場所にまつわる回想と省察

時間と空間のはざまに浮き沈みする記憶をたどる旅

作家、三浦哲郎の故郷・一戸町

2019-06-01 12:00:29 | 記憶、歴史
 三浦哲郎といえば私小説作家として知られている。出世作『忍ぶ川』は芥川賞を受賞している。三浦の生まれ故郷は青森県の八戸であるが、青春期には父の故郷である岩手県一戸で生活している。したがって、三浦の感性を育てたのは一戸と言っていい。氏の住まった家が今も一戸に残されているし、菩提寺もある。
 桜の花が咲き誇る、5月のある日、私は一戸を訪ねた。盛岡からいわて銀河鉄道のローカル線に揺られること1時間ほどで一戸に着いた。
 車窓からは、ようやく春を迎えたという風情の、まだ冬枯れの様相を呈している潅木の林や所々に蕗の薹が顔をだす畑が眺められた。車内を見渡すと、通学の学生やらいかにもこの地方特有の風貌をした年配の乗客が多いのに気づく。ローカル線とはいえ、乗客が多いのは、この鉄道が地元の人々の生活の足になっているためだろう。
 今回は一戸を目指しての小旅行であったこともあり、この沿線に石川啄木の生まれ故郷・渋民村(現玉山村)があることを知らなかった。岩手山を背にした渋民村の写真をかつてみたことがある。その岩手県のシンボルとも言える岩手山が車窓の左手に見えていた。
 三浦哲郎が「北上山地の北はずれの山間にあるこの古い町」と記した一戸の町は、すでに午後の日が傾き始める時刻になっていた。このまま歩いての文学散歩で日が暮れないだろうかと少し心配になったが、タクシーも見当たらないし、ともかく歩くことにした。
 いつものことながら、文学散歩には胸の昂まりを覚える。その理由は、小説世界に描かれた舞台が目の前に開かれるという期待感である。
 駅からしばらく歩くと馬渕川にかかる橋に差しかかった。さっそく、橋の袂に三浦哲郎の筆跡による「しのぶ橋」と刻んだレリーフを発見する。眼下の馬渕川が勢いよく音を立てて流れている。河畔に辛夷の白い花が咲いている。
 川を渡り、川沿いを歩くと、しのぶ橋の一つ下手にある岩瀬橋近くに小さな公園があり、そこに文学碑が立っていた。『忍ぶ川』の一文が刻まれていた。岩瀬橋は氏の短編にもしばしば登場する橋である。
 文学碑をすぎて、さらに川沿いの上り勾配の道を行くと、左手に氏の実家が見えてくる。家は二階建てで、今は無住の家になっているため、少し荒んだ印象があった。この家もしばしば小説に登場するし、今や史跡といっていい部類に入る。親族の意向もあるだろうが、いずれの日にか公共的な保存が必要でなはないか、と思われた。
 無住の建物は日々風雨にさらされて、次第に朽ちて、あばら家のように成り果ててしまう。それが痛々しい。
 その家の裏の崖下には馬渕川が流れている。こんな近くに川が流れているのが意外だった。
 私はどうしても氏の菩提寺を訪ねたかった。氏が眠っている場所でもあり、この寺も小説の舞台にしばしば登場する寺であるからだ。
 川沿いの道から離れ、しばらく上りの道を歩くと、山際に広全寺という名の寺の山門が現れた。長い石段を上ると、本堂の前に出る。
 寺域は広く、山の斜面に墓地がつくられてあった。三浦家の墓所を訊ねると、大黒さんと思われる人が案内してくれた。
 三浦家の墓は「先祖代々の墓」と刻まれていて、下に「三浦」とあるので、それが三浦家の代々の墓であることが知れる。
 墓の側面には、故人の名前がそれぞれ刻まれていて、本人の名前の他に、親兄弟の名が刻まれていた。しばし、墓前に手を合わせてからそこを離れた。大黒さんの、「奥様がときおり墓参に参ります。綺麗な方ですよ」というひと言がいつまでも心に残った。


作家、三浦哲郎の故郷・一戸

2019-06-01 11:12:55 | 記憶、歴史
 三浦哲郎といえば私小説作家として知られている。出世作『忍ぶ川』は芥川賞を受賞している。三浦の生まれ故郷は青森県の八戸であるが、青春期には父の故郷である岩手県一戸で生活している。したがって、三浦の感性を育てたのは一戸と言っていい。氏の住まった家が今も一戸に残されているし、菩提寺もある。
 桜の花が咲き誇る、5月のある日、私は一戸を訪ねた。盛岡からいわて銀河鉄道のローカル線に揺られること1時間ほどで一戸に着いた。
 車窓からは、ようやく春を迎えたという風情の、まだ冬枯れの様相を呈している潅木の林や所々に蕗の薹が顔をだす畑が眺められた。車内を見渡すと、通学の学生やらいかにもこの地方特有の風貌をした年配の乗客が多いのに気づく。ローカル線とはいえ、乗客が多いのは、この鉄道が地元の人々の生活の足になっているためだろう。
 今回は一戸を目指しての小旅行であったこともあり、この沿線に石川啄木の生まれ故郷・渋民村(現玉山村)があることを知らなかった。岩手山を背にした渋民村の写真をかつてみたことがある。その岩手県のシンボルとも言える岩手山が車窓の左手に見えていた。
 三浦哲郎が「北上山地の北はずれの山間にあるこの古い町」と記した一戸の町は、すでに午後の日が傾き始める時刻になっていた。このまま歩いての文学散歩で日が暮れないだろうかと少し心配になったが、タクシーも見当たらないし、ともかく歩くことにした。
 いつものことながら、文学散歩には胸の昂まりを覚える。その理由は、小説世界に描かれた舞台が目の前に開かれるという期待感である。
 駅からしばらく歩くと馬渕川にかかる橋に差しかかった。さっそく、橋の袂に三浦哲郎の筆跡による「しのぶ橋」と刻んだレリーフを発見する。眼下の馬渕川が勢いよく音を立てて流れている。河畔に辛夷の白い花が咲いている。
 川を渡り、川沿いを歩くと、しのぶ橋の一つ下手にある岩瀬橋近くに小さな公園があり、そこに文学碑が立っていた。『忍ぶ川』の一文が刻まれていた。岩瀬橋は氏の短編にもしばしば登場する橋である。
 文学碑をすぎて、さらに川沿いの上り勾配の道を行くと、左手に氏の実家が見えてくる。家は二階建てで、今は無住の家になっているため、少し荒んだ印象があった。この家もしばしば小説に登場するし、今や史跡といっていい部類に入る。親族の意向もあるだろうが、いずれの日にか公共的な保存が必要でなはないか、と思われた。
 無住の建物は日々風雨にさらされて、次第に朽ちて、あばら家のように成り果ててしまう。それが痛々しい。
 その家の裏の崖下には馬渕川が流れている。こんな近くに川が流れているのが意外だった。
 私はどうしても氏の菩提寺を訪ねたかった。氏が眠っている場所でもあり、この寺も小説の舞台にしばしば登場する寺であるからだ。
 川沿いの道から離れ、しばらく上りの道を歩くと、山際に広全寺という名の寺の山門が現れた。長い石段を上ると、本堂の前に出る。
 寺域は広く、山の斜面に墓地がつくられてあった。三浦家の墓所を訊ねると、大黒さんと思われる人が案内してくれた。
 三浦家の墓は「先祖代々の墓」と刻まれていて、下に「三浦」とあるので、それが三浦家の代々の墓であることが知れる。
 墓の側面には、故人の名前がそれぞれ刻まれていて、本人の名前の他に、親兄弟の名が刻まれていた。しばし、墓前に手を合わせてからそこを離れた。大黒さんの、「奥様がときおり墓参に参ります。綺麗な方ですよ」というひと言がいつまでも心に残った。



銚子から犬吠埼へ

2017-06-16 10:17:21 | 記憶、歴史
  6月の中旬の梅雨晴れの1日、銚子、犬吠埼を訪ねた。初夏の海風が気持よく吹きつける岬の旅はさぞかし快かろうという期待感で胸はふくらんでいた。何よりも、予想外の天気の良さだったのだから。
 半島とか岬が人をひきつけるのは、それらが隅っこにあるということが最大の理由だろう。中心からはずれた辺境、そこには私達が忘れてしまっている何かが今も生きているにちがいなく、それをこの目でたしかめてみたい、という、ひそかな願望があるように思える。
  実際、訪れた岬の生活風景は、想像していたよりも鄙びたものではなかった。時折、この地方独特の民家が散見されるものの、概して、どの家も今風のつくりに建て替えられていて、調子抜けした感じではあった。むしろ、銚子から終点の外川までを結ぶ銚子電鉄の一輛電車に乗った時に、ローカルな気分に浸れたのである。古くからこの地は文人墨客が多く訪れたところで、今もその痕跡を残す文学碑などを多く見ることができる。
 海を目の前にする一帯は、潮の香りにまじって、醤油の匂いが漂っていた。外川という坂の多い港町には、がらんとした静けさがあった。

東海道草津宿探訪

2017-06-12 18:38:07 | 記憶、歴史
 草津は江戸時代以来、東海道と中山道がまじわる宿場町だった。その宿場の状態が現在どうなっているのか以前から興味をもっていた。
 今では東海道のローカル線の一駅になってしまっているが、かつての街道筋は宿屋や茶店が並び立ち、さぞかし賑わっていたことであろう。
 そんな草津の駅に降り立ってみた。線路と交差するように街の東西を走るメインストリートは、明るく閑静なただずまいだった。街全体に高層ビルがないのがいい。空が広く、それだけに街が明るく感じられた。
 地方都市を訪れると、私はいつも、この街に住めるかどうかを私なりの基準で判断してみることにしている。買い物の便利さ、医療施設の充実、環境はどうか、気候はどうかなどを詮索してみるのだ。
 これらの基準からすると草津はとりあえず合格点を越えるだろうと思えた。駅内にある観光案内所のスタッフに、この街の住み心地について尋ねたところ、冬には雪も少なく、住み良いところですよ、という応えが返ってきた。
 東海道線の線路に並行するように中山道が南北に走るが、街中を通る部分は、今は一部、昭和のレトロな雰囲気の商店街になっていて、そこを抜けると、昔ながらの風情を漂わす店が散見される。
 かつての中山道の道幅は今も昔のままなのだろう。車のすれ違いままならぬほどに狭い。その昔ながらの通りに立てば何かが蘇ってくる。その感覚がたまらない。
 ところで、私はここで不思議な風景に出会った。中山道の上を川が流れていたからである。いわば、道は川底をくり抜いて、トンネルをなして通じているのだ。
 川はいわゆる天井川と呼ばれる川で、度々の洪水で川底に土砂がたまり、それが次第に川底を浅くしいった結果の姿らしい。
 聞けば、明治十九年に、今見るようなトンネルができるまで、中山道をたどって来た旅人は、川を渡っていたという。これから見ると、少しずつ堤防が高くなっていったさまが読み取れる。
 ところで、この草津川は数年前に廃川になり、細長い公園に変わり、現在は市民の憩いの場になっている。
 東海道と中山道が交わる、いわゆる追分には、常夜灯をそえた道標が立っている。そして、そこからすぐのところに、かつての本陣が残っている。
 道標には「右東海道いせみち、左中仙道」と刻まれている。その古色のたたずまいが、いかにも歴史を感じさせる。
 ここを通り抜けて行った旅人たちは皆この道標を横目にしながらこの先の旅の安堵を念じていたのかと思うと、取り残されたような道標が昔を語りかけているような気がした。
 格式のある門構えの本陣跡は、長い塀に囲まれていて、当時の威厳を残している。この本陣には忠臣蔵に関係する吉良上野介や浅野内匠頭、時代は下って皇女和宮やシーボルトなどが宿泊したと記録があるという。
 北から南下してきた中山道は、追分で東からの東海道に合することで尽き、東海道と合流する。
 私は街道から裏路地をたどってみた。決して綺麗とはいえないが、古い家並みが軒を並べる路地には、昔の風情が溢れ出ていた。寺があり、格子のついた宿屋がある。
 大都会と比べてみて、この格差はどれほどのものだろうか、とふと考えさせられた。人間が生活するということの意味をこうした路地を歩いていると、あらためて考えさせられる。
風の音を聞きながら、草花を愛でながら、季節の移りを感じがら、そうして生きていることがいかに大事なことか、都会生活にどっぷり浸かっていると、皆、そんなことを忘れ去ってしまう。恐ろしいことだと思う。

真間川、国府台、矢切りの渡し

2017-02-21 17:37:19 | 記憶、歴史
  市川という地が歴史に登場するのはかなり以前のことになる。万葉時代にすでにその名があらわれ、そこを訪れる人がいたということである。
 そんな市川の地を、晩秋の、暖かい一日訪れた。
 この地は、作家の永井荷風が、戦後の一時期住んだことのある町で、荷風は、当時のありさまを随筆に詳しく書き残している。
 実を言うと、この地を訪れたのは、はじめてでない。たしか、中学生時代に、クラブの担当教師と訪ねたことがある。それと、高校時代の、これも同じクラブ活動の一環として、貝塚発掘調査でここを訪れている。いずれも半世紀ほど前の、気の遠くなる昔の記憶である。
「市川の町を歩いている時、わたしは折々、四、五十年前、電車や自動車も走ってなかった東京の町を思出すことがある。杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を売りにあるく男の頓狂な声---」というほどに戦後のある時期、この辺のたたずまいは、深閑としていたことが想像される。
「松杉椿のような冬樹は林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京成電車の静かな停留所がある。線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙。また木槿や南天燭の茂りをつらねている。夏冬とも人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。」
 かつての畠は、すでに跡形もなくなり、今や商業地をまじえた一大住宅街になっている。そして、もう片方にあったと記されている農家もすでに一軒もない。時折、長い生垣を構えた家を見かけるが、それらは、かつて農家であった家々であろう。耕地は切り売りされ、小住宅に変貌てしまっている。
「千葉街道の道端に茂っている八幡不知の薮の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条の細流に出会う。両側の土手の草の中に野菊や露草がその時節には花を咲かせている。流の幅は二間くらいあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川の流の末だということは知ることができた。真間はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。---真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたり至ると、数町にわたってその堤の上の櫻が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、その櫻の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た櫻と同じくらいと思われる。---真間の町は東に行くに従って人家は少なく松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠ととがつづきはじめる。丘阜に接するあたりの村は諏訪田(現在は須和田)とよばれ、町に近いあたりは菅野と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初めて夏は河骨、秋には蘆の花を見る全くの野川になる。」
 ここにあるような真間川の堤はすでになく、両岸はコンクリートで固められている。両岸には櫻はあるが、古樹と思われる櫻ではなく、近年、植えられたもののようである。
 弘法寺の岡の麓、手児奈の宮を訪ねてみた。手児奈伝説にかかわる手児奈霊堂と呼ばれる堂宇があった。伝説にまつわる井戸(乙女、手児奈が身を投げ入れたという)は そのすぐそばの亀井院という寺の境内奥に残っていた。
 弘法大師に所縁のある弘法寺は長い階段を登った丘の上にある。この高台から眺めると、荷風が描写している市川のかつて風景がそれなりに想像できる。広い境内には一茶や秋櫻子の句碑があった。なかでも仁王門が印象深かった。
 市川の地を離れて、つぎに訪れたのは国府台にある里見公園だった。江戸川べりにある城跡でもある園内には、ここで幾度か繰り返された合戦にちなむ史跡を見ることができた。国府台はかつて鴻の台と書かれていたらしく、広重の『名所江戸百景』に、高台から遠く富士を遠望する風景が描かれている。
 国府台に城が築かれたのは室町時代のことで、この城をめぐって、足利・里見と後北条両軍との間で二度の合戦がおこなわれ、五千人ほどの兵士が戦死したと伝えられている。今は明るい公園ではあるが、歴史をひも解けば、血生臭い出来事があったことが知れる。夜泣き石、里見塚、城の石垣などが残り、それを伝えている。 
 国府台を離れて、江戸川べりを歩く。広い土手を歩くのは実に気持ちいい。江戸川は、江戸時代は利根川と呼ばれていた。利根川が銚子方面に付け替えられる前は、渡良瀬川と合した利根川の下流であったのである。
 最後は、矢切の渡しを使って柴又へ出た。「矢切の渡し」といえば、伊藤左千夫の『野菊の墓』が思いだされる。
 この地の出身者でない左千夫が、なぜここを地を舞台にしたかが以前から疑問だった。ところが、その疑問に応えるような記述を最近見つけた。「左千夫はたびたび柴又の帝釈天を訪れ、江戸川を渡って松戸から市川へ出て帰ったが、矢切辺りの景色を大層気に入り、こんな所を舞台に小説を書いたら面白いだろうなと洩らしていた」という近親者の証言がそれである。また、ある研究者は「作者はこれを書くに当って、矢切村を調査研究したとも信ぜられるが、これは外来者が外から二度や三度やってきてスケッチしたぐらいでは とても、ああは書けるものではなくて、どうしても矢切村に数年居住した人でなくては描写し得ないほど、それは矢切そのものが描写されている」とも推察している。
 ところで、当の『野菊の墓』のなかで、矢切の渡しは、「舟で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持ち物をカバン一つにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗するわけでもう船は来ている」と書かれていて、ここでの船は川を渡ったのでなく、川を下ったのである。誰もが船で川を渡ったと思っているがそうではないのである。
 さらに描写はつづく。「小雨のしょぼしょぼ降る渡し場に、泣きの涙も一目をはばかり、一言のことばもかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流れを下って早く、十分間とたたぬうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物を言い得ないで、しょんぼりしおれた不憫な民さんのおもかげ、どうして忘れることができよう」
 「矢切渡し」の名を有名にしているのは、この小説や歌謡曲によるが、「矢切」という地名がまずもって人を引き付けているように思う。その矢切の地名の由来は、かつて国府台合戦があった時、里見軍の矢が尽きて、そのことから「矢切」と呼ばれるようになったという言い伝えがある。