私の父は厳格で熱心なクリスチャンでした。
父の背中を見て育った私は、幼い頃、何故か熱心なクリスチャンにはなれませんでした。クリスチャンと胸を張って言える様になったのは、高校1年の夏でした。
幼児洗礼で何も分からずにクリスチャンの仲間入りをした私は、何故、父がクリスチャンになったのか理解出来ないまま、聞くことすら出来ないまま大きくなりました。中学生になって間もない頃、それは父の方から切り出してきたのでした。
『お父さんの家にクリスチャンは誰も居なかった。お父さんが何故クリスチャンになったか解るかい?』
父によれば、戦争により召集され生きるか死ぬかの戦いの中で、気が狂いそうな程の心の葛藤があったとの事でした。終戦後、自分自身が納得出来る答えを返して下さったのが神父様だった…と。心の拠り所を求め信じるものがあるならば、人は強くなれるんじゃないだろうか、と。本当の強さは腕力等で人を支配する事ではなく、もっと慈悲深く温かい心、相手を思い遣る優しさなのではないかと思う、と。
『お前が信じるものがあるならば、何も言わない。ただ、神さまは皆んなの中にいらして、いつも皆んなを守って下さる。善き人々も罪深い私達も分け隔てなく愛して下さる。世の中には色々な宗教があるが、信じるものはただ一つ。神様、なんじゃないかな。』私の心に染みた言葉でした。厳格な父の中に、人間の弱さと強さの両方を見た気がしました。
それから3年経った、私がまだ高校1年の初夏父は天に旅立ちました。
子を持ち知る、親の心。
我が子もまた幼児洗礼で私と共に在ります。
しかし、やはり私も子に自由な道を歩ませてあげたい。そう切に願います。
神様に感謝。