芝野さんが名人位を張栩九段から奪取して、10代初の7代タイトルを手にしたことはご存知の通りですが、この名人位、実力制のタイトル戦になって、既に58年になります。
それ以前は江戸時代、「名人」は幕府の家元制度の元で囲碁界を統括する立場として「名人碁所」(ごどころ)という50石20人扶持、お目見え以上の役職でした。この名人碁所は本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれるのですが、最初に家康に召し抱えらえた初代本因坊算砂を筆頭に、道碩、安井算知、道策、井上道節因碩、道知、察元、丈和、秀栄、秀哉のたった10人だけです。あの秀策でさえなれませんでした。
この家元制度が崩壊して後に、新聞棋戦としてタイトル制に変わります。
元々は1962年に読売新聞からのスタートでしたが、15期目から朝日新聞に移行されます。高度成長期に入ったにもかかわらず、タイトル料が上がらないことを理由に日本棋院が朝日新聞と1億で契約を結んだからです。これが世にいう「名人戦騒動」と呼ばれるもので、訴訟問題にまで発展しました。
それ以前は江戸時代、「名人」は幕府の家元制度の元で囲碁界を統括する立場として「名人碁所」(ごどころ)という50石20人扶持、お目見え以上の役職でした。この名人碁所は本因坊家、井上家、安井家、林家の四家より選ばれるのですが、最初に家康に召し抱えらえた初代本因坊算砂を筆頭に、道碩、安井算知、道策、井上道節因碩、道知、察元、丈和、秀栄、秀哉のたった10人だけです。あの秀策でさえなれませんでした。
この家元制度が崩壊して後に、新聞棋戦としてタイトル制に変わります。
元々は1962年に読売新聞からのスタートでしたが、15期目から朝日新聞に移行されます。高度成長期に入ったにもかかわらず、タイトル料が上がらないことを理由に日本棋院が朝日新聞と1億で契約を結んだからです。これが世にいう「名人戦騒動」と呼ばれるもので、訴訟問題にまで発展しました。
結局、名人戦は朝日、読売は序列第一位の新棋戦・棋聖戦をすることで和解しますが、このことが起因となり将棋界にも同様のことが起こります。もちろん横やりは朝日新聞で寝取られ側が毎日新聞。将棋連盟も負けず劣らずシッカリと懐具合を考えているんですね(笑)
話がそれましたが、1~14期までを旧名人戦、それ以降を新名人戦と呼ばれています。ただし朝日は別物として1期から新たにスタートさせる形をとっています。旧名人最後のタイトル保持者の大竹英雄名人がもちろん移行時にもそのまま持ち越されているのですが。
話がそれましたが、1~14期までを旧名人戦、それ以降を新名人戦と呼ばれています。ただし朝日は別物として1期から新たにスタートさせる形をとっています。旧名人最後のタイトル保持者の大竹英雄名人がもちろん移行時にもそのまま持ち越されているのですが。
初めて20代で名人位を手に入れたのは1965年の林海峰八段(当時)。
坂田名人は43歳で名人位を手にしたのですが、2年後の挑戦者の林海峰八段に対して「20代の名人などあり得ない」と7番勝負の初戦を制した時の言葉はあまりにも有名です。
しかし結果は23歳の新名人の誕生でした。その後、坂田は本因坊位も林に奪われ「何もかも失った」と勝負に負けた折に呟いたといわれています。
これ以降、段々と年代が下がりつい最近までは井山四冠の20歳4か月が最年少記録でした。家元制度時代から合わせると実に300年以上になりますが、名人の地位までたどり着けたのは僅かに26人、そのうちの20代タイトル保持者は5人(林海峰、石田芳夫、趙治勲、張栩、井山裕太)そして初めて10代の芝野新名人の誕生というわけです。
これ以降、段々と年代が下がりつい最近までは井山四冠の20歳4か月が最年少記録でした。家元制度時代から合わせると実に300年以上になりますが、名人の地位までたどり着けたのは僅かに26人、そのうちの20代タイトル保持者は5人(林海峰、石田芳夫、趙治勲、張栩、井山裕太)そして初めて10代の芝野新名人の誕生というわけです。
これから令和の初代名人としてどんな時代を切り開いていかれるのか、とても楽しみです。
前回の詰碁 黒先:白死
黒1のデと白2を交換してから、黒3~5が手順です。
黒3で黒5、白6の後、黒3は手順前後で、白7と下がる手があります。
黒先勝
黒1に白2が手筋ですが、黒3の妙手で黒の1手勝ちになります。
他にも変化は多いですがご自分で研究してください。
本日のお土産 黒先:白死(官子譜より)
黒先:白死(玄玄碁経より)
いずれも初手が決め手です。
今回はかなり簡単なので、もう1問。
黒先:結果は?(玄玄碁経より)
有名な手筋です。