ruchia日記

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厳格な父の背中

2021-09-24 21:09:00 | 日記
 私の父は厳格で熱心なクリスチャンでした。
父の背中を見て育った私は、幼い頃、何故か熱心なクリスチャンにはなれませんでした。クリスチャンと胸を張って言える様になったのは、高校1年の夏でした。
 幼児洗礼で何も分からずにクリスチャンの仲間入りをした私は、何故、父がクリスチャンになったのか理解出来ないまま、聞くことすら出来ないまま大きくなりました。中学生になって間もない頃、それは父の方から切り出してきたのでした。
 『お父さんの家にクリスチャンは誰も居なかった。お父さんが何故クリスチャンになったか解るかい?』
 父によれば、戦争により召集され生きるか死ぬかの戦いの中で、気が狂いそうな程の心の葛藤があったとの事でした。終戦後、自分自身が納得出来る答えを返して下さったのが神父様だった…と。心の拠り所を求め信じるものがあるならば、人は強くなれるんじゃないだろうか、と。本当の強さは腕力等で人を支配する事ではなく、もっと慈悲深く温かい心、相手を思い遣る優しさなのではないかと思う、と。
 『お前が信じるものがあるならば、何も言わない。ただ、神さまは皆んなの中にいらして、いつも皆んなを守って下さる。善き人々も罪深い私達も分け隔てなく愛して下さる。世の中には色々な宗教があるが、信じるものはただ一つ。神様、なんじゃないかな。』私の心に染みた言葉でした。厳格な父の中に、人間の弱さと強さの両方を見た気がしました。
 それから3年経った、私がまだ高校1年の初夏父は天に旅立ちました。
 子を持ち知る、親の心。
 我が子もまた幼児洗礼で私と共に在ります。
しかし、やはり私も子に自由な道を歩ませてあげたい。そう切に願います。
 神様に感謝。


母の死

2021-09-23 15:07:00 | 日記
 忘れたくない…と思いながら時間とともに忘れ去られてしまう事が沢山あります。祖母の笑い顔、父の声、母の温もり。大切な人達、そして大切な思い出。記憶の風化、なのでしょうか?
 この日記を書こうと思ったのは、きっと自己満足だろうと思いながらも『きっと、この想いを共有して下さる方がいるかもしれない』という期待で疼き、書き始めました。そしてそれは、私の驕りです。
 図々しくも、今日また書き留めさせて下さい。
 私の記憶がまだ確かにあるのは、ある年の12月24日のクリスマスイブの事でした。その日は病に臥した母を見舞う為『飾れるメッセージカード』を持ち病院に向かいました。『お母さん、今日はイブだね。ひと足先に、メリークリスマス!』病室に入った私の目に入ってきたのは、サンタクロースに扮した看護師さんと母の姿でした。有難い事に看護師さんが一緒に記念の写真を撮って下さってました。看護師さんは3人1組で病室をひとつひとつ廻ってくださっていたのです。病室の中で母の笑い声が響いてました。楽しかったのでしょう。
 その数日前、病院の先生に呼ばれた私は、母の死の宣告を受けました。『余命1年と言われてから、もうすぐ5年が経ちます。先生、もしかして癌が治ったのでは?』先生は少しの間を置いて仰いました。『お母さんは、何故、生きてるのか不思議なんですよ…全身、もう癌に侵されているんです。今の医学では…説明ができません。』そんな先生とのやり取りの後、項垂れる私を母は病室で笑顔で迎えてくれました。『大丈夫?疲れたの?無理しなくていいよ。』泣き腫らした顔を見られるのが嫌でベッドに備えてあったテーブルを拭いたりコップを洗いに行ったりと忙しいふりをする私に母は優しい声をかけてくれました。『癌なんだろう?私は。知ってるから隠さなくてもいいよ、私は大丈夫だよ。』
 学校で虐めにあった時、学校に助けに来てくれた母。先生と上手に付き合えなかった無口な私を抱きしめてくれた母。失恋した時、温かい声をかけてくれた母。そして結婚を許してくれた母。それなのに、こんな時私は何もしてあげることが出来ない。ただ、神さまに祈るだけ。痛みませんように、と。不意に涙が溢れて流れ落ちた。『ありがとう、末っ子に看病してもらえるとは思ってなかったから有り難かった。』
 その3日後の夜に、母は天に召されました。 
危篤になり病院のベッドに横たわる母を、抱っこする様に腕で包み、きっとこれが母の最期。悟った私は引き止めることはしませんでした。これ以上、苦しむ母を引き止められない。『お母さん、どこか痛む?頑張ったね。ありがとうね。私が側に居るから少し眠ろうか…。』母の呼吸は間もなく止まりました。先生がいらした時には、6年間癌と闘った母は天に召された後でした。
 今日もまた母の遺影に語りかけます。
お母さん、ありがとう。
今の私が存在するのは、貴女のおかげです。
そして、貴女の存在を決して忘れません。
感謝の言葉を贈ります。

2021/09/16 私の中の頑固者

2021-09-17 09:54:00 | 日記
私の中の頑固者がたまに覚醒し、自分自身でも取り扱い不能になってしまいます。皆さんはそんな経験をされたことはありますか?そしてそんな時、どうされてますか?
それは幼稚園に通う前のまだ幼き頃の事でした。
私はその感情をしっかりと記憶してます。
母は都会に生まれて都会で育ちました。そして、この地に疎開し住み結婚し、私たち4人兄弟を育てあげ天に召されました。私が幼い頃、母は朝早くから夜遅くまで働き、『あれ?あの人は誰なんだろう…。』と私が疑問に思うほど、忙しさの為に顔を合わせる事はありませんでした。幼い頃は祖母に育てられた、と言っても過言ではありません。しかし、年に一度は必ず仕事を休み、私を連れて帰郷するものでした。私の中の頑固者が覚醒したのは、母の故郷の駅が最初だったと記憶してます。
その年は父も一緒に夜行列車に乗り移動してたのですが、子供の私の目に入ってきたのは駅の一角に構えた何軒かのお店でした。その中の一軒に、様々な玩具を取り扱うお店がありました。ピンクと金色の煌びやかな飾りの付いた子供向けの化粧箱に、私は一瞬にして心を奪われたのです。『きれい!』その感情は秒刻みに強くなっていきました。店主と思われた御年配の男性が言った『きれいでしょう?お嬢ちゃん』の言葉を遮るかのように父が私に言いました。『高いからダメだよ、行こう?』幾らの物だったのかは、今となっては分かりませんが、一度通り過ぎた後『欲しい!』という感情が湧き起こり、幼い脚で数メートル引き返したのを覚えています。しかし、もう一度見たその玩具は、もう輝いてはいませんでした。欲しいと言う気持ちはもとより、頭の中からは『きれい』の文字すら消え去っていました。立ちすくむ私を追いかけてきた母は言いました。『高過ぎるから、買えないでしょう?それに、お化粧箱はまだ早いでしょう?』咄嗟に、私の中の頑固者が出番待ちでもしていたかの様に登場したのです。『これ、ほしい!』『買えません!』何度かの母とのやり取りの後、父が言いました。『わがまま言っても買わないよ?!買いません!』湧き上がる感情を堪え切れず『やだ!やだ!』と駅の床に手足をバタつかせ大の字になり泣き喚きました。私にとって、それが自我の芽生えです。
今思えば、その玩具をどうしても手に入れたかった訳ではありませんでした。一度、『ほしい』と言った自分の言葉を時間が経つごとに撤回しずらく、しかも撤回したくないと頑なに感じたのです。素直になれない私を前に父も母も困り果て、わたしを抱き抱えてその場を後にしたのを覚えています。
一度、登場を許された頑固者は未だに改善されることなく、私の中の何処かに存在します。父と母を困らせた頑固者は、現在、我が子に登場を許される事なく私の中に生き続けています。
ちゃんとした甘え方を知らない不器用な私は、今も、どの様に甘えたらいいのかさえ分からずに小さい幼いままの私で愛情を求めて日々生活を送っています。
わがままに負けず、金銭感覚をしっかりと持った子に育って欲しいという父と母の想いを、近年になって理解出来る様になり改めて『ありがとう』の気持ちを天国の両親に贈りたいと思います。
沢山の愛情をありがとう。
優しさに気付かず、ごめんなさい。
そして、感謝。

2021/09/15 秋の気配

2021-09-15 10:51:00 | 日記
暑い夏が終わりを告げ、秋の気配を感じる今日この頃です。
秋になると思い出す感情があり、思えばそれを忘れることも出来ず、しかし封印することも置き去りにすることすら出来ず、結果的に今日までその感情とともに歩んできた私がいます。
私の母は、生前美容師だったため、婚礼に出張で出かけることも多く、その日、両親は泊まりがけで遠出する事に以前から決まっていたらしい。私が小学校2年生の秋だったと思います。
私は母が出張に出かけるのが嫌でした。なぜなら、兄が怖かったからです。前の年には、兄に一方的に眼球を殴られて失明寸前になってしまい、母と共に1ヶ月程の通院をしていたこともあり、兄との留守番が恐くて仕方なかったのです。兄の暴力に困り果てた熱心なカトリック教徒だった両親は神父様に相談をしました。神父様は兄にお話をしてくださり、一時的に、兄の暴力も落ち着いたかのように見えました。しかし、両親が出張で出かけた日に恐れていた事が起こりました。『言いつけたお前が悪い』と裏庭にあった小屋に一晩中閉じこめられ、出して欲しいと泣けば泣くほど殴られ一晩中震えながら真っ暗い小屋の中で声を殺して泣いていた記憶が蘇ります。そんな事が何度か続きました。私は、暗闇の中で高窓にこぼれる月の光を見つけ、妙に心も身体も浄化された思いになったことを思い出します。幼いながらも兄に対して抱いた哀れみの思いは、これから先の人生の中で忘れることは無いでしょう。
肌寒い秋になると、温かい母のぬくもりを懐かしく思いだします。きっと、母のぬくもりを兄も求めていた事でしょう。10歳で突然、お兄ちゃんになり甘えることすら、なかなか出来なくなってしまった兄の為に、今日も祈りを捧げます。
どうぞ神様、今日もまた彼の心の平安と安らぎ、そして聖母マリア様の愛情で、彼の心の傷をいやして下さい。 
そして憐れみ深い私を許してください。
心に癒しを求める人々に沢山の恩恵と幸せがありますように。


2021-09-01 16:17:00 | 日記
とうとう雨が降りました。
今日は空いっぱい雲に覆われた雨空です。
私は雨もまた不思議と好きな方で、私の心の汚れた部分を洗い流してくれるかもしれないと、中学生の頃より雨空を好みました。また、運動会や持久走大会などは『今日、雨が降って中止にならないかなぁ』と願掛けするほどでした。
内向的な私は、目立った行動を嫌い静かに絵を描く時間が大好きでした。
中学生の時、ダイエットの為に友達と運動部に入った私は、体が弱くしょっちゅう部活動を休みました。二年生の時には麻疹になり、三年生では盲腸を患い入院しました。その為、ほとんどの授業も受けれず、皆んなの勉強にも追いつけず、志望校も受験できずに両親に心配をかけてばかりでした。心配した父はせめて環境を考えて高校生活を楽しんで欲しいと、通学にかかる時間や授業中の周りの環境、また勉強について行けるかなど様々な事を考慮してくれ志望校を変えるよう勧めてくれました。お陰様で無事に高校を卒業することも出来、先生方や周りの友達にも恵まれ、感謝してます。そんな学生時代でしたが、高校二年生の春に兄が帰って来ました。東京での事業が失敗したとの事。兄は以前と違い物静かな兄に変わってしまっていました。。外出を嫌がり、友達と会う事さえ避けてるようにさえ感じました。都会で様々なストレスを抱えて、心が病んでしまったと母に聞きました。嫌いで仕方なかった兄が、憎かった兄が苦しんでる…私の心も痛みました。兄は父の葬儀にもくることが出来なかった。兄に何かしてあげたいと切に思った私は、毎晩、止めど無く繰り返される兄の話に静かに耳を傾け共に泣きました。
父が生きていたら、何て言葉を掛けてあげただろう。父は家に帰ってくることに反対して、また男らしくたたかいなさい、と言っただろうか。いや、きっと命に変えても息子を守っただろう。そして、電話で『頑張ったな、疲れだだろ?そろそろ帰ってきなさい』と声をかけただろう。優しい笑顔で駅まで迎えに行っただろう。それなのに、私は兄が上京した時…内心嬉しくて仕方なかった。最低だ。
今でも当時の感情を忘れません。今では兄弟達との交流もなく、私も心の病を抱えて毎日自分自身と闘ってます。
命あることに感謝。
穏やかにいられることに感謝。
祈りを捧げれることに感謝。
そして、私の心の病に感謝。
何故なら、心の痛みを人より多く知ることが出来たから。
家族の為にご飯を作り、帰りを待とう。