(雲仙普賢岳・平成新山)
博多祇園山笠ツアー最終日、長崎を散策した後、諫早を経由して長崎県南東部の島原半島にある島原市にやってきました。(12時05分)
(博多祇園山笠ツアーIndex)
島原半島の中心都市島原半島の東端に位置し、西に雲仙市、南に南島原市と接する。市の西部には標高1,483mの平成新山をはじめとした雲仙岳の山々があり、東向きに裾野が広がる。東は有明海に面する。
02
平成2年11月より198年ぶりに雲仙普賢岳が噴火し、その噴火によって形成された溶岩ドームが平成8年5月20日に「平成新山」と命名された。
溶岩ドームとは、ねばりけの強い溶岩の噴出によってできる火山体で、平成3年5月20日に初めて出現し、以来つぎつぎと押し出される溶岩により火口付近に巨大な溶岩ドームが形成されていき、その結果溶岩ドームの高さは普賢岳山頂(1359m)より124m高くなり標高1483mにもなっている。
03
道の駅・みずなし本陣前でバスガイドさんと添乗員さんと記念撮影。
04
道の駅・みずなし本陣の横に土石流で被災にあい埋もれてしまった家屋がそのまま保存展示されているところがありました。
05
06
左右の河原の屋根が見えている家は2階建で、屋根だけ残して残りは土石流に埋まってしまいました。
07
こちらは屋内に保存された被災家屋。
屋内に3棟、外に8棟の計11棟が保存されている。
08
被災家屋をみたあと、ランチタイムです。
島原のソーメンや豚しゃぶを頂きました。
09
昼食のあと、島原外港からツアーバスに乗ったままフェリーに乗り込みました。バスでそのままフェリーに乗ったのは、はじめてかも。
13時40分、島原外港を出発。
右の写真の山は雲仙岳
10
雲仙普賢岳、平成新山がだんだん遠くなっていきます。
11
途中後から来た高速のフェリーに追い抜かれました。そして熊本港に近づいてきました。
アナウンスでもうすぐ下船と告げられ、3階の船室から下りて2階のバスに乗り込みました。
12
そして14時40分頃、熊本港に到着。
フェリーを降りたツアーバスは次の目的地である熊本城に向かいました。
13
熊本城にやってきました。日本三名城のひとつ。
西南戦争で主要な建物を焼失。昭和に入って復元される。
大天守閣(右)と小天守閣。2つはつながった連立天守閣となっている。大天守閣は3層6階地下1階で高さ約30m、小天守閣は2層4階で高さ約19m。
なんとも言えず美しいお城です。特に石垣のカーブが個性的です。
始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。
14
城の内部に進んで行きます。
15
ところどころに、武者の姿をした人が。
一緒に写真に入ってくれます。
16
そして天守閣に入ります。その入口にも武者が。
17
天守閣からの眺望。
こちらは西側(長崎県側)の景色。
18
こちらは反対の東側の景色。
19
キャラクターと一緒に記念撮影できる場所もあります。
右の写真は天守閣入口そばの深い石垣
20
宇土櫓
この建物は当時のまま残っている。
五階櫓の中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓(うとやぐら)は、3重5階地下1階で、熊本城では大小天守を除いて最大の櫓。高さ約19メートルあり、近世以前に建造された天守や櫓との比較では姫路城、松本城、松江城に次いで4番目の高さである。
21
長塀
下馬橋から厩橋に至る坪井川沿いに築かれている長さ253mの塀。これだけ長い塀は珍しい。
22
熊本城内には120の井戸が作られて籠城にも備えたという。
もともと熊本市は、古くから「水の都」とも呼ばれるように、水環境に恵まれた都市です。人口67万人以上の都市で、上水道に使う水の全てを地下水でまかなっているという。
ここ熊本城でツアーの観光が終了し、16時30分頃熊本空港に向かいました。
23
熊本空港でバスガイドさんとお別れし、手続き後、熊本空港で一応解散となり、17時55分初の便で羽田に向かいました。
今回のツアーは博多祇園山笠まつりの見物がメインの出発もまつりの最終日、クライマックスの追い山の前日出発限定のツアーでした。
まつり最終日のクライマックスは早朝から始まるというのは例になく初めての経験でした。またそれ以外の観光でも行ったことのない場所ばかりで、特に行きたかった熊本城にも行けて満足のいくツアーでした。
終わり
博多祇園山笠ツアーIndex
博多祇園山笠ツアー最終日、長崎を散策した後、諫早を経由して長崎県南東部の島原半島にある島原市にやってきました。(12時05分)
(博多祇園山笠ツアーIndex)
島原半島の中心都市島原半島の東端に位置し、西に雲仙市、南に南島原市と接する。市の西部には標高1,483mの平成新山をはじめとした雲仙岳の山々があり、東向きに裾野が広がる。東は有明海に面する。
02
平成2年11月より198年ぶりに雲仙普賢岳が噴火し、その噴火によって形成された溶岩ドームが平成8年5月20日に「平成新山」と命名された。
溶岩ドームとは、ねばりけの強い溶岩の噴出によってできる火山体で、平成3年5月20日に初めて出現し、以来つぎつぎと押し出される溶岩により火口付近に巨大な溶岩ドームが形成されていき、その結果溶岩ドームの高さは普賢岳山頂(1359m)より124m高くなり標高1483mにもなっている。
03
道の駅・みずなし本陣前でバスガイドさんと添乗員さんと記念撮影。
04
道の駅・みずなし本陣の横に土石流で被災にあい埋もれてしまった家屋がそのまま保存展示されているところがありました。
05
06
左右の河原の屋根が見えている家は2階建で、屋根だけ残して残りは土石流に埋まってしまいました。
07
こちらは屋内に保存された被災家屋。
屋内に3棟、外に8棟の計11棟が保存されている。
08
被災家屋をみたあと、ランチタイムです。
島原のソーメンや豚しゃぶを頂きました。
09
昼食のあと、島原外港からツアーバスに乗ったままフェリーに乗り込みました。バスでそのままフェリーに乗ったのは、はじめてかも。
13時40分、島原外港を出発。
右の写真の山は雲仙岳
10
雲仙普賢岳、平成新山がだんだん遠くなっていきます。
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途中後から来た高速のフェリーに追い抜かれました。そして熊本港に近づいてきました。
アナウンスでもうすぐ下船と告げられ、3階の船室から下りて2階のバスに乗り込みました。
12
そして14時40分頃、熊本港に到着。
フェリーを降りたツアーバスは次の目的地である熊本城に向かいました。
13
熊本城にやってきました。日本三名城のひとつ。
西南戦争で主要な建物を焼失。昭和に入って復元される。
大天守閣(右)と小天守閣。2つはつながった連立天守閣となっている。大天守閣は3層6階地下1階で高さ約30m、小天守閣は2層4階で高さ約19m。
なんとも言えず美しいお城です。特に石垣のカーブが個性的です。
始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。
14
城の内部に進んで行きます。
15
ところどころに、武者の姿をした人が。
一緒に写真に入ってくれます。
16
そして天守閣に入ります。その入口にも武者が。
17
天守閣からの眺望。
こちらは西側(長崎県側)の景色。
18
こちらは反対の東側の景色。
19
キャラクターと一緒に記念撮影できる場所もあります。
右の写真は天守閣入口そばの深い石垣
20
宇土櫓
この建物は当時のまま残っている。
五階櫓の中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓(うとやぐら)は、3重5階地下1階で、熊本城では大小天守を除いて最大の櫓。高さ約19メートルあり、近世以前に建造された天守や櫓との比較では姫路城、松本城、松江城に次いで4番目の高さである。
21
長塀
下馬橋から厩橋に至る坪井川沿いに築かれている長さ253mの塀。これだけ長い塀は珍しい。
22
熊本城内には120の井戸が作られて籠城にも備えたという。
もともと熊本市は、古くから「水の都」とも呼ばれるように、水環境に恵まれた都市です。人口67万人以上の都市で、上水道に使う水の全てを地下水でまかなっているという。
ここ熊本城でツアーの観光が終了し、16時30分頃熊本空港に向かいました。
23
熊本空港でバスガイドさんとお別れし、手続き後、熊本空港で一応解散となり、17時55分初の便で羽田に向かいました。
今回のツアーは博多祇園山笠まつりの見物がメインの出発もまつりの最終日、クライマックスの追い山の前日出発限定のツアーでした。
まつり最終日のクライマックスは早朝から始まるというのは例になく初めての経験でした。またそれ以外の観光でも行ったことのない場所ばかりで、特に行きたかった熊本城にも行けて満足のいくツアーでした。
終わり
博多祇園山笠ツアーIndex
噴火の前島原鉄道に乗って行ったことがあります。この災害で路線が分断されてしまいました。もう復旧してると思いますが。
この噴火のまえ、オール読物に九州出身の作家の白石一郎の小説・島原大変が載りました。これは江戸時代、普賢岳の火山活動と大地震で島原が大災害になった様子を描いたものです。藩のは、山奉行というのがいて、火山の様子を定期的に観測してたみたいです。今回の地震に限らず災害は繰り返すものなんですね。
ついでながら、島原鉄道には原城址という駅があり、島原の乱で農民数万人が立てこもり、全員虐殺されたところですが、そこに立つとなんとなく、靈氣を感じて肌寒くなりました。いまでもときどき遺骨が出るそうです。
九州は関東から離れているので、普段はあまり関心はありませんが、地震や天災については、昔も今も神経質になっていましたね。山奉行が観測していたとは知りませんでした。
今回訪ねて、特に普賢岳からの土石流で埋まった家屋が保存されていたとは知りませんで、その惨状が想像できるようでした。
自然はある面怖いですね。