きょうは関東大震災から100年目の日だ。午前11時58分の発生ということもあり、火を使っている家屋などが多く、地震自体(建築物の崩壊など)で死んだ人より、火災で死んだ人のほうが圧倒的に多かったという。他県を含めて死亡・不明者は10万人を超すという。
東京東部での被害が特に大きく、街が崩壊した。ホントかウソか、火災が沈静化した後、勝手に杭を打ちまくり、自分の土地だと主張する輩が増えたという。住民の権利書はもちろん、役所の書類も焼け、土地の所有者がわからなくなったからだという。朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ、というのと同じレベル流言かも知れないが。
その焼け落ちた町を改造したの後藤新平だ。内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の帝都復興計画の立案・推進に従事した。東京市長を務めたこともあり、東京への思いは強かった。周囲との軋轢はあったが、大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴う復興計画を、縮小されながらも実行していった。今の東京の骨格は後藤が造ったといってもいいという研究者は多くいる。南北軸としての昭和通り、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)、環状線の基本となる明治通り(環状5号線)などは今に引き継がれている。
10年ほど前、岩手県にある「後藤新平記念館」に行ったことがある。入り口ではマダム・タッソーみたいな後藤の巨大な像が迎えてくれた。後藤の描いた東京の街路整理の図版など貴重な資料を見た気がする。何代か前の知事応接室の隅には、後藤の胸像が据えられていた。「こういう人が出ないとね」と言っていた。本人もかなりやったと思うがね。
今や、9月1日が、何で「防災の日」なのかわからないという層も多いらしい。災害への備えもいいが、歴史の勉強も改めてしなくてはと思った。
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