長文です。
姉ラナが旅立った日の夕方、前日から寝てない私、泣きつかれた私は、ラナの冷たくなった手を、いつもどおり握って眠ってしまいまいした。
その時に見た夢、それは、広い草原で気持ちのいい風が吹いている場所、すごく気持ちのいい風で、見渡す限り草原ときれいな川、やわらかな日差しのその場所を、若いときのように、生き生きと走り回る姉ラナの姿、嬉しそうに走る姉ラナは、私のところに来て、飛び跳ねました。
私『姉ラナ走れてるやん!治ったんや!』と言うと、嬉しそうに私の周りを、歩いていました。
目が覚めた私の横には、眠ったままの動かない姉ラナがいました。
不思議と気持ちが少し和らいでいました。
冷たい姉ラナの手を握り、姉ラナの体を撫で、止まることなく流れる涙、姉ラナに語りました。
『ごめんね姉ラナ、ママは一人で姉ラナを逝かせてしまったよ』
『姉ラナ覚えてる?』と思い出話。
ラナパパは私が寝てる間に、姉ラナの棺になりそうなダンボールをもらいに行ってくれていました。
でも私は、今日は姉ラナと最後に寝たいからといつもどおり、布団で、私とラナパパの間に姉ラナを寝かせ、泣きながらパパと二人で姉ラナを撫で続けました。
5月5日、姉ラナを火葬場へ。
棺に入れる姉ラナを抱きしめ、謝ることしかできませんでした。
棺には、姉ラナが寂しくないように、私とラナパパの写真を2枚、姉ラナの枕元に入れました。
そして、私は、私の代わりに、自分の髪の毛を切り、姉ラナの横に入れました。
かわりに姉ラナの尻尾の毛をもらいました。
maikさんと、秀くんが最後の見送りをしてくださいました。
火葬場に着き、初めて姉ラナにありがとう、本当にありがとうと伝えられました。
火葬される姉ラナを、泣き叫び名前を呼ぶことしかできませんでした。
姉ラナは小さな骨壷になって帰ってきました。
骨壷に入った姉ラナに『姉ラナ、お家に帰るからね』と伝え胸にしっかり抱きました。
姉ラナの祭壇を作りたくて、私の姉の家に行ったら、姉の旦那さんが作った机と椅子を使って良いよと言ってくれました。
もって帰って姉ラナの祭壇を作るとまた涙が…。
この日から私は、家にいると泣くことしかできなくなりました。
GW開け、周りを心配させてくない私は、涙をこらえ、できるだけ明るく振舞いました。
でも自然に出てくる涙…コンタクトの調子が悪いと嘘をついて涙を流していました。
でも周りは気づいていたみたいですが。
家に帰ると、扉を閉めた瞬間あふれる涙、祭壇の前に行っては骨壷を抱いて、戻ってきて、と泣きくれる日々、夜は睡眠薬なしでは寝れなくなりました。
姉ラナが旅立って3日後、骨壷を抱いて寝てしまった私、姉ラナが近くにいるようですごく安心して睡眠薬なしでうたた寝ができました。
帰ってきたラナパパに、今ラナママの背中に、いつもみたいに姉ラナが背中合わせて寝てたわ、と言われました。
安心して寝れた理由がわかりました。
人はこんなにも涙が出るんやなと思うくらい泣きました。
台所にも立てなくなりました。
台所から見える和室、姉ラナがいなくなった和室を見ると、動悸がして涙が止まらなくなるから、リビングの扉を開けると、姉ラナの大好きなソファーに姉ラナがいないから、扉を開けるのもいやでした。
祭壇の前に行っては毎日骨壷を抱いていました。
このままでは、姉ラナが心配するから、姉ラナのためにも立ち直らないと、と思いながらも、あふれる涙。
私は新しく犬を飼おうとラナパパに告げました。
姉ラナの変わりといったら次に来る子がかわいそうやけど、姉ラナのいなくなった空間を埋めたいと。
maikさんは、心配してくれて、姉ラナにと写真たてを作ってくれたり、本当に支えてくれました、自分を責めないでと、メールを頻繁にくれました。
友人も、姉ラナの話したくなったら、夜中でも良いから電話して、飛んでいくから、とメールをくれました。
前に進まないといけないと言う気持ち、姉ラナはいないのに、何で私は生きているんやろうと思う日々、毎日が辛かった…。
そして、どうしても納得のできない姉ラナの死。
私は毎日仕事の合間にパソコンで姉ラナの症状を調べました。
そして…誤嚥性肺炎…姉ラナとまったく同じ症状でした。
吐いたものが肺に入ってしまう、嘔吐がある場合注意が必要、前庭疾患で疑う病気にも入っていました。
パソコンを前に声をあげて泣きました。前庭疾患だけではなかった。
前庭疾患で死亡率はほぼないこと、これが私の納得できない理由でした。
ラナパパは、パソコンを前に怒りをぶつけていました。
ただ症状が似てるだけ、誤診の証拠はないけれど、やはり誤診に近いと私たちは思っています。
聴診器さえあてず、姉ラナに触れたのは、宙に浮かせたときだけ、私が姉ラナを殺してしまった…その日から私はまた、自分を責め続けました。
もっとちゃんと見てください、と医者に言えばよかった、ちゃんと姉ラナの症状を、私が伝えれてなかったかもしれない、あの時もっと先に症状を調べておけばよかった、私が姉ラナを殺してしまったかもしれない、あの病院に連れって行った私が姉ラナを…毎日そればかり。
姉ラナに対しての罪悪感ばかり、姉ラナは本当は助かったかもしれない、と言う思い。
『姉ラナの元へ逝きたい』それが、私の口癖でした。
たまたま持った包丁が滑って手首を切った私。
心配するラナパパを横目に、私はもう少し左なら血管切れてたから、姉ラナのとこいけたかも知らんのにな、と正直思いました。
今思えば、こんなこと姉ラナが喜ぶはずもないのに。
そのときの私には、姉ラナがすべてでした。
毎日姉ラナは夢に出てきてくれました。
睡眠薬が抜けずに朝はふらふらでしたが、姉ラナが夢に出てきてくれるのが嬉しかった。
毎日毎日泣きました。
こんなに涙はでるんやとほんま思うくらい泣きました。
家にいると夫婦でため息ばかり、完全に5月4日から、笑いが消えました。
我が家で飲み会をしていた、友人は姉ラナのために皆で時間を合わせて集まってくれました。
maikさんは私の、暗いメールを毎回受け止めてくれて、励ましてくれました。
高校からの友達も、頻繁にメールをくれました。
このままやったらあかん、前に進むために頑張らないと、そう思いました。
姉ラナが旅立った日の夕方、前日から寝てない私、泣きつかれた私は、ラナの冷たくなった手を、いつもどおり握って眠ってしまいまいした。
その時に見た夢、それは、広い草原で気持ちのいい風が吹いている場所、すごく気持ちのいい風で、見渡す限り草原ときれいな川、やわらかな日差しのその場所を、若いときのように、生き生きと走り回る姉ラナの姿、嬉しそうに走る姉ラナは、私のところに来て、飛び跳ねました。
私『姉ラナ走れてるやん!治ったんや!』と言うと、嬉しそうに私の周りを、歩いていました。
目が覚めた私の横には、眠ったままの動かない姉ラナがいました。
不思議と気持ちが少し和らいでいました。
冷たい姉ラナの手を握り、姉ラナの体を撫で、止まることなく流れる涙、姉ラナに語りました。
『ごめんね姉ラナ、ママは一人で姉ラナを逝かせてしまったよ』
『姉ラナ覚えてる?』と思い出話。
ラナパパは私が寝てる間に、姉ラナの棺になりそうなダンボールをもらいに行ってくれていました。
でも私は、今日は姉ラナと最後に寝たいからといつもどおり、布団で、私とラナパパの間に姉ラナを寝かせ、泣きながらパパと二人で姉ラナを撫で続けました。
5月5日、姉ラナを火葬場へ。
棺に入れる姉ラナを抱きしめ、謝ることしかできませんでした。
棺には、姉ラナが寂しくないように、私とラナパパの写真を2枚、姉ラナの枕元に入れました。
そして、私は、私の代わりに、自分の髪の毛を切り、姉ラナの横に入れました。
かわりに姉ラナの尻尾の毛をもらいました。
maikさんと、秀くんが最後の見送りをしてくださいました。
火葬場に着き、初めて姉ラナにありがとう、本当にありがとうと伝えられました。
火葬される姉ラナを、泣き叫び名前を呼ぶことしかできませんでした。
姉ラナは小さな骨壷になって帰ってきました。
骨壷に入った姉ラナに『姉ラナ、お家に帰るからね』と伝え胸にしっかり抱きました。
姉ラナの祭壇を作りたくて、私の姉の家に行ったら、姉の旦那さんが作った机と椅子を使って良いよと言ってくれました。
もって帰って姉ラナの祭壇を作るとまた涙が…。
この日から私は、家にいると泣くことしかできなくなりました。
GW開け、周りを心配させてくない私は、涙をこらえ、できるだけ明るく振舞いました。
でも自然に出てくる涙…コンタクトの調子が悪いと嘘をついて涙を流していました。
でも周りは気づいていたみたいですが。
家に帰ると、扉を閉めた瞬間あふれる涙、祭壇の前に行っては骨壷を抱いて、戻ってきて、と泣きくれる日々、夜は睡眠薬なしでは寝れなくなりました。
姉ラナが旅立って3日後、骨壷を抱いて寝てしまった私、姉ラナが近くにいるようですごく安心して睡眠薬なしでうたた寝ができました。
帰ってきたラナパパに、今ラナママの背中に、いつもみたいに姉ラナが背中合わせて寝てたわ、と言われました。
安心して寝れた理由がわかりました。
人はこんなにも涙が出るんやなと思うくらい泣きました。
台所にも立てなくなりました。
台所から見える和室、姉ラナがいなくなった和室を見ると、動悸がして涙が止まらなくなるから、リビングの扉を開けると、姉ラナの大好きなソファーに姉ラナがいないから、扉を開けるのもいやでした。
祭壇の前に行っては毎日骨壷を抱いていました。
このままでは、姉ラナが心配するから、姉ラナのためにも立ち直らないと、と思いながらも、あふれる涙。
私は新しく犬を飼おうとラナパパに告げました。
姉ラナの変わりといったら次に来る子がかわいそうやけど、姉ラナのいなくなった空間を埋めたいと。
maikさんは、心配してくれて、姉ラナにと写真たてを作ってくれたり、本当に支えてくれました、自分を責めないでと、メールを頻繁にくれました。
友人も、姉ラナの話したくなったら、夜中でも良いから電話して、飛んでいくから、とメールをくれました。
前に進まないといけないと言う気持ち、姉ラナはいないのに、何で私は生きているんやろうと思う日々、毎日が辛かった…。
そして、どうしても納得のできない姉ラナの死。
私は毎日仕事の合間にパソコンで姉ラナの症状を調べました。
そして…誤嚥性肺炎…姉ラナとまったく同じ症状でした。
吐いたものが肺に入ってしまう、嘔吐がある場合注意が必要、前庭疾患で疑う病気にも入っていました。
パソコンを前に声をあげて泣きました。前庭疾患だけではなかった。
前庭疾患で死亡率はほぼないこと、これが私の納得できない理由でした。
ラナパパは、パソコンを前に怒りをぶつけていました。
ただ症状が似てるだけ、誤診の証拠はないけれど、やはり誤診に近いと私たちは思っています。
聴診器さえあてず、姉ラナに触れたのは、宙に浮かせたときだけ、私が姉ラナを殺してしまった…その日から私はまた、自分を責め続けました。
もっとちゃんと見てください、と医者に言えばよかった、ちゃんと姉ラナの症状を、私が伝えれてなかったかもしれない、あの時もっと先に症状を調べておけばよかった、私が姉ラナを殺してしまったかもしれない、あの病院に連れって行った私が姉ラナを…毎日そればかり。
姉ラナに対しての罪悪感ばかり、姉ラナは本当は助かったかもしれない、と言う思い。
『姉ラナの元へ逝きたい』それが、私の口癖でした。
たまたま持った包丁が滑って手首を切った私。
心配するラナパパを横目に、私はもう少し左なら血管切れてたから、姉ラナのとこいけたかも知らんのにな、と正直思いました。
今思えば、こんなこと姉ラナが喜ぶはずもないのに。
そのときの私には、姉ラナがすべてでした。
毎日姉ラナは夢に出てきてくれました。
睡眠薬が抜けずに朝はふらふらでしたが、姉ラナが夢に出てきてくれるのが嬉しかった。
毎日毎日泣きました。
こんなに涙はでるんやとほんま思うくらい泣きました。
家にいると夫婦でため息ばかり、完全に5月4日から、笑いが消えました。
我が家で飲み会をしていた、友人は姉ラナのために皆で時間を合わせて集まってくれました。
maikさんは私の、暗いメールを毎回受け止めてくれて、励ましてくれました。
高校からの友達も、頻繁にメールをくれました。
このままやったらあかん、前に進むために頑張らないと、そう思いました。