ツアーバスの前にはバスガイドさん手製で今回のツアールート図が用意され、大体の位置やこれから行く場所など説明してくれます。
(博多祇園山笠ツアーIndex)
ツアー2日目の午後は佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社から陸路長崎に向かいました。
02
今回のバスガイドさんは、話が上手で聞きやすく、そして歌もうまい完璧なガイドさんでした。移動中も長崎の原爆被爆について米軍の計画から当日の状況、そして長崎の人たちのエピソードなど長崎を背景にした歌など歌ってくれながら、たんたんと説明してくれて、原爆の悲惨さや、知らない話などにあらためて認識を新たにしました。
03
5時前に長崎市のホテルに到着し夕食まで時間があったので、近辺を歩きました。
ホテルからすぐのところに原爆資料館があり、そこから少し下がったところに、いくつかの慰霊碑などがありました。
左は「平和の母子像」金城実=沖縄県読谷村在住の彫刻家の作品
男たちが戦場に向かったとき、女たちもまた勝利を祈った。しかし、広大な大陸や、はるかな海の島々では、数知れない人々の血が流されていった。そして遂に1945年、沖縄での惨劇についで、8月6日広島、8月9日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。
ああ、あの閃光の下で、幾万もの男女、無数の母と子が灼かれ、ひき裂かれ息絶えた。あれから40余年、いま第ニの核戦争へとシグナルは点滅し、地球は破壊の淵にある。戦争も核戦争も許してはならない。命あるすべてのものが生きる、この緑の大地を、地球を守ろう。それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再び、あの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。
右は着物を着た少女の像「平和を祈る子」中田秀和作
原子雲の下で すがって泣いた母さんに ナガサキの子供の悲しみを 二度とくりかえさないように 大砲の音が 二度となりひびかないように 世界の子供のうえにいつも明るく 太陽が輝いていますように
長崎平和の折鶴会
04
左の写真は「長崎誓いの火」
1983年8月、ギリシャ政府の特別の許可により、人類最後の被爆地長崎に送る聖火が、オリンピアの丘で採火されました。オリンピック以外の目的で聖火が ギリシャ国外に出るのは極めて例外的なことです。古代オリンピアでは「聖火が灯されている間は、すべての戦いが止められた」と言われています。この火が灯っている間は世界のどこにでも核戦争を起こさせない。 長崎を人類最後の被爆地とする『誓いの火』として、この火を点火し続けようという「灯火台建設」運動が始まり、 日本各地、そして海外からも寄付金が寄せられ、昭和62年(1987)8月1日に設置された。毎月9日と8月6~9日に点火されます。この火は「世界中からすべて核兵器が廃絶されるまで」灯し続けられます。
右の写真は電気通信労働者の原爆慰霊碑
05
右の写真は原爆落下中心地(原爆落下中心地公園)
1945年(昭和20年)8月9日11時02分、原子爆弾が投下された長崎市松山町。黒御影石の石柱が、原爆落下中心地を示し、周囲はこの上空約500mで炸裂したことを表す同心円の広場となっています。
当初の目標地点は小倉だった。
たまたま小倉上空の天候が悪かったため長崎に落とすことになったという。
06
左は原爆落下中心地公園に立つ子供を抱いた女性の像。(被爆50周年記念事業碑)その下のプレートには
1495 8.9 11:02 と刻まれています。
右の写真は原爆の炸裂により破壊された、浦上天主堂の遺壁。
この側壁は聖堂の南側の一部で、壁上の石像はザベリオと使徒です。浦上天主堂は爆心地の東北東約500mの場所にあり、1958年(昭和33年)にこの場所に移設されたもの。
07
原爆落下中心地公園の地表から少し下がったところに被爆当時の地層が保存されている。
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原爆落下中心地公園から10分ほど歩いたところにある平和公園に行きました。
この公園にもいくつかの慰霊碑があります。
写真は動員学徒の碑・長崎の鐘
原爆投下後、33回忌を迎えるにあたり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民原爆殉難者の冥福を祈り、あのようなむごたらしい原子原爆が再び地球で炸裂しないためにも、この鐘を鳴らし続けて、恒久平和の確立を世界の人々に訴えるため建立された。
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平和公園のシンボル平和記念像が見えてきました。
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高さ9.7m重さ30t 天を指す右手は原爆の脅威(過去)を水平に伸ばした左手は平和(未来)を示し、閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈る姿だそうです。この像は長崎県の島原半島の出身であり日本を代表する彫刻家の1人であった北村西望氏により1955年(昭和30年)に造られました。この像の顔は日本人でないような顔をしていますが、これは作者の話によると「人種を超越した人間」だそうです。
12
平和公園内の通路の両側に基礎部分が残してある長崎刑務所浦上刑務支所跡の解説。
13
平和公園から徒歩で20分ほどのところにある如己堂に来ました。
1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市に落とされた原子爆弾に多くの市民とともに被爆し、白血病と闘いながら被爆者への救護活動を続け、原爆に関する医学的な研究と多くの著作を残した永井隆博士が過ごされた畳2枚の小さな住居「如己堂」
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如己堂からさらに10分ほど歩いて行くと、浦上天主堂があります。
それを外から眺めただけで夕食の時間が近づいたので急いでホテルに向かいました。
2日目終わり
3日目につづく
博多祇園山笠ツアーIndex
(博多祇園山笠ツアーIndex)
ツアー2日目の午後は佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社から陸路長崎に向かいました。
02
今回のバスガイドさんは、話が上手で聞きやすく、そして歌もうまい完璧なガイドさんでした。移動中も長崎の原爆被爆について米軍の計画から当日の状況、そして長崎の人たちのエピソードなど長崎を背景にした歌など歌ってくれながら、たんたんと説明してくれて、原爆の悲惨さや、知らない話などにあらためて認識を新たにしました。
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5時前に長崎市のホテルに到着し夕食まで時間があったので、近辺を歩きました。
ホテルからすぐのところに原爆資料館があり、そこから少し下がったところに、いくつかの慰霊碑などがありました。
左は「平和の母子像」金城実=沖縄県読谷村在住の彫刻家の作品
男たちが戦場に向かったとき、女たちもまた勝利を祈った。しかし、広大な大陸や、はるかな海の島々では、数知れない人々の血が流されていった。そして遂に1945年、沖縄での惨劇についで、8月6日広島、8月9日長崎への非道な原子爆弾攻撃に至った。
ああ、あの閃光の下で、幾万もの男女、無数の母と子が灼かれ、ひき裂かれ息絶えた。あれから40余年、いま第ニの核戦争へとシグナルは点滅し、地球は破壊の淵にある。戦争も核戦争も許してはならない。命あるすべてのものが生きる、この緑の大地を、地球を守ろう。それぞれの「あの日」を生きつづける女たちの、たぎる思いをひとつにあわせ、再び、あの惨禍をくり返さぬ誓いをこめて、ここにこの像を建てる。
右は着物を着た少女の像「平和を祈る子」中田秀和作
原子雲の下で すがって泣いた母さんに ナガサキの子供の悲しみを 二度とくりかえさないように 大砲の音が 二度となりひびかないように 世界の子供のうえにいつも明るく 太陽が輝いていますように
長崎平和の折鶴会
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左の写真は「長崎誓いの火」
1983年8月、ギリシャ政府の特別の許可により、人類最後の被爆地長崎に送る聖火が、オリンピアの丘で採火されました。オリンピック以外の目的で聖火が ギリシャ国外に出るのは極めて例外的なことです。古代オリンピアでは「聖火が灯されている間は、すべての戦いが止められた」と言われています。この火が灯っている間は世界のどこにでも核戦争を起こさせない。 長崎を人類最後の被爆地とする『誓いの火』として、この火を点火し続けようという「灯火台建設」運動が始まり、 日本各地、そして海外からも寄付金が寄せられ、昭和62年(1987)8月1日に設置された。毎月9日と8月6~9日に点火されます。この火は「世界中からすべて核兵器が廃絶されるまで」灯し続けられます。
右の写真は電気通信労働者の原爆慰霊碑
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右の写真は原爆落下中心地(原爆落下中心地公園)
1945年(昭和20年)8月9日11時02分、原子爆弾が投下された長崎市松山町。黒御影石の石柱が、原爆落下中心地を示し、周囲はこの上空約500mで炸裂したことを表す同心円の広場となっています。
当初の目標地点は小倉だった。
たまたま小倉上空の天候が悪かったため長崎に落とすことになったという。
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左は原爆落下中心地公園に立つ子供を抱いた女性の像。(被爆50周年記念事業碑)その下のプレートには
1495 8.9 11:02 と刻まれています。
右の写真は原爆の炸裂により破壊された、浦上天主堂の遺壁。
この側壁は聖堂の南側の一部で、壁上の石像はザベリオと使徒です。浦上天主堂は爆心地の東北東約500mの場所にあり、1958年(昭和33年)にこの場所に移設されたもの。
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原爆落下中心地公園の地表から少し下がったところに被爆当時の地層が保存されている。
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原爆落下中心地公園から10分ほど歩いたところにある平和公園に行きました。
この公園にもいくつかの慰霊碑があります。
写真は動員学徒の碑・長崎の鐘
原爆投下後、33回忌を迎えるにあたり、動員学徒、女子挺身隊、徴用工、一般市民原爆殉難者の冥福を祈り、あのようなむごたらしい原子原爆が再び地球で炸裂しないためにも、この鐘を鳴らし続けて、恒久平和の確立を世界の人々に訴えるため建立された。
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平和公園のシンボル平和記念像が見えてきました。
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高さ9.7m重さ30t 天を指す右手は原爆の脅威(過去)を水平に伸ばした左手は平和(未来)を示し、閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈る姿だそうです。この像は長崎県の島原半島の出身であり日本を代表する彫刻家の1人であった北村西望氏により1955年(昭和30年)に造られました。この像の顔は日本人でないような顔をしていますが、これは作者の話によると「人種を超越した人間」だそうです。
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平和公園内の通路の両側に基礎部分が残してある長崎刑務所浦上刑務支所跡の解説。
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平和公園から徒歩で20分ほどのところにある如己堂に来ました。
1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎市に落とされた原子爆弾に多くの市民とともに被爆し、白血病と闘いながら被爆者への救護活動を続け、原爆に関する医学的な研究と多くの著作を残した永井隆博士が過ごされた畳2枚の小さな住居「如己堂」
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如己堂からさらに10分ほど歩いて行くと、浦上天主堂があります。
それを外から眺めただけで夕食の時間が近づいたので急いでホテルに向かいました。
2日目終わり
3日目につづく
博多祇園山笠ツアーIndex
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