理想国家日本の条件 自立国家日本 日本の誇りを取り戻そう! 桜 咲久也

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情報と日記です(^▽^)/
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いまの日本人が、組織宗教を嫌う理由を考えて見た。

2018年02月28日 13時57分25秒 | お友達ブログ.SNS.なかまのぶろぐ ばくちゃん他

https://blog.goo.ne.jp/rokochifukyosho/e/08ae93c343c18ecf6b9a32a70c58a9d3

幸福の科学高知 なかまのぶろぐ ばくちゃんの記事です 2018-02-25

いまの日本人が、組織宗教を嫌う理由を考えて見た。

皆様のご愛顧を持ちまして、拙ブログ、4年目を迎えることができました。

皆さま、本当にありがとうございます。

今後とも、高知に暮らす幸福の科学の在家信者として、高知県人らしく

言いたいことを言いつつ(笑)、この素晴らしい教えに、

多くの方に触れあっていただける機会として、日々綴って参りたいと思います。

しかしこのブログ、読み返してみると、幸福の科学の布教ブログなのに、

宗教に関する記事がほとんどありません。(爆笑)

お越しいただいた読者の皆皆様には、管理人が悟っていなくて、まことに申しわけない限りです。

実は代表管理人である私は、心の話とか苦手で、歴史とか、産業とか、

宗教や政治の周辺事情ばかりに、興味のある人間なんです。(苦笑)

でも4年目に突入した今、頑張って宗教に関する記事にも、

今後はチャレンジに挑戦してみたいと思います。 

さて、私は日本人は、決して信仰心の薄い国民ではないと、個人的には思っております。
なぜなら、お正月からクリスマスに至るまで、お祭りも多いし、
結構宗教色の多いものは多いですし、また多岐に渡っておりますよね。

初詣=日本神道
七五三=日本神道
お彼岸(春秋)=仏教
お盆=仏教
クリスマス=キリスト教

最近ではハロウィンも、その輪に入りそうです。(笑)



お祭りと言えば、神仏なしのお祭りなんてあり得ませんから、表向きは無宗教を装いつつも、

心の底辺では宗教的なことを理解をし、しかも宗派を問わず寛容な日本の国民は、世界でもあまり類を見ないものだと思います。

しかしこと、『組織宗教に属する』ということになると、日本人は頑なになることがあります。

これは歴史を調べてみると、戦争に負けたことによる民族トラウマだけではなくて、

戦前からそういう風潮があるように、どうも見受けられます。

海外では、無神論=危険人物というレッテルを貼られることが多く、大抵の人は、どこかの宗教組織に属しているものです。

かつては、日本もそうだったんですね。
いつから変わったかというと、どうも分岐点は、江戸時代のようなんです。


江戸時代、三代将軍徳川家光の時代、1612年(慶長17年)に、江戸幕府はキリスト教禁止令を出しました。

その時、ほぼ同時代に、檀家氏子制度(だんかうじこせいど)が始まるんですね。
つまり、生まれた地域によって、その人の所属する宗教や宗派が決められてしまう、

社会の仕組みができてしまったのですね。

これは幕府からすれば、既存の仏教・神道勢力を、江戸幕府自らが、

既得権益として保護する姿勢を示した者と思われます。
そして当時の寺院や神社は、お布施が安定的に得られるのですから、

きっと喜んだことだろうと思います。

しかしこれは、後の日本の宗教界に大きな影響をもたらしました。
それは、宗教勢力が伝道しなくてよくなったのです。
いやむしろ、伝道活動ができなくなったんですね。 

なぜならそれによって、日本人の心の奥底に、「伝道しない宗教こそが、伝統的で格式があって、
ちゃんとした宗教なんだ。」という、勘違いな文化が生まれてしまって、
長年を経てそれが今、文化として定着しているのです。

ですから、この日本では、その檀家・氏子制度以来、鎌倉仏教のような、後々まで
巨大な影響力を持つような大宗教は生まれていません。

そして日本では見事に、 伝道する宗教=権威ある宗教ではない=カルト宗教 という
レッテルが貼られる基盤ができていると思われるのですね。

さあ、これをいかに打破して行くか。

 

これはもう、ご自身の体験に、聞いていただくしかありません。

みなさんも無意識的に、このような日本の宗教文化で育ったわけですので、

組織宗教に入会なさっている方には、入信時にはそれなりの心の葛藤があったはずです。

現にそれを乗り越えたからこそ、今のお立場があるんですね。

では、なぜその壁を乗り越えられたのでしょうか?

私の場合は、総裁である大川隆法幸福の科学グループ総裁を、仏陀であると信じたからです。
仏陀なら、弟子の一人に加えていただきたいと思いましたし、

今まで無意識に思っていた上記の価値観を、拭い去っても惜しくはありませんでした。

この、不思議な歴史を背景にした、宗教文化を持つ日本においては、

「自分自身がなぜ神を信じ、仏を信じているのか?」という、自らへの問いかけを日々行い、

それによって自分自身を説得する以外の方法がありません。 

しかし結局のところ、この、自分自身を、神仏への信仰へと導く説得する行為こそ、精進だと思うのです。
 
つまり、自分自身の神性仏性を見つけ出し、拝みだし磨き続ける作業こそ、
この自分自身への説得こそ、仏教の本質である精進だと私は思うのです。
 
 
となると、この世界的に見ると、ある意味で、とてもヘンテコリンな宗教環境である現代日本は、
別の意味では、とても宗教修行に向いている社会なのかも知れませんね。(笑)
 
でもまぁ、このようなヘンテコリンな宗教文化である日本では、組織としてそのような、
「なぜ、信仰が必要なのか。」という問いかけに真摯に取り組み、そして説得力を持っている組織の思想は、長期的視野に立てば、
結局は未来の常識になっていくのかなぁと思っております。
 
なぜなら、人は常識に浸っていると、自得する必要はないので、
信仰心があるのが当たり前の価値観である海外だと、「なぜ、信仰が必要なのか。」と考える必要がないからです。
 
本日は、経典『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。
 
            (ばく)




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