魔界の住人・川端康成  森本穫の部屋

森本穫の研究や評論・エッセイ・折々の感想などを発表してゆきます。川端康成、松本清張、宇野浩二、阿部知二、井伏鱒二。

三明永無(みあけ・えいむ)の役割 川端康成と阿部知二と岡本かの子と――三明永無を接点に――

2016-05-15 15:37:08 | 論文 川端康成
三明永無(みあけ・えいむ)の役割
川端康成と阿部知二と岡本かの子と――三明永無(みあけ・えいむ)を接点に――


   1 川端康成の好意

 川端康成と阿部知二の間には深い関わりがある。とりわけ川端康成から阿部知二にかけた好意の跡がいちじるしいことは、多くの読者が知っていることであろう。

 まず、川端康成や小林秀雄たちが昭和8年に始めた同人雑誌『文学界』 に昭和10年、同人として阿部知二を招き入れたこと。そしてその翌年、1月号から10月号まで、その誌上に「冬の宿」掲載の機会を与え、さらに第10回『文学界賞』授賞に際して「道は晴れてあり」の讃辞を送ったこと。この「冬の宿」の成功によって、知二がいわば国民作家として広い読者層をもつ作家に成長したことは、繰り返すまでもない。
 ちなみに、このとき同誌(昭11・11月号)に寄せた川端康成の「選評」を、37巻本第四次川端康成全集第34巻から抜き出しておこう。

   第10回            阿部知二「冬の宿」
   道は晴れてあり
   新年以来連載10ヶ月の「冬の宿」は完結した。同人に精
  励の範を垂れたばかりでなく、感興自から溢れてみごとな
  長篇をなし、作者自身にも恐らく豁然たる思ひあらしめ、
  冬の宿よさらば、道は晴れてあり、ここに1票を投ず。他
  に保田君の「日本の橋」にも投票したいが。

 この文学界賞選定に川端康成の影響力が強いことは、その第2回に北条民雄「いのちの初夜」を授賞していることからも明らかであろう。

 また昭和25(1950)年、第2次大戦後初めて、国際ペンクラブに日本が招待されて英国エジンバラで大会が開催された際、日本ペンクラブ会長であり、このペンクラブ参加に激しい情熱を見せていた川端康成が、日本代表として、阿部知二と北村喜八を選び、送り出した事実も忘れがたい。
 演劇人であり、ヨーロッパにおける文芸理論に精通した北村喜八は、一高、東大時代から川端の日記にしばしば登場する旧友であり、康成の盟友であったから当然として、英語に堪能であるとはいえ、なぜ多くの作家・詩人の中から、あえて阿部知二に白羽の矢を立てたのか。

 それは知二に寄せる、川端の深い好意を抜きにしては考えられないのである。
 川端が知二に示した好意は、これら2つだけではない。昭和初年、文芸時評を連載して評論家としても強い影響力を持っていた川端は、さまざまな形で阿部知二の名前を出して、その文壇登場を応援していたのである。
 上記全集第30巻に掲載されている、昭和初期の文芸時評を概観すると、川端がいかに無名時代の阿部知二に注目し、応援していたかが読み取れる。もっとも、身びいきのために、力のない作品を推奨するようなことはしていない。

 知二が、当時の有望な新人作家を網羅した雑誌『文藝都市』 に参加したのは昭和3年からであるが、川端がこの雑誌で最初に注目したのは、井伏鱒二であった。早くも昭和4年の「文藝時評」(2―3月)では、「君の愛読する作家は? と問はれるなら、私は言下に答へるであらう。井伏鱒二と。」と書き初めて、井伏の「谷間」(1月~3月号)、「朽助のゐる谷間」(3月号)を挙げ、絶賛している。まだこの時期の知二作品は、川端には未熟と映ったのであろう。

 阿部知二の名が初めて登場するのは、『新文藝日記』昭和5年版(昭4・11・12、新潮社)の「小説界の1年」という文章においてである。「新人では、中本たか子氏が、野心的な作品を続々発表した。それから井伏鱒二氏の古い新しさ、久野豊彦氏、堀辰雄氏の新しい新しさは、最も注目すべきであつた。その他、阿部知二氏、(中略)丹羽文雄氏、深田久弥氏、(中略)今日出海氏、(中略)吉行エイスケ氏、(以下略)。」
 昭和4年に知二は、「或青年の手記―美しい跛足の女」、「森林―或青年の手記」などを『文藝都市』 に発表していたのだが、川端の目には、「その他」の筆頭としてしか、映らなかったのであろう。

 しかし、昭和5年になると、事情は変わる。「新人才華(昭和5年5月)」(昭5・6、『新潮』)において、その最後に「その他」として「その他、私はこの月評のために、5月の雑誌は殆ど皆読んだ。そして、次の3作を選び出した。村山知義氏「日清戦後」(中央公論)/橋本英吉氏「メキシコ共和国の滅亡」(中央公論)/阿部知二氏「白い士官」」
 同月の「新興芸術派の作品(昭和5年5月)」(『文学時代』昭5・6)には、以下のような文言が見られる。

 「新興芸術派の代表作といはれるやうなものを発表してゐるのは、龍膽寺君位しかないが、短いもので、僕の非常にいい作品と思ふものを挙げるなら――/阿部知二君の最近の作品「すちいる・べいす」、「シネマの黒人」、「恋とアフリカ」、堀辰雄君の「眠つてゐる男」「ルウベンスの偽画」、(中略)井伏君の「朽助のゐる谷間」「シグレ島敍景」等。」

 ここにおいて、阿部知二は新人作家として、ようやく川端康成に認知されたようだ。著名な時評家によって、その名前や作品名を記されることが、そのまま文壇登場につながったことは、康成自身の「招魂祭一景」を想起するまでもなく、明らかなことだった。
 つづく「文壇散景(昭和5年6月)」(『読売新聞』昭5・6・12~14、『読売新聞』)では、「近代派」と小題がついて、「私の考へによると、ほんたうに近代派らしい作家は、阿部知二氏や吉行エイスケ氏なんかではないだらうか。その阿部氏すら一脈の――いや多分に近代派作家らしからぬものを持つてゐる。」と評されている。

 さらに「創作界の一年(昭和5年12月)」(『昭和6年新文藝日記』昭5・11・13、新潮社)では、「阿部知二氏は「日独対抗競技」(新潮1月号)、「白い士官」(新潮5月号)その他で、近代的な理知の明朗で構成的な作風を、はつきり印象づけた。」と結論づけている。
 加えて康成は「昭和5年の芸術派作家及び作品」(『新潮』昭5・12)において、「昭和5年中に、傑作または力作を書いた作家、数多くの作品を書いた作家、つまり働いた作家は――」として、その一人に阿部知二を挙げている。「新興芸術派の作家達には、実に無数の小さい作品がある。(中略)しかも、目星いものが非常に少い。傑れたものを拾い出してみると」として「阿部知二氏「日独対抗競技」(新潮一月号)、「白い士官」(新潮五月号)」を抜き出している。
 阿部知二は、昭和5年に「新進作家の地位を確立した」と、これまでの年譜に描かれているとおり、川端康成の時評によっても、その確立ぶりが伺える。言い換えると、知二の文壇登場に、川端康成は十分な役割を果たしているのである。
 その後も康成の知二に対する関心はつづき、『新潮』昭和6年8月号に発表された「航海」についても、次のような述懐を寄せている。

   阿部氏の「航海」は、苦しんだ知識の所産であると思は
  れる。近頃の文壇に移入された心理学を頭に備へつけて、
  しかもそれを抑へつけることに、作者の多分の努力が払は
  れてゐる。これは知識人らしい身だしなみであらうが、読
  者はそのために、作者の懐疑の匂ひを感じてしまふ。人物
  の生彩が伸び上らうとしては頭を切られる所以であらう。

 同年9月の「高原」(『文藝春秋』)についても、康成は評言を寄せた。
 このような川端康成の評価は、疑いなく、知二を文壇へ登壇させ、さらには一人前の作家として自立させる役割を果たしたはずである。
 それは一方では、時評家としての康成の見識によるものであったが、同時に、阿部知二にたいする温かい好意が、その底にあると感じられるのである。
 それは、どこから生じたのであろうか。


   2 三明永無の存在

 川端康成初期の一大事件であった、大正10(1921)年秋の岐阜における、伊藤初代との婚約および破約事件――。これは、連作の中心となった作品名によって「非常」事件と呼ぶべきものだ。その経緯については、私の『魔界の住人・川端康成―その生涯と文学―』(2014・9・30、勉誠出版)上巻に詳しく描いたので、ここでは割愛するが、、この恋愛事件において月下氷人として活躍したのが三明(みあけ)永無(えいむ)であった。

 三明永無の役割と、その演じた重要性については、康成自身、第一次川端康成全集の「あとがき」(のち「独影自命」として、まとめられた)に、次のように書いている。

   「霰(あられ)」の友人は石濱(注・金作)君である。
   「篝火(かがりび)」の朝倉、「非常」の柴田、「南方の火」の友人
  は、「明日の約束」の片桐とも同一人で、今は最早三十年
  近く昔のことだから明してもいいだらうが、E・M君であ
  る。「明日の約束」のはじめにもある通り、ずゐぶん私の
  世話を焼いてくれた。(2ノ6)

 ここに告白されたE・M君こそ、三明永無(みあけ・えいむ)である。

 今から48年前、すなわち昭和43(1968)年、川端康成がノーベル文学賞を受賞した年から川端文学の研究に入った私は、川嶋至 『川端康成の文学』(1969、講談社)や長谷川泉編『川端康成作品研究』(1968、八木書店)などによって、三明永無の名はよく知っていたが、その正体や出自については、まったく知らないままだった。
 ところが今から20十数年前、偶然に、意外なところで三明永無の名前に遭遇し、その出自の一端を知ったのだった。

 あれは、姫路文学館で『抒情と行動―昭和の作家 阿部知二展』が大々的に開催された年だったから、今から23年前の1993年の初夏のことだった。
 9月から開かれる展覧会の準備にあたり、この展覧会を責任担当する阿部知二担当の学芸員・甲斐史子さんが、提供してもらう資料を確認するため、島根県の、出雲大社のほとりにある島根県立大社高校を訪問するという。ちょうどそのころ、阿部知二の評伝を書こうと、同人雑誌『文芸日女道』に「阿部知二への旅 評伝のための基礎ノート』を連載しはじめていた私には、それは絶好の機会だった。
 ぜひ同行させてください、と私は甲斐さんにお願いした。
 大社高校の前身は、旧制杵築(きづき)中学である。この学校こそ、文部省検定試験(通称・文検 〈もんけん〉)によって中学教師の資格を得た、知二の父・阿部良平が、米子中学に1年勤めた後、日露戦争の戦端が開かれたばかりの明治37年4月から大正2年までの九年間、赴任し、博物の教師として勤務した学校である。

 次男であった知二(明治36年6月生まれ)も、満1歳足らずの年から米子より島根県簸川(ひかわ)郡に移り、初めは杵築町の町はずれの遥堪村菱根(ようかんむら・ひしね)に住み、やがて明治42年9月から父が杵築中学の舎監になったので、翌43年の9月から、知二たち家族も中学敷地内の舎監官舎に住む。
 つまり知二と、その父親良平の生涯にとって、杵築は生涯の重要な町であり、杵築中学はおそらく、良平の教師生活の痕跡を大量に残す資料の宝庫であるに違いないのだ。

 季節は初夏であった。前日、別々の行程で松江に着いた甲斐さんと私は大社高校門前で落ち合い、その歴史の長さをしのばせる典雅な同窓会館(現・いなさ館)に招き入れられて、甲斐さんは膨大な資料から展覧会に出品したいものを探し出していた。
 私は同校の校友会雑誌 『七生』 のバック・ナンバーを閲覧させていただいた。この誌名は、楠木正成の「七生報国」から採用されたものであろう。この学校の、古い歴史を感じさせる。
 そして果たして、明治40年4月刊行の『七生』第14号に、父阿部良平の「平年の話」というエッセイが発表されていたのである。今日でいう、生態系のバランスが大切だ、といった趣旨の文章であった。
 他の号にも良平の文章がないかと、さらに頁を繰って、別の号を見ていたとき、私は思いがけぬ人の名を発見したのである。
 三明永無の、名前と文章であった。

 それは大正3年3月15日刊行の『七生』第23号で、そこに3年生・三明永無の「意志の論」という文章が掲載されていたのである。

 「重荷を負うて遠きに行かむには、意志の力に俟たざるべからず。百折撓まず千挫屈せずして、己の初志を遂げむにも亦、意志の力に由らざるべからず。」と始まる、勇ましい漢語調の文章であった。

 「あっ、三明永無は、杵築中学の生徒だったのか!」と、私は驚いた。川端康成の研究で、三明永無の名は私に近しいものだった。だが、一高で川端康成の同級生であったという事実(川端は大正6年、一高に入学している)以外、私はほとんど何も、彼についての知識を持ち合わせていなかったのである。
 しかし、三明永無が大正3年において杵築中学の生徒であること、従って恐らく、この近辺に彼の故郷があることは確かであった。
 ……それから20年余り、この事実は私の胸底に深く蔵されたまま、それを明かす機会がなかった。
 だが、思いがけない契機が、三明永無の出身地を明かし、その生涯のあらましを知る機会を与えてくれたのである。

 一昨年(2014年)夏のことだった。私はその9月、前述の川端康成の著書を刊行する直前で、意気大いに上がっていた。また、その著書を仕上げる半年前に知遇を得た畏友・水原園博(そのひろ)氏との交友に熱中していた。水原氏は、公益財団法人・川端康成記念会の理事、東京事務所代表、という肩書きを持っている。といえば堅苦しい人物を想像されようが、近年「川端康成と東山魁夷展」を全国の各都市で開催している、その企画と実施を担っている、豪放かつ繊細な人物だ。

 私は自分の本の口絵に、川端康成記念会が所蔵している数々の名品や写真を掲載させていただきたいと願った。幸い、理事長である川端香男里先生のお許しをいただいて、自由に撮影してよい、との許可を得た。とりわけ私が掲載を渇望したのは、川端康成が戦中から戦後にかけて耽読した、源氏物語湖月抄であった。

 江戸時代、元禄の少し前の延宝年間、北村季吟(きたむら・きぎん)によって執筆され、木版で印刷されて全国に普及した、源氏物語の本文と注釈書全60巻だ。54巻に、年立て(源氏物語の年譜)などが付されて60巻あるという。
 以前、展覧会でガラスケースの外から見たことはあったが、川端康成が精読した、その本物の写真を私の著書に載せたかった。川端が湖月抄から受けた影響について、私はその書において詳細に描いていたからである。湖月抄は、川端研究に必須の重要資料であった。
 しかし、写真の素人である私には、上手に撮影する技術がない。そのとき、川端康成学会の仲間である平山三男さんが、水原さんを紹介してくださったのだった。
 水原さんは、写真専門誌の表紙を飾ったこともあるほどの、撮影のプロである。また、川端康成について、繊細かつ男性的なエッセイを数多く書いてきた人だった。水原園博氏撮影になる湖月抄など数々の秘宝を自著に掲載できたことは、実にありがたかった。

 さて、その夏7月、水原さんと電話で話していると、「来年の3月、松江で『川端康成と東山魁夷(かいい)展』を開催するよ」と水原さんが口にしたのである。島根県……と耳にした途端、私の胸に三明永無の存在が浮かんだ。

 「それなら、地元の『山陰中央新報』に連絡して、三明永無の故郷を調べ出してもらうと、展覧会の話題づくりになるよ」と私は言った。というのも、その1ヶ月前、2014年7月9日、川端康成の、伊藤初代に宛てた未投函書簡が発表され、この若き日の恋愛と、その折り、岐阜で撮影された記念写真がNHKや全国の各新聞紙上に大々的に紹介されて、全国的に話題となっていたからである。その直後、静岡市、岡山市で開催された『川端康成と東山魁夷展』でも、岐阜の写真と、伊藤初代からの10通の手紙は展示されて、大きな反響を呼んでいた。

 その婚約事件の中心的役割を果たした三明永無(みあけ・えいむ)が、これまでは影の存在であった。しかし、おそらく三明永無の故郷である島根県で開催される以上、三明永無の出身地が具体的に解明されれば、話題は沸騰するであろう……。
 水原さんは行動が早い。ただちに、島根・鳥取両県をエリアとする『山陰中央新報』に連絡した。するとたちまち、文化部の石川麻衣記者に、その解明・探索が委ねられたのである。
 石川記者は事情を知るため、水原さんに連絡をとった。すると水原さんは、姫路に、三明永無や伊藤初代に詳しい、川端文学の専門家がいますよと、私を紹介してくださったのである。
 一方、石川麻衣記者は、たちどころに、三明永無の出身は、大田市温泉津(ゆのつ)町西田の瑞泉寺(ずいせんじ)である、と探り出し、瑞泉寺に連絡をとった。

 石川記者は、探索を委ねられると、すぐ『島根県歴史人物事典』を開いた。そこには、「自謙(じけん)」という傑出した僧侶の名が出ていた。そこに、自謙は大田市温泉津の「三明山瑞泉寺(さんみょうざん・ずいせんじ)」の僧であると記されていたのである。

 石川記者は、この「三明山(さんみょうざん)」が「三明(みあけ)」という珍しい姓を連想させるところから、瑞泉寺と三明永無に深い関わりがあるのではないかと推理した。
 きっと永無と親戚関係にある人物であろうと見当をつけ、その自謙の出自たる寺院・瑞泉寺の電話番号を調べ、電話をかけた。
 現住職の三明慶輝(みあけ・けいき)氏が電話口に出られた。慶輝氏はかねがね、大叔父(祖父・三明得玄の弟)に当たる永無が川端康成や、岡本一平・かの子夫妻と関わりがあったということを聞き知っており、それにも関わらず、世間が三明永無という存在を忘れ去っていることを残念に思っていた。だから電話を受けると、三明永無が間違いなく瑞泉寺の出身であること、その遺品も多く残っていることを告げた。石川記者が「伺ってもいいですか?」と尋ねると、「どうぞ、ぜひおいでください」と快諾した。
 ご住職は、幼時、永無と顔を合わせたことがあった。この偉大な大叔父の強烈な印象が残っている。川端康成や岡本かの子と深い交流のあったことも耳にし、実際に、それを裏づける幾枚もの写真や色紙も眼にしていた。だがこれまで、三明永無の存在は、世の注目を浴びることがなかったのである。

 永無は晩年を故郷に近い、島根県浜田市で過ごし、そこで亡くなった。しかし墓は故郷の瑞泉寺にあり、また遺品の数々も、瑞泉寺で大切に保管されていた。
 その遺品の中には、あの岐阜の、三人の記念写真もあったのだ。石川記者は目ざとく、この写真を見つけ、これこそ先日、全国各紙に流された写真の原本だと直感した。
 石川記者は、その写真も撮影し、発表する許しも得た。
 さて、その三明永無の出身地について記事にするためには、川端康成をめぐる三人の関係などを十分に知りたい。石川記者は水原さんに電話で相談し、紹介されて、姫路に住む私に電話をかけてこられた。

 川端康成と三明永無との関係について詳しく教えてほしい、ついては姫路まで伺ってもいいか、というものであった。もちろん私は快諾した。
 石川記者は、出張の許可を得て、松江から伯備線特急と新幹線を乗り継いで、岡山経由で姫路に来てくださった。
 姫路駅の中央改札口で落ち合うと、20代の、瞳の澄んだ美しいひとであった。私は行きつけの喫茶店パルチザンへ招待して、そこで3時間たっぷり、若き日の川端康成の恋と、三明永無の役割について講義させていただいたのである。

 まもなく石川麻衣記者は、岐阜の記念写真と、それにまつわる詳しい記事を『山陰中央新報』朝刊に、3度にわたって発表した。
 すなわち第1報は、2014年7月23日、「川端康成と伊藤初代の恋 三明永無(大田市出身)が仲取り持つ」、第2報は文化欄に「3人の写真現存 唯一の原本を確認」(7月27日)として掲載された。これは、『山陰中央新報』の石川記者たちと、東京から遙々訪れた水原園博氏が同行して、温泉津町の瑞泉寺を訪問して確認した報告である。三明永無の遺品にあった、岐阜の3人の記念写真とともに、これも遺品の中にあった三明永無の結婚式の記念写真も掲載された。これは岡本一平・かの子夫妻が媒酌人として永無夫妻の両側に席を占め、背後には川端康成や石濱金作も写っている、貴重なものである。

 そして第3報は、「川端康成の初恋と三明永無」(2014・8・2)と題したもので、川端と伊藤初代の恋と、結婚の約束において三明永無の果たした役割を、具体的に解説した内容であった。この記事には、かの子の短歌に、一平がかの子の似顔絵を描き加えた、美しい色紙が添えられていた。
 これらの記事には、岐阜の記念写真の原本に加え、岡本一平の描いた三明永無の肖像画も載せられていたから、島根県ばかりでなく、全国的にも、大変なスクープとなった。
 7月9日に川端康成の未投函書簡が大々的に発表されてから、まだ1ヶ月も経っていない時点だ。全国に、その余韻が残っていた。地元の島根県でも、あの写真に関わりの深い人物が大田市温泉津の出身であったと知られて、大いに話題を集めた。『山陰中央新報』に、読者から、いくつも電話がかかった。投書も寄せられた。瑞泉寺にも、電話がひっきりなしにかかったという。
 そればかりか、未投函書簡の続編という意味もあったから、共同通信系列の全国の新聞も、他の新聞も、いっせいに後追いの記事と岐阜記念写真を載せて、注目した。


   3 岐阜記念写真

 ところで、三明永無の遺品の中にあった、この写真は、いわくつきの、格別な意味を持つものであった。
 この写真は、前述のごとく、その93年前の大正10年(1921年)10月9日、すなわち康成と伊藤初代の結婚の約束ができた翌日、岐阜市の裁判所前にある瀬古写真館で撮影されたものであったが、長い転変の間に、康成も、初代も、この写真を失ってしまっていた。
 昭和47年(1972年)4月16日に康成が自裁すると、その秋、日本近代文学館が主催して、『川端康成展―その芸術と生涯―』が東京・新宿伊勢丹(9月27日~10月8日)を皮切りに、全国11都市を巡回して開催された。
 このとき、準備にあたった一人に長谷川泉がいた。当時の川端研究の第一人者であった長谷川は、すでに三明永無と接触し、旧知の間柄であったところから、三明に、この記念写真を貸してほしい、展示したいから、と依頼した。三人が一葉ずつ持っていた写真だが、康成、伊藤初代は長い歳月の流れの間にこの写真を失ってしまい、三明永無だけが、所持していたのである。最後の1枚だった。

 三明永無はこの写真を長谷川に貸したが、展示は、思わぬ反対が出て、実現されなかった。つまり康成の秀子未亡人が、展示することに同意しなかったのである。
 康成と結婚したころ、康成の心に伊藤初代が生きつづけていることに苦しまされ、その心の傷が残っていたので、康成の死後にまで、伊藤初代が重視されることに耐えられなかったのであろう。
 そこで長谷川はこの展覧会に展示することは断念した。しかし写真の複製を2、3葉つくり、みずからの文章に発表するとともに(「『南方の火』の写真」(『向陵』一高同窓会、昭47・11・15)、岐阜市の、川端文学研究家(川端の岐阜訪問と婚約の経緯を調査していた)島秋夫に1枚を贈呈した。また、財団法人・川端康成記念会にも、この複製を、本来川端家が所持しているべきものとして、返却した。(これらがその後、さらにあちこちで複製されて、現在、日本近代文学館や各新聞社が所蔵するところとなっているのだ。)
 つまり、これまで公表されてきた岐阜の記念写真は、いずれも、長谷川泉が三明永無から借り出した写真を原本とするものであった。その後、果たして長谷川泉が三明永無に確かにこの写真を返却したのかどうかは、40数年間、杳(よう)としてわからなかった。

 だが今回、瑞泉寺の三明慶輝住職が石川記者に見せた永無遺品の中に、セピア色に化した、この記念写真があることに、石川麻衣記者は気づいた。そしてこれを『山陰中央新報』の記事の中に掲載した。
 今回新たに発見された写真は、セピア色に変色し、また、3人の肖像の近くに、白い大きなシミがいくつかあったけれど、まさしく、この原本が生きつづけてきたことを証明していたのである。長谷川泉が三明永無に写真を返却していたことも、ここで確認されたわけである。また三明永無が生涯を通じて、この写真を大切に蔵していたことも判明した。
 私は、瑞泉寺の三明慶輝ご住職と石川記者から、この写真を使用してもよい、との許可を得たので、私の著書上巻の表紙に使わせていただいた。私はあえて、世に普及している、修正された版ではなく、白いシミが幾つも残る、三明永無の遺品である、この本物の写真を使用させていただいたのだ。
 それほどにこの写真原本は、大正10年(1921年)から平成26年(2014年)まで、94年の歴史を生き延びた、特筆すべき写真であったのだ。


  4 三明永無と岡本一平・かの子

 さて、こうして松江市で開催された『川端康成と東山魁夷展』を機に、三明永無の存在は世に蘇(よみがえ)り、川端康成との関わりも、伊藤初代との初恋事件をもとに世間に知られることとなったのだが、三明永無の役割は、これだけに止まるものではなかった。
 石川記者は、三明永無の遺品の中に、岡本一平、かの子夫妻との関わり深い写真や絵画を見つけて、これも意外に思って、紙面に紹介した。

 1つは、岡本一平が若き日の三明永無を描いた、やや戯画調の肖像画であったが、今1つは、三明永無の結婚式披露宴に、岡本夫妻が媒酌人として中央に座っている写真であった。これは、岐阜事件の3年後の大正13年12月、三明永無が東京の帝大仏教青年会館で挙式した披露宴の際に撮影されたものである。この写真には、川端康成も参列者の1人として写っている。
 三明慶輝住職は、永無と岡本夫妻との関わりが深いことも知っておられたが、なぜこのような交流があったか、という次第は、はっきりとはご存知なかったという。
 ところが、川端康成と阿部知二と岡本かの子とを結ぶ強力な1本の線について、その謎が一気に解ける鍵――1つの情報――が、松江から手に入ったのである。


   4 杵築(きづき)中学校の同級生

 かねがね、阿部知二と、彼が幼少期九年間を過ごした出雲(すなわち島根県)との関係を調査し研究をつづけている引野律子氏と、私は面識があった。阿部知二研究の仲間として、引野氏はいつも私に貴重な情報を知らせてくださった。引野氏は現在、松江市に住んでおられる。
 出雲で知二が最初に住んだのが遥堪村(ようかんむら)であったところから、遥堪村に生まれ、遥堪小学校時代に阿部知二の講演を聴いたことのある引野さんは、阿部知二と島根県との関わりについて、熱心に調査をつづけてきた。そしていくつかの論考を『阿部知二研究』に掲載すると同時に、私とメールの交流をつづけていた。

 あるとき、もう10年ほど前であったか、引野さんがメールで重要な情報をくださった。
 それは、「阿部知二が後年、少なくとも8度、島根県を訪れているのは、島根県の恒松安夫(つねまつ・やすお)知事との関係からである。そして知二と恒松知事との知遇は、知二の兄・公平が、恒松と、杵築中学で同級生だったから生じた」という内容であった。

 ちなみに、恒松安夫は杵築中学から慶應義塾大学に進み、卒業後は慶応の教授になった。戦後、島根県知事にかつぎ出され、昭和26年から34年まで2期8年間、知事をつとめている。その知事時代、招待されて知二は何度も島根県を訪れている。

 公平は知二より5歳年長の、明治31年生まれである。そして明治44年、杵築中学に入学し、2年間在学したが、父・良平が大正2年3月末、兵庫県の姫路中学に転勤したので、それにともなって一家は姫路に移り、公平は杵築中学から姫路中学3年に転入したのである。
 公平は広島高等師範学校に進んだが、姫路高等女学校教諭であった大正12年、25歳の若さで結核により姫路市坊主町の自宅で死去した。
 しかし公平は弟知二に、またとない贈り物を残してくれたのである。杵築中学で、公平の同期であった人々との人脈である。
 公平は2年だけで姫路中学へ転入したから杵築中学を卒業してはいないが、第15期生、大正5年3月卒業の人たちと同期であった。2年間、教室を共にした親しい顔見知りだったのである。
 それが三明永無、恒松安夫たちである。しかも、永無も恒松も生家が杵築中学から遠いため、寄宿生であった。つまり、舎監をしていた、人望の篤かった良平のもとにあり、かつ良平の官舎は、寄宿舎と同じ敷地内にあったから、三明永無、恒松安夫と阿部公平は、一つ屋根の下で過ごしたといっても過言ではない。5歳年下の知二の顔を見知っていた可能性もある。

 ところで、岡本かの子の愛読者や研究者なら、恒松安夫の名はよくご存知だろう。大正6年、慶応義塾に進学した恒松は、兄源吉もそうだったことから岡本家に寄宿し、ついにはその家計全般を任されるようになったのである。
 この事実は、諸年譜にも記載されており、また岩崎呉夫『芸術餓鬼 岡本かの子伝』(七曜社、昭38・12・10) にも瀬戸内寂聴 『かの子繚乱』(講談社、昭40・4)にも詳しく記されている。
 恒松は岡本夫妻から深い信頼を寄せられ、関東大震災の直後も、第二次大戦中も、一家は、恒松家の世話で島根県に一時、身を寄せている。また昭和4年から昭和7年にかけての、岡本一平、かの子、太郎の洋行の際にも、恒松は同行したほどだ。
 このように恒松安夫は、岡本家と深い関わりがあった。(岡本家と恒松家との関わりは、前記引野律子氏の発表資料(注1)によれば、源吉・安夫の祖父で衆議院議員であった恒松慶隆と、かの子の父・大貫寅吉(おおぬき・とらきち)が親しかったことから生じたという。)
 さて、岡本かの子年譜に、突然、三明永無の名が現れて、かの子の評伝家を悩ませているのも、この杵築中学を基点とする事実を知っていれば、何でもなく解決できるのだ。
 そう、杵築中学時代に親密であった三明永無と恒松安夫は、上京後も、頻繁に交際した。外交的で明朗であった三明永無は、恒松が岡本家に寄宿すると、すぐに訪問したであろう。そして岡本夫妻とも親密になった。
 この事実を知らなかった岩崎呉夫は、前述の著『芸術餓鬼 岡本かの子伝』において、「三明永無は、かねてよりかの子のファンであったところから交際を求め……」など、想像を巡らせて苦しい創作をしているが、前述の恒松と三明との関係を知っていれば、別段、難しいことを考える必要はないのだ。
 さらに、川端康成と岡本かの子の関わりについても、以上のいきさつを知っていれば、三明永無が両者を仲介したことは、容易に了解される。
 歌人としてはすでに有名であったが、小説家になることを切望したかの子を、康成が、まだまったく小説らしきものを書けなかった時代から辛抱づよく指導したことも、よく知られた事実だ。
 川端康成がようやく合格点をつけて、自分たちの雑誌『文学界』に掲載した、芥川龍之介の晩年を描いた「鶴は病みき」(昭和11、6)によって、かの子が作家として鮮やかなデビューを果たしたのも偶然ではない。恒松を訪ねて岡本家をしばしば訪れ、夫妻とすでに面識のあった三明永無が、かの子を川端に紹介したと解すれば、接点の謎は簡単に解けるのだ。
 実際、三明永無は後年、長谷川泉に慫慂されて書いたエッセイ「川端康成の思い出」(長谷川泉編著『川端康成作品研究』昭和44・3・1、八木書店) において、以下のように述べている。

   岡本かの子はその頃青山にいて、同宿の恒松安夫(後の
  島根県知事)が私の中学の同窓であるという関係から、よ
  く出入りしていたが、新思潮で評判のよくなった川端に会
  いたいというので私が紹介して銀座のモナミというレスト
  ランへ川端を伴い岡本一平、かの子、恒松安夫等に会わせ
  た。

 「岡本かの子年譜」(『岡本かの子全集』第12巻、ちくま文庫、1994・7・21)には、かの子が川端康成の知遇を得たのは大正8年(1919)とある。しかし、これは、おかしい。川端康成らが第六次『新思潮』を発刊し、「招魂祭一景」で名が出たのは、大正10年だからである。三明永無が書いているように、「新思潮で評判になった川端に会いたい」と言ったのは、大正10年でなければならない。
 大正5年3月に杵築中学を首席で卒業した三明永無は翌大正6年、一高文科に入学し、寄宿舎の東寮3番で康成と同室になった。翌年も南寮4番で同室になり、石濱金作、鈴木彦次郎を加えた4人で、伊藤初代のいるカフェ・エランにも通ったのである。
 三明永無のこの文章には、もちろん岐阜行のことも出てくるが、ここでは割愛しよう。
 もう1つ、岡本かの子年譜を見ると、大正11年ごろ、かの子が高楠順次郎の教えを受けた、とあるが、これも、三明永無の存在抜きには考えられない。というのは、一高文科から東京帝国大学文学部印度哲学科に進んだ永無は、みずから、前期の文章に「大正大蔵経の編纂、校訂にあたり」と書いているように、高楠教授の指導のもと、この編纂校訂作業に従事していたのである。そのころ、仏教を必死で研究していた、かの子を、高楠教授に紹介したことが、容易に推察できるのだ。

 ちなみに、三明慶輝住職のまとめた「三明永無略年譜」には、生涯の師として、高楠順次郎が挙げられている。(高楠は昭和19年に文化勲章を受章している。また、現・武蔵野大学(前身は千代田学園、のち武蔵野女子大学)を創設し、みずから校長にも就任している。
 三明永無がハワイから帰国後、この学校に奉職した履歴を持つのも、高楠との師弟関係によるものであろう。


   5 三明永無の生涯

 ここで、瑞泉寺第19世住職である三明慶輝氏のまとめられた資料をもとに、三明永無の生涯の概略を述べておこう。
 初めに、A4用紙一枚にまとめられた「三明永無 略歴」を、そのままに写す。

  三明永無 略歴
誕生 明治29年(1896)6月8日生れ
    瑞泉寺第16世住職 得玄・ミチの次男
    同上17世住職 謙譲の弟
 
学歴 湯里村西田尋常小学校卒業 明治40年3月 10歳
   湯里村湯里高等小学校卒業 明治44年3月 14歳
   島根県立杵築中学校卒業  大正5年3月 19歳
   第一高等学校卒業     大正9年3月 23歳
   東京帝国大学文学部卒業  大正12年3月 26歳

職歴 昭和5年(1930)ハワイへ渡米 34歳
   本願寺ハワイ別院付属ハワイ中学校で教鞭
   昭和18年9月 第二次交換船(帝亜丸)にて帰国 47歳
   宗門立千代田女子専門学校 千代田学園で教鞭
   同上 武蔵野女子学園にて教鞭
   昭和25年 ハワイ教団直属布教師として渡米 54歳
   昭和33年同上開教本部賛事長 62歳
   昭和36年 帰国 東京:代官山にて居住 65歳

家族 結婚 大正13年(1924)12月 28歳
    津山利恵子(新潟県東頸城郡牧村 西念寺出身)
 *子息 大蔵、次朗 *媒酌 岡本一平・かの子

   再婚 昭和38年(1963) 67歳
    原田寿恵(島根県大田市大家 浄土寺出身)
   昭和47年 島根県浜田市へ移住 76歳

逝去 昭和54年(1979)1月11日 82歳
    *院号法名 無明院釋永無
交友 杵築中学時代
    恒松安夫(慶応大学教授;島根県知事)
   一高時代
    今東光(作家;中尊寺貫首)
   一高・東大時代
    川端康成(ノーベル賞作家)
   恩師
    高楠順次郎(東大インド哲学教授;『大正新修大蔵経』編纂)

*文責 三明慶輝 浄土真宗本願寺派三明山・瑞泉寺第19世住職

 以下、平成8年11月25日に刊行された『瑞泉寺縁起史』を中心に、私の知見を多少加えて、瑞泉寺と三明永無について、若干の補足をしておきたい。
 瑞泉寺は、鎌倉時代の末、嘉暦2年(1327)に真言宗として開基された、7百年の歴史を有する名刹である。開基からほぼ2百年後の天文9年(1540)、浄土真宗に改宗された。
 天文年間といえば戦国時代の真っただ中、石見銀山の権益をめぐって、尼子、大内、毛利の戦国大名が激烈な争奪戦を繰り広げた時代であった。石見銀山から、海浜の温泉津(ゆのつ)に至る街道に面する瑞泉寺は、まさしく石見銀山の興亡とともに歴史を歩んできたといっても過言ではない。
 今日においても、壮麗な山門、豪放な本堂などから、往時の殷賑(いんしん)ぶりを十分に想像できる、歴史を生き抜いてきた寺院だ。
 だからこの瑞泉寺からは、歴代の名僧を輩出した。なかでも江戸後期の宝暦元年(1751)から幕末の弘化3年(1846)まで96年の長寿を保った、前述の自謙は、全国にその学識を謳われた傑僧で、本山の勧学に任ぜられて、石州学派の名を轟かせた。勧学の筆頭に任ぜられ、三業惑乱と呼ばれた法難の時代に、その卓越した学問によって、本山の秩序を護ったのである。
 ちなみに、勧学とは、広辞苑によれば「浄土宗、浄土真宗の本願寺派・興正寺派における最高の学階」である。

 また、幕末の嘉永6年(1853)に生まれた範嶺も、明治・大正を生き、やはり勧学に任ぜられ、大谷光瑞門主より篤い信頼を寄せられた。
 このような才質を受け継いだためであろうか、三明永無も幼時から秀才ぶりを示した。遺品の中には、杵築中学卒業時における名簿がある。「島根県立杵築中学校第15回卒業生成績表」と題されたもので、全生徒の全科目の成績一覧表を兼ねている。その筆頭に、三明永無の名前と成績があるのだ。つまり首席である。「席次」が「1」と記されていることは、いうまでもない。抜群の成績である。志望校も書いてあり、「高等学校」と明記されている。(私も後日、瑞泉寺を訪問し、これらの遺品を閲覧させていただき、写真撮影もした。)
 なお、永無が杵築中学を卒業したのは大正5年3月、川端康成が茨木中学を卒業したのは大正6年3月である。あるいは、さすがの三明永無も1浪して一高に入学したのかもしれない。
 なお、永無の生年月日を見ると、明治29年6月だ。康成は明治32年6月だから、3歳違いである。康成の恋愛においても、同級生ではあっても世間を知らず、奥手であった康成を、3歳年長で、明朗闊達な永無が何かとリードし、応援した実相が見えてくるのである。
 康成が前引の「あとがき」(2ノ6)において、「今は最早30年近く昔のことだから明してもいいだらうが、E・M君である。「明日の約束」のはじめにもある通り、ずゐぶん私の世話を焼いてくれた」と書いたとおり、兄貴分としての三明永無のはたらきがあってこそ、康成は伊藤初代との結婚の約束を取りつけることができたのだった。(1ヶ月後に、この約束は一方的に破棄されてしまったが……。)

 なお、三明永無の生涯でもう1つ重要なことは、日系人の多いハワイにおいて教鞭をとり、あるいは布教師として活躍したにもかかわらず、太平洋戦争の勃発により、強制収容所に入れられ、第2次交換船で日本に帰国した、という事実である(注2)。三明慶輝氏によると、このとき永無は妻子と別れて帰国したそうだ。
 前述の引野律子氏は、この事実を重視して、永無もまた戦争の犠牲者であったとして、その視点から三明永無の生涯を改めて見直そうとしておられる。


   6 結語

 以上述べてきたように、三明永無の杵築中学卒業という経歴から、その人脈によって、多くのゆたかな人間関係が生じてきたことは、明らかになった。
 阿部知二と恒松安夫(つねまつ・やすお)の親交についても、前記引野律子資料には、興味深い事実が述べられている。『恒松安夫追悼録』(1965・5・15、新文名社)に、慶応普通部の教え子・大原胤政「教え子の追憶」の1文があり、その中に、次のような一節があるのだ。

   恒松さんが野球部長になったのと、奥さんをもらったの
  とどっちが早かったか思い出せない。野球部長になってか
  ら、誰の発案か時折虎ノ門の晩翠軒(井上恒一さん)で、
  戸川秋骨さん,奥野信太郎さん、和木清三郎さん、阿部知
  二さん、それに私達(中略)なんかが何となく集まりをも
  った。戸川先生を囲む会だったのか、野球部長を激励する
  会だったのか、そこいらがはっきりしない。会は割合長く
  続いた。私達が岡本かの子さんのお供をして、歩き廻った
  のも此の頃である。

 恒松が野球部長になったのは昭和8年だという。知二が文壇で旺盛な筆力を見せたころと重なっているが、この時期に知二が恒松安夫と親密な間柄にあった事実の背後に、三明永無の存在があったことは、否定する方に無理があろう。この時期、岡本かの子とも、大原胤政ら恒松の教え子たちの交流があったことによって、三明永無の存在がいっそう大きく浮上するのである。
 とすれば、最初に述べた、阿部知二に寄せた川端康成の好意も、三明永無に淵源を持つことが、もはや自明であろう。

 おそらく、阿部知二の名が文壇の片隅に出てきたころ、三明永無は川端康成に、「阿部知二の父親は僕の杵築中学の恩師で、兄・公平は僕と杵築中学で同期だったんだ」と告げたことであろう。
 親友のこの一言によって、川端康成は阿部知二に並々ならぬ関心と好意を寄せ、それが文芸時評や『文学界』、さらに戦後の国際ペンクラブ・エジンバラ大会派遣という好意につながったと私は考えるのである。

(注1)引野律子「続・知二と遥堪と私」(阿部知二研究会第22回知二忌発表資料 2014年4月20日、於 姫路文学館)
(注2)引野道生「明窓」(『山陰中央新報』、2014・7・29)
 この他にも、この稿を書くにあたり、引野律子氏より、多くのご教示をいただいた。記して謝意を表したい。

写真1
 大正10年(1921)10月9日、婚約の翌日に瀬古写真館で撮影された、岐阜市における記念写真(左より川端康成、伊藤初代、三明永無)。島根県瑞泉寺・三明慶輝氏ご提供による。

                ">(『阿部知二研究』第23号。2016・4・23)





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