black potion no.6

三十路のモーターサイクル好き、徒然日記です。

永遠に失われた半分(ネタばれ有)

2005年07月29日 10時59分46秒 | dialy
『ダヴィンチ・コード』読み終わりました。

要約すると、イエスキリストはのちにコンスタンティヌス帝の開いた公会議で、人間から神にされてしまいました。
それによって隠された、”イエスキリストの結婚”を題材としたミステリー仕立ての物語です。
根拠としてあげているのは、当時ユダヤ社会では、結婚していない成人男性は社会不適格者だったことや。
コンスタンティヌス帝が編纂させた『聖書』に含まれていない福音書に書いてある、マグダラのマリアとの関係などです。

かのお釈迦さんは、王子様だった頃。
散々遊んで結婚もし、子供をもうけました。
けれども、どうしても解消できない不安のために、出家して沙門となりました。
そののち戒律を設けます。
出家者には、すべてのものへの無執着を説きます。
しかし在家信者には、「不邪淫」として不倫や強姦などを戒めただけで、結婚は否定しませんでした。

日本の親鸞さんは、9歳の時に強制的に出家させられました。
一生懸命勉強して修行しましたが、女性に惹かれる心を捨てることはできません。
(接したこともないのに、諦めることなどできなかったのでしょうw)
そこで山を降り、さんざん悩んだ挙句に、法然さんのところに悩みをぶつけに行きます。
何日も通って、とうとう法然さんのお弟子さんになりました。
法然さんは、こう言ってくれたそうです。
「もし女性と一緒でなければ信仰を保てないのであれば、女性と一緒に信仰を保ちなさいと」(意訳)。

バラモン教では、人生を四つの時期にわけます。

寺院に入って勉強する時期
成人していっぱい働く時期
結婚して子供を育てる時期
年老いて瞑想にふける時期

男女に分かれているということは、それ自体に意味があるのでしょう。
のちにキリスト教でも仏教でも、異性への執着を離れることで高潔であろうとします。
しかしこの『ダヴィンチ・コード』にも書かれていますが、異性に惹かれて子をなすこと自体の"聖性"は否定しようがありません。
たとえ避妊をしても(子をもうけることが目的ではなくても)スキンシップとして夫婦やカップルの心を近づける、偉大な行為のひとつだと思います。


...と、自分の性欲に言い訳してみましたw

最新の画像もっと見る