理想国家日本の条件 自立国家日本 日本の誇りを取り戻そう! 桜 咲久也

マスコミで報道されないような
情報と日記です(^▽^)/
世界と日本の危機を伝える・・

偽善が歴史を貶め、国を危うく   脱・洗脳史講座

2014年08月12日 12時59分47秒 | 歴史・動画 

偽善が歴史を貶め、国を危うく

脱・洗脳史講座 抜粋

転載、させていただいた記事です

  http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/


 昭和の初めから日本の敗戦(1945=昭和20年8月)に至るまで、つまり昭和前期を中心とする

かつての日本は、中国をはじめとするアジア諸国を 「侵 略」 しつづけ、1千万、2千万人という

膨大な住民を殺害、しかも殺害にいたる過程に至っては「吐き気をもよおす」 ような「残虐行為」  

の連続であったとされました。
 このことが、メディアを通じて、また教育などもろもろの経路をたどり、深く国民に浸透していったがために、

「あの時代の日本は恥ずべきもの、できれば触れたくないもの」 とした捉え方が、漠然としたものにせよ、

普通の日本人が持つ歴史イメージ( ≒ 歴史観 )であろうと思います。


 こうした歴史観、歴史イメージを私たちが持たされた過程において、罪悪感、贖罪意識(しょくざいいしき)

が同時に醸成されたために、

今日なお、日本という国家はもちろん、われわれ自身の言動が何かと拘束されつづけています。



1 パール博士の見解と危惧

 1952(昭和27)年10月、サンフランシスコ講和条約の発効によって、日本の独立が回復した半年後に

あたりますが、インドからパール博士(1886~1967年)が来日しました。
 パール博士は東京裁判における11人の判事のうちの1人で、インドを代表して裁判にかかわりました。

博士は11人の各国判事のうち、ただ一人の国際法に精通した学者でした。その博士ただ1人が、

日本の国家行動は国際法に照らして無罪であると終始主張、また「東条 英機」(とうじょう ひでき)以下の

被告全員を無罪とする判断を少数意見ながら表明したのでした。


 そのパール博士は日本の侵略の問題、あるいは日本人の罪悪感などについて、

以下のように述べています。

ラダビノード・パール博士










〈 要するに、彼ら(連合軍)は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって

自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪で

あるとの烙印を押し、罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いない。・・・ 〉

〈  日本の子供たちが歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されていくのを、

わたしは見過ごして平然としているわけにはいかない。彼らの戦時宣伝の欺瞞を払拭せよ。

誤れる歴史は書きかえられねばならない。 〉

 

 引用の前半にある18年間というのは、東京裁判で審議対象となった期間、つまり昭和3(1928)年~昭和20(1945)を

指しています。また後半の引用(日本の子供たちが・・・ )は、「日本は国際犯罪を犯した」

「日本は侵略の暴挙を敢えてした」 と子供たちに教えている日本の現状を知ったうえでの発言とのことです。
  

2 残虐行為、残虐事件 が歴史観を左右する

 パール博士の来日から、すでに60年の月日が流れました。この長い時間が私たちの歴史観、歴史イメージに

なにか変化をもたらしたのでしょうか。
 変化は確かに起こりました。ただ、その変化はパール博士が望んだ「誤れる歴史は書きかえられねばならない」

ではありませんでした。それどころか、日本の国家行動が「侵略一色」 だったと同じ日本人によって糾弾され、

さらに常軌を逸した数々の「残虐行為」 が暴かれては断罪され、今は成人、あるいは初老に入った当時の

子供たちの心に罪悪感が刷り込まれていくという変化だったのです。つまるところ、日本国=極 悪、連合国=善

という単純な歴史観が広まりを見せたのでした。
 このような日本=悪 とした歴史観を大した抵抗もなくわれわれが受け入れた理由は、アジア諸国を「侵略」

したことに主な原因があるのではなく、はるかに強く日本軍および民間人が行ったとされる「残虐行為」

に因っているのだと思います。


言葉を換えていえば、猟奇的ともいえる悪質な所業の数々、しかも膨大な犠牲者をともなうこうした

「残虐行為」の存在が「侵略問題」に対する一切の疑問、異論が存立できないほどに決定的な影響を

及ぼしてしまったのです。


当時の日本の周辺国を見渡せば、インド、ビルマ、インドネシア、ベトナム、フィリピンなどなど、ことごと

く白人列強国の植民地であり、独立国といえるのは日本、タイ の2国くらい。中国はといえば、大小軍閥が

各地に割拠し、国民党の蒋介石はこれら軍閥と戦い国内統一を目指し、やがて新政府を樹立(1928=昭和3年)

したものの、アヘン戦争(1840年)以降、列強による権益はそのまま、国内の不安定さも同様でした。

なにより列強の持つ軍事力は圧倒的であり、植民地指向も依然強く、太刀打ちできる相手ではありませんでした。


 日本も手をこまねいていれば、他国と同様、植民地にされるのは火を見るより明らかです。

ですから、日本という国家の 「生存をかけた戦い」 であったという主張は、そう理解されにくくないはずで、

マッカーサー元帥(アメリカ人、連合軍総司令官)が後に出した見解を持ち出すまでもなく、

欧米の歴史学者の間でも少なくないと読んだ記憶があります。


「吐き気をもよおす」 日本軍の所業

ところが、これらを帳消しにしたうえ、日本のイメージを最悪の状況に落とし入れたのが日本軍の

「吐き気をもよおす」 (米ラントス下院議員、故人)残虐行為の存在でした。


ラントス・米下院議員『The Rape Of Nanking 』 

 

 

 

 

 

ラントス議員は下院外交委員会委員長など要職にあった有力者で、ハンガリー出身、第2次大戦後に

アメリカに帰化、ナチス・ドイツによるユダヤ人抹殺の生き残りとして知られているとのことです。

「吐き気をもよおす」とした感想は、『レイプ オブ 南京』(アイリス・チャン)を読んでのことと思いますが、

この書を読んだ多くの議員に共通する認識と思われます。
 ですから、こうした残虐行為の問題がクリアできなければ、われわれ自身はもちろん、欧米人の日本に

対する歴史イメージは変えられないし、また「変えようがない」 というのが私の基本的な見方で、

このホームページを含め、いくたびか書いてきました。


ダッハウ収容所の遺体 

 

 

 

 

 

 

 

 

このことはナチス・ドイツが周辺諸国を侵略したことで非難されるより、アウシュビッツ収容所 に象徴される

ユダヤ民族抹殺という想像を絶する非人道的行為に、今なお、多くの非難が集中していることを

考えればこと足りると思います。
 左の写真(ドイツ南部、ダッハウ強制収容所)を見れば、誰しもがこの実行者に対して、それこそ

「吐き気をもよおす」嫌悪感とともに激しい怒りをおぼえるに違いありません。
 つまり、残虐行為は戦時下であっても許されない、いわば 「絶 対 悪」 と大多数の人が考えるために、

この問題は永続性を持ち、日中間、日韓間などで、相反する利害が表面化するたびに、両国から

ここを突かれては謝罪を繰り返し、日本の国益が揺らぐというしだいです。
 われわれ日本人がしっかりとした対応を示さないかぎり、半永久的に国家間における 

政治的武器 として利用されつづけ、日本は後退を強いられることでしょう。



3 よってたかって自国を悪者に

 1970年代の初め、つまり今から40年ほど前のことです。日本のメディアは「現地ルポ」などと称しては

中国などに出かけ、日本軍・民の残虐行為、残虐事件を聞き出して、これでもかこれでもかと報じ、

日本の過去を断罪しました。

加害者とされた日本側の裏づけ取材をしないままにです。

先頭に立って煽(あお)ったのは間違いなく 朝日新聞 です。

もちろん毎日新聞なども同様、ブロック紙、地方紙の多くも追随しました。

山本 七平

 

 

 

 

 

 

さらに、NHK 以下のテレビが加わります。


そして、これらが報じる残虐事件、残虐行為を事実と決めつけた大学教授、

文化人ら によって、日本の過去断罪は一気に進みました。 

報道された日本軍の残虐行為が私たちの想像をはるかに

超えていたがため、山本 七平 が言うように、日本人は「集団ヒステリー状態 」 

に落ち入ってしまいました。そして、日本のメディアに火をつけられたのでしょう、

日本軍と日本の国家行動に対する「謝罪と反省」 を迫る中国、韓国など海外の

攻勢をまえに、日本はいく度となく謝罪を繰り返し、反省を表明します。

 そして報じられた日本軍の行為が中国、韓国、アジア諸国などに跳ね返えっては既定の事実となって、

さらに欧米諸国をも含めて日本非難の声が大きくなる悪循環を引き起こしてしまいました。

もちろん、これから先もつづくことでしょう。「南京大虐殺」「従軍慰安婦」 はその代表例です。


 このように、日本軍となるととにかく叩く悪癖が40年以上もつづき、日本のマスメディア、学者らにとって

日本軍叩きは“正 義” となって、常態化したのです。

今日なお、学校教育、新聞報道などを通して、われわれに強い影響をあたえている「自虐史観」は、

ひとえに朝日新聞などマスコミがタネをまきちらし、さらに大学教授や文化人と称する人たちが加わって、

メディアとともに育てあげられたものなのです。にもかかわらず、国民の多くはこれらを唯々諾々と

受け入れたばかりでなく、むしろ同調したために、メディア、学者らにとって日本軍叩き、自国叩きは

商売としても繁盛するという奇観を呈したのでした。このような状況が永くつづいたため、われわれの

歴史観、歴史イメージは著しく歪んでしまい、歪んでいること自体に気づいた人は、多少増えている

とはいえ、まだまだ少ないのです。

その結果でしょう、国家や軍隊は侵略戦争だの植民地化などという悪行をなす根源であるが故に

、国家や軍隊はなければなくてよいものと軽視され、ときには国家の存在そのものが否定的に扱われ

る風潮へと結びついていったのだと思います。国家否定、国家意識の希薄化( ⇒ 地球市民)です。


 ・ 「はだしのゲン」 に見る日本兵の残虐

2013年8月、マンガ本 「はだしのゲン」 を小・中学校の図書室で、生徒が自由に読めることが

妥当かどうか、大きな問題となりました。


「はだしのゲン」 

 

 

 

 

 

というのは、松江市教育委員会がこの本を「発展段階の子供に適切かどうか疑問」とし、

「はだしのゲン」を閉架措置にするように指示したことが始まりでした。つまり、倉庫などにしまわれますので、

生徒が自由に手にとって読めないことになります。
 〈 閲覧制限はすぐ撤回を 〉 と早速、朝日が社説で主張すれば、毎日新聞も〈 戦争を知る貴重な作品だ 〉

と社説に書き、教育委員会の指示に反対を唱えたのです。
 「表現の自由を侵す」、 「戦争の悲惨さを覆い隠す」 などとする論調を前にすると、多くの国民は

「もっともな主張である」と反射的に思ってしまいます。ですから、自由閲覧を禁じる措置をとった

同委員会に抗議が殺到したのです。もちろん、本の内容を知らないままにです。


 これらの社説はもっともらしく見えますが、ならばどうして、同教育委員会が「発展段階の子供に

適切かどうか疑問」と判断したのでしょう。


 学童が読むのにふさわしくない場面とは一体、どのようなものなのでしょう。そこに描かれた

日本兵の残虐行為はどのようなものなのでしょう。また、それらの行為はそもそも事実なのでしょうか。

こうしたことを知らないまま、新聞の主張を「もっともだ」と即断するとすれば

、まったく逆の判断をしてしまうのかも知れないのです。


 そこで、この「はだしのゲン」に描かれた日本兵の残虐場面などを別項に

まとめましたので、⇒ こ ち ら をご覧ください。


 この内容を知った後でも、自由閲覧が妥当だとする意見に賛成するでしょうか。

 4    輝かしい教育の成果

 「平和教育」 の名のもと、過去の日本を否定する「日 教 組」は、これら一連の残虐報道に飛びつきました。

残虐行為ほど生徒に分かりやすいものはなく、効果を期待できると踏んだからです。


「カチンの森」発掘現場 

 

 

 

 

 

 

 

 

戦後の日本の平和運動は「反米親ソ」 路線をとってきました。その理屈はというと、アメリカは帝国主義国家ゆえに

「戦争勢力」であり、ソ連は社会主義国ゆえに「平和勢力」だとしました。したがって、ソ連の核兵器はよいけど、

アメリカの核兵器はダメという理屈が堂々まかり通っていたのです。
 ところが、1970年代になると、スターリンが1930年代に行った大規模な党員処刑をふくむ残酷な政治弾圧

(大粛清 )に見られるごとく、ソ連共産主義の実態が暴かれるにつれて、ソ連への幻想が失われていきました。

かれらにとって、いわば心の故郷の喪失です。
 ソ連の悪の一例をあげましょう。左写真は有名な「カチンの森」 事件の遺体発掘現場です。日米開戦前の

1940年(昭和15年、第2次大戦の最中)、侵略したソ連軍に収容されたポーランド軍の将校中心に、

ソ連秘密警察によって2万人以上がスモレンスク(白ロシア、現ベラルーシ)の近郊に連行のうえ処刑された事件です。


 ソ連はナチス・ドイツの悪行と戦時中から執拗に宣伝につとめましたが、多くの証拠の前に、やっと

1990年に入ってゴルバチョフ・ソ連大統領が処刑はスターリン以下、ソ連指導者の命令で行われたことを

認めました。実に50年が経過したことになります。
 1980年代に入ると、日教組は戦争被害を教えるだけでは平和教育の目的は達成できず、加害の事実を

教えること、つまり日本軍国主義の悪を教え込むことに力点を移していきました。「反 米」 から「反 日」 への

シフトです。日本軍による残虐行為は報道されただけでも山のごとくあるのですからネタには事欠きません。


 そんなとき、「教科書誤報事件」 (1982=昭和57年)が起こりました。事件というのは、高校用歴史教科書

の文部省検定で、検定前の教科書に「侵 略」 とあった記述を「進 出」に書き換えさせたとして、

日本のメディアが集中非難したものでした。

あたかも、中国や韓国からの非難を期待するような報道ぶりだっのです。


 ですが、書き換えの事実はなかったのです。にもかかわらず、中国、韓国の抗議に屈した日本政府は、

教科書記述にあたっては中国、韓国など近隣諸国の批判に十分配慮するとした「近隣諸国条項」 が

検定基準に加えられ、学問的に裏づけのない残虐事件も事実上フリーパスとなりました。

なお、「教科書誤報事件と近隣諸国条項」については、⇒ こちら をどうぞ。


2001年6月27日付け産経
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような動きに教科書出版会社が反応しないわけがありません。
 南京虐殺、三光作戦、強制連行など残虐行為を競うように取りあげ、教科書売り込みのセールスポイント

 になったのです。ですから、日本の歴史教科書と教師用の「虎の巻」(= 指導書 )は残虐事件の

記述で溢れかえりました。
 大阪やほかの各地に建設された「平和博物館」 (=平和祈念館)だって視点は同じです。

全国自治体に平和博物館を建てようと1983年、「平和博物館を創る会」が発足しました。


 呼びかけ人は永井 道雄 (朝日新聞論説委員、三木内閣で文部大臣)、家永 三郎 (教育大学教授)

らでした。そこでの展示は、歴史教科書と同様、日本軍による加害を強調したものでした。


 こうした教科書、あるいは「平和博物館」を通じ、日本の過去断罪、国家否定という刷り込みが

教室内で日常的に行われているのです。
 こうした教育の結果でしょう、国旗を踏みつける中学生 の出現です。報道(左画像)によれば、
〈 卒業式終了後、生徒たちが国旗を降ろし、雪に埋めて踏みつけていたことが分かった。式自体も、

教職員らが国旗掲揚と国家斉唱を妨害するなど大混乱になった。 〉 というのです。こんな例もありました。

 2000年3月の卒業式で、東京都・国立市立小学校の生徒が掲げた国旗を降ろすよう校長に要求。

あげくに興奮状態になった学 童 は校長に向かって「あやまれ」「土下座しろ」と迫り、

なかには泣き出す生徒もでてきたとのこと。

そのうえ、保護者までもが「子供たちに謝ってほしい」と校長に向かって言い出す始末。


 世界のどこに父兄も参列する厳粛な卒業式で、自国の国旗を踏みつける生徒がいるでしょうか

。また世界のどの国に校長に土下座を要求する小学生がいるでしょうか。判断力のない生徒たちは

左がかった教師にそそのかされ、正しい行為のごとく錯覚し、ことにおよんだに違いありません。

なんという輝かしくも愚かな教育の成果でしょう。


 卒業式での国旗掲揚、国歌の斉唱時に起立をしない( 「不起立闘争」というのだそうです )ばかりか、

気勢をあげるなどの妨害行為に出る教師が後を絶ちませんでした。

その数も、例外などといって済まされない数に達しているのです。

 

 


 

『パール判事』東京裁判「日本無罪論」  パール博士から日本人へのメッセージ

http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/f32032dd1878aa50c96806c892fbca06

 

 

 


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