ここななちゃん

かわいい孫と日記です…

田代と西海が、西川で流される… 1983. 9

2001年03月21日 09時22分04秒 | 社歴
1983年(昭和58年)9月28日 夕刻
田代と西海が天竜川支流の西川(さいかわ)に転落して流された。
(西川は、普段はおだやかな川である。)
当日は、非常なゲリラ豪雨だった。
作業を昼ごろ終わらせたが、田代と西海は現場が気になり近くの事務所から様子を見に行った。
丁度、川が凸の字に大きく曲がっているところから様子を見ていたところ地元の松下さんともう一人の方が近寄って来た。(この二方は、の人の様子を見て回っていた。)
と同時に足元の舗装の下の大きな岩塊が流れに耐え切れずに大きく動き足元の舗装が崩壊し3人が川に転落し流された。
もう一人の方は少し離れた場所に居たために、被害に会わずすぐに現場事務所にいた大場さんに連絡した。
この方がいなかったら事故の報告はかなり遅れていたと思う。
又、足元は舗装面になっていたので、この3人にはこの岩塊があったのはわからなかったと思う。
私は、名古屋支店の近くの高架橋の下でBHを施工中(元請けは鉄建建設)だった。
とにかく名古屋もすごい集中豪雨だった。
なにかを感じ、夕方工事を早めに終わらせ支店に行ったら、高野さんが田代と西海が流されたと泣いていた。
西海とは、少し前まで豊橋の現場で寝食一緒で旅館「 」に泊まっていた。
そして下之一色の権野からネオポリスに引越しするときも手伝いに来てくれた。(障子を破るアクシデントもあったが…)
田代とは、事故の2・3日前に六番町のBHの現場(安達の現場)に顔を出した時にちょうど田代がいて「明日から御前崎のアンカーの現場に行く。」と言っていた。
(事故の後、天竜の田代の現場を引き継いだが、田代が付けたマーキング等に何か感慨深いものがあった。)

もう30年も遠い昔の話となってしまったが、私にとって何か不可解なことが多く残っている。偶然なのか?理解できない。
列記すると

・吉澤さんが現場乗り込み後に安全パトに行ったとき事務所の電話番号が、「0004」だったので縁起が悪いとのことで替えさせた。
※ちなみに「0004」は葬儀屋の番号とのこと。
・アンカーを打設する箇所付近に雑草で覆われて隠れていたが御地蔵様があった。
※事故後に判明したことだが、
地元の話では昔、馬がここで行き倒れて死んでおり地元が慰霊として地蔵を建立したとのこと。昔はこの地区では、馬は非常に大切に扱われており死ぬと丁重に葬ったとのこと。
・一緒に流された地元の松下さんを息子さんが見つけた。
延べの捜索人数は、3000人ぐらいであったと思う。
夜息子さんが寝ていると枕元に松下さんが座って居り下流の吊橋の下にいるとのこと。
息子さんは捜索中常に吊橋の付近を捜索していたところ近くの松の枝に腕が引っかかっているところを見つけた。
・田代は、御前崎まで流れており民宿「聖火」のおやじが漁の帰りに流木の間に漂流している田代を偶然に見つけている。
当初は遺体の損傷が激しく誰だかわからなかったが、後になって田代とわかり聖火の親父も驚いていた。
この民宿は田代が御前崎のアンカーの現場を施工中に泊まっておりアンカーの施工中に防空壕に当り施工は中断した。中断中に天竜川の現場に応援に行き、事故に遭遇し。又、この防空壕は空襲で多くの人が亡くなっているとのことで地元では余りよい噂が無かったようだ。
・西海は、事故現場の大きな岩影で見つかった。
・佐久間のいずみ屋旅館で一緒に泊まっていた杉本栄五郎は、事故当夜田代と西海が部屋で何かうろうろと探し物をしている姿を部屋で見たとのこと。
本来は、居ないはずの二人がいること自体不思議であるが、絶対に夢ではないと確信があるとのこと。
・いずみ屋の娘が天竜の喫茶店で働いており、夜の11時ごろ帰りに吊橋の付近で白いものが道路を横断するので気持ちが悪いと言っていた。
・田代が御前崎へ行く前に原因はわからないが何か体中が痛いので近くの病院に行った。医者は原因はわからないとのことだった。
何か事故の前兆だったのではと思われる。
・何年か後のこと、私が川越の現場をしていた時に応援で本社機械部の比嘉さんが来た。ある時、彼が現在名東区のライトの寮から通っているが夜中に人の気配がするのが気持ち悪いのでアパートに引越しすると言ってきた。
不審に思い他の社員に聞いたらその部屋は田代がいた部屋とのこと。
ちなみに比嘉さんが出たあと坂登がその部屋に入ったが全く変わったことはなかったようだ。人によって感じるものが違うようだ。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿