先日のPOSSEの政策研究会で、リチャード・セネット著『不安な経済/漂流する個人』(原題 ”The Culture of the New Capitalism” )を題材として扱った。本書では、経済の流動化に伴って、個人の社会的・精神的な不安定化が進んでいることを明らかにし、それへの対抗的な価値や習慣=「文化」を探ることが主題となっている。セネットは資本主義の変容が個人に与える影響について、3つの論点を取り上げている。
まず、組織の変容(官僚制度)についてである。19世紀初頭から末頃までの資本主義国では、失業率だけでなく新規事業の破産件数も高く、労働者はいつ職がなくなるか分からない状態に置かれていたのだが、このような状況を変えたのが官僚制度であったという。官僚制度は企業内で従業員全員を何らかの階級に振り分け、その階級ごとに決められた権限を与えるという組織編制の機構で、資本主義の不安定性をある程度緩和し、安定した状態を作り出すことができたという。ある企業に入った労働者はその組織内で自分がどの地位にあり、今後どのようなキャリアを歩むのかという長期的な視点を持つことができるようになり、さらには、自分の決められた権限内において仕事をすることができ、ある程度の裁量が現場にも与えられることで、労働者はその組織に帰属意識を持つことになった。しかし、現在この官僚制度は変容し、企業組織はより柔軟なものになっている。柔軟な組織においては、臨時雇用の増加、生産過程の短縮や組み換えが日常的に行われ、さらに意思決定の中間過程を排して、トップから現場に指令が直接届くようにされる。これによって、労働者の組織への帰属意識は低下し、仕事の意義が見つけられなくなり、またインフォーマルな相互信頼の関係性を他の労働者と築く時間がなくなる。そして、組織の中間層が排されることで実際にはだれが現場を動かしているのか、誰が組織運営を円滑に行っているのかといったことに対しての知識が減少していくという。
次に、才能(能力主義)と不要とされる不安についてである。かつては労働者の評価は職人技といわれるような時間をかけて習得した特殊な技能を基準として行われていたが、現在では短期的なプロジェクトにいかに適応できるかといったコミュニケーション能力や、次々に新しい技術を学ぶことのできる潜在能力などによって測られることになっている。長期的に能力を養うことができず無力化し、過去の実績に関わらず、潜在的な能力がないとされれば、役に立つとも価値があるともみなされず、不要とされてしまう。このため労働者は不要とされる不安を抱きつつも、そこから逃れるために常に新しい技能を身につけつつ、潜在能力が高いということを示し続けなければならないという圧力にさらされる。
第三は消費政治についてだ。柔軟な組織のもとで社会資本を失い、潜在能力評価システムのもとで不要とされる不安にさいなまれるという状態は、個人の消費活動にも反映される。手に入れていないものへの強烈な欲望と、手に入れたものに対する欲望の減少がその特徴であり、セネットはこれを自己消費的情熱と呼んでいる。また、このような自己消費的情熱が人々の政治行動にも影響を与えているという。このような自己消費的情熱は、人々の政治行動にも影響を与えており、ほとんど政策的には変わらないが、些細な部分で差異化を図る政党を支持することや、政策を理解しようとしないこと、政治や政治家を信用しないことといった政治的態度に反映されているという。
このようにセネットは資本主義の変貌の様子を論じているのであるが、そこでは崩壊しつつある旧来の社会資本主義がノスタルジックに回顧されているわけではない。セネットはこのような資本主義の変容の中で、その変容の波に乗りながら、新しい社会資本主義を形成するための核となるような文化を考察している。そのキーワードは、物語性、有用性、職人技である。
物語性とは、アイデンティティに関係する概念で、「出来事を時間のなかで結びつけること、経験を積み上げていくこと」とされている。セネットは、短期的な関係性やプロセスを繰り返していくなかで、自らの物語性を喪失していく現在の労働者にとって、一定の長期的な視点を持てるような基盤が必要だと論ずる。具体的には、労働組合による年金や健康保険の引き受け、託児所や仕事場での共同体の創出、職業紹介などで、これによって、若者が経験を積み上げていくことを可能にする。またジョブシェアリングを行うことで、継続的に働き続けることが可能になり、雇用と解雇の繰返しからくる不安を解消できる。さらに、教育、住宅、基本所得といった各個人に社会的生活をするための基盤となるような基本資本(ベーシックキャピタル)を提供することなどがその具体的な方策である。それによって、官僚制度に基づいた企業における帰属意識の喪失を他の社会資本による帰属に置き換えていくのだ。
次に、有用性とは、「自己を有用だと思うこと」であり、これは他者に貢献していると社会的に認められることから発生する。現在の能力主義における不要とされる不安を解消するためには、自分の行う仕事は社会的に意義があり、有用性を持っていると確信できなくてはならない。だがむしろ、不要とされる不安を生み出しているのは、企業に所属して行う労働のみが有用だという社会的通念であり、その不安を解消していくためには、多様な形での仕事の評価がなされる必要がある。そこで、セネットは家事労働やボランティアといった社会的な認知から排除されてきた労働に、国家が有益性を感じられるような地位を与えるべきであると主張する。家庭での無償の仕事に賃金を支払えば、男性・女性関係なく家庭での子育てや介護などを有用性のあることとして行えるようになる。つまり、能力主義の下での不要とされる不安を解消していくためには、国家が今まで公的な認知から外れていたような領域に有用性を確保するようなステータスを与えることが重要なのである。
最後に、職人技(クラフトマンシップ)とは、「それ自体を目的として何事かを行い、成し遂げたことに対する満足感を得られるような価値観」のことである。現在の流動的な経済のもとでは、長期的な経験を積むことで身につけた技能をもとに仕事を行い、満足感を得ることが難しくなっている。短期的なプロセスを続けるもとで仕事の意義を失い、組織への帰属意識がなくなりつつある現状では、自分の技能にコミットメントし、自己の仕事を上手く行うことに満足感を得る職人技の価値観が一つの対抗的価値観になるのだという。 またこれは、必ずしも企業利益の追求のみを仕事の目的とするのではなく、モラルをもった経済活動を行っていくための価値観にもつながる。
以上がセネットの主張の大枠であるが、重要なのはこれらの主張をただ鵜呑みにすることではない。むしろ必要なのは、具体的に現在の日本の状況の中で、このような議論がどのような有効性を持ちうるのかという観点から参照する姿勢だろう。セネットのような議論も、例えば、ヨーロッパの国の状況に当てはめるのと日本の状況に当てはめるのでは、大きく異なる。社会の変容を踏まえつつ、それをよりよいものにしていくためには、現実に即した形で、このような議論をうまく活用していくことだろう。
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