らくらくさんは明るく生きる

日蓮正宗の信徒が信仰生活の中で思ったこと感じたことを綴ります。内容は個人の見解によるものです。よろしくお願いいたします。

令和7年1月19日 折伏推進僧俗指導会: 折伏について

2025年01月20日 | 日記

折伏推進僧俗指導会がありましたので同じ地区の別のお寺さんに行きました。

他のお寺さんの御僧侶から御指導を受けたりお話しを聞く機会は地方に住んでいるからか少ないです。だからとてもよい機会でした。

今回の指導会は総本山大石寺の宗務院教学部長、そして折伏推進委員であられる御二方の御僧侶から御指導を受けることができました。ありがとうございます。よかったです。

ところで、折伏(しゃくぶく)って何?と、折伏について何も知らない人は知らないと思います。当然です。日蓮正宗のご信徒さん、および今回の指導会にご参加された方々はすでにご承知でしょうし、でもそうでない方から「折伏?何それ?」とたまに言われることもありますので、ふつつかですが私なりに、一般の方たちにも分かるように、私の理解を書かせていただきます。

誤りや問題点、疑問等、または感想などありましたらコメント等に是非お寄せください。

折伏とは、国語辞典をひも解くと、「煩悩や迷妄をおさえ、悪人や悪法を折(くじ)き伏せること。」「衆生を教え導くための二つの方法の一つで、煩悩の克服を主眼とする。」とありました(精選版 日本国語大辞典 )。

「折(くじ)き伏せる」や「克服」と聞くと、何だか強く激しいイメージがしておよび腰になるかもしれませんが、折伏とは、日蓮大聖人の仏法(教え)がいかに尊いかということと、自分がその教えを信じて得た経験と感動を少しでも多くの人に語り、みんなが幸せになるために間違った宗教とか考え方、間違った価値観などを捨てて、正しい御本尊様をいただいて、その御本尊様に向かって一緒にお題目を唱えようと勧めること。こうだと思っています。

語る感動は、信心をはじめてから、家族を以前より大切にできるようになって関係も明るくなってきた、それまでいろんなことでモヤモヤしていたのが物事をよいこともよくないこともはっきりと見ることができるようになって自信をもって何事にも取り組めるようになったとか、自分の得たことでいいのだと思います。自分自身が体験して感動したその体験と感動を他の人に伝えるのですから。素直に正直ありのままを語るのです。

さて、国語辞典で折伏を見たわけですが、一方折伏の項目にはこうも書いてありました。

せっ‐ぷく【折伏・折服】
相手の勢いや理論をくじいて、自分の思うとおりに支配すること→しゃくぶく(精選版 国語大辞典)

「相手の勢いや理論をくじく」については、日蓮正宗は謗法厳戒ですから、誤った宗教や考え方、そしてそれで人を惑わすことを正すという意味ならば、当たっているように思います。しかしその後に続く「自分の思うとおりに支配すること」。これは違いますよね。

自分と言う人間の思うとおりに他の人を支配(考えや行動などを規定し束縛する)すること。これはおかしな宗教ではよくあることです。例えば、教祖が神がかって授かったお告げ(要するに教祖という人の妄想)ではじまった宗教などはほとんどそうでしょう。妄想とは、「人が真実でないものを真実であると、誤って意識すること。また、そのような迷った考え(精選版 日本国語大辞典)」です。人の妄想によって人を支配し、そしてその支配された人はそれを信じて、はたして現実にその人は幸せになれるのでしょうか。なれるわけがありません。それはどこまでも、なにからなにまで現実でない非現実の妄想なのですから。

お告げを例にあげましたが、教祖(教祖のような人を会長と呼ぶ団体もあります)という人の欲と置き換えてもいいでしょう。信じるものが、その人の欲のためならば、その人の欲をいくら信じても信じる自分自身は幸せになれるわけがないのです。当たり前のことです。

しかし人は何かにすがりつきたい必死の思いがあるからこそ、何かのきっかけで間違ったものを信じ切って身も心も委ねてしまう。そういう弱さがある。私もそういう弱い人間です。これを認めます。

しかし、これこそ折(くじ)き伏せなければならないこと。そういうことなのです。

弱さゆえに、知らず知らずのうちにも誤った宗教やその他いろんな間違ったものに心を支配されてしまう。結果として悩み苦しみは消えず、さらに間違った方向に進んでしまう。これを断ち切るには、正しい御本尊様に相対してお題目を唱え続けること。ここからはじめなければなりません。

『寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき。』

『寂光の都でないなら、どこも皆苦の世界である。本覚の栖を離れて、どんな楽しみとなるだろうか。願くは「現世は安穏であり、後生は善処に生れる」と仰せの妙法を持つことのみが、ただ今生には真の名聞であり、後世には成仏の手引きとなるのである。すべて心を一にして、南無妙法蓮華経と我も唱え、他人をも勧めることが、今生に人界として生まれてきたことの思い出である。』

(持妙法華問答抄 御書300頁)

日蓮大聖人の教えは、人が自分勝手に想像しただけのことであったり自分はこうありたいと思うだけの非現実的な妄想や、誰かが自分のために願う欲を説いている教えではありません。その教えは私たちが今、これから先も、真に幸福になるための道を説いておられる教えであり、真実が真実としてきちんとあって、その真実が幸福であるための教えです。

大聖人の教えを信じて「南無妙歩蓮華経」と一緒に唱えませんかと、こんなに弱い私でも、少しでも多くの人に語ってゆきたいと思っています。

今回は写真はありません(すみません)。


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