ちょっと田舎っぽい日々

ちょっと田舎っぽい事を気楽にゆるくやってます
山行のダンナさん、長男、次男、4人家族の日記です
吉野の黒滝村生活です

戦後70年

2015-08-05 14:22:22 | 日記
蒸暑っ



今80歳の母から聞いた戦争。
私が子供の頃から時々話してた。
母が10歳、小学3年生の時に疎開先の和歌山で終戦をむかえたらしい。

祖父は、和歌山の庄屋の子でした。
嫡男では無かった祖父は祖母と大阪に家を構えた。
そこで始まった戦争は日々、母の住む地域に爆弾を落とした。
空襲を知らせるサイレン、防空壕に逃げ込む毎日。
人が人で失くなるのが戦争。
子供の目から見ても、信じられる者が少なかったと言う。
ある朝、サイレンに怯えて身を隠して夜を明かした時の事、母は立ち尽くした。
一面焼け野原で、焦げた人がゴロゴロと横たわっていた。
そこらで立ち上る煙とくすぶる火を見ながら、自分の家まで人を何体もまたいだ。
3日もすると、腐敗する屍のひどい匂いに悩まされた。
そのすぐ後、和歌山に疎開したらしい。
母は言う。
「子供やったから、誰が死んでも何とも思わへんかった。」
その位、当たり前に知り合いが死んでいったと言う事らしい。
終戦を迎えて、大阪に戻り、
「ギブミー チョコ」を、実践した。
青い目の敵はカラフルな包みのキャンディを一掴み撒いたそうだ。
派手な服の日本人女性が敵に媚を売る。
食べていく、それだけが目的で働く、貧乏を知る。
中学を卒業せず、働くのが苦手だっ祖父の代わりに祖母と住み込みで働いた。
母の弟と、妹は今でいう大学まで行ったそうだ。
小学校しか卒業してない母は「勉強がしたかった。」と、今でも言う。
母より5つ年下の叔父と、7つ年下の叔母は、戦争中の事はほとんど記憶にない。
10歳の子供の目には、どんなだったろうと思う。

一つ下の父は、富山の出身でした。
同じ戦争を生きたには程遠い、空襲を知らずに生活を送った。
集団就職で14歳の父は大阪に出て働いた。

二度とこんな日が来なければいい。
平和ボケでいい。