5月10日(月)多様な新緑
閑話を休んだ2日間上京していた。新幹線に乗ったのは何年ぶりだろう。車窓から眺めた新緑が眩しく目にしみた。萌え出た若葉がいちばん美しい季節である。先日利用したタクシーの運転手が緑が多い東北大学・川内キャンパス付近を走りながら、一年中でいちばん好きな季節だと言っていたが同感である。
新緑と一言に言っても仔細にみれば千差万別である。銀色に輝く緑、黄色に近い緑もあれば、赤味がかった緑もある。それぞれを的確に現す日本語があるはずであるが浅学にして多くを知らない。そしてその多様な緑が一刻も同じ色に止まることなく、やがて深緑に変って夏を迎える。
われわれは何の不思議もなく眺めているけれども、このような樹木の装いの変化は、四季がはっきりしている地域でしか体感できない貴重なものなのだろう。年中濃い緑が支配する熱帯や亜熱帯では、落葉樹が一斉に芽吹く季節の感動は味わえないように思えるのである。
樹木の緑ばかりではない。草の緑も変化に富んでいる。トリアシショウマの赤い芽だし、クサソテツの淡い緑、フキの葉の深緑など、どれ一つとして同じ緑はない。一括りにされた多様な緑が目に飛び込んでくると、それを文字でどう表現すればいいのか戸惑ってしまう。
画家や優れた文学者ならそれを表現する術を知っているのだろうが、小生はただ美しい、きれいだと思うだけなのは情けない。おいしいものを食べて「おいしーい!」としか表現できない人と同じだ。それは食べ物に対する一種の冒涜である。それと同じように新緑をみてただ美しいとしかいえないのは、感性の欠如であると同時に自然の色彩の多様さに対する冒涜であるような気がして、シュンとしている。
閑話を休んだ2日間上京していた。新幹線に乗ったのは何年ぶりだろう。車窓から眺めた新緑が眩しく目にしみた。萌え出た若葉がいちばん美しい季節である。先日利用したタクシーの運転手が緑が多い東北大学・川内キャンパス付近を走りながら、一年中でいちばん好きな季節だと言っていたが同感である。
新緑と一言に言っても仔細にみれば千差万別である。銀色に輝く緑、黄色に近い緑もあれば、赤味がかった緑もある。それぞれを的確に現す日本語があるはずであるが浅学にして多くを知らない。そしてその多様な緑が一刻も同じ色に止まることなく、やがて深緑に変って夏を迎える。
われわれは何の不思議もなく眺めているけれども、このような樹木の装いの変化は、四季がはっきりしている地域でしか体感できない貴重なものなのだろう。年中濃い緑が支配する熱帯や亜熱帯では、落葉樹が一斉に芽吹く季節の感動は味わえないように思えるのである。
樹木の緑ばかりではない。草の緑も変化に富んでいる。トリアシショウマの赤い芽だし、クサソテツの淡い緑、フキの葉の深緑など、どれ一つとして同じ緑はない。一括りにされた多様な緑が目に飛び込んでくると、それを文字でどう表現すればいいのか戸惑ってしまう。
画家や優れた文学者ならそれを表現する術を知っているのだろうが、小生はただ美しい、きれいだと思うだけなのは情けない。おいしいものを食べて「おいしーい!」としか表現できない人と同じだ。それは食べ物に対する一種の冒涜である。それと同じように新緑をみてただ美しいとしかいえないのは、感性の欠如であると同時に自然の色彩の多様さに対する冒涜であるような気がして、シュンとしている。