『ノー・マンズ・ランド』などで知られるダニス・タノヴィッチ監督が、ロマ族の一家の実話を基に描く感動作。ボスニア・ヘルツェゴビナを舞台に、緊急掻爬(そうは)手術が必要にもかかわらず、保険証がなく高額の治療費が払えないために手術を拒否される家族の苦難をドキュメンタリータッチで描き出す。出演者は実際その当事者であるナジフ・ムジチとセナダ・アリマノヴィッチ。第63回ベルリン国際映画祭で3冠に輝いた、真実の物語に心揺さぶられる。
あらすじ:ロマ族のナジフ(ナジフ・ムジチ)とセナダ(セナダ・アリマノヴィッチ)夫妻は、2人の幼い娘と共にボスニア・ヘルツェゴビナの小さな村で生活している。ナジフは拾った鉄くずを売る仕事で生活費を稼いでおり、彼らは家族4人で貧しいながらも幸せな日々を送っていた。ある日、彼が仕事から戻ると妊娠中のセナダが激しい腹痛でうずくまっていて……。
<感想>ドキュメンタリー・ドラマのもつ説得力、メッセージの力強さ、人物の存在感を証明した傑作です。狭い室内で幼い姉妹が戯れている。母親らしき女が台所でお湯を沸かし、帰宅した男とテーブルにすわって一服し、その男に、「薪がない」と言う。男は無言のまま、雪がうっすらと降り積もった外へ出て、のこぎりと斧を手に近くの林の中ごろで、手ごろな木を切りに出かける。
事実を本人たちに再現させ手持ちカメラで撮影した作品である。その良い所は、意外性に満ち、説得力に溢れる細部。奥さんのでぶっと太った肉付き、二の腕の入れ墨。夫の仕事帰りのウォッカ一杯、薪割りの手つき、くたびれた赤い乗用車の手入れ。
ボスニアに住むロマ族の家族。本人たちによる実話再現で、映画的スケールの話ではないけれど、当事者にとってまさに命に関わる、保険にも入れないゆえの医療問題を描いている。
集落に住む夫婦ナジフとセナダ。つましいながらも穏やかな彼らの日常は、セナダが流産し、手術が必要となりながらも、保険証がないゆえに高額な費用を請求されるという事態に直面し、暗転する。
セナダを助けてくれと懇願するナジフを、医者や看護師は杓子定規にしか取り合わない。車でわざわざ町中の病院を訪れたにもかかかわらず、二人はそのまま自分たちの集落へ戻るしかなく、翌日は、痛みを訴えるセナダを連れて再び病院を訪れても、結果は変わらない。
むろんロマ族の人々は、社会的には底辺の暮らしを強いられている。セナダが手術をしてもらえないのも、ロマ族だからというより貧しいからなのだ。映画の後半でも、彼らが料金を払えずにいたために電気を止められる。しかし、その事実に直面したナジフは、タバコを吹かしながらしばし座り込んだ後、意を決したように立ち上がり、弟や仲間を呼び、街の中心部から離れたところに住んでいる彼らにとっては、必需品に違いない自分の車を解体して鉄くずにして売り払い、電気代とセナダの薬代を捻出すると宣言するのだ。
そして、黙々と車の解体をおこなった結果、電気代の支払いも済み、電力会社の職員たちが電気の復旧工事に訪れるという。恨み言を言うでもなく、彼らと握手をかわす男たち。雪の降りしきる中、電柱に上り工事をする職員の姿も監督は丁寧にカメラに収める。
この場面での、車の解体と電気の復旧工事という二つの出来事が映画の中で結びつき、人々の行為がひたすらキャメラに収めるという。それゆえに見る者の胸に迫ってくるに違いない。
あの土地で暮らすロマの集落ばかりでなく、煙突が立ち並ぶ町中の景色も荒廃して見える。その風景の中でナジフたちが鉄くずとともに拾い上げる物は、疎外された生に秘められたかすかな輝きなのかもしれない。
前半に斧が執拗に映されるのは、医者の脳天をかち割るための布石と期待する、観客の心理が報われることもないのに。何故か引っかかるのだ。
ボスニアのあの内戦のときの方が、まだ良かったと漏らす夫の本音から、この土地で生活することの厳しさがうかがい知れる。それにしても、まったく素人の本人たちを使って、こんな作品が9日間で作られるなんて、映画の不思議さを改めて知らされた。
2014年劇場鑑賞作品・・・55 映画(アクション・アドベンチャー) ブログランキング
あらすじ:ロマ族のナジフ(ナジフ・ムジチ)とセナダ(セナダ・アリマノヴィッチ)夫妻は、2人の幼い娘と共にボスニア・ヘルツェゴビナの小さな村で生活している。ナジフは拾った鉄くずを売る仕事で生活費を稼いでおり、彼らは家族4人で貧しいながらも幸せな日々を送っていた。ある日、彼が仕事から戻ると妊娠中のセナダが激しい腹痛でうずくまっていて……。
<感想>ドキュメンタリー・ドラマのもつ説得力、メッセージの力強さ、人物の存在感を証明した傑作です。狭い室内で幼い姉妹が戯れている。母親らしき女が台所でお湯を沸かし、帰宅した男とテーブルにすわって一服し、その男に、「薪がない」と言う。男は無言のまま、雪がうっすらと降り積もった外へ出て、のこぎりと斧を手に近くの林の中ごろで、手ごろな木を切りに出かける。
事実を本人たちに再現させ手持ちカメラで撮影した作品である。その良い所は、意外性に満ち、説得力に溢れる細部。奥さんのでぶっと太った肉付き、二の腕の入れ墨。夫の仕事帰りのウォッカ一杯、薪割りの手つき、くたびれた赤い乗用車の手入れ。
ボスニアに住むロマ族の家族。本人たちによる実話再現で、映画的スケールの話ではないけれど、当事者にとってまさに命に関わる、保険にも入れないゆえの医療問題を描いている。
集落に住む夫婦ナジフとセナダ。つましいながらも穏やかな彼らの日常は、セナダが流産し、手術が必要となりながらも、保険証がないゆえに高額な費用を請求されるという事態に直面し、暗転する。
セナダを助けてくれと懇願するナジフを、医者や看護師は杓子定規にしか取り合わない。車でわざわざ町中の病院を訪れたにもかかかわらず、二人はそのまま自分たちの集落へ戻るしかなく、翌日は、痛みを訴えるセナダを連れて再び病院を訪れても、結果は変わらない。
むろんロマ族の人々は、社会的には底辺の暮らしを強いられている。セナダが手術をしてもらえないのも、ロマ族だからというより貧しいからなのだ。映画の後半でも、彼らが料金を払えずにいたために電気を止められる。しかし、その事実に直面したナジフは、タバコを吹かしながらしばし座り込んだ後、意を決したように立ち上がり、弟や仲間を呼び、街の中心部から離れたところに住んでいる彼らにとっては、必需品に違いない自分の車を解体して鉄くずにして売り払い、電気代とセナダの薬代を捻出すると宣言するのだ。
そして、黙々と車の解体をおこなった結果、電気代の支払いも済み、電力会社の職員たちが電気の復旧工事に訪れるという。恨み言を言うでもなく、彼らと握手をかわす男たち。雪の降りしきる中、電柱に上り工事をする職員の姿も監督は丁寧にカメラに収める。
この場面での、車の解体と電気の復旧工事という二つの出来事が映画の中で結びつき、人々の行為がひたすらキャメラに収めるという。それゆえに見る者の胸に迫ってくるに違いない。
あの土地で暮らすロマの集落ばかりでなく、煙突が立ち並ぶ町中の景色も荒廃して見える。その風景の中でナジフたちが鉄くずとともに拾い上げる物は、疎外された生に秘められたかすかな輝きなのかもしれない。
前半に斧が執拗に映されるのは、医者の脳天をかち割るための布石と期待する、観客の心理が報われることもないのに。何故か引っかかるのだ。
ボスニアのあの内戦のときの方が、まだ良かったと漏らす夫の本音から、この土地で生活することの厳しさがうかがい知れる。それにしても、まったく素人の本人たちを使って、こんな作品が9日間で作られるなんて、映画の不思議さを改めて知らされた。
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