場所にまつわる回想と省察

時間と空間のはざまに浮き沈みする記憶をたどる旅

真間川、国府台、矢切りの渡し

2017-02-21 17:37:19 | 記憶、歴史
  市川という地が歴史に登場するのはかなり以前のことになる。万葉時代にすでにその名があらわれ、そこを訪れる人がいたということである。
 そんな市川の地を、晩秋の、暖かい一日訪れた。
 この地は、作家の永井荷風が、戦後の一時期住んだことのある町で、荷風は、当時のありさまを随筆に詳しく書き残している。
 実を言うと、この地を訪れたのは、はじめてでない。たしか、中学生時代に、クラブの担当教師と訪ねたことがある。それと、高校時代の、これも同じクラブ活動の一環として、貝塚発掘調査でここを訪れている。いずれも半世紀ほど前の、気の遠くなる昔の記憶である。
「市川の町を歩いている時、わたしは折々、四、五十年前、電車や自動車も走ってなかった東京の町を思出すことがある。杉、柾木、槙などを植えつらねた生垣つづきの小道を、夏の朝早く鰯を売りにあるく男の頓狂な声---」というほどに戦後のある時期、この辺のたたずまいは、深閑としていたことが想像される。
「松杉椿のような冬樹は林をなした小高い岡の麓に、葛飾という京成電車の静かな停留所がある。線路の片側は千葉街道までつづいているらしい畠。片側は人の歩むだけの小径を残して、農家の生垣が柾木や槙。また木槿や南天燭の茂りをつらねている。夏冬とも人の声よりも小鳥の囀る声が耳立つかと思われる。」
 かつての畠は、すでに跡形もなくなり、今や商業地をまじえた一大住宅街になっている。そして、もう片方にあったと記されている農家もすでに一軒もない。時折、長い生垣を構えた家を見かけるが、それらは、かつて農家であった家々であろう。耕地は切り売りされ、小住宅に変貌てしまっている。
「千葉街道の道端に茂っている八幡不知の薮の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条の細流に出会う。両側の土手の草の中に野菊や露草がその時節には花を咲かせている。流の幅は二間くらいあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川の流の末だということは知ることができた。真間はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。---真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたり至ると、数町にわたってその堤の上の櫻が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、その櫻の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た櫻と同じくらいと思われる。---真間の町は東に行くに従って人家は少なく松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠ととがつづきはじめる。丘阜に接するあたりの村は諏訪田(現在は須和田)とよばれ、町に近いあたりは菅野と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初めて夏は河骨、秋には蘆の花を見る全くの野川になる。」
 ここにあるような真間川の堤はすでになく、両岸はコンクリートで固められている。両岸には櫻はあるが、古樹と思われる櫻ではなく、近年、植えられたもののようである。
 弘法寺の岡の麓、手児奈の宮を訪ねてみた。手児奈伝説にかかわる手児奈霊堂と呼ばれる堂宇があった。伝説にまつわる井戸(乙女、手児奈が身を投げ入れたという)は そのすぐそばの亀井院という寺の境内奥に残っていた。
 弘法大師に所縁のある弘法寺は長い階段を登った丘の上にある。この高台から眺めると、荷風が描写している市川のかつて風景がそれなりに想像できる。広い境内には一茶や秋櫻子の句碑があった。なかでも仁王門が印象深かった。
 市川の地を離れて、つぎに訪れたのは国府台にある里見公園だった。江戸川べりにある城跡でもある園内には、ここで幾度か繰り返された合戦にちなむ史跡を見ることができた。国府台はかつて鴻の台と書かれていたらしく、広重の『名所江戸百景』に、高台から遠く富士を遠望する風景が描かれている。
 国府台に城が築かれたのは室町時代のことで、この城をめぐって、足利・里見と後北条両軍との間で二度の合戦がおこなわれ、五千人ほどの兵士が戦死したと伝えられている。今は明るい公園ではあるが、歴史をひも解けば、血生臭い出来事があったことが知れる。夜泣き石、里見塚、城の石垣などが残り、それを伝えている。 
 国府台を離れて、江戸川べりを歩く。広い土手を歩くのは実に気持ちいい。江戸川は、江戸時代は利根川と呼ばれていた。利根川が銚子方面に付け替えられる前は、渡良瀬川と合した利根川の下流であったのである。
 最後は、矢切の渡しを使って柴又へ出た。「矢切の渡し」といえば、伊藤左千夫の『野菊の墓』が思いだされる。
 この地の出身者でない左千夫が、なぜここを地を舞台にしたかが以前から疑問だった。ところが、その疑問に応えるような記述を最近見つけた。「左千夫はたびたび柴又の帝釈天を訪れ、江戸川を渡って松戸から市川へ出て帰ったが、矢切辺りの景色を大層気に入り、こんな所を舞台に小説を書いたら面白いだろうなと洩らしていた」という近親者の証言がそれである。また、ある研究者は「作者はこれを書くに当って、矢切村を調査研究したとも信ぜられるが、これは外来者が外から二度や三度やってきてスケッチしたぐらいでは とても、ああは書けるものではなくて、どうしても矢切村に数年居住した人でなくては描写し得ないほど、それは矢切そのものが描写されている」とも推察している。
 ところで、当の『野菊の墓』のなかで、矢切の渡しは、「舟で河から市川へ出るつもりだから、十七日の朝、小雨の降るのに、一切の持ち物をカバン一つにつめ込み民子とお増に送られて矢切の渡へ降りた。村の者の荷船に便乗するわけでもう船は来ている」と書かれていて、ここでの船は川を渡ったのでなく、川を下ったのである。誰もが船で川を渡ったと思っているがそうではないのである。
 さらに描写はつづく。「小雨のしょぼしょぼ降る渡し場に、泣きの涙も一目をはばかり、一言のことばもかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流れを下って早く、十分間とたたぬうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物を言い得ないで、しょんぼりしおれた不憫な民さんのおもかげ、どうして忘れることができよう」
 「矢切渡し」の名を有名にしているのは、この小説や歌謡曲によるが、「矢切」という地名がまずもって人を引き付けているように思う。その矢切の地名の由来は、かつて国府台合戦があった時、里見軍の矢が尽きて、そのことから「矢切」と呼ばれるようになったという言い伝えがある。

宵闇祭り

2017-02-21 17:33:44 | 記憶、歴史
 宵宮の闇が訪れると、各町内から引き出された神輿が勢揃いする。神輿はあやしくも美しく飾られて、それを担ぐ担ぎ手たちが群れ集まる。若い女の声も入りまじり、
「そいや、そいや」の掛け声も勇ましく、高く、低く、ある時は大きく傾き、神輿はハレの装いで町中を練り歩いてゆく。担ぎ手たちの連帯の意気込みに支えられて、神輿は重々しく、かつ、神々しく輝いて見える。
 神輿はそれぞれに独自の顔をもっている。それはその町の歴史を現してもいるのである。狭い町並みを六基の神輿は互いに見えぬ糸でつながれているかのように、ほどよい間隔をたもちながら、ゆるゆると進んでゆく。
 そんな中で、突然、神輿を取り囲む人の群れが、大きく揺らめいたかと思うと、野太い声が飛びかい、女の悲鳴がわきおこる。「喧嘩だ、喧嘩だ」の声。祭りに喧嘩はつきものとはいえ、その勢いは尋常ではない。明らかにその筋の男を思わせる倶利加羅紋々の竜とした体つきの男たちが、すさまじい勢いで渡り合いをはじめている。暗く狭い町筋は、突然、混乱し、人々は逃げ惑い、神輿も立ち往生する。
 喧嘩の男たちの幾人かは、すでに血を浴びている。狂乱の眼はあやしく光り、全身は争いの闘志で満ちあふれている。こうなると、警備の警官の出る幕ではない。群衆にまぎれて右往左往するばかりで、何の力も発揮できないでいる。
やがて、喧嘩の双方は、暗い露地に人を避け、話し合いがはじまる。それが、私の目には、ひどく手慣れたやり方のように見えた。喧嘩という異常事態にもかかわらず、そこにはみえない秩序がつくられているかのようである。つまらぬことでの喧嘩といっ
てしまえばそれまでだが、それが彼らの男意気というものなのだろう。
  宵宮に 意気わきあがる 神輿かな
  遠い日の 祭り囃子を 今宵また

懐かしのおばけ煙突

2017-02-21 17:32:41 | 記憶、歴史
  それはずっしりとした存在感があった。子供心に恐ろしいものに見えた。お化け煙突と呼ばれた、高さ八三メートルもある四本の黒い煙突は、町のどこからも遠望できた。その高さは尋常ではなかった。鉱物的なその煙突のかもしだす風貌は、つねに威圧的であった。
 お化け煙突と呼ばれる、その煙突は、じつは、火力発電所であった。
四本の煙突が、ちょうどひし形に立ち並んでいるために、眺める場所によって、その本数をさまざまに変えた。お化け煙突の名はそこから銘々されたものだと、最近まで
思っていたら、本当はそうではないらしい。
お化けの真相は、それらの煙突から立ちのぼる煙が、ときおり出たり、出なかったりで、それが不思議に思えたためにつけられたというのが本当のところであるらしい。
 とはいえ、お化け煙突の銘々の由来は、今や俗説のほうが一般化している。
つねに煙をはかない煙突事情は、じつは、その火力発電所が電力不足の際の、臨時用として位置づけられていたためであった。
 この煙突が建造されたのは大正十五年のこと。東京電力の前身、東京電灯が足立区千住桜木町の隅田川沿いにつくったものである。
 その煙突は東京名物であった。そのためか、いくつかの映画の舞台背景に使われている。なかでも、この煙突を有名にしたのは、昭和二八年に上映された「煙突の見える場所」という映画である。
 文字通り、煙突が題名になった、五所平之助監督、上原謙、田中絹代という有名俳優が出演したこの映画は、その頃の千住という下町の風景や生活を描いて好評であった。
 地元に住む人間にとって、この映画の舞台が、自分たちの住む町であり、そのロケが住まいの近くの路地裏で行われたことが話題になった。当時、小学生であった私は、やじ馬根性も手伝って撮影現場をのぞきに行ったものである。
映画のなかで、お化け煙突は、川の向こう側に見えていた。ということは、映画の舞台は荒川(放水路)の北側に設定されていたことになる。主人公たちの家の窓からは、広い川がひらけ、その向こうに三本の煙突が望見できた。
その煙突は、明るい空に屹立し、のどかで牧歌的でさえあった。映画のなかで、煙突は、その本数を変えて幾度か登場している。
 が、私の記憶にあるお化け煙突は、もっと間近にあった。黒くそそり立つその煙突は、音もなく煙を吐き出し、不気味としか言いようがなかった。夜になると、黒い図
体を闇にとかして、光さえ発していたのである。
お化け煙突は、その後も、幾つかの映画に登場している。昭和三十三年には「一粒の麦」「大学の人気者」に、同三五年には「女が階段を上がる時」に、同三八年には「いつでも夢を」にとつづく。
 ところが、そのお化け煙突が消える時がやってきたのである。昭和三九年十一月のことである。石炭を燃料とするその火力発電所は、採算性から難点があるということで廃止されることになったのだ。
 国のエネルギー政策の転換がそこにはあった。ちょうど日本が高度経済成長を驀進している頃である。
私の記憶によると、それより数年前に、煙突は黒からシルバー色に化粧直ししている。時代の変遷のなかで、お化け煙突もこぎれいになる必要があったのだろうか。以来、煙突の印象がだいぶ変わったように思えたものである。
 が、私には、それはなじめなかった。黒々としたその風貌こそがお化け煙突にふさわしかったからである。
そこにあったものがなくなるという空虚感はたとえようもないものがある。いよいよ煙突が撤去されるその時のことを覚えている。
 煙突はいっきょにその姿を消さなかった。
それは生殺しのように、少しずつ削りとられ、その高さを失い、やがて、四本とも消えうせていったのである。あとには、そこにだだ広い空地が横たわった。
 煙突が撤去されると、今まで千住という町にあった重しのようなものがなくなり、求心性のない町になった。
それは私が大学を卒業して社会人になった年であった。毎日が忙しく、もはや、そこにあったであろう煙突を思うこともなくなっていた。

「今戸、浅草の切絵図」を歩く

2017-02-21 17:23:12 | 記憶、歴史
  まず、はじめに訪れたのは浄閑寺。町場の真ん中にそこだけ緑濃い一角があった。門をくぐり、あまり広くない境内に足を踏み入れると、そこはすでに異界のような雰囲気に満ちていた。投げ込み寺の名で知られるこの寺は、かつて新吉原に囲われていた遊女が死ぬと、引き取り手がない場合は、この寺に埋葬されたところからの名前である。それを伝える新吉原総霊塔なる記念碑が墓域の奥にひっそりと立っていた。この寺には、じつに2万人もの遊女の霊が祀られていると聞けば、尋常な気持ちではいられない思いがするが、総霊塔の地下室に骨壷が累々と積まれているのを目撃した時、その思いはいっそう現実感となってせまってきた。
 つぎに向かったのは、樋口一葉にゆかりある地、竜泉町であった。「切絵図」では、田畑のひろがる一帯になっているなかに、下谷滝泉寺町としるされた町人地の一角が見える。そこは吉原の遊郭地とは目と鼻のさきである。
 明治26年から1年ほどの間、この町に家族とともに住んで、吉原がよいの客を相手に雑貨屋をいとなんだ一葉は、この借家で「にごりえ」や「たけくらべ」の作品をつくりだしている。現在、その地には、旧居をしるした石碑が立っていて、付近には一葉記念館がある。記念館には一葉ゆかりの原稿、短冊、書籍、明治文献資料などが展示されている。
そこをあとにして、しばらく行くと“おとりさま”で親しまれている鷲神社に出た。縁日でない境内は人影もなくひっそりとしていたが、毎年十一月からの酉の日ともなると開運、商売繁盛を祈願し、熊手を求める参拝客で黒山にひとだかりとなる場所である。
「切絵図」を覗いても、今やその頃の痕跡がほとんど失われているなかで、吉原遊郭があった道筋は、いまもほぼ原型をとどめているといってよい。“お歯黒どぶ”こそないが、その旧遊郭街に足を踏み入れる。
 まず、目にしたのは吉原弁天である。以前、この地にはひょうたん池とよばれる池があったが、いまやそれはあとかたもなく、せまい境内にはいくつもの記念碑が立っている。花吉原名残碑をはじめ、吉原の創始者庄司甚左衛門の記念碑、大門を模したという入り口の石柱、遊女の慰霊観音堂などがある。旧吉原の中央通り、仲の町通りにあたる曲がりくねった道を北上すると吉原神社があらわれる。そこが旧吉原の南端、水道尻にあたる場所で、昔は遊郭街の四隅にあった神社で、遊女たちの信仰厚つかった神社という。
 道なりに仲の町通りを歩く。かつて引き手茶屋が立ち並んでいたといわれる紅燈の巷は、今はないが、かたちをかえてトルコ街になっている。客引きの男たちの前をすりぬけるようにして足ばやに進む。最近までオイランショーが催されていた松葉屋も店を閉じ、ひっそりとしている。そこが吉原大門跡であることは、知る人ぞ知るといったところか。
 ゆるやかなカーブをつくる、かつて五十軒ほどの外茶屋が並んでいたという衣紋坂をぬけ、ガソリンスタンド前の小さな見返りの柳を見たところで旧吉原探索は終了する。
昼食後、旧日本堤(山谷堀)をたどって今戸、浅草へむかう。途中、2代目高尾大夫の墓がある春慶寺、江戸六地蔵のひとつがある東禅寺に寄り、今はない山谷堀(公園緑地になっている)に架かっていた橋の名が残るいくつかの橋を通りすぎて墨田川河畔に出る。そこが今戸で、そこからさらに、これも今や石碑のみに痕跡を残す芝居町をめぐり、墨田公園をぬけて浅草寺の境内にいたった。浅草寺は暮れの賑わいのなかにあり、江戸の時代もこのようであったのか、と思いをめぐらした。

偏奇館跡ー東京の原風景を訪ねて

2017-02-21 17:16:28 | 記憶、歴史
 麻布市兵衛町一丁目、現在の地番でいうと六本木一の六の五、そこに作家永井荷風の住んでいた偏奇館はあった。
 生前、荷風が幾度かその住まいを替え、移り住んだ場所のなかでも、いちばん長く居を構えることになったところだ。大正九年から昭和二十年の、およそ二五年もの間、荷風はそこに住み、名作『墨東綺譚』などを著した。
 今そこには、マンションが建ち、その建物の前に過去の記録を伝える小さな立て札がひっそりと立っているばかりである。
初秋のある日、私は溜池方面から六本木通りをのぼり、偏奇館跡を訪ねた。
 実は、そこを訪ねるわけがもうひとつあった。妻の祖父母がかつて、荷風と同じく麻布市兵衛町に住んでいたことがあった事実を知ったからである。
 その場所がどの辺にあったのかも確かめたかった。伝え聞くところによると、祖父母と荷風との家は近隣同士で、同じ町会のよしみで面識ももあったというから奇縁というほかない。
妻の祖父母がそこに住んだのは昭和十五年から敗戦の年のわずかな間であったらしいが、ある理由で、荷風も祖父母も昭和二十年三月九日をもって、この地を去っている。
 ある理由というのは、その日の東京大空襲によって、この一帯がすべて灰燼に帰してしまったためである。
             * * *
 ところで、荷風の時代の麻布市兵衛町一丁目あたりの風景はどうだったのだろうか。
 それを知るための手がかりになるのが、江戸末期の文久年間に作られた「切絵図」である。地図を見ると、市兵衛町の通りが、ちょうど、尾根沿いの高台にほぼ南北に切り開かれているのが分かる。その通りに沿って、大久保長門守、酒井但馬守、その南に隣接して南部遠江守といった大名の屋敷の名が見える。
 また、その尾根沿いの道から屋敷の間を縫うようにしての谷に下る坂道が幾筋もできている。その坂の下には町人地が、通りに沿うようにして細長くつづいている。
 荷風も行き来したこれらの坂は、武家の住まいと町人地を結びつける役割を担っていた交流路であったことが知れる。こうした町割りは、山の手の江戸の町でよく見うけられる構図である。 
 ところで、当時の地図に見える、大名の屋敷とはどんな構えであったのだろうか。
 江戸時代の大名は、その石高の大小はあったが、いずれも江戸詰めのための屋敷を幕府から拝領していた。屋敷は、その機能に応じて、上、中、下屋敷に分かれ、それらは江戸の市中や郊外に散在していた。
 なかでも、東京の山の手には立地の有利さを利用して各種の屋敷が多く造られた。それらは、いずれも緑に包まれた広大な庭園を擁していた。
起伏に富んだ山の手の地形を巧に利用した大名屋敷は、たいてい、高台の尾根道、ないしは尾根道に連続する支道に面して造られた。しかも、敷地は南面しているのが理想とされた。そして、敷地内の尾根道側の平坦部分に母屋を、その南斜面を利用して、池を配した変化に富んだ回遊式庭園が造作されたのである。 
 このように、地形、道路、敷地、さらに、そこに位置する建物や庭がすべて一体になって構成された大名屋敷が、山の手地区に次々と建てられていった。
そもそも、大名の屋敷地が造成される以前、--それはちょうど江戸期の初め頃になるのだが--一帯は雑木林の山林であった。
 林の間からは、西に富士山が見えたであろう。また、東には江戸湾が望めたはずである。雑木の林を下れば、谷あいに田や畑が点在するというような風景の広がる郊外地であった。荷風の時代になっても、村園の趣はまだ生きていて、辺りには柿、無花果、石榴などの古木が多く残っていたらしい。
              * * *
 今改めて、荷風の偏奇館があった場所を「切絵図」で探してみると、そこに御組坂と明記された坂がある。その坂を下った先に、大井左近邸と明記されたている敷地がある。偏奇館はその辺りにあったことが分かる。
 表通りから坂を下るちょうど角に、伊藤左源太邸と記された屋敷の名が見える。その脇を下る御組坂の名は、その坂を下り切った、地形的にはちょうど谷底にあたる地域に、当時、御先手組の組屋敷があったことから、そう呼ばれていたものである。
 地図には御先手与力同心大縄手と記されている。縄手というのは、幕府から拝借した土地をいい、いわば、そこに官舎としての組屋敷があり、その屋敷には、武装した武士集団が住まっていたのである。先手組というのは、幕府の御家人階層からなる戦時の先頭部隊で、常時は放火盗賊を取り締まる役目を負っていたものだ。
 東京の城南地区の起伏に富んだ谷あいの細い窪地を利用して、この種の居住地が開かれていた例はほかにも多く見られる。
 時代は下って、明治になると、地図に見られるような大名屋敷は、時の政府によっておおむね上地される。
 それらは敷地規模はそのままに、政府の公共施設に転用されるケースが多かった。あるものは外国の大使館に、またあるものは華族や皇族の屋敷、あるいは政府の高官の屋敷に変わっていった。
 その例を、麻布市兵衛町の、現代に至るまでの変遷のなかで見ると、本多氏の屋敷は溝口邸から現スペイン大使館に、大久保邸が現住友会館に、曽我氏の屋敷が大村伯爵邸から現スウェーデン大使館に、そして、南部藩の上屋敷は、静寛院宮邸から東久邇宮邸、それが、さらに林野庁の公有地に転用され、現在は民間の再開発地という目まぐるしい転変ぶりである。
 ここで、荷風がこの地に移り住んだ大正九年という時代に視点を合わせてみよう。
 現在もそのまま名前が残る御組坂と呼ばれる坂は、住友邸に南接した田中邸と記された屋敷の敷地の脇を下っている。
 荷風の日記にも時折出てくる田中邸である。現在は外人用のマンションになっている石垣で囲まれた敷地がそれである。
 その坂を下って行くと、坂は二つに分かれる。それを右手に進むと、坂が突き当たり、道は一層狭くなって右に折れる。
 当時は、住友邸のちょうど裏側にあたっていた。荷風の住んだ偏奇館は、その辺りにあったのである。 
「貴人の自動車土を捲いて来るの虞なく、番地は近隣一帯皆同じければ訪問記者を惑すによし。偏奇館甚隠棲に適せり」(断腸亭日乗)と荷風らしい記述でこの地を紹介している。それほどに閑静、迷宮の地であったのである。
 記録によると、偏奇館は三七坪ほどの敷地に建つ瓦葺き木造二階建ての西洋風の建物で、板張りの外壁はペンキで塗り込められていたという。そもそも偏奇の名は、ペンキをもじった名前であった。
 庭のある家の回りは生垣(カナメモチか)で囲まれ、すぐ後ろの崖下には竹薮があった。その地所は広部銀行の所有で、それを借地したものであった(のちに購入)。 
 今は建物が建て込んでいて、その辺の地形を見わたしにくいが、荷風の住まいがあった場所は、崖の上に広がるちょっとした空間であった。
 現在もその辺の事情は変わりがない。家の窓から外を眺めると、崖下を見下ろすように、谷底に広がる谷町、すなわち、江戸期の先手組の組屋敷の敷地跡が見わたせたはずである。 大正九年、この地に移って間もなく、荷風は窓外の風景を、日記の中で「空地は崖に臨み赤坂の人家を隔てて山王氷川両社の森と相対し樹間遥に四谷見附の老松を望み又遠く雲表に富嶽を仰ぐべし」と記し、さらに、夕暮れともなると、暮靄蒼然として、崖下の町の様子は、あたかも、英泉の版画を見る思いであると感想を述べている。
 決して広いとはいえない家の庭には、各種の潅木が植わっていた。
 西向きの窓の外にプラタン樹が三本、門前には夾竹桃。ほかにツツジ、藤、山吹、秋海棠、卯の花、ビワ、柿、椎、百日紅、石榴、椎、樫、松、ドウダン、石榴、カナメ、桐、楓、山茶花、八ツ手、薔薇などが、時には花を、時には実を結んだ。 
 なかでも、秋海棠は大久保余丁町の実家にもあった因縁でこれを愛した。秋海棠はまたの名を断腸花とも言ったことから、大久保の実家を断腸亭と称し、自らの日記も「断腸亭日乗」と銘々したほどであった。
 荷風は草花も慈しんでいた。苔むす庭には春の福寿草、胡蝶花、夏の紫陽花、紅蜀葵、ムベ、秋の菊、萩、鳳仙花、コスモス、石蕗と季節に応じた草花が花を咲かせ、それを楽しんだ。西日を避けるために、家の西南に夕顔の棚を設けもした。
 時折、庭の草をむしり、秋には散り敷いた落葉をかき集め、焚き火をすることもあった。 春には鴬の囀りも聞かれた。そして、夏には蝉時雨、秋は百舌鳥やコオロギのすだく声が無聊を慰めてくれた。一時期、セキセイ・インコも飼っている。
 また、荷風は近隣の家の様子も日記に書き付けている。向こう隣にはトタン葺きの小家が三軒並んでいた。「一軒は救世軍の人にてもあるにや、折々破れたる風琴を鳴し、児女数人賛美歌を唱ふ。そのとなりは法華宗の信者にて、朝夕木魚を打鳴して経を読む。そのまた隣りの家にては、猿を飼ふ、けたたましき鳴声絶間なし」という具合であった。
 そして、隣接した家は大工であった。その庭には柿、桃、梅などの果樹があった。鶏も飼っている。紅葉の頃ともなると隣家の落葉が風に舞い落ちては庭を埋めた。
 御組坂を上がり、市兵衛町の表通りに出ると、通りの向こう側に赤煉瓦塀に囲まれた東久邇の宮の屋敷が見えた。
 震災の頃まで、そこには、南部藩以来の向鶴の定紋の付いた長屋門が残っていた。塀の際には老桜が数株あり、花の季節になると一斉に見事な花を咲かせた。
 荷風は二十有余年という間、山の手の隠れ家、偏奇館を根城に、下町の陋巷へと遊行した。それは彼の日記を紐解けば、自ずから頷けることである。毎日のように、銀座、浅草、吉原、玉ノ井、深川へと出かけた行動が記されている。
 その際、荷風はたいてい家から狭い崖道伝いの坂道を下り、谷町の電車通りに出ている。現在の六本木通りである。
 そこでタクシーを拾い、あるいは、市電に乗って、銀座方面に向かったのである。時折、溜池まで歩き、虎ノ門駅から銀座線に乗ることもあった。
 谷町に下りる坂を道源寺坂という。現在もその坂の名と寺は健在で、坂の名称は、その途中にある道源寺という寺名から由来していることが分かる。
 また、坂下には西光寺という、これまた現存する梅花星のごとく咲くと荷風も記した小さな寺がある。その坂沿いに茅葺き屋根の家が並んでいた。  
 下町からの帰路は、この谷町コースの来路をとることもあったが、新橋経由、愛宕下から江戸見坂、あるいは溜池側から霊南坂を上ることもあった。
 それにしても、荷風は、なぜこうした坂を登った台地に住まいを選んだのだろうか、とふと疑問がわく。
 そう言えば、荷風が生まれ育った家は、確か、東京の高台であったことを思い出した。それは、ちょうど武蔵野台地のはずれの小石川に位置し、いわば、自然山水の景の優れた場所であった。
 その屋敷というのは、元旗本の屋敷を買い上げたもので、古びた庭がだだひろく広がり、ところどころに、古木が暗い陰をつくっているといった風情のところであった。敷地四五〇坪というから現在からすれば、かなりの広さであったことが分かる。
 その屋敷の建つ台地の下には江戸川の水景が望め、台地から谷地に下る坂の斜面には、由緒ある寺の数々が散在していたのである。 荷風はその家に住み、当時はまだ、一般の東京人はそうしなかった洋風の生活をそこでしていたのである。
 幼い頃、こうした台地の家に住み、洋風の生活をし、台地の上から、東京を見つめていた荷風にとって、同じような環境の麻布市兵衛町の高台は、思いつきで選んだ場所ではなかったといえそうである。
 荷風は、前述したように、偏奇館の建物を西洋風に仕立て、壁にモダンなペンキを塗りたてて、そこで洋風の生活を送ったのであった。
 ところで荷風の偏奇館があった市兵衛町の町名は、この地の名主であった黒沢市兵衛の名からとったもので、明治になってから一丁目と二丁目に分かれたという。
しかしながら、現在、この一帯の変貌は著しい。かつての風景はこのところの再開発で消滅してしまった。ただ、「荷風偏奇館跡」を記す碑がひっそりと立つばかりである。