元山ガールの放浪記

感動した映画とかテレビとか本とか・・・いろんな作品について、ちょっとだけマニアックな視点から、気まぐれに書いてます。

「ブラッシュアップライフ」!バカリズム脚本をTVディレクターが分析

2024年01月07日 | 日記
年末に一挙再放送していた「ブラッシュアップライフ」。
改めて見て脚本の完成度に惚れ惚れしてしまったので、このドラマの脚本のどこがすごいのか、ちょっと考えて書いてみたいと思う。
(私は職業がディレクターですが、あくまで一視聴者としてこのドラマを見た感想です。)

最初のうちは、「女子トークのわかり味」とか「地元あるある」とか、5分に1度は笑える小ネタ満載の快作という風情で、
それだけでも十分面白かったし毎週楽しみにしていた。ところが終盤に向かう8話で、一気に物語の位相をガラッと変わってしまう事実が発覚。
この「ターニングポイント」と、そこで明かされる物語の「本当の目的」が衝撃的で、一気に感動作に姿を変えたところが、本当に鮮やかで、
「素晴らしい脚本」という印象を残したんだと思う。
(もちろん、このターニングポイントを圧巻の演技で表現した安藤サクラさんあっての素晴らしさだとも思う。)

ここで生じてきたのが、この構成、一体どんなテンプレを使っているのだろう?という疑問だ。
一般に日本の物語のテンプレは「起承転結」、西洋のテンプレは「三幕構成」というのがよく言われるところ。
実はこのテンプレ、フィクションの世界にとどまらず、事実を扱うドキュメンタリーの世界でもよく使われている。
ある程度既存のフォーマットを使ってシーンを組み立てていくことで、バラバラに存在していた事実や情報が
「ストーリー」という一本の線になり、見る側により強いメッセージを伝える効果があるからだと思う。
意識的にせよ、無意識的にせよ、プロの制作者はある程度、こうしたテンプレを使って、日々物語を紡いでいる。

ここでブラッシュアップライフに戻ると、この物語は「起承転結」スタイルに近いのではないかと感じた。
いわゆる「ハリウッド作品」などは「三幕構成」がベースになっていて、一つの物語の中に2つの大きな山場を作る構成が基本だ。
この構成を使うことで、同じ時間でもジェットコースターのように緩急の差がはっきりするため、物語の緊張感を維持しやすくなる。
テレビ制作の現場で使われる「ペタペタ」という付箋を並べた構成表で見るとこの傾向は明らかで、
30分でも60分でも、視覚的に二つの山ができるように付箋の分量を整えていくと、確かに見やすくなっていくから不思議だ。
一方、「起承転結」スタイルは、基本的には一山のため、「転」に至るまでは、よりゆるやかに物語が展開する傾向がある。
ざっくりいうと、こうした違いがあるため、少し構成論をかじった日本の制作者は、「三幕構成」に利があるように考えがちだし、
実際多くの人が取り入れようと試みている。
ところが、「ブラッシュアップライフ」の1話~10話を一つの物語として見ていくと、
立ち上げはシャープで明快ながら、そのあとは割と平坦な道のりが続き、6話目の後半あたりから徐々に上昇、
9話目、10話目で一気に山場を迎える「一山スタイル」に見える。
これはつまり「起承転結」スタイルとみることができるのではないか。
しかも起承転結は、下手をすると中だるみを招く難易度の高いものとされる中、この脚本はうまく乗り切っている。

なぜなのか?それを可能にしているのが、この物語の「特殊性」にあると思う。
それは、物語の本当の目的を、かなり終盤まで明かさない、という点だ。
通常、物語の「鉄則」とされるのは、冒頭部分で「主人公と、置かれた環境、その人物が果たすべき目的=セントラルクエスチョンを明確にする」ことだ。
これがすんなり打ち込めれば、その後は、幾多の試練をこえて、主人公はそれを達成できるのか?という目線で見ていくことができる。
銀河に平和を取り戻すため反乱軍に加わったルーク・スカイウォーカーしかり、
ドラゴン・ボールを探して旅に出る孫悟空しかり、通常は冒頭から主人公の目的はかなりはっきりしている。
逆に、この「セントラルクエスチョン」さえはっきりしていれば、日常のどんなささやかな出来事も物語化できる。
「3歳の子供が初めてのおつかいに成功できるのか」、という目的があれば、
信号の横断や、買い物袋のにおいをかぐ猫の登場、といった平凡な出来事も、立ちはだかる壁として見ることができるからだ。
しかし「ブラッシュアップライフ」に関しては、肝心のセントラルクエスチョンが不明瞭なまま、後半まで物語が進んでいく。
一応「人間に生まれ変わるために徳を積む」という目的は提示されるものの、その手段もはっきりしないし、
主人公も職業など目先を変えてはみるものの、なぜか根本解決に向かっているようには見えない。
この状態は、ふつうに考えたら物語を進める上では不利なはずだ。

ところが終盤、「親友の死」という隠されていた真実が明かされることで、物語は一気に動き出す。
私自身、「死ぬのは毎回主人公の側」という思い込みを抱いていたため、これには結構衝撃を受けた。
さらに、何度生まれ変わっても、職業を変えてみても、本質的にたいして成長していなかった主人公が、
この最後の大転換によって、初めて自分にとっての人生の意味に気づき、本気で生きなおす展開は、
最初に見えていた「ちょっと笑えるお話」の枠を大きく飛び越えて、強いメッセージ性を帯びていたと思う。
そんな濃密な展開が、最後の「転」のあとに一気に展開したことで、それまでのゆるやかな時間の流れもある種の伏線となり、
最後の人生をより強烈に見せていたのだ。

構成の話に戻ると、「三幕構成」の方が盛り上がるから使う、という考えはありだとは思うけれど
そこに頼らなくても面白くする手段はあるし、もともと日本が持っていた「起承転結」の構成も、使い方によっては
すごく可能性あるんじゃないか、というのがこの脚本から感じたことだ。
YOASOBIの「アイドル」も、ドメスティックな「よなぬき音階」を使いながら、世界にアピールする洗練された音に仕上げたともいわれるが、
日本人が習慣的に持ってる物語のテンプレにも、色んな可能性があるんじゃないかと思うのだ。
そんなちょっと壮大なことをつらつら考えてしまうくらい、ブラッシュアップライフの脚本はすごかった。
そして、そんな面白い脚本に触発されて、役者もスタッフも全力でモノづくりしたから、こんな素敵な作品に仕上がったんだろうな、と思う。


コロナ禍の世界に炸裂した「野ブタ。をプロデュース」

2020年06月16日 | 日記
野ブタ。をプロデュースが面白い。
コロナ禍で新作ドラマが作れない中、ピンチヒッターとして登板したこの作品、
実は初めて見たのだけど、これがとてつもなく刺さるし、深い。
「見たかったのはこんなドラマだよ」と思わず叫びたくなるほど、驚くほど面白い。
なんで、15年も前の作品がこれほどまでに新鮮で面白いのだろうか?

日々ネットサーフィンしつつ、木皿泉さんの著書を読みふけり、
その理由に思いをはせるうちに、ふと気づいた。
「そうか、コロナだからだ!」

放送当時はジャニーズ2人が主役のアイドルドラマかな?くらいに思った記憶がかすかにあるくらい。
その頃の自分は、1年をかけてきた大仕事が大詰めを迎える中、妊娠が発覚、
さらに気の緩みが招いた怪我で、人生の宝物のように感じていたクライミング生命を絶たれるか、という
崖っぷちのトリプルパンチみたいな状況にもがいていた。
そんな時に「学校という小さな世界」で全力でたたかう若者の物語に共感できたかどうかは分からない。
いや、人生の転換点にたった一人で立ち向かっているつもりになっていた視野の狭い自分は、
「もうとっくに通りすぎたつまらない世界の話」と決めつけて、見ようとすらしなかったのだろう。

でもこのドラマが描いていたのは、もっと広くて、普遍的な世界だった。
「小さな学校という世界の、いじめとかスクールカーストとかの問題」を仕掛けとして使ってはいるものの、
その裏にあるのは
「いつ終わるともしれない儚い日常の中に、確かな希望をすくいとろうとする物語」だった。

木皿泉さん夫妻は神戸の人だ。
この作品を書いたのは阪神・淡路大震災を経て10年。
多くの人の運命を変えた大災害から見かけ上は復興しても、心はまだ復興しきれていない・・・
そんなタイミングで書かれたこの作品に、無常観が漂うのは自然なことではないか。

一方、私を始め関東に住む人間にとっては、阪神・淡路大震災は、どこかふわふわとした
実感を伴わない出来事だった。
しかし、その後の東日本大震災、そして今真っただ中にあるコロナ禍。
「全てはうつりゆくもので、確かなものは数少ない」という現実を、もはや嫌というほど突きつけられている中、
この作品は、とてつもなく日本人の琴線に触れる作品に昇華してしまった気がする。

何気ない日常の中に浮き上がってくる刹那のきらめきのような感情。
決して美しいものや楽しいものだけではないから、気づかないふりをしたり、蓋をしたりして、封じ込めてきた感情。
そんなものを、このドラマはとてつもなく、精度の高い台詞でぐさぐさとこじ開けてくる。
結構残酷だし、辛いし、切ない。
でも、だからこそ自分ではない誰かのありがたさが胸にしみる。

ソーシャルディスタンスが常識となり、誰もが人とのコミュニケーションに戸惑いや制約を覚える中、
野ブタ。が描いた世界は、かつてないほどのリアリティを持って、
「人生にとって大切なもの」を問いかけてくるように感じている。






涙があふれて止まらない「てっぺん ~我が妻・田部井淳子の生き方~」

2017年11月21日 | 日記
女性初のエベレスト登頂者・田部井淳子さんの生き方を、夫の政伸さんがつづったというこの本。

正直、期待はしていなかった。
田部井さんのエピソードは、ご本人による自著や
同じくエベレスト女子登山隊に参加した読売新聞記者の北村節子さんの著書、
さらにはいくつもの番組で見聞きしていて、
今さら新しいこともないだろうと、知った気になっていた。

ところが...立ち読みのつもりでパラパラとページを繰りはじめると、
その手が止められなくなっていた。
観念して購入し、子供が寝付いた後の自宅で読みふける。
読み進むにつれ、涙がこみあげてきて止まらなくなった。
淳子さんを失った今の話から始まり、最後は淳子さんの闘病記で締めくくられているこの本。
でも、流れたのは全然悲しい涙ではなかった。
むしろ、自分でも驚くほど、暖かくて優しい涙だった。
そんな気持ちが後から後からあふれてきて胸がいっぱいになる、そんな本だった。

描かれているエピソード自体は確かに知っているものだった。
谷川岳の稜線で、政伸さんが登ってきた淳子さんに、
小豆をかけた雪渓の雪をあげたという出会いのエピソード、
尾瀬の帰りに偶然乗り合わせたバスで、淳子さんの渡した飴玉から、
政伸さんが結核で臥せっていたという意外な過去が明らかになる展開、
さらにはエベレスト登山の前に政伸さんがただ一つ出した条件が
「子供を産んでいってくれ」だったという話、
どれもたびたび目にしてきた、田部井夫妻の有名な逸話だ。

しかし、予想外だったのは、それをつづる政伸さんの目線だ。
エベレストのキャンプで妻が雪崩にやられながらも無事とわかると、
「最後まで頑張るだろうな、それが妻の性格。
 妻ならばもし残してきた家族に何かあっても、動じながらも心を整えて登って帰ってくる」と
迷いのない心情をつづる場面。
東南アジア最高峰から下山したものの、行方不明になった妻を案じつつも、
「大丈夫だろう」と息子とアメリカ横断に出かけてしまう場面。
どんな時も、政伸さんの目線は、淳子さんに対する深い理解と、
ゆるぎない信頼に裏付けられていた。
それはまるで、「愛とは何か」という答えそのもののように感じられた。

政伸さんのような「理解ある夫」がいたから淳子さんの偉業は成し遂げられた、
今まではそういう見方をしてきたように思うし、それも実際のところだと思う。
半年間の留守に嫌な顔一つせず、新居を立て、子育てを引き受けて待つ夫は、
今の時代ですらものすごく希少だ。
でも、夫婦というのは合わせ鏡のようなもので、政伸さんを自然とこうさせた
淳子さんは、やはりただ者ではなかったのだろうと改めて思った。

一度だけお会いしたことのある田部井さんは、「あっけらかん」といえるほど
さっぱりとした、明るい人という印象だった。
でもその明るさは、いわゆる「天然キャラ」とは違っていて
自分の役割を深く理解したプロ意識のようなものも感じさせた。

そういう二人だったから、成し遂げられた愛の形だったんだろうと思う。

二人の往復書簡には、数多く心に響く言葉があった。
中でも、心の底から励まされたのがこの言葉。
エベレスト登山中の8回目の結婚記念日に政伸さんが淳子さんに送った言葉だ。


「早いもので色々な思い出がありましたが、山の思い出としては世界一高いエベレストに
今お母さんがアタックしていることですね。すばらしいことですヨ。
これからも私たち家族はほかとは少し違っても、いろいろなことを計画し、
実行していきたいですね。あらためてこれからもよろしくね。」


まるで、一生懸命今を生きている
全ての女性たちへの応援の言葉のようだった。
淳子さん、政伸さん、素敵な人生を見せてくれてありがとうございます。



「黒部の山賊」に描かれたおとぎ話のような「黒部源流」

2016年08月28日 | 日記
三俣山荘で「黒部の山賊」を手にした。20年来知っていた本だが、読んだのは初めてで、予想との違いに驚かされた。これまでの「黒部」本にはないほのぼのとした空気に彩られた、どちらかというと明るい物語だったのだ。
黒部にまつわる名著は多い。吉村昭の「高熱隧道」をはじめ、冠松次郎の「黒部峡谷」、比較的新しいものだと志水哲也の「黒部八千八谷に魅せられて」などなど、どれも日本一深い大峡谷の、暗く凄惨がゆえの美しさと、そこに挑むパイオニア達の強い情熱を描いている。「黒部の山賊」もその手の本かと勘違いしていたが、内容は全く違っていた。薬師沢出会い付近の「カベッケヶ原」に現れるカッパ、埋めても埋めても出てくる雲の平の遭難者の白骨死体、高天原付近の鉱山跡にあるという佐々成正の埋蔵金の行方(これは今では鍬﨑山説が有力ですが)・・・なんだかB級オカルト感あふれる話題がユーモラスにつづられる中に、戦後のまだ原始の名残を残す黒部源流の開拓史がつづられていく。国家の命運をかけて行われた黒四の電源開発事業と同時代、すぐ近くの山域でありながら、そうした動きとは全く違うベクトルで、周縁に暮らすふつうの人々の山との関わりが、生き生きと描かれているのだ。その最たる存在が「山賊」たちだ。多くが大町の凄腕の猟師で、今のような装備も食糧すらもままならない中越冬をするなど、「化け物」級の山の実力者たちだ。しかし彼らのことを知る人は少なく、いずれ忘れ去られてしまうだろう。そんな忘却からの解放も、著者の伊藤正一氏の願いでもあるようだ。
著者の伊藤氏は今年鬼籍に入られたそうだ。一度もお会いすることはかなわなかったが、その名前は山に登れば自然と耳に入ってくる大きな存在だった。伊藤氏が情熱を注いだ黒部源流は、360度を山に囲まれた日本でも数少ない「奥地」だ。それゆえに閉ざされてきたが、中に入るとその懐は限りなく広く優しい場所でもある。伊藤氏はこの場所を、一部の熟練者だけが知る場所というよりは、ふつうの人々に開かれた世界として残していきたいと考えていたのだろう。そんな思いが、この本独特のおとぎ話のようにのびやかな世界観の中にあふれているようだった。

わくわくが止まらない!「外道クライマー」

2016年07月09日 | 日記
今じわじわ話題の「外道クライマー」という本を読んだ。
ぶっとんだタイトルもあり、一瞬手に取るのをためらうようなオーラを放つ本だが、
これが読み始めたらびっくりするほど面白い!

登山に多少関心のある人ならピンとくるかもしれないが、この本の著者の宮城公博氏は
2012年に那智の滝を登攀して逮捕された人物だ。
その後、本人のブログを見る機会があったのだが、
すぐれた記録とは裏腹に、内容がとにかく下品でえげつない(笑)。
年代的に直接見たことはないのだが、山ヤの間で語り継がれる「真砂の石舞台」ってこんな感じだったのかな・・・
と思ったりもしたが、剱の山中ならいざ知らず、
何気なくパソコンを開いて目にするブログとしてはあまりに変態的で、
その時はしばし記憶から抹殺したことを覚えている。

その著者が、まさかこんなに熱いハートとフェアな目線を持つ、好青年だとは!
やっていることは常人離れしているのに、気取りがないし、
笑いをとることを忘れず、誰とでも友達になれそうな雰囲気。
そのイメージのギャップにのけぞってしまうのが、
まず一つ目の驚きポイントだ。

冒頭で再現される、那智の滝の登攀事件。
夜陰に乗じて登ろうとたくらんでいた著者らを阻んだのは、滝そのものが放つ
圧倒的なな神々しさだったという。
「日本一に挑むのに、見つかって捕まることを気にし、こっそり登ろうなど、
とんでもない保身。夜明けを待ち、ここだというルートを見極め堂々と登るのが
クライマーとして沢ヤとして、滝に対する礼儀だ」

フェアだ、この人はとことんフェアなのだ。

基本、山や自然そのものは誰に対してもフェアだし、貴賤などないはずだ。
あるのは常に、己の限界と向き合う、生身の自分自身・・・のはず。
でも、山に登る側の「常識」が時としてそんな本質的な感覚を奪ってしまう。

この著者はそんな罠にとらわれることなく、ただ己の魂の導く場所へと突き進む...。
ある時は未踏の氷壁に、ある時は泥と蛇と虫が無秩序に入り乱れる熱帯のジャングルに。
ただ、冒険がしたい、その先が見たい、わくわくしたい・・・。


当然、このきゅうくつな社会がそんな純粋すぎる行動を許すはずもなく、
著者は仕事も失ってしまったという。
社会人としては「そりゃ、そうだろう」と思うところでもあるのだが、
そのあたりのやるせなさ、申し訳なさといった心のうちも、飾ることなく書かれていて一気に引き込まれる。

そして著者はその後の数年で、称名廊下の踏破、台湾の大ゴルジュ・チャーカンシー、
冬季のハンノキ滝の初登攀など、華々しい記録を打ち立てていく。
激流うずまく暗く冷たい谷底をへつり、雪崩の降りそそぐ脆い氷壁を攀じる。
張りつめた登攀の記録はまさに手に汗握る展開で、アルプス黄金時代の記録かと見まごうようなクラシカルで鋭い魅力を放つ。
特に、一度落ちただけでも致命的な状況がひしひしと伝わってくるハンノキ滝の登攀記録は、
本当に心臓がバクバクした。

一方で、この本のメインとなるのは、これとは全く毛色の違う「タイのジャングル」珍道中だ。
スコール降り注ぐ濁った川、アブや大蛇とのシュールなたたかい、
毒のある果物を食べて七点八倒し、今いち行動原理の読めない自称フォトグラファーの相棒を
時に生ぬるく見守り、時に殺意すら抱く・・・そんなバラエティ感とホモ・サピエンス愛にあふれた抱腹絶倒の旅の記録だ。
特に大蛇とのたたかいのくだりは、そのまさかの顛末に大笑いしつつ、
思い切り動揺したという著者の、気分の悪さに共感した。

とてもしょぼいが、自分も似たような思いをしたことがあった。
離島でジャングルを横断中、つかまえたカニを調理のため殺そうと、鉈を振り下ろしたところ、
ためらいから手元が狂い、足のはじっこを切り落としてしまったのだ。
その後もバタつくカニを見ながらも、なかなかとどめがさせない。
結局横にいた友人が見かねてとどめをさしてくれたが、その時の嫌な気持ちは、今も強烈に残っている。

タイのジャングルで出てくる様々なエピソードは、徹底してリアル、そして笑える。
だからこそ、読むと自分自身の記憶や経験と一体化して、共感できる。

凍てつく世界の初登攀と、熱帯のジャングル珍道中。
こんなにも対照的で色彩の違う二つの世界が、一つの本に同居してることが二つ目の驚きだ。
とってもぜいたく。

そして最後につづられていたこんな言葉。
「魂のふるえる大ゴルジュを夢みて、近所の里山のボロ壁やミニゴルジュにも魂を込めて登る」
と宣言する著者の哲学に、勇気づけられ、不覚にもちょっと涙ぐんでしまった。
岩や沢をかじったこともあるため、山という限られた文脈で想像できる部分もあるのだけれど、
それ以上にこれは日々生きてきた中で、自分自身に言い聞かせてきたことと、何だかとても似ていたのだ。

この世界に本当の未踏の地はほとんどなくなってしまった。
文字や映像表現の世界でも、すでに先人たちがたいていのものはやりつくしてしまい
残されたのはニッチの追求と、過去のものの組み合わせばかり・・・。
文化人類学の世界でも「未開社会は存在しない」というのが90年代からの定説だ。
この時代に生まれ、未知の世界に憧れる人たちの誰もが感じる大きなジレンマだと思う。

誰の足跡もついていない道を行きたいけれど、そんな場所は本当にあるのだろうか?
足元には舗装されたきれいな道が続いている。ここをたどれば何不自由なく綺麗な観光地に辿り着く。
でも、いつか本当に真っ白な雪原に出会った時のため、今はあぜ道でも泥沼でも進む方がいい。
大変だけどどうせ行くなら楽しいほうがいい。いや、楽しんでやろう。
自分自身もそんな自問自答を繰り返してきた気がする。

そんな疑問にも著者は鮮やかに回答する。
「たとえ目の前で美人女優がM字開脚をして誘ってきたとしても、沢ヤなら沢にいくのだ。
それが沢ヤだ。まあ、本当にそんな誘われ方したら、一発ヤッた後に沢だ。」

ってお前、冴羽遼か(笑)
とつっこみつつ、こういうしょーもない言葉の一つ一つが真理にも見えてくる。
下品さも、崇高さも、いっしょくたについつい笑えてしまう。
こんな新境地の作品に出合えたのが、最大の驚きだった。