みなさん こんばんは
酒井材木店 伴場です。
昨日ボケ息子が帰ってきました
沢山の思い出と勉強ができてかなりご満悦
一週間、指導や面倒をみてくれた
春日部シニアの指導者様、東松山中央シニアの指導者様、同行していただいた父母のみなさんありがとうございました。
僕もあらためて、沢山の人達に支えてもらってんだなって気づきました。
ありがとうございました。
人のパクリですが・・・笑
面白いの貼り付けしときます
アサヒドットコムからの転載です。
甲子園を目指して、北北海道大会が17日から旭川スタルヒン球場で、南北海道大会が19日から札幌円山球場で始まる。大会を前に、北海道ゆかりの野球人に、高校野球への思い、取り組み、心構えなどを聴いた。1回目は、北海道の社会人野球チームから沖縄の興南高に移り、今春の選抜で優勝した我喜屋優監督。駒大苫小牧の香田誉士史(よしふみ)・元監督にアドバイスし、夏2連覇、準優勝を陰ながら支えた知将だ。
◇
■沖縄 興南高監督・我喜屋 優さん
がきや・まさる 沖縄県出身。1968年に興南の主将として県勢初の4強。大昭和製紙富士を経て72年に白老町の大昭和製紙北海道に移り、74年都市対抗野球で優勝。89年に監督就任し、4年連続で同大会出場。93年に休部し、クラブチーム「ヴィガしらおい」監督。06年夏の駒大苫小牧と早実の決勝再試合を甲子園で見た直後に母校から要請があり、07年監督就任。10年選抜初優勝。60歳。
◇
■逆境と友達になれ。最後は宝物になる
――社会人野球から高校野球の監督を引き受けて、4年で選抜優勝。どういうチームづくりをされたのですか。
最初は引き受けるつもりはなかった。駒大苫小牧の香田君を見て、高校野球の大変さはわかっていたから。でも、20年以上甲子園から遠ざかっている母校からの誘い。34年間暮らした白老町から沖縄へ戻った。
ところが、来てみて、なんだこれは、と思った。野球部の寮は人の住む所じゃない、グラウンドもひどい。用具入れも30年間、掃除してない。ゴキブリ、ヤモリ、何でも出てきた。ボールを足でけって集めるなんて信じられない。野球の技術より、先に教えることがあると思った。
整理整頓、しつけ、1日24時間の使い方……。朝の散歩がちゃんとできない、30分の自主練習も、2時間の全体練習もできない。でも、できるようにするのが監督の仕事。チーム力のアップになる。いい選手を集めたからといって強いチームができるわけじゃない。
――特に重視したのは?
夜型の子が多いので、まず十分に寝て、早く起きて、ご飯をしっかり食べること。それまで寮の食事は業者の弁当で、食べ残しが多かった。口から入れるものは体の源。寮でつくって出し、全部食べさせるようにした。
朝の散歩も、一人で歩きながら何かを見て、感じてこいと。花でも草でも、指でつまんで、においをかいでこい。五感を研ぎ澄ますためです。そのうち、ごみを拾ってくるようになった。帰った後は1分間スピーチ。何を感じたか話をさせる。甲子園の試合後も、選手ははっきりとしゃべっていたでしょう。
――練習では、どんなことを教えましたか。
キャッチボールは足を動かして正面で取りなさい、ボールが手を離れた時に、判断して動きなさい、と。打球は正面に来ないでしょう。打撃練習も球種を決めてマシンで打たない。試合で何を投げるか、先に言ってくれませんから。中継プレーでは外野手は捕ってすぐに投げる。カットは離して2人置いて、どっちかが捕れればいい。それでずいぶん違う。優勝するためには、細かい準備ができているかどうかです。
――北と南の野球に違いはありますか。
1年を準備、実践、反省の3分の1ずつに分け、バランスよくやるのが理想。でも沖縄はいつでも野球ができるから実践ばかりになり、体力の蓄え不足に陥りやすい。逆に北海道は冬があるから準備が長い。へたをすると、その間、寝てしまう。香田君にも言ったのが「逆境と友達になれ。最後には宝物になる」。雪の中でも実践をやり通したのが駒大苫小牧。沖縄にも長い梅雨がある。でも長靴、薄いカッパを着て練習する。古くなったボールに工事用のビニールテープを巻いてバッティング。嫌なことから逃げてはダメなんです。
――今夏の沖縄大会の初戦の後、選手たちを怒鳴りつけていましたが……。
球場に行くとき、バスに積む荷物がたくさんあるのに、(ベンチ入りの)メンバーは先に乗って座席でふんぞり返っていた。あんなことは絶対に許さない。選抜優勝でいい気になるな。おまえたちは、咲いている花で、きれいと言われるかもしれんが、根っこで支えてくれている下級生、親、スタッフに感謝しろと、ずっと言ってきたのに、情けなかった。1週間前ならメンバー全員を取り換えていた。
小さいことかもしれない。でも、こういうことに気がつかないでいると、試合で大きな落とし穴が待っている。
――「野球バカ」で終わるぞ、とも言っていましたね。
野球が終わっても、この子たちの人生のスコアボードはずっと続く。1、2年間のレギュラーより、人生の勝利者になったほうが幸せ。選手たちが10年後に訪ねてくれて、きちんと仕事している姿を見たいですね。
(聞き手・岡田和彦)
酒井材木店 伴場です。
昨日ボケ息子が帰ってきました
沢山の思い出と勉強ができてかなりご満悦
一週間、指導や面倒をみてくれた
春日部シニアの指導者様、東松山中央シニアの指導者様、同行していただいた父母のみなさんありがとうございました。
僕もあらためて、沢山の人達に支えてもらってんだなって気づきました。
ありがとうございました。
人のパクリですが・・・笑
面白いの貼り付けしときます
アサヒドットコムからの転載です。
甲子園を目指して、北北海道大会が17日から旭川スタルヒン球場で、南北海道大会が19日から札幌円山球場で始まる。大会を前に、北海道ゆかりの野球人に、高校野球への思い、取り組み、心構えなどを聴いた。1回目は、北海道の社会人野球チームから沖縄の興南高に移り、今春の選抜で優勝した我喜屋優監督。駒大苫小牧の香田誉士史(よしふみ)・元監督にアドバイスし、夏2連覇、準優勝を陰ながら支えた知将だ。
◇
■沖縄 興南高監督・我喜屋 優さん
がきや・まさる 沖縄県出身。1968年に興南の主将として県勢初の4強。大昭和製紙富士を経て72年に白老町の大昭和製紙北海道に移り、74年都市対抗野球で優勝。89年に監督就任し、4年連続で同大会出場。93年に休部し、クラブチーム「ヴィガしらおい」監督。06年夏の駒大苫小牧と早実の決勝再試合を甲子園で見た直後に母校から要請があり、07年監督就任。10年選抜初優勝。60歳。
◇
■逆境と友達になれ。最後は宝物になる
――社会人野球から高校野球の監督を引き受けて、4年で選抜優勝。どういうチームづくりをされたのですか。
最初は引き受けるつもりはなかった。駒大苫小牧の香田君を見て、高校野球の大変さはわかっていたから。でも、20年以上甲子園から遠ざかっている母校からの誘い。34年間暮らした白老町から沖縄へ戻った。
ところが、来てみて、なんだこれは、と思った。野球部の寮は人の住む所じゃない、グラウンドもひどい。用具入れも30年間、掃除してない。ゴキブリ、ヤモリ、何でも出てきた。ボールを足でけって集めるなんて信じられない。野球の技術より、先に教えることがあると思った。
整理整頓、しつけ、1日24時間の使い方……。朝の散歩がちゃんとできない、30分の自主練習も、2時間の全体練習もできない。でも、できるようにするのが監督の仕事。チーム力のアップになる。いい選手を集めたからといって強いチームができるわけじゃない。
――特に重視したのは?
夜型の子が多いので、まず十分に寝て、早く起きて、ご飯をしっかり食べること。それまで寮の食事は業者の弁当で、食べ残しが多かった。口から入れるものは体の源。寮でつくって出し、全部食べさせるようにした。
朝の散歩も、一人で歩きながら何かを見て、感じてこいと。花でも草でも、指でつまんで、においをかいでこい。五感を研ぎ澄ますためです。そのうち、ごみを拾ってくるようになった。帰った後は1分間スピーチ。何を感じたか話をさせる。甲子園の試合後も、選手ははっきりとしゃべっていたでしょう。
――練習では、どんなことを教えましたか。
キャッチボールは足を動かして正面で取りなさい、ボールが手を離れた時に、判断して動きなさい、と。打球は正面に来ないでしょう。打撃練習も球種を決めてマシンで打たない。試合で何を投げるか、先に言ってくれませんから。中継プレーでは外野手は捕ってすぐに投げる。カットは離して2人置いて、どっちかが捕れればいい。それでずいぶん違う。優勝するためには、細かい準備ができているかどうかです。
――北と南の野球に違いはありますか。
1年を準備、実践、反省の3分の1ずつに分け、バランスよくやるのが理想。でも沖縄はいつでも野球ができるから実践ばかりになり、体力の蓄え不足に陥りやすい。逆に北海道は冬があるから準備が長い。へたをすると、その間、寝てしまう。香田君にも言ったのが「逆境と友達になれ。最後には宝物になる」。雪の中でも実践をやり通したのが駒大苫小牧。沖縄にも長い梅雨がある。でも長靴、薄いカッパを着て練習する。古くなったボールに工事用のビニールテープを巻いてバッティング。嫌なことから逃げてはダメなんです。
――今夏の沖縄大会の初戦の後、選手たちを怒鳴りつけていましたが……。
球場に行くとき、バスに積む荷物がたくさんあるのに、(ベンチ入りの)メンバーは先に乗って座席でふんぞり返っていた。あんなことは絶対に許さない。選抜優勝でいい気になるな。おまえたちは、咲いている花で、きれいと言われるかもしれんが、根っこで支えてくれている下級生、親、スタッフに感謝しろと、ずっと言ってきたのに、情けなかった。1週間前ならメンバー全員を取り換えていた。
小さいことかもしれない。でも、こういうことに気がつかないでいると、試合で大きな落とし穴が待っている。
――「野球バカ」で終わるぞ、とも言っていましたね。
野球が終わっても、この子たちの人生のスコアボードはずっと続く。1、2年間のレギュラーより、人生の勝利者になったほうが幸せ。選手たちが10年後に訪ねてくれて、きちんと仕事している姿を見たいですね。
(聞き手・岡田和彦)