1978(昭和53年).9月頃
仕事は大きな岩塊(直径10mほどか?)が地震時に転落する危険性があるとのことで
足場を組みアンカーで留めるものだった。
土肥の鈴木組の仕事で社長と養子の息子さんがいた。
息子さんは、まだ結婚したばかりと思う。
今だに後悔するのは
この社長さんが金曜日の夕方だったか?
夕飯をご馳走(さざえとか?色々海産物があった。)してくれたが、
恵子が待っているのではやく帰りたくて
社長さんと「上の空」で食事をしていた記憶がある。
とにかく帰るのに山道で沼津まで行きとにかく10時間ぐらいかかった。
今は、道路が充実しているので5時間ぐらいと思う。
話は戻るが
この岩塊に「イワヒバ」があり親父に土嚢袋に3個ぐらい持って行った。
県の担当者と「島田の横井SO」で偶然に会った。
担当者の方は気づいていなかったが懐かしかった。
2007年に恵子と恵子のお母さんと天城方面へドライブに行った時に「鈴木組」に近くの蕎麦屋に入り情報を聞いたところ養子の息子さんは今社長をしており健在とのことだった。
その後に一度電話をした。
仕事は大きな岩塊(直径10mほどか?)が地震時に転落する危険性があるとのことで
足場を組みアンカーで留めるものだった。
土肥の鈴木組の仕事で社長と養子の息子さんがいた。
息子さんは、まだ結婚したばかりと思う。
今だに後悔するのは
この社長さんが金曜日の夕方だったか?
夕飯をご馳走(さざえとか?色々海産物があった。)してくれたが、
恵子が待っているのではやく帰りたくて
社長さんと「上の空」で食事をしていた記憶がある。
とにかく帰るのに山道で沼津まで行きとにかく10時間ぐらいかかった。
今は、道路が充実しているので5時間ぐらいと思う。
話は戻るが
この岩塊に「イワヒバ」があり親父に土嚢袋に3個ぐらい持って行った。
県の担当者と「島田の横井SO」で偶然に会った。
担当者の方は気づいていなかったが懐かしかった。
2007年に恵子と恵子のお母さんと天城方面へドライブに行った時に「鈴木組」に近くの蕎麦屋に入り情報を聞いたところ養子の息子さんは今社長をしており健在とのことだった。
その後に一度電話をした。
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