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アスペルガー症候群は障害ではない

2008年09月25日 12時12分46秒 | アスペルガー自閉症
アスペルガー症候群についての情報を色々と調べていると、いろんな偏見・差別の情報だらけのような気がする。例えば、アスペルガーの人の事を「対人関係のルールが理解出来ずに浮いてしまったり、何でも正直に物事を発言してしまって相手を傷つける」などと書かれている情報は非常に良く目にする。だが、これは周囲の人たちが、そのアスペルガーの人の特徴を理解出来ずに偏見・差別をしているだけだ。

例えば、日本人4人と外国人1人の、合計5人で会話をするとしたら、おそらく外国人1人は日本語を身につけたとしても、独特な話し方や、独自の文化、習慣に基づいた話をする場合が多いだろう。そして、このような場合、その外国人1人の独特な話し方などを見て「浮いてしまっている」などと表現するだろうか?おそらく、そうではないだろう。この事例と同じで、アスペルガーの人というのは、一応、日本人の姿をしていて、使用している言葉も日本語なのだが、話し方や、文化、習慣については外国人だと思って接したほうが良い。つまり多数派の人とは「コミュニケーションの方法が違っている」という、ただ単に、それだけの事なのだ。そこが理解出来るだけでも、多くの問題を解決出来るヒントくらいには、なるのではないだろうか?だが、実際には、そのような「コミュニケーションの方法が違っている」という事が理解出来ない多数派意見の人が多すぎるために、アスペルガーの人(外国人)は、1人だけ仲間はずれにされてしまい、強制的に1人ぼっちにされてしまい、寂しい思いをしているという事に気付いて欲しい。だが、そんな寂しい思いをしているアスペルガーの人の気持ちにも、周囲の人たちは気付いてくれず、更には「自分勝手な人」などという侮辱的な発言をする人までいる。そのように、周囲に理解者がいない為に、仕方なくアスペルガーの人は1人で過ごしたり遊んだりせざるを得ない状況になっているだけなのに、その様子を見て、多数派の人たちは更に「1人で過ごすのが好きな人」「1人で遊ぶのが好きな人」などという大きな曲解までしてしまうようだ。いい加減にして欲しい。

「対人関係のルールが理解出来ない」というのも、少し違うと思う。僕の今までの経験や感覚から言えば、かなりの努力をして無理やり多数派意見の対人関係のルールに合わせようとすれば、ある程度は無難な振る舞いをする事は可能だと思っている。実際に、そういう努力を自分なりに重ねてきたつもりなので、専門学校を卒業するまでは、特に大きな問題に発展するまでには至らなかった。まあ、そこは周囲の環境が、ある程度は良好だったというのもあるかも知れない。だが、アスペルガーの人にとっては、多数派の対人関係のルールというのは、非常に窮屈なルールであって、無理やり合わせる事を続けていると、いろいろと問題に発展する場合が多く(僕の場合は、うつ状態や、躁状態、強迫症状、過呼吸症状などの二次障害が出やすい、という感じに思っているが、人によって症状の現れ方は様々だろう)やはり外国人は外国人なりの話し方や、文化、習慣で接するほうが楽だし、そのようなコミュニケーションのほうが楽しい訳だ。なので、やはり自分の文化や習慣を理解してもらいたいという願いもある。だから、多数派の対人関係のルールを知っていたとしても、あえて異文化のコミュニケーションを試している場合もあるだろう。だが、やはり日本人の姿をしていて、日本語を使用しているために、日本文化依存症候群の人たちは、アスペルガー症候群の人の発言を何でもすぐに「日本の文化、習慣で接しているはずだ」という勘違いをしてしまう。そして、その外国人の発言が、日本の文化や習慣によれば「人を傷つける内容の発言」であった場合は、何も考えずに早とちりして勝手に傷付いてしまい、そんな発言をした外国人を悪者扱いしたりするなどという愚かな行為に出たりする。つまり、アスペルガーの人(外国人)の「表現方法」を、日本の文化、習慣どおりにしか解釈出来ないから、そういう問題に発展してしまうんだよ。つまり、日本文化依存症候群(多数派)の人たちは、アスペルガー症候群(少数派、外国人)の人の表現方法の「言外の意味」を読み取る事が苦手だという事なんだよ。

それからアスペルガーの人が「何でも正直に発言してしまう」という説明も、少し違うというか説明が足りない気がする。僕だって、努力しているつもりでも、ついつい本音とは違う事を言ってしまう場合が多いからだ。それは本音では「嘘をつきたい」と思っていても(怒られたくないので)でも、やっぱり正直に発言するべきだ!と自分に言い聞かせて、「偽り感情からの正直な発言」をする時がある。逆に、本当の事を話しても面白くないだろうから、あえて冗談を言ってみたりして面白くしようと思う時もあり、そういう冗談というものは「本音からの偽り発言」という事になるだろう。だが、このアスペルガーの人の冗談というのは、日本文化依存症候群の人たちには理解しがたい内容の場合が多いようで、こちらは冗談を言ったつもりなのに「はぁ?何を言っているのかがワカラン。」と言われてしまったり、外国人の冗談を日本人の文化、習慣の解釈の仕方で本気で受け止めたりして、傷付いてしまう人がいる場合もある。つまり、日本文化依存症候群の人には「アスペルガー症候群の人(外国人)の冗談が通じにくい」という事だ。例を挙げれば、食事を始める時に「いただきます」の事を、僕は「マイナスごちそうさま」などと言うような冗談を言う時があるが、このような冗談は、日本文化依存の人には非常に通じにくいようで、何を言っているのかワカランと良く言われる。もう少し頭を使えよ。しかも日本文化依存の人の感覚では、このような「食事の始まり」という状況の時には冗談を言ってはならないらしい。そのような日本文化依存の意見を押し付けてくるにも関わらず、自分たちの冗談になると「なぜ分からないの?」などと不思議がられたりするし、アスペルガーの人の感覚では冗談を言う状況ではない場合の時に、日本文化依存の人たちは平気で冗談を言っていたりしている。そして、それに笑えないでいると「空気が読めていない」などと更に侮辱的発言をしてきたりする。どれだけ日本文化依存の人たちの意見に矛盾が生じているのか・・・自分でも気付いていない場合が多いのではないだろうか?どうも、自分たちの意見が「正しい」と思い込んでいる人が多いような気もする。結局、人間の発言なんてのは、誰の発言であっても「正直な発言」=「本音」とは限らないし、「嘘をつく」=「偽り感情」とも限らないという事だ。そして、この4種類の「正直な発言」「本音」「嘘」「偽り感情」が、その本人の意見なのか?それとも誰かの意見の代弁なのか?という所も、また難解だ。僕の場合は、自分の発言が、本当の自分の意思による意見なのか、それとも誰かの意見の代弁なのか、どちらなのか分からない場合が非常に多いのだが、それでも多数派の人たちからすれば「僕が発言した事」=「僕の意思による意見」としか解釈できないようだ。だが、実際には、新聞やテレビで言われていた内容や、インターネット上に書いてあった情報、他人から聞いた話や本に書いてあった内容などを、自分なりに解釈して、それを誰かに、そのまま伝えているだけの場合も非常に多い気がする。ここに書いている文章も、たぶん半分以上は、どこかで聞いた言葉などの、寄せ集めに過ぎない気がする。そして、このような発言は、確かに「僕が発言した」という事は間違いないが、発言の内容は他人の意見のパクリなので、僕の意見なのかどうかが分からない事が多い。ただ僕は「この意見に共感した」という事が言いたいだけなのかも知れない。また、その発言内容が「善」に該当するのか「悪」に該当するのかというのは、発言した本人には分からない。そこは、言葉を受け止める側の他人が判断する事だ。例えば、初対面に近い人から「私の顔は何歳くらいの年齢に見えますか?」という部類の非常に難解な質問をされる場合がある。その場合、例えば、その相手の本来の年齢が30歳だったとして、僕の感覚では40歳くらいに見えるとする。その場合、「本音で正直」に話せば「40歳に見えます。」という発言になるが、それでは相手を落胆させてしまい、「悪」の結果を生み出す可能性が高い。なので、あえて40歳に見えても30歳と言っておいたほうが、喜んでもらえるのではないか?と考えれば「30歳に見えます。」という発言をする場合もある。それは「偽り感情で嘘をつく」という事になってしまうが、それなのに「善」の結果が生み出される可能性が高かったりする。また、30歳と言っておいたほうが無難だと分かっても、やはり自分に正直であるべきだ!と考えれば、「偽り感情からの正直な発言」という方法を用いて、結局は「40歳に見えます。」と発言する事になるが、そうすると「悪」の結果になる場合が多い。そして、そんな質問にマジメに答えても面白くないなと考えれば「本音からの偽り発言」を用いて「60歳に見えます。」という風に冗談を言ってみたりする事もあるのだが、その場合は、それが冗談だと通じれば笑いのネタになって「善」の結果がもたらされるが、逆に、多数派の人の中には、それを冗談だと受け止める事が出来ず「老人扱いをされた」などと被害妄想されてしまい、「悪」の結果になってしまう場合もある。こんな風に、僕の頭の中では「正直に40歳に見えると言うべきか?やっぱり30歳と言っておくべき?それとも60歳と言ってボケとくか?」などと、あれこれ考えているのだが、そうやって一生懸命に考えていると、一体、自分が本当に思っている事はどれなのか?などと「自分の本当の意見」さえ分からなくなる。まあ、そうやって色々と考えているので、特にリアルトークなどでは返事が遅くなりがちだが、そこをまた「優柔不断」という風に言われる場合もある。こちらは真剣に考えているのだが・・・それじゃ「優柔不断」を否定するならば、そのまま「40歳に見えます!」と何も考えずに発言して、相手を落胆させろというのだろうか?結局、どうすれば良いのかが良く分からない。なので、そんな時に「アナタは、どう思っているの?」と聞かれても「自分でも良く分からない」という返事は、割と良くするのだが、このような答え方をすると、どうも多数派の人からは「自分の事を他人事のように言っている」などと解釈されてしまうようだ。まあ、そのように解釈されても仕方ないだろう。本当に、自分でも「自分の意見」というモノが良く分からないのだから。そんな感じなので、文章を書く時も、リアルトークで会話をする時も、出来る限り「完全に分かっている事」以外は「・・・だと思う。」「・・・という気がする。」「・・・かも知れない。」という話し方を心がけていて、「・・・という事だ。」とか「・・・である。」などという、物事を決め付けるような表現は、あまり用いないようにしている。まあ、僕は、こんな風に考えるように努力しているつもりだが、多数派の人は、その辺りの事については、おそらく無頓着な人が多いような気がする。だから、分かってもいない事を、何でも平気で、分かっているかのような愚かな発言をしてしまったり、自分の意見が「正しい」とでも思っているかような発言をする人が多すぎる気がする。なぜ、そんな事が平気で出来てしまうのだろうかと、本当に不思議に感じる。ちなみに、僕の文章では、時々、物事を決め付けるような言い方をしている場合もあると思うが、本心では別の事を考えている場合もある。だが、それでも、あえて物事を決め付けるような表現にしているのは、その部分に反論して欲しいという欲求がある為だったりする。なので、わざと物事を決め付けるような表現をする事もあるが、それはつまり「疑問文」に相当するという事だ。つまり、日本文化依存の人が使っている日本語の「文法」と、アスペルガーの人が使っている日本語の「文法」も、それぞれ違っていると考えられるだろう。そこを「同じ文法を使っている」としか解釈出来ないから、いろいろと問題に発展する訳だ。

他にも、アスペルガー症候群に関する情報を見ていると「アスペルガー以外の人たちは相手の気持ちが分かる」というような表現をしている場合があるが、これもオカシイ。「相手の気持ちが分かる」などという事が、あり得るのだろうか?そんなはずは無いだろう。「分かる」のではなく「容易に推測出来る」という表現が正しいのではないか?結局、人の気持ちというモノは、その人の発言した内容や表情、仕草などの行動に基づいて「推測」する事しか出来ない。だが、そのような発言内容だけではなく、表情や仕草なども、芝居しようと思えば、いくらでも芝居する事は可能であって、例えば、先ほどの、年齢を聞かれた場合の事例で、僕が「40歳に見えます。」と正直に発言したとしても、もしかしたら相手は、その「40歳と言われた事」については、そこまで傷付かない場合もあるかも知れない。なのに、あたかも本気で傷付いたかのように「めちゃくちゃ傷付いた!」などと発言して怒鳴ったりして、いかにも本気で傷付いているかのような芝居をする場合もあるのではないかと思う。それは、他の事でストレスを抱えていたりして、そのストレスを発散させたいが為に、こういう場合を「怒鳴り散らすチャンス」と考えて、僕を怒鳴り散らしたりして、ストレスを発散させたいとか、そんな理由でね。そのように考えていくと、結局は、人の気持ちなんていうモノは、アスペルガーであるか否かに関わらず「分からない」のではないだろうか?実際に、日本文化依存症候群(多数派)の人たちは、僕らアスペルガー症候群の人たちの気持ちなんて、ちっとも分かってないではないか。精神科医も同じで、今回の、障害年金の主治医の診断書を見ても「滅裂思考」などと書かれてあったが、これも「最終的に発言した言葉だけ」しか医者は聞いてないし、医者というのは「悪い部分を治療する」のが仕事だろうから、とにかく「悪い部分」にばかり注目してしまうのだろう。なので、その最終的な一言を発言するまでに至った、僕の様々な思考過程のすべてを把握している訳ではない。そして、その最終的な一言を発言するまでの様々な思考過程の途中には、一般的にはマトモと言われる内容の思考が選択肢にあったのだろうが、それを、あえて選ばなかったというだけの話だ。なので「滅裂思考」ではなく「独特な表現方法」と言うべきだと思う。それなのに「滅裂思考」と言ってしまうのは、その多数派意見の人たちには、アスペルガーの人の「独特な表現方法」を理解する能力が乏しいというだけの話だろうなという気がしている。例えば、僕の場合は、キツイ口調で論争みたいな話し方をしたりする事が良くあるが、そのような話し合いをするのが「楽しい」と思えたりする事が多い。だが、多数派の人からすると、それを「せめられている」と不快に感じたり、「冗談とか、何気ない会話に対して、本気で回答するな!」などと反論される場合もあり、どうやら多数派の人たちの会話を、シラケさせる内容の発言になる場合が多いようだ。例えば、初対面の人と会ったりして、軽く自己紹介し合うような感じの時に「血液型は何ですか?」という質問をするのは、かなり一般的な質問のようだ。そして、それに対して、多数派意見の人たちは何の前提条件も示さず、いきなり「A型です。」「O型です。」などというABO式に基づいた血液型の話をし始め、更には「A型の人って真面目で几帳面なんでしょ?」とか「O型の人って、おおらかな性格なんでしょ?」という話に発展していくケースが多い。だが、僕はそういう話よりも、「血液型っていうのはABO式の事を聞いているのですか?それともRh式の事を聞いているのですか?まあ、おそらくABO式の話だと思いますが、ABO式でも、実は4種類とは限らず、遺伝的に言えば、A型はAA型とAO型の2種類があって、B型はBB型とBO型の2種類があるので、ABO式でも6種類の血液型が存在する事になるんです。そして、Rh式のプラス、マイナスの2種類と組み合わせれば、これだけでも12種類の血液型が存在する事になるのですが、他にも様々な方式の血液型の判定方法があるようで、それらの組み合わせを考えていくと、おそらく何百、何千もの種類の血液型が存在する事になるようです。そこまでは僕も詳しくは知らないのですが、間違いなく断言出来る事は、人間の血液型というのは「4種類ではない!」という事です。なので、A型の性格とか、B型の性格などというのは仮説の域にすぎないので、本屋に売っている血液型性格診断の本なども、ほとんどアテになりません。というか、人間の性格を4種類だけに分別する事が出来るとでも思っているのですか?」などという話をするほうが面白いと感じる。だが、そんな話を長々としてしまうと、どうやら多数派意見の人たちの会話をシラケさせてしまうようだ。なので、僕はそのような話がしたくでも、我慢せざるを得ない状況になっているという事を理解して欲しい。そして、逆に僕の立場からすれば、そういう多数派意見の人たちの「A型の性格は几帳面」とか「O型の性格は、おおらか」などという低レベルすぎる会話のほうが、僕らアスペルガーの人たちをシラケさせているという事にも気付いて欲しいと思う。本当に、そういう話をされると、アホらしすぎてシラケてしまうんだから・・・。そして、この世には、そんなアホらしい会話ばかりをする多数派意見の人たちが多すぎて困っているという事にも気付いて欲しい。だが、やはり多数派意見に合わせないと、自分が非常に苦しむ事になる場合が多いので、この世で生きていく為には、自分の感情を押し殺して多数派意見に合わせるように気をつけなければならない。それが全く出来ない人は、すでに死んでいる事だろう。つまり、今、生きている人というのは、ある程度は、多数派意見に合わせる事が出来ているという事だ。だが、気をつけているつもりでも、ついつい自分なりの理論で細かい質問や指摘をしてしまって「警察の取調べみたいな、細かい質問を連発するな!」とか「重箱の隅をつつくような発言はしないでくれ!」などと言われたりしてしまったりする事は多い。これは多数派の人の感覚からすると「何かの容疑者扱いをされている」という風に悪い方向に解釈してしまう人が多いようだ。だが、実際には、アスペルガーの人の重箱の隅をつつくような細かい質問攻めというのは、「アナタの事が、もっと知りたい!」という強い好奇心(愛情)からの質問攻めだったりするのだが、その辺りの事を、やっぱり多数派の人たちは、なかなか理解してくれないようだ。

また、多数派意見の人たちの話を、いろいろと聞いていると、どうも多数派意見の人たちというのは、1つの物事に対して本気になれる力や対象物が無いというか、やはり自分の命が一番大切だと思っているのか、とにかく「自分も他人も死んだらいけない」という何の根拠もないルール(常識)に、こだわって生き続けているだけの人たちのような気がする。その「自分も他人も死んだらいけない」というルール(常識)が「正しい」という根拠が、どこにあるのか教えて欲しい。だいたい人間は、魚や牛や豚などを殺して、その死骸を食べているではないか。「他人を殺してはいけない」のではないのか?言っている事が矛盾しているじゃないか!結局は、他人を悲しませたくない!自分も悲しい思いをしたくない!という自己満足の欲求に溺れているだけでしょ?

・・・とにかく僕が言いたい事は「命を犠牲にする愛情表現」のようなモノが、あってはならないのか?という事だ。今の僕の感覚では、とにかく「あの人」に出会えて「ありがとう」が言えたなら、後は食事も水分も取らずに、力尽きるまで、その人の横に居続けて、最期の眠りにつく事が出来たなら、何も思い残す事はないと断言出来る。それをいつか実現する為に、今を生きているようなものだ。最終的に、人生において一番大切なモノというのは、世の中には1つしか存在していない。それは自分の命とも、家族の命とも限らない。本当に一番大切なモノに出会ってしまったら、その瞬間、家族や今まで関わって来た全ての人は「思い出の人」となり、別れを告げなければならなくなる。そうしなければ、本当に、人生において一番大切な存在なんて見つける事が出来ないし、生きている意味が見つからないまま人生を終える事になるのだろう。今現在、この世で生きている全ての人たちが「生きる意味」を見つけられないでいるのは、やはり「浮気感情」を捨てられない為だろう。今、実際に結婚生活を送っているような人たちも、僕から見れば完全に「浮気」をしている。なぜなら「自分」という人間と「配偶者」という人間の2人を、同時に愛している事になるからだ。「自分」と「配偶者」の、どっちが大切なんだ?!と言いたい。本当に、一番大切な存在を、どちらか一方に絞る事が出来たならば、それ以外の存在は捨ててしまっても良いはずだろう。結局、今、生きている人たちというのは、まだ一番大切なモノが見つかっていないから生きているのだろう。つまり、この世で生きている人たちは、全員が「浮気性」だという事だ。なのに、多数派の人たちは、いかにも自分は「浮気性」ではないかのように装って生き続け(あるいは本当に自分が浮気性だと気付いていないのかも知れないが)それなのに「浮気」をするのが当たり前だという多数派意見(常識)を押し付けてくる。矛盾すぎるのも、程があるのではないか?まあ、つまり「共同生活」をするには「浮気」をしなければ、やっていけないという事だ。ここで誤解して欲しくない事は、何も「浮気」が「悪い」と言っているのではないという事だ。「浮気」を「悪い」と言ってしまったら、この世に生きている全員を「悪い」と言っている事になるからね。そして僕も、今の時点では、まだ、その一人なので、毎日のように浮気ばかりしてしまっている。本当は文章だけを書き続けたいと願っていても、途中で、食事や睡眠などという別の欲求(浮気感情)に脳が支配されてしまう。この浮気感情を、いつかは消してしまいたいものだ。だが、こういう考え方は、どうも多数派の意見の人たちからは「異常」と判断されてしまうようだ。だが、僕は本当に自分が「障害者」だなんて思っていないというか、思いたくないというか、ただ単に「自分の命と引き換えにでも追い求めたい強い好奇心の対象物があるだけ」としか考えていない。ただ、それだけの違いなのに、やはり、この世には、そこまで本気になれる力や対象物がない「浮気性」の人間ばかりしかいないので、この世の中では、そんな考え方は理解してもらえず、勝手に僕らの事を「障害者」だと決め付けられ、自殺しようなどと思っても「保護」という法律で救助されてしまう仕組みになっているので、なかなかカンタンには死ねないようになっている。安楽死とか尊厳死を認めるような法律も、この国にはないしね。でも、人はいずれは死ぬ時が来るんだよ。永遠に生き続けられるなんて事はないんだ。そんな事くらい誰だって分かってるはずだ。ならば、どんな死に方を選ぼうと、それは個人の自由ではないのか?なぜ、長生きして生き続ける事ばかりを推奨するのか?その理由があるのなら、誰か教えて欲しい。

まあ、こんな風に考えている訳ですが、別に理解して欲しいなんて言わないけどね。生きるか死ぬかの惨めな戦いを死ぬまで続けなければならない、こんな世の中で生きて行く事が楽しいと思えるのならば、長々と、いつまでも生き続けていれば良いじゃないですか?

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2 コメント

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Unknown (london)
2016-07-29 21:06:10
死ぬほど共感しました。読んでいてスッキリしました。
多数派はブラックユーモアが通じない気がします。
返信する
自分のことはわからない (ユインシュタイン)
2017-05-13 18:32:16
いやいや・・・ちょうど今、こんな記事を上げてくるとは(謎)

でも、この文章そのものが、みんなが大好きな「初期の頃のYUI」の影響を、モロに受けている感じもするなぁ。
その中でも、特に「Tomorrow's way」は、外せないかも・・・

YUI「Tomorrow's way」の歌詞情報
http://www.uta-net.com/song/26344/

で、タイトルには「自分のことはわからない」って書いたけど、だったら「自分のことはわからない」という事は分かってるの?という、ツッコミを入れてくる人もいるかも知れないね(苦笑)
まあ、実際には、それも含めて、わからないんだけど(汗)

それと、この記事では、最後らへんは「浮気」の話ばかりになってしまってるね(汗)
本当に大切なものは何なのか?って事に気づくためには、たくさん浮気してみた後じゃないと、実感としては理解できないのかもね。
今の時点で「これだ!」って決めつけてみても、やっぱり人生って割と長いから、他の事が、あれこれ気になって、ついつい手を出してしまいたくなるし(汗)
それによって、上手く行く事もあれば、失敗する事もあって、失敗から学ぶ事も沢山あるし、上手く行ったかと思っても、何かが違うと違和感を感じてしまったりして、それで元に戻ってみたら、やっぱり、これが一番安心するよな~なんてね(話が意味不明になってるかな?汗)


>なぜ、長生きして生き続ける事ばかりを推奨するのか?その理由があるのなら、誰か教えて欲しい。
>まあ、こんな風に考えている訳ですが、別に理解して欲しいなんて言わないけどね。生きるか死ぬかの惨めな戦いを死ぬまで続けなければならない、こんな世の中で生きて行く事が楽しいと思えるのならば、長々と、いつまでも生き続けていれば良いじゃないですか?

この記事のラストを、こんな感じの文章で締めくくってるけど、まあ未熟だったんだねぇ(苦笑)
こんな地獄を生き続けてみるのも、なかなか楽しいものだから、まだ天国には行きたくないっていう、それだけかな?
で、いずれ天国に行くことは決まってるんだから、そんなに慌てたり、焦って何か行動する必要もないしね・・・
ややこしい事や、難しい事は、天国に行った後、ゆっくり考えればいいんじゃないかな~なんちゃって(笑)
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