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冥土院日本(MADE IN NIPPON)

神道・トリビア

Photo by (c)Tomo.Yun http://www.yunphoto.net


■神道の特色

神道は他の宗教には見られない特色が多数あります。まず第一は教義・教典がないこと、神職が奏上する祝詞は神を称えたり、神徳に感謝を述べる言葉であって教典ではありません。第二に始祖や教祖は存在せず、神像や偶像はありません。神社とは神の住まいではなく神が降臨される場所であり、通常ご神体と呼ばれるものは神そのものではなく、神が降臨する目印「拠り代」(よりしろ)なのです。

キリスト教やイスラム教は、神と人との関係が、神は神、人は人という永遠の対立関係にあるのですが、神道の特色は「人も神の一部である」とする「神人合一」のおおらかな精神がバックボーンに終始貫かれていることです。また善悪という観念もありません。悪さえも善をさらに高めるためには必要な存在であるとする、底抜けに大きな懐の深さがあるのです。


■「惟神」(かむながら)の思想

「惟神」(かむながら)の思想は神道の根幹をなすもので、その言葉の意味は「神意のままに」という意味になります。意訳すれば「偉大なる宇宙の意思に従い自然と共に生きる」これが神道の説く「惟神」の思想です。

80年代のニューエージの思想に始まる、スピリチュアリズムの台頭や環境運動の世界的な広がり中で、日本の神道思想が欧米から注目を集め、様々な分野で、外国人の神道研究者が多数輩出して来ていることも追記しておきましょう。


■神道の宇宙観

日本の神々には八百万の神々がいて、多神教と理解されていますが、この宇宙を生み出し、すべてを司る神は「天御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)ただ一神です。「天御中主神」の魂の分魂(わけみたま)が様々な働きをするさいに多くの神々の形をとるとされています。

そして私達人間や他の生き物、木や岩をはじめこの世に形ある物すべてが先の「天御中主神」の分魂(わけみたま)から出来ていると教えています。つまり人間をはじめすべてのものには神性があり、「神に近づくことも、神になることも出来る」としています。

我々の身体は数多くの元素から成り立っていますが、この元素のひとつ、ひとつの元は宇宙のビックバンに始まるものとされています。そしてその元素から構成される私達の体は宇宙そのものであると言われます。元素を御霊に置き換えれば最新科学理論と神道の説く宇宙観が驚くほど一致するとは思いませんか。

生命の営みが宇宙創生の仕組みによって大きく動かされていることは、最新科学の学説で次々と明らかになっていますが、神道を生み出した我々の祖先達はこのことをいち早く理解し、古代より実践していたことはまさに驚きと言うしかありません。


■作法の意味

●「鳥居」
神道の作法とは、神意や宇宙の実相を表しているとされてます。神社に詣でる時、鳥居をくぐりますが、鳥居は人間が神域に入る入り口を示しています。鳥居の二本の柱は「神漏岐」(かもろぎ)「神漏美」(かもろみ)の神性を示します。「神漏岐」「神漏美」とは宇宙の陰と陽を表すと考えて下さい。

その中央に立つ我は「天御中主神」(あめのみなかぬしのかみ)の分魂を受けた「小天御中主神」(こあめのみなかぬしのかみ)であり、左右の「神漏岐」「神漏美」の「産霊」(むすび)の神力(物を生み出す力)をまとめる働きを意味します。噛み砕いて言うならば、人間が鳥居をくぐることによって身を宇宙の太極に置き、自らの神性をもって神となり、神力を得て神域に入るということになります。

●「礼」
礼とは拝であり、拝とは身をかがめ畏まることで、至上のものに対する畏敬の念の表現ですが、「かがむ」は動作は「かみ」(神)であり、「神産霊神」(かみむすびのかみ)の働きを意味します。また拝殿の前に「立つ」動作は「健」(たけ)「高」(たか)であり、高御産霊神(たかみむすびのかみ)の働きを意味します。健は健雷命(たけいかずちのみこと)などに見られるように、優れたとか強いという意があります。神産霊神も高御産霊神も宇宙の根幹をなす働きをする神々です。

また地に垂直に立つ足と、地に平行に屈した上半身は、それぞれ縦に伸びている火の気であり、横に流動する水の気を表します。火と水の交合した姿、すなわち「火水」(かみ)神となって、大宇宙の親神にまみえるわけです。

●「拍手」
神前に立って拍手を打つ時に、両手を合わせ、右手を少し引きますが、これは左は「火足」(ひたり)であり、陽(ひ)であり、霊(ヒ)です。
右は「水極」(みぎ)であり、陰(つき)であり身(み)つまり身体を表します。火と水が合わさって「火水」(かみ)、神となるのです。

両手を合わせるのは陰陽の結合・調和であり、右手を少し引くのは陰が一歩下がる、霊が主で肉体が従という霊主肉従の関係を意味します。

手を打ち鳴らすのは天地開闢(てんちかいびゃく)の音霊(おとだま)を表し、天の磐戸開きを意味します。祈る時、そこに天地は開け、磐戸が開いて、太陽の光が溢れ出ることを意味しているのです。


どうでしょう。何気ない所作の中に大宇宙を表現し、自ら神となって、大宇宙を司る神々にまみえ、願いを奏上する。なんともスケールの大きな話だとはお思いになりませんか。


Copyright:(C) 2006 Mr.photon

コメント一覧

フォトン
冷や汗ものです。
コメント有難うございました。

トラックバックをした後、公開プロフィールでご神職さんと知り、冷や汗が流れました。

fgnpd582さんのブログで、これからも勉強させていただきます。

宜しくお願いいたします。
fgnpd582
ありがとうございました。
http://blogs.yahoo.co.jp/fgnpd582
訪問&トラックバックありがとうございました。

そうですね、神道は、多神教や汎神論とか誤解されやすいですが、統体的に観た神なので宗教的に表現するなら統体神観とでもいうべきでしょうか。

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