に、その卓越した学問によって、本山の秩序を護ったのである。
ちなみに、勧学とは、広辞苑によれば「浄土宗、浄土真宗の本願寺派・興正寺派における最高の学階」である。
また、幕末の嘉永6年(1853)に生まれた範嶺も、明治・大正を生き、やはり勧学に任ぜられ、大谷光瑞門主より篤い信頼を寄せられた。
このような才質を受け継いだためであろうか、三明永無も幼時から秀才ぶりを示した。遺品の中には、杵築中学卒業時における名簿がある。「島根県立杵築中学校第15回卒業生成績表」と題されたもので、全生徒の全科目の成績一覧表を兼ねている。その筆頭に、三明永無の名前と成績があるのだ。つまり首席である。「席次」が「1」と記されていることは、いうまでもない。抜群の成績である。志望校も書いてあり、「高等学校」と明記されている。(私も後日、瑞泉寺を訪問し、これらの遺品を閲覧させていただき、写真撮影もした。)
なお、永無が杵築中学を卒業したのは大正5年3月、川端康成が茨木中学を卒業したのは大正6年3月である。あるいは、さすがの三明永無も1浪して一高に入学したのかもしれない。
なお、永無の生年月日を見ると、明治29年6月だ。康成は明治32年6月だから、3歳違いである。康成の恋愛においても、同級生ではあっても世間を知らず、奥手であった康成を、3歳年長で、明朗闊達な永無が何かとリードし、応援した実相が見えてくるのである。
康成が前引の「あとがき」(2ノ6)において、「今は最早30年近く昔のことだから明してもいいだらうが、E・M君である。「明日の約束」のはじめにもある通り、ずゐぶん私の世話を焼いてくれた」と書いたとおり、兄貴分としての三明永無のはたらきがあってこそ、康成は伊藤初代との結婚の約束を取りつけることができたのだった。(1ヶ月後に、この約束は一方的に破棄されてしまったが……。)
なお、三明永無の生涯でもう1つ重要なことは、日系人の多いハワイにおいて教鞭をとり、あるいは布教師として活躍したにもかかわらず、太平洋戦争の勃発により、強制収容所に入れられ、第2次交換船で日本に帰国した、という事実である(注2)。三明慶輝氏によると、このとき永無は妻子と別れて帰国したそうだ。
前述の引野律子氏は、この事実を重視して、永無もまた戦争の犠牲者であったとして、その視点から三明永無の生涯を改めて見直そうとしておられる。
6 結語
以上述べてきたように、三明永無の杵築中学卒業という経歴から、その人脈によって、多くのゆたかな人間関係が生じてきたことは、明らかになった。
阿部知二と恒松安夫(つねまつ・やすお)の親交についても、前記引野律子資料には、興味深い事実が述べられている。『恒松安夫追悼録』(1965・5・15、新文名社)に、慶応普通部の教え子・大原胤政「教え子の追憶」の1文があり、その中に、次のような一節があるのだ。
恒松さんが野球部長になったのと、奥さんをもらったの
とどっちが早かったか思い出せない。野球部長になってか
ら、誰の発案か時折虎ノ門の晩翠軒(井上恒一さん)で、
戸川秋骨さん,奥野信太郎さん、和木清三郎さん、阿部知
二さん、それに私達(中略)なんかが何となく集まりをも
った。戸川先生を囲む会だったのか、野球部長を激励する
会だったのか、そこいらがはっきりしない。会は割合長く
続いた。私達が岡本かの子さんのお供をして、歩き廻った
のも此の頃である。
恒松が野球部長になったのは昭和8年だという。知二が文壇で旺盛な筆力を見せたころと重なっているが、この時期に知二が恒松安夫と親密な間柄にあった事実の背後に、三明永無の存在があったことは、否定する方に無理があろう。この時期、岡本かの子とも、大原胤政ら恒松の教え子たちの交流があったことによって、三明永無の存在がいっそう大きく浮上するのである。
とすれば、最初に述べた、阿部知二に寄せた川端康成の好意も、三明永無に淵源を持つことが、もはや自明であろう。
おそらく、阿部知二の名が文壇の片隅に出てきたころ、三明永無は川端康成に、「阿部知二の父親は僕の杵築中学の恩師で、兄・公平は僕と杵築中学で同期だったんだ」と告げたことであろう。
親友のこの一言によって、川端康成は阿部知二に並々ならぬ関心と好意を寄せ、それが文芸時評や『文学界』、さらに戦後の国際ペンクラブ・エジンバラ大会派遣という好意につながったと私は考えるのである。
(注1)引野律子「続・知二と遥堪と私」(阿部知二研究会第22回知二忌発表資料 2014年4月20日、於 姫路文学館)
(注2)引野道生「明窓」(『山陰中央新報』、2014・7・29)
この他にも、この稿を書くにあたり、引野律子氏より、多くのご教示をいただいた。記して謝意を表したい。
写真1
大正10年(1921)10月9日、婚約の翌日に瀬古写真館で撮影された、岐阜市における記念写真(左より川端康成、伊藤初代、三明永無)。島根県瑞泉寺・三明慶輝氏ご提供による。
">(『阿部知二研究』第23号。2016・4・23)