ruchia日記

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本日、晴天なり

2021-08-31 15:50:00 | 日記
昨日に打って変わって、本日は晴天なり。
我が子と買い物に行って参りました。土地柄的に自家用車がないと不便な為、この地域の方々は1人につき1台の自家用車を所有しているようです。一軒に何台もの車が駐車できるスペースがあるお宅は珍しくありません。私もつい先日まで会社勤めしていた為、車はあるものの独りではあまり外出しない為に最近では運転することも珍しくなりました。歳を重ねた新米専業主婦です。その様な事を考えて居りましたら、また母の事を思い出しました。私の母はスーパーウーマン、若しくはスーパー母ちゃん、と、兄の親友に呼ばれていた事がありました。美容室を経営する傍ら、祖母が亡くなってからは家事や炊事など全ての事を仕事の合間を見てこなしてしまうからでした。自宅と美容室はつながっており、母親であり美容師であり、妻である我が母は、兄の親友にラーメンやカレーライスなどをご馳走したりするのが大好きで、勇ましくもささっとご飯を作り兄の部屋に運ぶのでした。その兄も私が小学生のうちに東京へ上京しました。上の兄弟3人が東京に上京した我が家は寂しく静まり返りました。兄や姉達の和気藹々とした笑い声も、喧嘩する声も、喧嘩の末に負けて泣く声すら我家から消えてなくなりました。
父と母と私の3人家族の始まりでした。
それは、私にとって穏やかで幸せな時間でした。優しい時間が訪れました。
今思えば、兄にとっても姉達にとっても、歳の離れた私の存在はとても嫌な存在だったのではないでしょうか。私に毎日の様に浴びせられた罵声や暴力へ姿を変えた彼等の怒りは、上京という手段に形を変えて一気に私の元から消え失せたのです。
私の兄弟は、きっと親に見捨てられた子猫のように悩み苦しみ怒り、そして絶望という思いを胸に上京したのかも知れなかったのです。私だけ辛い訳ではなかったのです。
父や母は亡くなる前、何時間、何日、何年もの時間をかけて子供達の傷みを拭い去ろうとしてくれました。しかし、それに私達は気付かずにやり過ごしてしまったのです。
愚かです。
そして、今がある。
遺影に手を合わせる私の側で主人もまた手を合わせてくれてます。まるで私の愚かさを、共に償ってくれるかの様に。
感謝。そして、合掌。
『今晩のご飯は何にする?』
我が子の声が温かい。



一日中曇り空

2021-08-30 16:26:00 | 日記
今日は曇り空なので、家にこもり家事を終わらせ、空を見上げて一日中ソファでゴロゴロしてました。朝より時々日差しがありますが、雲には雲の表情があります。悲しそうだったり、怒っていたり、それから少し笑い加減だったりと流れて行く雲を見ていると、その様々な表情に心が奪われてしまいます。
小さい頃からクリスチャン家庭で育った私は、土曜日には少しでも神様を知る為の勉強会である土曜学校、日曜日には祈りを捧げに礼拝堂に父に連れられて教会に向かったものです。3歳頃の記憶を辿ると、ヤクルトらしき飲み物を持った父は教会でも厳しく、まるで我慢比べのように私は正座をし、幼いながらも必死になりながらご褒美のヤクルトらしき飲み物を貰えるまで正座をしてました。父の『頑張った、偉いね。』の一言が聞きたくて。幼い頃の父は威厳に満ち溢れ厳しく、私にとってはとても怖い存在でした。内気で人見知りの私は挨拶すらキチンと出来ず、父にとっては出来の悪い子供だったかもしれません。小学生になっても内気が改善されず、時々、父は母とふたりで教育方針について口論になったりしていたのを記憶して居ります。それから時は流れ中学生になり、父に勧められた高校に進学し、父は病に倒れました。父が天に召されたのは私が高校一年の初夏です。別れは突然にやって来ました。母を支えてあげたいと必死に涙を堪えて教会の方々によるご好意のお別れの会に出席しました。
父を亡くした日、空は雲ひとつない真っ青な空でした。我が人生に悔いなし、精いっぱい生きたと父の声が聞こえた気がした事を鮮明に覚えています。教会の友は涙ひとつ見せない私を教会の裏に連れていき、『こんな時は、泣いていいんだよ。』と、ただ抱きしめてくれたのを覚えています。そして涙しました。
そして現在、私にも愛する子供が居ります。
父と母の愛情が心に染みる毎日です。
合掌。

夏の思い出

2021-08-30 10:20:00 | 日記
私の祖母は明治生まれのなかなかのお洒落な人でコーヒーやカレーライスを好み、子育てなど、自宅で美容室を営む母を支え続けてきた人でした。末娘の母にこれからの時代は女性が活躍する時代になるから資格を持ちなさいと諭し家族で東京より疎開してきて土地を買い鯉を売り生計を立てていたそうです。夫を病気で亡くしてから、貧しい生活ながらも子供達の教養をたかめるために尽力し、当時は丁稚奉公などで兄弟が離れ離れになる事も多かったそうですが、兄弟離れ離れになる事もなく母も転入した女学校を卒業させてもらい、『おかあさんに感謝してる。』と、度々口にするものでした。
その祖母は足が病気の為に不自由で、幼い時には通院•往診の繰り返しだったそうです。
そんな祖母の実家に、小学生の夏休みに毎年両親と共に訪れたのですが、人見知りの私でも『今年も行きたい!』と切望するほど居心地がよく、穏やかで暖かい人柄の母の従兄弟夫婦に甘えていた記憶が蘇ります。
西瓜を半分、大きいままかぶりつき、お祭りの出店に行きたいと母にお願いし連れて行ってもらい、オモチャをひとつだけ買ってもらう事が楽しみでした。
あれから何年もの月日が過ぎました。
両親を20代半ばで亡くした私もまた、父に感謝。もちろん母にも感謝して居ります。
学生時代に父を亡くした後、夏のある日に母のくれた言葉を忘れません。『これからは、お母さんが貴女を守るから。
頭の下がる思いです。ありがとう。
これからも大切な言葉を胸に、感謝の心を忘れず、今日も母の遺影に祈りを捧げます。
また、世界中の方々に平安と神様のお恵みがありますように。

2021/08/29

2021-08-29 15:02:00 | 日記
20年ほど前に亡くなった恩師の美しい絵画はもう見れないだろうと半ば諦めて居りましたが、今日、ネット内で久々に拝見する事が出来ました。色々な方々が色々な思いをお持ちになり、時代を越えてネットといった形で再会出来た事をとても嬉しく、また、思い出せば哀しい感情が込み上げて参りました。
当時、母の闘病生活を間近に見て居りました私は生きるとは何ぞやと思い悩んで居りました。
生命あるもの全ては、独りで生まれてきて命を宿し産み育て、孤独と闘いながら何故にこの世を去らなねばならないのか…産声をあげることの意味は?などと絶望して居りました。今、亡くなろうとしている母は誰のために生まれ、何の為に苦労をし子供を愛しみ育て、贅沢な生活をすることも自分を着飾ることもせずに仕事に明け暮れ、そしてこの世を去ろうとしているのか。私には何ひとつしてあげることができない。痛みをとってあげることも代わってあげることすら出来ないと、先生に何度となく話を聞いて頂きました。その優しい恩師が、母が亡くなった数ヶ月後にこの世をさることになろうとは知る由もなく。最後に私が目にした絵画は、とても美しい後ろ姿のそのひとは、今にも歩き出そうとしている女性の絵でした。
私も母の様に強く、そして優しさで溢れんばかりに一歩を踏み出そう…。
その時、恩師の描いた絵はそう私に教えて下さったように思いました。
あれから月日が経ち、私も歳を重ねました。もう若かりし日の純粋さや清らかさは消えてしまったかもしれません。しかしながら、生命の襷を子に託すために、日々の生活を少しでも素直に心美しく、意味のない生命などこの世にひとつもないと言うことを伝えるために、日々祈りを捧げてます。
日々の生活、ご先祖様に、そして神様に感謝。
全ての出会いに感謝。祈りを捧げれることに感謝。それから子に感謝。


自己紹介

2021-08-29 12:52:52 | 日記
はじめまして!
ruchia7131と申します。

このブログは日記をメインに書きたいと思い始めました。

感動したことなど書き記していきたいです。よろしくお願いします。