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「資本主義精神」を体現していた二宮金次郎像 源流には「恩返し」の思い
2017.12.22
《本記事のポイント》
- 金次郎は資本主義の精神を体現し、600以上の藩や村を再建した
- 金次郎の行動を支えたのは、「恩返ししたい」という思い
- 覇権を拡大する社会主義国家・中国を抑え込むためにも金次郎の思想が必要
中国が、国家プロジェクトである現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」を推進し、世界中に中国の覇権を拡大しようとしている。このほど北京市内で行われた日中有識者による合同フォーラムでも、中国の蒋建国・新聞弁公室主任(閣僚級)は「一帯一路という中日協力の新しい畑を開墾し、開放型の世界経済をともに建設しよう」と呼びかけた。
国民の自由を抑制する全体主義・社会主義国家である中国の暴走を抑え込むためには、アメリカや日本をはじめとした資本主義国家が協力する必要がある。しかし、そうした国々が基盤とする「資本主義」とは、そもそもどのような考え方なのだろうか。
実は、江戸時代に600以上の藩や村を復興させた偉人の人生から、資本主義の精神を読みとくことができる。
薪売りに現れる「資本主義精神」
薪を背負い、歩きながら本を読む少年――。言わずと知れた、二宮金次郎(1787~1856年)だ。勤勉の象徴として、像を建てている学校も多い。名前は有名な金次郎だが、「何をした人か」と問われると、明確に答えられる人は少ないかもしれない。
「小さいころから勤勉に働き、親孝行をした人」
「伯父さんに意地悪されながらも、くじけずに勉強を続けた人」
「捨てられていた苗を空き地に植えて、1俵分のお米を収穫した人」
どれも正解だが、それは金次郎の人生の一側面に過ぎない。金次郎の人生を「経済」という視点で見てみると、違ったものが見えてくる。
本を読みながら薪を背負って歩く金次郎像。その姿が示しているのは「勤勉さ」だけではない。金次郎が薪を背負っているのは、町で売るためだ。炊事や風呂などに使う燃料のほとんどが薪だった当時、需要が高かった薪は、高い値で売れた。金次郎は利益率の高い薪を小田原の町に売りに行っては、家計の足しにしていた。
ここで興味深いのは、最初は落ちていた薪を拾って売っていた金次郎が、後に貯めたお金で山を買い、そこで木を切って薪をつくるようになったことだ。元手を貯蓄し、より大きな価値を生むものに投資する。これは、現在で言えば、新しく工場を建ててより大きな利益を得ることと同じであり、資本主義の基本的な考え方だ。
伯父のもとから独立し、二宮家を再興
貯蓄をして元手をつくり、それを投資して、より大きな富を得るというやり方は、その後、規模を大きくしていく。
両親を亡くして伯父の家に寄宿していた金次郎だが、青年になり伯父から独立。さまざまな家で奉公人として働き始めた。金次郎は、そこで得たお金を貯め、両親が亡くなった際に売り払った二宮家の屋敷や田畑を買い戻した。
奉公が休みの日は田畑で農作物をつくり、それを売ってはさらに貯蓄をする。そして、そのお金で土地を買い戻すということを繰り返し、数年後には4000坪以上の土地を得るまでになった。
倹約して元手を貯め、そのお金を投資し、新たな富を生みだす。この資本主義のサイクルを生涯実践したことによって、金次郎は自らの身を立て、600以上の藩や村を建て直すことに成功したのだ。
茄子を食べて飢饉を予測
これだけでも驚きだが、金次郎はさらに時代を先取りしていた。
経営学者のピーター・ドラッカー(1909~2005年)は生前、「21世紀は資本の時代から、智慧の時代になる」と述べていた。20世紀では、資本を持つ人が工場や機械を購入し、事業を興して成功していたが、21世紀という時代においては、事業成功には資本ではなく智慧こそが求められるということだ。
この智慧の現れ方の一つとして、「危機を突破する智慧」というものがあるだろう。実は、洪水や冷害による大凶作によって、全国で20~30万人が死亡したとされる「天保の大飢饉」が起こった1830年代、金次郎は智慧の力で村民の命を救っている。
1833年の夏、食べた茄子が秋茄子の味がすることを不思議に思った金次郎は、自ら田畑の様子を調査。葉の先が弱っていたことから、凶作を予測し、村民にヒエや芋などをつくらせた。その翌年、天保の大飢饉が起こるが、食糧を蓄えていたおかげで金次郎の村からは一人も餓死者が出なかった。そのうえ、近隣の村に食糧を分け与えることもできた。
これは今で言うと、ちょっとした変化から会社の危機を予測し、事前に対策を打つことと同じだろう。まさに、智慧の力で危機を回避した例といえる。21世紀にも通じる資本主義の精神は、江戸時代を生きた金次郎によってすでに実践されていたようだ。
恩返しから始まった資本主義
資本主義を体現した金次郎の人生を見てきたが、その思想を支えたものは何だったのか。
それは、「より多くの人に恩返しをしたい」という情熱だ。金次郎は、自らが、神仏や父母など数限りない存在からの恩恵を受けて生きていると自覚していた。そうした恩を受けて生きている自分が、他の人々のお役に立つことで、恩に報いることができると考えていたのだ。
したがって、金次郎が資本主義の精神を発揮した原点にあるのは、利己的な願望ではなく、他の人々や社会が豊かになることを願う利他の思いだった。
急速に経済成長している中国を抑え込むためにも、今こそ、恩返しのために資本主義精神を発揮した金次郎の思想が必要だろう。
(片岡眞有子)
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遠きをはかる者は富み、近くをはかる者は貧す。
可愛くば 5つ数えて 3つ褒め 2つ叱って 良き人となせ
真の学問とは、小欲を大欲に変えるための手段。小欲とは己のみの欲求を満たすことであり、大欲とは人間そのものの幸福を満たすことである
誠実にして、はじめて禍(わざわい)を福に変えることができる。術策は役に立たない。
貧者は昨日のために今日つとめ、昨年のために今年つとめる。それゆえ終身苦しんでも、そのかいがない。
富者は明日のために今日つとめ、来年のために今年つとめるから、安楽自在ですることなすことみな成就する。
富をみて直ちに富を得んと欲する者は、盗賊鳥獣に等しい。人はすべからく勤労して、しかる後に富を得る。
速成を欲するのは、人情の常である。けれども成功、不成功には時期があり、小さい事柄でも、おいそれとは決まらない。まして大業ならばなおさらのことだ。
昔から方位で禍福を考えたり、月日で吉凶を説いたりすることがあって、世間ではこれを信じているが、この道理はあり得ない。禍福吉凶というものは、人それぞれの心と行ないとが招くところに来る。
奪うに益なく譲るに益あり
古語に「三年の蓄えなければ国にあらず」といっている。外敵が来たとき、兵隊だけあっても、武器や軍用金の準備がなければどうしようもない。国ばかりでなく、家でも同じことで、万事ゆとりがなければ必ずさしつかえができて、家が立ちゆかなくなる。国家天下ならなおさらのことだ。
富は人のほしがるものだ。けれども人のために求めれば福を招き、己のために求めれば禍を招く。財貨も同じことで、人のために散ずれば福を招き、己のために集めれば禍を招く。
貧富は分度を守るか分度を失うかによって生ずる。分度を守って、みだりに分内(予算)の財を散らさなければ富にいたるし、分度を失い、他から借財して分内に入れるようであれば、やがて貧に陥る。
世間の人は、とかく小事を嫌って大事を望むけれども、本来、大は小を積んだものである。だから、小を積んで大をなすほかに方法はない。
昔蒔く、木の実大木(おおき)となりにけり、いま蒔く木の実、後の大木ぞ。
貧者は天分の実力をわきまえず、みだりに富者をうらやみ、その真似をしようとする。
悪いことをした、やれまちがったと気づいても、改めなければしかたがない。世の中のことは、実行によらなければ事は成就しない。
樹木を植えて、30年たたなければ材木にはならない。だからこそ後世のために木を植えるのだ。今日用いる材木は、昔の人が植えたものだとすれば、どうして後世の人のために植えないでよかろうか。
学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。
一万石の米は一粒ずつ積んだもの。1万町歩の田は一鍬ずつの積んだもの。万里の道は一歩ずつ積み重ねたもの。高い築山(つきやま)も、もっこ一杯ずつの土を積んだものなのだだから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する。
大事をなしとげようと思う者は、まず小さな事を怠らず努めるがよい。それは、小を積んで大となるからである。大体、普通、世間の人は事をしようとして、小事を怠り、でき難いことに頭を悩ましているが、でき易いことを努めない。それで大きなこともできない。大は小を積んで、大となることを知らぬからである。
衰えた村を復興させるには、篤実精励(とくじつせいれい)の良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼(ほういつぶらい)の貧民がついに化して篤実精励の良民となるように導くのである。ひとまず放逸無頼の貧民をさし置いて、離散滅亡するにまかせるのが、わが法の秘訣なのだ。
朝夕に善を思っていても、その善事を実行しなければ善人とはいえない。だから悟道治心の修行などに時間を費やすよりは、小さい善事でも行なうのが尊い。善心が起こったならば、すぐ実行するがよい。
あなたは心得違いをしている。それは運が悪いのでもなし、神明の加護がないのでもない。ただ、あなたの願うことと、することが違うからいけないのだ。
いま、富める者は、必ずといってもよいほど、その前から徳を積んだものである、もし麦を蒔かなかったら、来年は麦がまったく実らない。麦の実りは冬から力を入れてきたからである。稲を仕つければ秋には実る。米の実りは、春から丹精して(心を込めて励んで)きたからである。
よく徳に報いる者は、将来の繁栄のことはさておき、今日ただいまの丹精(心を込めて励むこと)を心掛けるから自然と幸福を受けて、富貴がその身を離れない。
万事はどうなるかという先を見通して、前もって決めておくことが肝心だ。人は生まれると必ず死ぬべきものである。死ぬべきものだということを前に思い定めてかかれば、生きているだけ日々もうけものだ。これが、わが道の悟りである。
すでに熟したものを差し置いて、まだ熟しないものを心配している。これは人情の常である。しかし、まだ熟しないものを心配するより、すでに熟したものを取り入れる方が、どれほど良いかわからぬ。