元山ガールの放浪記

感動した映画とかテレビとか本とか・・・いろんな作品について、ちょっとだけマニアックな視点から、気まぐれに書いてます。

イモトのマッターホルン登頂

2012年09月30日 | 日記
今日やっていたイッテQのマッターホルン登頂企画。
ちょっと違和感を感じたのは私だけではないのでは。
最後のヘリのつり上げ、あれは一体何だったのだろう?

この5年以上、イッテQはすごく好きな番組で、よく見ている。
特にイモトは大好きだし、仕事で登山をして、それが視聴者に喜んでもらえるなんて
できることなら代わりたい、と本気で思う。
今日だって、小林カムイがまさかの敗退を喫した、
タイの祭りなんかは、イッテQならではの予測不能な面白さが全開だったと思う。
でもマッターホルンは何だか違った。
のっけから惰性というか、だらだらした感じがぬぐえなかった。

前回のアコンカグアは、画面から力不足と準備不足が見てとれた。
そこを強引に押し切ることなく、撤退。
妥当な判断だと思ったし、むしろ、ありのままを見せているところに、
フェアな清々しささえ感じた。
入念な準備で絶対登頂を目指すNHKのドキュメンタリーなどには
できない、リアルな面白さがあった。

でも今日のはどうだろう?
登るまでの過程も、何だか番組完成のための先を急ぐようで感情移入できない。
(グレートサミッツで同じ過程を見ちゃってるから余計かもしれないけど。)
登頂手前からのシーンは、イモトがよい顔をしていたので、
よかったなぁ、という気持ちになれるのだが、
最後の最後にヘリでつり上げという反則技では、見てきた方が裏切られたような気持ちになる。
なぜ、ふつうに下山しなかったのだろう?

最近では、登山人口も若い人にまで広がり、
登山の道具やスタイルも多様化していて、
かつての「ワンゲル的な常識」に必ずしも縛られる必要はなくなってきた。
でも、登頂の喜びには、必ず責任もつきまとう。
それは人が課したルールではないから、捉え方には幅もあるだろうし、
人によって目指す山も実力もまちまちだから、一概には言えない。
でも、どんな状況であっても山に真摯に向き合う気持ちを忘れてはいけないと思うし、
それがある人は輝いて見える。

個人的には最近(だいぶ前だけど)の山番組の中で、ダントツに輝いていた人といえば
NHKの「白夜の大岸壁」に出ていた山野井(長尾)妙子さんだと思う。
頂上についた時に、あれほど幸せな気分になれた山番組は、他に思いつかない。
今年の「エベレスト」もよかったけれど、輝きという意味では、
山だけに人生をかけてきた妙子さんには誰もかなわなかったと思う。
当然だけど。

そんなわけで、イモトのヒマラヤ行きはちょっとひっかかる。
彼女のファンには変わりないので、彼女らしい輝きを見せてくれるのを
期待はしているのだが・・・。
栗城史多のように、メディア的には斬新で面白いんだけど、登山家としては??な人には
頼むからなってほしくないと思う。

土門拳の李香蘭

2012年09月29日 | 日記


リサーチをしていたら、美しい写真に目が釘付けになった。
肖像写真で知られる土門拳さんが撮影した李香蘭(山口淑子さん)の写真だ。
有名な写真のようだが、私にとっては初めての写真。
吸い寄せられる、とはこのことだと思った。

北京に留学していた若き日の山口さんは、
いよいよ日本軍が攻めてくるという時、学生集会に参加したという。
そこで、攻め入る日本軍に対し、どう立ち向かうかという発言を求められた彼女。
自らの親友らが次々と、果敢に戦うという宣言をする中、
張り裂けそうな思いで口を開いた彼女は「私は北京の城壁に立ちます」
と答えたそうだ。

その言葉の真意は、歴史にうとい私にはさっぱり分からないのだが、
この写真を見ると、彼女が北京の城壁に立つ姿が
なぜかありありと目に浮かんでしまう。
というよりも、彼女はいつもそうやってある種の「境界線」上に
立ち続けてきた人なのだろう。

人の外見は、内面を映し出すというが、この写真は見事にそこに成功している。
というよりそこを追求し、道を開いてきた大写真家の作品だから、
そもそもそんなこと私が言うのもおこがましいのだが、
人間の内面というのは、思った以上に表面に表れているのかもしれない。
ならば、美しくもない自分は、余計に気を引き締めて生きていかなくてはいけないんだろうな。



中国・過去と今が溶け合う国

2012年09月25日 | 日記
最近、中国語を学んでいる。
別に興味があったわけじゃない。
仕事で必要だから始めたのだ。

外国語を学ぶのは好きだったけれど、それは「外国語」だから。
日本とは違う風景、日本人とは違う価値観、
グローバリゼーションとやらが、この世界を完全に平たくしてしまう前に
触れておきたい、土着的なざらっとした感触。
その言葉を使うことで、そんなものに接したかったのだ。

その点「中国語」は魅力が薄い。
地理的に近い国の言葉で漢字を使うから、何だか日本語の延長のように感じる。
しかも学ぶのは基本「普通語(プートンホア)」。
日本の26倍もある広大な国土を支配するために
漢民族が全土に普及させているいわば「支配者の言語」だ。
それは、私が求める「ざらっとした感触」とはどうにも結びつかなかった。

しかし、それでも発見はあるものだ。
最近の最大の発見の一つ、それは中国語には何と「時制がない」ということだ。
外国語といえばまず「英語」を学ぶ日本人にとって、
動詞の時制変化は、乗り越えなくてはならない大きな関門だ。

draw-drew-drawn
swim-swam-swum
run-ran-run

なぜそうなるか、などはお構いなく、とにかくこれを覚えないと話にならない。
日本語だって形こそ違えども、時制がある。
「私は~しました。」の「た」がそうだ。
つまり英語世界でも日本語世界でも、過去・現在・未来は何らかの切れ目を伴う別のカテゴリーである。
それは言語と、その言語を使う人間の思考の根幹なのだろう。

ところがだ、中国語にはこの時制が「ない」のだ。
「私はご飯を食べた」という時も「私はこれからご飯を食べる」という時も
「我吃飯(ウォーチーファン」という表現で言えてしまうのだ。
これは衝撃だ。

中国は、新興国と呼ばれる。
日本の後に経済発展を遂げ、今や経済大国の一員、つまり「最近になって西洋的思考を身に付けた国」
そんなイメージがあるのではないか。
しかし、上記の言葉一つとっても、中国人の発想が根本から違うことに気付かされる。
中国人にとって、「過去」と「現在」そして「未来」はどうやら「連続」したものなのだ。

1時間の遅刻は当たり前と考える彼と、10分の遅刻にいら立つ彼女。
お互いの違いを知ろうとしない限り、破局はまぬがれない。
よい例えではないが、きっと中国という国と付き合うにも、独自の時間感覚を知る必要があるのだろう。









ディテールの呪術  ~「夢売るふたり」に思うこと~

2012年09月23日 | 日記
先週末、駆け込みのレイトショーで西川美和監督の最新作「夢売るふたり」を見た。
前作までは、まだ世間的にも気鋭の若手監督という扱いだった気がするが、
今回は定番の実力派監督といった感じで、宣伝も地味ながら
着実に話題を呼んでいる感がある。

自分と同年代の女性監督、ということもあり
出世作となった「ゆれる」以来、西川監督の大ファンなのだが、
何気ない日常を描くように見せかけ、それを突如怒涛のサスペンスに変貌させてしまう
脚本には、毎回本当に驚かされる。

さて、今回の「夢売るふたり」はというと・・・前2作と比べると、
ストーリーの起伏としてはやや地味な印象を受けた。

ただ、「ディテール」の冴えわたり方が半端ではない。

松たか子演じる妻は、火災で全焼した店の開店資金を得るため、
夫に結婚詐欺をさせるという仰天の計画を思いつく。
しかし詐欺が軌道に乗るにつれ、当然夫は家に戻らなくなる。
予想していたことながら、やり場のない思いを募らせ一人家で夫を待つ妻の描写が
尋常ではなくリアルなのだ。

細かいことは避けるけれど、「これはさすがに男には分かんないだろーなぁ」
という、ある意味過激な描写がたびたび登場する。
一例をあげるとすれば、妻が家で一人待つ間、生理が始まったことに気付くという場面、
本当に言葉にならないものまで描写してくる監督だ。

西川監督が「初めて女性を描く」ということで話題となっている今作。
肝心のヒロインの内面に関しては、実は見ている私たちには謎だらけだ。
しかし、それでもなお、彼女の存在が強い印象を残すのは、
生身の女としての身体性を感じさせる描写力、西川流呪術的リアリズムのなせる技のようにも思った。





眠れないので

2012年09月23日 | 日記
今さらながらブログを初めてみることにした。

「表現」に関わる仕事をしている関係で、
この手の発信は、色々制約もあるので避けてきた。
仕事や日々の生活に追われていると、心の底にある思いに蓋をしてやり過ごせる面もある。

それでも最近、自分の中に表現しきれない澱のようなものがたまってきて、
まさにいてもたってもいられない衝動に駆られることがある。
いくら「表現」するのが仕事とはいえ、様々な制約の中でやっていると、
どうしてもとりこぼしてしまう思いはあるのだ。

10年くらい前まで時代に先駆けて山ガール(当時は単なる山女)だった頃は、
それはそれで、自分なりの表現もできていたのだけど、
最近はそれもなかなか叶わない。

ということで、ブログでも書いてみるかな・・・と思ったら即効できてしまった。

別にそんなに深刻な話を書くつもりもないし、
どうせ途中で忙しくなってきて滞るんだろうけど、
自分が日々感じた沫のような思いがネットに残って、
それを誰かが読んで何かを思ってくれるなら、
それはそれで素敵だな、と思う。