■ 元阪急、近鉄監督の西本幸雄氏が死去(ニッカン・2011年11月25日)
ここで取り上げておいてなんですが、私自身は西本さんが監督を務めていた時代の記憶はほとんどありません。
計算上は、私が物心つくかつかないかの頃に近鉄の監督を務めていたことになりますが、西宮市民の私にとって阪神・阪急以外の球団はどうしても遠い存在でした。
むしろ、私にとって西本さんの記憶と言えば、プロ野球中継の解説、そしてなにより、「ちょこちょこいってますか」です。
なので、私がプロ野球監督としての西本氏について語ることは、おそらく適切ではないだろうとは理解しています。
それでも何か書かずにいられなかったのは、阪急・近鉄という関西パ2球団の歴史を体現する西本氏の逝去に感じたやりきれなさを、自分だけで消化できなかったから、ということになります。
関西のパ・リーグについて語るという行為には、ある種のざらつく感覚が伴います。少なくとも私にとっては。
つい先日も、サンテレビのパ・リーグ中継(阪神戦の中継ばかりが注目されるサンテレビですが、下手な在阪局よりパの中継を行ってくれたことは強調されるべきです)などで盛り上がることがありました。
しかし、その後我に返ってみると、盛り上がった記憶と共に、ある種の哀しさ、やりきれなさを感じずにはいられませんでした。
その理由は、そこで語り合ったことすべてが、過去のことでしかないからです。現在は何も残っていない、歴史的な事柄でしかないものだからです。
そして、そのようなもろもろについて語るという行為によって、それらが現在の何にもつながらない、失われた過去のものでしかないという、否定したくてもできない事実が否応なしに呼び覚まされるからです。
その事実から逃れるには、過去について語る行為を止めるか、その事実に対する(あるいはその事実が呼びさまされるということに対する)感覚を麻痺させるか、2つに1つしかありません。
この2つのうち、私が取り得る選択は後者しかありません。現在に目を背け、ありもしない未来など考えず、ひたすら過去に頼って生きていく、ということです。
一言で片付けてしまえば、老人の生き方、となるでしょう。ひょっとすると、関西パ・リーグファンであることは、老人として生きることなのかも知れない、とすら思います。
程度の差はあれ、時代の流れから取り残され、現在とは切り離された過去に生きる部分を持たざるを得ないのですから。
しかし、現実をどれだけ拒絶したとして、それがなくなるわけではありません。過去に生きようとしたところで、その過去は着実にわれわれから遠ざかっていきます。
西本氏の逝去という報道を見て、あらためてそんな現実を思い知らされました。「老人」には、辛い話です。
ここで取り上げておいてなんですが、私自身は西本さんが監督を務めていた時代の記憶はほとんどありません。
計算上は、私が物心つくかつかないかの頃に近鉄の監督を務めていたことになりますが、西宮市民の私にとって阪神・阪急以外の球団はどうしても遠い存在でした。
むしろ、私にとって西本さんの記憶と言えば、プロ野球中継の解説、そしてなにより、「ちょこちょこいってますか」です。
なので、私がプロ野球監督としての西本氏について語ることは、おそらく適切ではないだろうとは理解しています。
それでも何か書かずにいられなかったのは、阪急・近鉄という関西パ2球団の歴史を体現する西本氏の逝去に感じたやりきれなさを、自分だけで消化できなかったから、ということになります。
関西のパ・リーグについて語るという行為には、ある種のざらつく感覚が伴います。少なくとも私にとっては。
つい先日も、サンテレビのパ・リーグ中継(阪神戦の中継ばかりが注目されるサンテレビですが、下手な在阪局よりパの中継を行ってくれたことは強調されるべきです)などで盛り上がることがありました。
しかし、その後我に返ってみると、盛り上がった記憶と共に、ある種の哀しさ、やりきれなさを感じずにはいられませんでした。
その理由は、そこで語り合ったことすべてが、過去のことでしかないからです。現在は何も残っていない、歴史的な事柄でしかないものだからです。
そして、そのようなもろもろについて語るという行為によって、それらが現在の何にもつながらない、失われた過去のものでしかないという、否定したくてもできない事実が否応なしに呼び覚まされるからです。
その事実から逃れるには、過去について語る行為を止めるか、その事実に対する(あるいはその事実が呼びさまされるということに対する)感覚を麻痺させるか、2つに1つしかありません。
この2つのうち、私が取り得る選択は後者しかありません。現在に目を背け、ありもしない未来など考えず、ひたすら過去に頼って生きていく、ということです。
一言で片付けてしまえば、老人の生き方、となるでしょう。ひょっとすると、関西パ・リーグファンであることは、老人として生きることなのかも知れない、とすら思います。
程度の差はあれ、時代の流れから取り残され、現在とは切り離された過去に生きる部分を持たざるを得ないのですから。
しかし、現実をどれだけ拒絶したとして、それがなくなるわけではありません。過去に生きようとしたところで、その過去は着実にわれわれから遠ざかっていきます。
西本氏の逝去という報道を見て、あらためてそんな現実を思い知らされました。「老人」には、辛い話です。
あるいは、西本時代の近鉄を、はるかに詳しく見てたんじゃないかなぁとか。
もっとも、考えても仕方ないことですが……